戦時の科学者、国家の過剰

今週の書物/
『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』
小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊

戦中戦後

今年の終戦記念日、NHKが「太陽の子」というドラマを放映した。先の戦時、日本でも陸軍と海軍がそれぞれ原爆開発を画策したことは知られているが、このドラマでは京都帝国大学の物理学徒たちが海軍の委託を受けて原爆研究にかかわったことが主題となった。

で今週は、その渦中にいた科学者たちの現実を近刊の書物を通じて垣間見てみよう。『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』(小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊)。著者は1931年生まれ、素粒子論が専門の物理学者。東京大学出身だが京都大学にも勤務、理論物理で日本初のノーベル賞を受けた湯川秀樹の活動を支えた。現在は慶應義塾大学、東京都市大学の名誉教授、世界平和アピール七人委員会のメンバーでもある。

個人的な話をすれば、著者は私にとって最大の恩人の一人だ。新聞社で科学部員になって3年目の1985年、湯川のノーベル賞研究「中間子論」の論文発表50年を記念する国際会議(開催地・京都)でお世話になったのが始まりだった。2007年に湯川の個人日記を記事にしたときは、湯川家との話しあいから記述内容の読み解きまで、全面的なお力添えをいただいた(朝日新聞2007年1月23日付朝刊「中間子着想 湯川博士の4日間」)。

この個人日記は、湯川家が保存していたもので、主に1930年代、日米開戦前の日々のあれこれを記していた。ヤマ場は、中間子論を完成させた1934年の記述分。これについては、著者が編者となって『湯川秀樹日記――昭和九年:中間子論への道』(小沼通二編、朝日選書)という本が出ている。一方で湯川は京都大学にも、本来は研究室日誌と呼ぶべき日記を大量に残していた(京大湯川記念館資料室所蔵)。ここには開戦後のことも綴られている。

今週の書物『…戦争と平和』は、湯川の生い立ちまで遡ってその人となりが描かれ、1981年に亡くなるまでの平和運動家としての足どりも跡づけられている。とはいえ、最大の読みどころは「第二章 戦火の時代に」だろう。この章では京大所蔵の日記をもとに、湯川が戦時中にどんな学究生活を送ったかを浮かびあがらせている。気になるのは、軍事色の強い活動だ。それらのどこまでが自発的で、どこからが強制されたものだったのか――。

そのあたりの見極めは難しい。湯川の日記は身辺の出来事の記録が中心で、心情の吐露が少ないからだ。戦時の心模様を推し量るには、戦後の日々に焦点を当てた「第三章 思索の人から行動の人へ」が助けになる。この章では、湯川が反核平和運動に奔走した姿が描きだされている。戦後の平和に対する熱情が戦中に戦争がもたらした深淵の底深さを逆に照らしだす。戦中戦後を貫いて湯川の「戦争と平和」に迫ったこの本の意義は、そこにある。

では、第二章に立ち戻って、日記の要点を拾いあげていこう。1941年12月8日の日米開戦から1943年末まで、湯川自身は軍事研究に近づいていないようだ。目立って見えてくるのは、一人の国民――臣民と言うべきか――としての心情だけ。開戦の日の夜、帰宅して夕刊を開くと「ハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース」が載っていた。「久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と書いている。

この本では1943年、湯川が地元の京都新聞に寄せた年頭所感も引用されている。「既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用すること」を「今日の科学者の最も大いなる責務」としつつ、「科学の真の根基をわが国土に培養する」必要を説き、それなしには「科学、技術の源泉は久しからずして枯渇する」と警告している。すぐには応用できない基礎研究のことも忘れるな、という科学者の危機感がそう言わせたのだろう。

この年4月、湯川は文化勲章を受けた。そのことで国家主義的な団体とのかかわりが出てくる。6月には東京で大日本言論報告会総会に出席、受章を祝う記念品を贈られる。機関誌『言論報告』創刊号には、湯川の午餐会での「卓上演説」が収録されている。「言論界で日本的世界観の樹立が力強く言われている、自然科学の方面からそういう思想に何らかの基礎づけができればしたい」と述べたという。こじつけの感は否めない。

日記によれば、湯川の軍事接近は1944年初めから。前年、文部省が科学者の「動員」策を打ちだした影響があるのだろう。1月27日、神奈川県横須賀で海軍の航空機研究施設などを見学した。2月13日には東京にある財界人の大倉喜七郎男爵邸で、当時は海軍軍人だった高松宮や物理学者の仁科芳雄を交えた会合に出ている。大倉財閥は海軍の電波兵器開発に敷地を提供しており、会合は「海軍の研究に関係があると思う」と著者はみる。

この本の強みは、湯川と軍事とのかかわりを日記の記述から定量的に浮かびあがらせた点にある。余談だが、これができる人は著者を措いてほかにいない。日記は、湯川流の癖字だらけでふつうの人には太刀打ちできないが、著者には読める。さらに周辺事情も知っているから、メモ書き一つでも意味を汲みとれる。その解読の結果は、こうだ。湯川の「軍事研究関連の会合や訪問や視察」は1944年が27回29日、45年が12回16日――。

この数字の見方は、さまざまだろう。私自身は、湯川の学究生活のかなりの部分が「軍事」に割かれていた、あるいは攪乱されていたように感じる。活動件数は1944年1月~45年8月の20カ月に計39回なのだから月2回のペースだ。新幹線がない時代、京都から横須賀へ、東京へ出張もしている。湯川は戦争末期に及んで、基礎科学を「国土に培養する」などと言っているだけでは済まされず、自身もキナ臭い世界に引きずり込まれたのだ。

その最たるものが、「太陽の子」でドラマ化された「F研究」だろう。海軍が荒勝文策京大教授に委託した研究。ウランの原子核分裂(nuclear fission)を軍事利用する道を探ろうとした。日記には1944年9月22日、「荒勝氏と核分裂の件相談」とある。10月4日には大阪で海軍との相談会にも出た。出席者が残した記録によれば、湯川も「連鎖反応の可能性」を解説したらしい。核分裂の「連鎖反応」は、原爆のエネルギーを得る要件である。

日記をさらにたどろう。1945年5月には、F研究が正式の「戦時研究」となり、6月23日には「第一回打合せ会」が学内で開かれる。7月21日には滋賀県大津の琵琶湖ホテルへ。著者によれば、海軍との会合があり、湯川は「世界の原子力」について語ったらしい。

湯川の終戦までの1年をどうみるか。占領軍は、湯川は原発開発計画に「全く関与していなかったか、わずかしか関与していなかった」と判定した。「湯川自身が非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」事実が、関与のなさ、もしくは小ささと「符合している」とされたのだ。(占領軍に協力した米国の物理学者P・モリソン執筆の「秘密報告」=本書が引用した政池明著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』〈京都大学学術出版会〉による)

私は、この判定に敵国の科学者にもあった湯川への敬意を感じつつ、違和感も覚える。引っかかるのは「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」とある点だ。湯川は、買って出たことではないかもしれないが、軍人を相手に原子核物理の先生役を務めている。心の片隅には、開戦の日に真珠湾の戦果を称えた素朴な心情があり、自分は「非常に抽象的な物理学」を「国土に培養する」のだという自負が芽生えていたのではないか。

そう考える理由は、湯川自身が終戦後まもなく発した言葉にある。第三章の冒頭では『週刊朝日』(1945年11月4日付)への寄稿「静かに思ふ」が引かれている。そのなかで湯川は、「道義の頽廃」を招いた原因に「個人・家族・社会・国家・世界といふやうな系列の中から、国家だけを取り出し、これに唯一絶対の権威を認めたこと」を挙げたという。科学者として戦中、国家ばかりにとらわれた浅慮を悔いているように思える。

湯川は戦後、世界政府の樹立をめざす運動にかかわった。その構想は冷戦時、夢想の産物に見えた。自国第一主義台頭の今は、なおさらだ。それは実現しても遠い先のことだろう。ただ、一人の科学者の内面を思い、国家意識の過剰を戒めることなら今でもできる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月28日公開、同年9月20日最終更新、通算537回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

10 Replies to “戦時の科学者、国家の過剰”

  1. 21世紀になって振り返って見ると、20世紀は科学と技術が結びついた時代で、科学と技術が相まって発展し、でもそのせいで戦争はどんどん悲惨になってゆき、「化学」や「物理」のせいで多くの人が死にましたよね。
    第一次世界大戦は化学者の戦争(chemists’ war)と呼ばれ、第二次世界大戦は物理学者の戦争(physicists’ war)と呼ばれますが、第一次世界大戦では毒ガス兵器の研究開発などに化学者が大きな役割を果たし、第二次世界大戦ではレーダー開発や原爆開発などに物理学者が大きな役割を果たしました。
    イギリスやアメリカの物理学者たちが「防空用マイクロ波レーダーの開発」の開発にかり出され、その後「原爆の開発」に進んで行ったのに対し、日本の物理学者たちは「原子核研究」のためにかり出され、その後「電波兵器」に進んでいったという違いがあったにせよ、第二次世界大戦で物理学者が果たした役割は、どの国でも小さくなかったようです。
    第一次世界大戦後に化学者たちが、そして第二次世界大戦後に物理学者たちが「反省」し、平和運動の核になっていったのも自然の流れなのでしょう。
    第二次世界大戦後には「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲惨さが伝えられ、多くの一般人が平和運動・反核運動に参加し、大きなうねりとなったため、また冷戦があったため、物理学者たちの「反省」は見過ごされがちですが、「反省」した物理学者と「無反省」の物理学者とに真っ二つに割れたのも、自然の流れなのでしょう。もう忘れられていますが。。。
    なんでこんなわかり切ったことを長々と書いたかというと、湯川秀樹が「one of them」だったと言いたいからなのです。
    第二次世界大戦中に物理学者が軍事研究にかり出されたのも時代の流れ、第二次世界大戦後に物理学者が平和と核廃絶を訴えたのも時代の流れ。湯川秀樹が大きな時代の渦に巻き込まれたのは間違いなく、あの時代に物理学者だった人のごく普通の人生だったように見えるのです。
    湯川秀樹は特別な人ではなく、今北朝鮮やイランで働いている物理学者たちとなんの変わりもないように見えるのです。
    湯川秀樹が40年くらい早くイギリスあたりで生まれていたら化学者になっていたでしょうし、40年遅く同じ日本で生まれていたらモーレツサラリーマンになっていた。そういう時代に翻弄された「one of them」と見たほうが、特別な人と見るより当たっているような気がします。
    尾関さんに個人的な思い入れがあるのも、尾関さんにとって湯川秀樹が特別な人なのも、とてもよくわかりますが、それをわかった上で、あえて書きました。最近、科学とか技術とか進歩とかについて、どうも懐疑的なもので。。。
    湯川秀樹を流れのど真ん中にいた人として見て、あの時代の流れがどんなものだったのかを考えると、暗澹としたやるせない気持ちになります。嫌な時代だったのですね。
    では今がいい時代かといえば、なかなかそうは言えません。
    21世紀になって科学と技術は離れていって、科学ではないデータサイエンスと、科学の要らないAIと、科学の見えてこないブロックチェーンとが、社会を大きく変えています。科学を知らない人たちに遺伝子が弄ばれ、科学を無視する人たちに地球環境が破壊されているのを見ると、もう腹を立てる気も起きない。
    自分の専門分野にしか興味を持たない専門家たちは、他の専門分野のことをなにも知りません。なにもコントロールできない政府と、儲からないことはなにもしない企業と、カネがないために遅れていく大学と、収入のことが頭から離れない個人には、なにも変えることができない。
    科学でも技術でもないものが社会を変えていくのは、不気味としか言いようがありません。
    コロナなんかより、ずっと怖いです。
    湯川秀樹が生きた時代より、ずっと変です。
    そうは思いませんか?
    ちょっと変なことを書きました。このコメントへのコメントは要りませんから、心配しないでください。お願いします。

    1. 38さん
      《「one of them」と見たほうが、特別な人と見るより当たっているような気がします》
      返信無用とありましたが、ぜひともひとこと弁明しておきたいことが。
      私も、38さんの上記のお考え同様、湯川秀樹を“one of them”ととらえているのです。
      今回の本は、その見方を強めるものでした。
      だからこそ、占領軍報告にある湯川の神聖視(「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」)に違和感を覚えたのでしょう。
      そのことが伝わらなかったのなら、私の筆力不足です。

  2. 尾関さん、
    いやー、申しわけない。完全な読解力不足です。っていうか、尾関さんが書いたことは、うん、うん、そうだ、そうだ、と読んで、それで書いたんですけどね。ちょっと書き方がまずかったですかね。こちらの筆力不足ですね。
    書き足りないので、少々付け加えます。

    ノーベル賞が「親米英」の人に贈られるのはカール・フォン・オシエツキーの頃からの伝統で、ソルジェニーツィンやアンドレイ・サハロフ、劉暁波に象徴される「好ましくない体制の国」の反体制の人たちが受賞し、ダライ・ラマ14世、マララ・ユサフザイ、佐藤栄作といった「なんだかなあ」の人たちが受賞するのを見ても、ノーベル賞が政治的なものであるのは間違いありません。
    ノーベル物理学賞とノーベル化学賞も例外ではなく、受賞者のなかに、第一次世界大戦・第二次世界大戦・冷戦に直接的・間接的に貢献・協力した人の、なんと多いことか。湯川秀樹にノーベル物理学賞が贈られたということで、湯川秀樹に対米協力者のイメージが重ねられてしまうのも仕方がないのかもしれません。

    話は変わりますが、1941年の5月に荒勝文策が「伊藤庸二からの原子核分裂の技術を用いた爆弾開発の依頼」を受諾したということは、日本海軍から京都帝国大学の物理学科が原爆開発の依頼を受けたということで、京都帝国大学の物理学科にいた湯川秀樹も、その枠の外にいることはできなかったのではないでしょうか。
    翌年(1942年)に荒勝文策が海軍から「サイクロトロン建設援助と核物理研究」の名目で60万円を支給されてからズブズブの関係が始まったと考えていい。
    ただ、1944年10月4日の大阪水交社での「ウラニウム問題懇談会第一回会合」に荒勝文策とともに参加した湯川秀樹が、荒勝文策の「ウラン同位元素分離には遠心分離法を採用する」という計画を後押しする形で「核分裂連鎖反応の可能性についての報告」を行ったとか、1945年7月21日の琵琶湖ホテルでの京大と海軍の打ち合わせで「原爆製造は原理的には可能、現実には無理」という結論に至るような実際的な話をしたとか読んでいると、勤め先の都合で仕方なく会議に出ているという感じがして、思わずニヤッとしてしまいます。
    荒勝文策となると、広島に原爆が投下された後の8月10日に広島入りし、同日夜に京都に戻り、持ち帰った土壌サンプルからベータ線を測定し、13日に再び広島でベータ線の特性を調査し、15日には土壌の強い放射能などのデータから、広島の被害は「核分裂ヲオコセル『ウラニウム』ハ約1kg」の原子爆弾によるものであるという報告を海軍に提出したといいますから、湯川秀樹とは違った感じです。広島から京都に戻る際、荒勝文策は京都に3発目の原爆が投下されるという噂に接して「原子物理学者としてこれは千載一遇の好機だ。急いで比叡山の頂上に観測所を造って、原爆投下から爆発の状況など、あらゆる角度から、写真や計器を使って徹底的に観測してやろう」と述べたそうですから、すごいといえばすごいです。こんな人に戦後何度も勲章をあげてしまう日本国というのもすごいです。

    今に残る文章のなかには、原爆開発に関わった人として膨大な数の人の名前が出てきます。海軍・海軍の人たち、京大・阪大・名大といった大学の人たち、理研・化研・尼崎住友鋼管研究所といった研究所の人たちなどなど、とても多くの人たちが関係していたことに驚かされます。そういう人たちのなかで、湯川秀樹の役割はそう大きくないのかもしれません。ただ、湯川秀樹の発言力・影響力は大きかったようです。まだ何者でもなかった頃から発言力・影響力が大きかった湯川秀樹には、物理の研究における能力・実力以上のカリスマ性のようなものがあったのかもしれない。長嶋茂雄のような人だったのではないか。そう思うのはおかしいでしょうか?

    また変なことを書いてしまったのか、不安ですが。今回はここまで。

    38

    1. 38さん
      今回の読書で私の印象に強く残ったのは、「科学の真の根基をわが国土に培養する」という湯川の言葉でした。
      科学者は、いつも「なんのための研究?」と問われる。
      素粒子物理など基礎科学の研究者は、その答えに窮する。
      今ならば、イノベーションには応用科学が役立つ→その応用科学を支えるのは基礎科学、というロジックに頼るところを、戦時は上記の言葉に宿る理屈(強兵化には応用科学が役立つ→その応用科学を支えるのは基礎科学、というロジック)で押し通そうとした。
      「なんのための?」と問うてもよいけれど、それにそう簡単な答えを期待するのは過ちではないか。
      そんなふうに思えてきます。

    2. この記事を読んで、さすが尾関記者はすごい、と思いました。そこで、現在、政池明氏の「荒勝文策と原子核物理学」という浩瀚な本を読んています。湯川さんと原爆開発にも触れています。1943年1月6日付きの京都新聞の湯川所感は、ちょっと私にはショックでした。科学のすべての成果を戦力に/放擲せよ孤立主義」ですからね。この年、たしか、湯川さんは文化勲章を受章しています。
      なお、2007年1月23日付きの「湯川博士のひらめき日記」、論説委員尾関章の「野球に育児に間に研究」もかつて拝見し、いまも本棚にある湯川秀樹全集に当時の切り抜きを保存しています。
      先の、政池氏は、最近のBS!の「原子の力を開放せよ」で、湯川の科学者としての責任は免れない」と証言していました。

      1. 井上正男さん
        いただいたお言葉を転用させていただければ、「物理学者政池明さんはすごい」です。
        在米勤務時代、首都ワシントンの公文書館に通いつめて、戦中日本の科学界にあった闇の部分を掘り起こしたのですから。
        その大著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会)は、科学者が自らが身を置いてきた分野の過去を検証することのすごみを感じさせます。

  3. 尾関さん、
    「戦時の科学者、国家の過剰」に(しつこく)過剰反応しているのは、私が大学で物理学を専攻したからではなく、異常に多くの物理学者たちが住んでいるところで30年も暮らしていたということで、基礎科学を生業にしている知り合いが多いからだと思います。その人たちの国籍はいろいろですが、みんな「なんのため」という問いとは遠いところにいる感じです。「好きだからやっている」「好きなことができて運がいい」「専門分野のことを話せる相手がそばにいて嬉しい」といった乗りで、例外なく「反国家」「反体制」「左翼」「リベラル」です。
    唯一の例外が日本で、基礎研究に携わる日本人研究者たちの後ろには「省庁の人たち」や「政治家たち」が見え隠れし、「予算」をとるための建前の「なんのため」がちらつき、「国家事業としての基礎研究」に従事する大変さを垣間見ることができます。昔も今も変わらない「研究者のまわりの窮屈さ」が若い研究者たちを基礎研究から遠ざけている気もします。
    ガリレオ・ガリレイを持ち出すまでもなく、本来権力からいちばん遠いところに位置するはずの、そして権力から疎まれるはずの基礎研究が、権力の側にいるのは、どう考えても悲劇です。基礎研究の研究費を配分する「省庁の人たち」や予算を承認する「政治家たち」が、本来国民のものであるカネを自分たちのカネと勘違いして振る舞うのは、昔の海軍の人たちも今の文部科学省の人たちも同じ。戦時だけでなく、平時でも過剰な国家。昔も今も変わらない基礎科学をめぐる日本の悲劇ですね。

  4. 尾関さん

    私は基礎科学とはおよそ無縁な世界に生きておりますが、皆さまの意見交換を興味深く拝読しています。

    実用性に重きを置く世相の中、著名な科学者や論客が基礎科学の大切さや、実用性に偏った予算配分の是正を訴えている姿に感銘を受けています。何故なら、「存在とは何か」或いは「一体、私は何なのですか」という問いに対する答えを私は科学に期待しているからです。

    この答えは私にとっては、「実用性」の本質です。正確な自己認識を得られることは、この上なく「役に立つ」ことと考えるからです。
    やや空想の世界に近いかもしれませんが、存在や人間に対する本質的な認識を持って人々が生き、行動すれば、いま私達が「実用性」と呼んでいることが実は実用的ではない、といった意味の転換をもたらすかも知れません。

    さて、科学と国家という点に戻ると、前述の予算配分是正への訴えに関して、ひとつ引っかかることがあります。それは、「このまま行けば、ノーベル賞の受賞数は激減するだろう」という言葉に代表される「基礎科学の興隆=国威発揚」という論理です。

    こうでも言わないと予算獲得が難しいのかも知れませんが、この論理では、「基礎科学への予算を拡充したものの、GDPは一向に上向かないし、ノーベル賞も増えない」として切り捨てられる可能性があり、自らの首を絞めかねないからです。国家との関連なしに基礎科学の重要性を訴える手立てはないのでしょうか。存在とは……と言っても耳を傾ける人はいても僅かでしょうし、正念場である今、国ではなく「人々」を説得しうる訴えの戦略が求められているように思います。

    1. 虫さん
      《「存在とは何か」或いは「一体、私は何なのですか」という問いに対する答えを私は科学に期待している》
      同感。
      コロナ禍で私たちがカミュ的状況に置かれているとき、科学は〈実存〉にどう〈役立つ〉か、という問題提起があってもよいと思うことがあります。

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