新聞記者というレガシー/その2

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

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この夏に死去した柴田鉄治という先輩記者の本を今週も。改めて著者の人物像をなぞっておくと、もともとは社会部記者であり、科学報道にも携わった人。記者として〈現場主義〉に徹し、〈情報公開〉の社会を追い求める戦後民主主義の子でもあった。

先週の拙稿で、私には書き残したことがある。本書冒頭の記述についてだ。著者は、新聞を「産業としての新聞」と「ジャーナリズムとしての新聞」に切り分け、いま日本では後者が「戦後最大の危機に直面している」と断じた。この切り分け方に私は「2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる」とかみつき、理由は「後で論じる」としていたのだ(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」)。今回は、この話から始めよう。

もとより、私のこの批判はフェアではない。著者が新聞の二つの側面を分けて考えたのは、あくまでも刊行年、すなわち2003年のことだからだ。あのころはまだ、新聞の宅配が電気、ガス、水道などと同列にみなされていた。だから私自身も、同様の切り分け方をしていた。曲がり角は2010年ごろではなかったか。以来、「産業としての新聞」が苦境に立たされ、「ジャーナリズムとしての新聞」を切り離して論じることが難しくなった。

著者も最晩年は「産業としての新聞」に危機感を抱いていたのかもしれない。ただ、息を引きとるその瞬間まで、1家庭に1紙は新聞をとるという固定観念から脱することはなかったように思う。その意味では、古き良き記者人生を生き抜いたのである。

もちろん、この本で繰り広げられる「ジャーナリズムとしての新聞」論も、新聞以外のメディアを強く意識している。ただ、競争相手として描かれるのは、もっぱらテレビ。著者の若手記者時代がテレビの台頭期に重なっていたからだろう。著者が、その強みとして一目置くのは「映像の威力とリアルタイム(即時性、同時性)」。1972年にあった浅間山荘事件の現場中継を境にテレビがマスメディアの「王座に座った」という見方も披歴している。

テレビとの確執をめぐる話では、記者クラブ問題が詳述されている。省庁には、メディア各社の記者が張りついていて記者クラブという緩い集団をかたちづくっている。クラブ員は内輪の取り決めを結んでおり、記者発表をどの時点から紙面や電波に載せてよい、というような「しばり」に従う。このとき、「解禁時刻がほとんど『テレビは夕方から、新聞は朝刊から』となっていることも新聞にとっては大問題」と、著者は嘆いている。

著者が社会部長時代にはこんなこともあったらしい。記者クラブの発表案件には、「叙勲・褒章」や「歌会始の入選者」のように事前に資料が配られるが、公表日まで紙面化やニュース化を控えるものがある。その解禁時刻の設定を、新聞は公表当日の朝刊から、テレビは前日の夕方から、とするか、それとも、新聞は当日朝刊から、テレビも当日朝からとするか――。半日の時間差をめぐって新旧両メディアが角突き合わせたというのである。

2020年の今からみると、この半日の争いは空しい。今は多くの人々がソーシャルメディアを手にしたから、記者クラブが報道の日時を仕切ることそのものが難しくなった。記者クラブに属さない人の発信がマスメディアを出し抜くこともできるのだ。

マスメディアが負けそうなのは、速報性だけではない。迫真性についても言える。つい最近、台風10号が九州付近を通り過ぎたときもそうだった。このとき、現地の人々が刻々ネットにあげる書き込みに目を通していると、テレビのニュースを見ているときとはまったく異なる臨場感があった。そこから感じとれるのは、暴風雨に窓を叩きつけられている人たちの悲鳴だ。静かなスタジオで台風の威力や進路を解説するのとは違う情報発信である。

ただ、ソーシャルメディアには落とし穴がある。聞きつけた話をすぐ拡散することには早とちりの危険が付きまとう。その場からの発信は局所の事実を伝えてくれるが、事態の全体像を俯瞰できない。これは私の見方だが、こうしたソーシャルメディアの欠点を見極めることが、マスメディアの活路を見いだすことにつながるように思える。大局的にものを見て信頼度の高い情報を選びだす――その手助けをするメディアは今も必要なのである。

この本の話に戻ろう。刊行年のころは、報道は正義の味方という通念が崩れだしたころだった。新聞記者は、かつて巨悪を暴く善玉のイメージだったが、それが一転、善良な市民を苛む悪玉として嫌われる場面がふえてきた。「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」などで「当事者や関係者が多大の苦痛を被る」と指弾されたのだ。著者は過熱取材の非を認めつつも、政府が「メディア規制を行う方向を打ち出した」ことには警戒感を示している。

2000年代初め、「メディア規制法案」と一括りされる個人情報保護法案と人権擁護法案が国会に提出され、議論になっていた。新聞界には両法案に対する批判が強かったが、前者は2003年、この本の刊行直前に成立する。そして今、個人情報は侵すべからざるものという意識が世の中に浸透した。先週の当欄にも書いたが、それが不正事件を暴く取材活動の足かせとなり、著者が希求する〈情報公開〉社会の実現を難しくしている。

では、メディア批判の強まりに記者はどう対処したらよいのか。その問いに対する答えも、この本にはある。「権力との闘いに萎縮してしまったら、新聞に未来はない」という言葉だ。ここで「新聞」は、間口を広げてジャーナリズムと言い換えてもよいだろう。

著者は、三つの例を挙げている。「自ら精神病患者を装って」精神科病院に入り、潜入ルポルタージュを連載記事にした記者。アパルトヘイト時代の南アフリカに「身分を隠して」入り、その実態を伝えた記者。「一労働者として自動車工場にもぐりこみ」、労働現場の実情をノンフィクション作品にまとめたフリーの書き手。これらの取材に対しては、高い評価がある一方、倫理面の批判がつきまとうが、著者は「目的は手段を浄化する」と言い切る。

今は、コンプライアンス(規範遵守)の世の中だ。「目的は手段を…」のひとことに抵抗感を覚える人は多い。2020年の今、現役の記者たちの大勢もそうだろう。だが、著者は違った。そこには戦後民主主義の子としての新聞記者の論理がある。

この点では、私も著者を支持する。個人情報のことなら、こう考えてはどうか。人はだれも、公人と私人の両面を併せもっている。私人の個人情報は厳しく守らなくてはならないが、公人の個人情報は開示すべき場面もある。どこまでが私で、どこからが公なのか。この見極めは、そのつど考えなくてはならない。万能のマニュアルなどないのだ――。「目的は手段を…」という突き放したもの言いは、そんな柔軟思考の一つの表現ではないのか。

著者が現役のころ、記者は何をどこまでどう取材すべきかをその場その場で考えていたように思う。ところが今、記者もマニュアルに縛られている(「本読み by chance」2019年4月26日付「記者にマニュアルは似合わない」)。この本で改めてその現実を痛感する。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月18日公開、同月22日最終更新、通算540回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8 Replies to “新聞記者というレガシー/その2”

  1. 尾関さん
    《大局的にものを見て信頼度の高い情報を選びだす――その手助けをするメディアは今も必要なのである》
    この言葉は、「その1」拝読後に私が投稿しようとした言葉とほぼ同じです。
    問題は如何にして「大局的にものを見る」目や能力を養うか、というところにあると思います。特に、事件や事象の発生時にその出来事を「大局」の中に位置づけて語るためにはどうするか?

    その為には、日頃から「大局」を考えることを専業とする部隊が必要だと思います。現業部隊ではありませんから「不採算部門」と呼ばれるかも知れませんが、科学で言えば、「基礎科学研究」の分野に相当すると言えるかも知れません。

    多くの企業が「選択と集中」で様々な価値や潜在的可能性を「不採算」の名の下に切り捨ててきたのではないでしょうか。その結果、かえって価値の変遷に対応できない体質となっているのが実情でしょう。

    無論、新聞も市場経済の縛りから逃れることはできませんから、デジタル化やAIの利用へと舵を切る中で経費節減を図り、その分を「大局分析部門」へと振り向け、出来るだけ不採算のレベルを下げる。

    どうも、新聞メディアとは無縁な世界に生きてきた私の思いつきを書いてきたような気がしてきました。何れにせよ、ソーシャルメディアと即時性を競うよりも、企業体そのものの本格的な再構成が必要で、従来の部門制を廃止し、いわばシンクタンクが日々、世界や国内で起きていることを解説する、或いは、起きる前に解説する、といった辺りが私が抱く将来の新聞社像のような気がします…..最早、新聞社ではありませんね。

    そして、大局分析部門と記者を人事移動させることで、各人のポテンシャルを上げると共に、部門主義を防止する。
    さて、いよいよ何を書いているのか分からなくなってきましたが、本当に価値があるものなら、人は対価を払うでしょう。

    余談ですが、田中角栄が昔、新聞はあれだけの情報を提供しているのだから、もっと値段が高くても構わない、といった主旨の発言をしていましたね。一方では、自分がまず読むのは、死亡者情報、株価、そしてTV欄、この3つには間違いが無いからだ、とも言っていました。

    1. 虫さん
      ジャーナリズムの存在理由を《科学で言えば、「基礎科学研究」の分野に相当》とする見方に目を見開かされました。
      基礎科学にお金がかかるように、ジャーナリズムにも“飯のタネ”が欠かせない。
      ただ仕事柄、基礎科学のようには公費を要求できない以上、副業で稼いで、それと切り離してジャーナリスト活動を存立させる、という解しかないのでしょうか?
      *虫さんの今回のコメントは、最初にいただいたコメントを虫さんご自身の追伸コメントに沿って手直ししたものを載せています。

      1. 尾関さん

        副業ですか。私の言う「大局分析部門」の研究成果を、例えば紙媒体でいえば、月刊誌で示すことが出来るのでは(出来るだけ間口の広いもの。単独イシューへの興味で購入する人の人数に限りがあっても、数多くのイシューがあれば購読者も増える)。

        記者さんの日常は、おそらく出稿期限と字数の制約に縛られた日々では?
        幾ら記者さん達が優秀でも、自分の専門分野の知見を深化させたくとも時間がない。そこで、ローテーションで「大局分析部門」に在籍し、知見を深化させ、同時に日常の記事では伝えきれない「大局」を読者向けに分かりやすく伝える。

        日々の新聞と月刊誌の役割分担は、新聞ではもっと立ち位置を鮮明に、月刊誌では出来得る限り客観的な解説を。
        昨今はとにかくバッシング症候群ともいうべき時代ですから、新聞だけで立ち位置を鮮明にすると(或いは、もっとトガルと)、偏向した考え方に憑かれた新聞という烙印を押されてしまう。しかし、月刊誌が幾多のイシューについて、価値観を出来るだけ排除して語れば、イメージ戦略にもなるでしょう。

        あとは「楽しい月刊誌」であること。そして、読者との双方性があること。
        楽しさの演出は頭に浮かびませんが、例えば、地球温暖化による植生の変化に絡めて読者の写真投稿欄を設ける。今まではいなかった虫や花が北上して身近に見かけるようになった姿を撮った写真を投稿してもらったり。

        基礎科学に携わる科学者達は、その楽しさや日々の営みを一般に向けて語っているでしょうか?基礎科学が実用に結びつく例として、相対性理論とGPSの関係が示されますが、この時点で既に実用化を求める相手の土俵に乗ってしまっている。これでは負けますよね。

        基礎科学に相当するジャーナリズムの知的コアに蓄積された知見を商品化しないのは、如何にも勿体ないと思います。

        さて、長々と書いてきましたが、尾関さんのブログを元にして、ひとつの思考実験を楽しまさせていただきました。

        1. 虫さん
          副業構想、ありがとうございます。
          月刊誌?
          うーん、ビジネスとしては新聞よりも難しいのではないでしょうか。
          (もちろん、虫さんの思い描く月刊誌は、シンクタンクを紙媒体化したようなもので、ふつうの雑誌とは違うのかもしれませんが)
          私たちの世代は、年金中心の生活を送りながら細々と……というジャーナリズムがありうるのですが、若い世代はどうしたらよいのか、なかなかイメージが浮かびません。

          1. 尾関さん

            そうですね。月刊紙であるならば、その名称からイメージする既存のそれとは全く違う非常に斬新なものである必要があるでしょうね。

            私の言いたかったことは、「高い専門性を持った人々」が、時間のスケールでいえば「1日の単位」で活動している業務形態には無理が生じるだろう、ならば、日々の現場を離れた「思索の部門」である期間を過ごし、専門性を深める機会を持つ。
            そして、その知見をついでに「商品」にしてしまえ、ということだと思います。

            1人の記者が2つの媒体から収益を上げれば、副業(例えば不動産業、笑)立ち上げに伴う新規投資は不要ですからね。

            但し、結局は「新聞離れ、TV離れ」の著しい若いデジタル世代に如何にアプローチするかの問題に帰着するのでしょうね。

            1. 虫さん
              《知見をついでに「商品」に》という着想、いいところをついていると思います。
              ただ、ジャーナリストの「知見」を世間が価値ある知見と受けとめてくれるだろうか、という心もとなさが私にはあります。
              ネットメディアの現況を見ると、医師や弁護士など専門家が自ら書いたものに比べ、ジャーナリストの論考はあまり読まれていないように思います。
              だれもが情報発信できるようになったこと、それに伴ってみんな筆が立つようになったことがあるのかもしれません。
              ジャーナリストならではの「知見」て何だろう?
              そんな問いが、私たちにのしかかっているように思うのです。

              1. 尾関さん

                「ジャーナリズムは知の卸売業」、は如何でしょうか?

                卸売りは生産者(学者)の製品価値(研究価値)
                ついて、生産者と語るだけの知識を持ち、多くの製品の中から市場に出す価値ある製品を選ぶ目利きですよね。

                一方で、小売業者に対しては、生産者と語るレベルとは違うレベルで、その製品(研究)の価値を伝える能力を持ち、卸値の交渉能力を持つ(ここで、小売業者が適正な価格で消費者に販売できるかが問題ですが)。

                つまり、知の翻訳者として学者さん達と一般の人々の橋渡しをする能力がジャーナリズムの知見のひとつですよね。そしてもうひとつの知見は、高い専門知識そのもの。

                コロナ禍で若い世代の政治や医療制度などへの関心が高まっているようですが、新聞記事のレベルは少し生産者寄りかな、と思うことがあります。つまり、レベルがやや高め。

                私が購読している新聞に経済記者の原さんという方がいて、財政規律を重んじる立場から政府や日銀の政策を舌ぽう(筆ぽう?)鋭く批判されている。いつも小気味良い記事を書かれる。野放図に国債を発行すれば、将来その利払いの国家予算に占める割合が大きくなり、次世代は十分な社会保障やインフラなどの「公助」の恩恵を受けられなくなる、と主張されている。
                なるほど、と思いながらも、「原さん、その次世代は新聞読んでませんよ。読んでいるのは、いま恩恵を被っている世代です。直接次世代に向けて、彼らが被るであろう不利益を語らなくちゃ」といつも思うんですね。

                さて、またもや長々とした投稿で、時刻ももう午前2時!まあ、原さんがしばらく「思索の部屋」にこもり、月イチで若者向けに、自分の事として興味の持てる財政や金融についての平易な解説をする。これが私の言いたいことですね、笑。

                世の中に総合雑誌と称するものが数多くありますが、それほど「総合度」は高くなく、しかも、外部の識者に原稿を依頼している。一方、新聞は非常に間口が広く、内部の高い専門性を持つ人々が沢山いる。
                卸売業が直接小売もして、分かり易く数多くのテーマで「総合」の名に値する情報を提供する。デジタルであれ紙媒体であれ、私なら買いますね。

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