東独、ひとつの国が消えたとき

今週の書物/
『ドイツ統一』
アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊

ドイツビール

去年の今ごろ、私たちの世代はベルリンの壁崩壊から30年の感慨に耽った(当欄の前身「本読み by chance」2019年11月15日付「あの日、壁崩壊に僕らが見たもの」)。1年後の今、壁崩壊30周年のあとにもう一つ、大きな通過点があることに気づいた。

ドイツ統一から30年の歳月が流れたのだ。1990年10月3日、東西ドイツ――と言ってもピンと来ない世代がふえたが――が合体して、一つのドイツが再登場した。これによって、第2次大戦後、欧州中央に居座っていた大きな変則状態が消滅したと言ってよい。

壁崩壊は、ひとことで言えば解放だった。閉じ込められた人々が壁を壊し、外へ出て、自由の空気を思いきり吸った。それは、祝祭にほかならない。だが、祭りのあとには大きな宿題が残った。東ベルリンを首都とする東ドイツ(東独)、即ちドイツ民主共和国の今後をどうするか、という問題だ。ドイツ人は結局、東西統一という道を選んだ。東ドイツが、それまでの西ドイツ(西独)、即ちドイツ連邦共和国の一部になる、という方式だった。

考えてみれば、これは大変なことではなかったか。一つの国が、戦争もなく平和裏に消滅したのだ。ドイツ民主共和国は1949年の建国以来、ソ連型の社会主義体制をとってきた。西側とはまったく違う政治がある。経済の様相も異なる。それが、なにはともあれ民意を反映させるかたちで解消された。こんな大事業が成し遂げられたのは、なぜなのだろう。国際政治の力学がそうさせたのか、ドイツ市民が理性的だったからか。

ともあれ30年後の今、あのドイツ統一はないほうがよかった、と思う人はそう多くないように見える。もちろん、歪みはさまざまなかたちで噴出している。それを差し引いても、あのタイミングであの体制転換を果たしたことは賢明だったのではないか。

で、今週は『ドイツ統一』(アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊)。著者は1967年生まれのドイツの現代史家。略歴欄に現職はマインツ大学教授とあるが、訳者解説によると「中道保守のキリスト教民主同盟(CDU)の熱心な党員」であり、政治活動にも積極的だという。ドイツ統一の西側の牽引車はCDUを中心とするヘルムート・コール政権だったので、この本は、そのことを念頭に置いて読んだほうがよいだろう。

この本で、ああ、そんなことがあったなあ、と思いだされるのが、東独の人々が列をなして国境を越えようとしている映像だ。壁崩壊よりも前のこと、いきなり西独に入るのではない。同じ東欧圏の国を通って西側へ脱け出る人の流れが起こったのである。先駆けとなったのは、ハンガリールート。この国は1989年9月、中立国オーストリアとの国境を開放した。月末時点で、東独から来た3万人がオーストリア経由で西独に移り住んだという。

旧チェコスロヴァキアのプラハにも、ポーランドのワルシャワにも東独の人々が「難民」として押し寄せた。東独指導部は「難民のイメージ」が建国40年の式典に水を差すことを嫌って、プラハで「難民庇護」を求めていた自国民向けに東独経由西独行きの特別列車まで仕立てた。これには「出国者たちの身元を確認する機会を確保しよう」との思惑もあったが、「列車の通過は、指導部の降伏を国民の前にはっきりと示すことになった」。

実際、そのころ、ドイツ社会主義統一党(SED)が率いる東独指導部はガタガタだった。その体制崩壊の要因を、著者は三つ挙げる。ソ連がゴルバチョフ体制になったこと、党指導部が硬直化していたこと、そして、1989年に顕著になった「反対派運動の台頭」だ。

事実上の一党支配が続く東独に、どんな「反対派」がありえたのか。この本によれば、1980年代には、教会を核にして「平和、環境、人権を掲げるグループ」が生まれていた。壁崩壊の89年11月に並び立っていたのは、「新フォーラム」「民主主義をいま」「民主主義の出発」などの運動体。リーダーには、画家、映画監督、分子生物学者、物理学者や弁護士らがいた。文化人や知識人が東独体制の抑圧に対して声をあげたという色彩が強かったようだ。

ここで押さえておくべきは、反対派イコール統一志向派ではなかったことだ。著者は、新フォーラムについて「彼らのプライオリティは、改革され、独立した東ドイツに置かれていた」と指摘する。めざしていたのは「政治的な自由《と》経済的な自由に塗り潰されている西側のシステム」(《 》は傍点箇所)ではなかった。東西いずれの体制とも異なる「第三の道」――「改革された民主的な社会主義」だった、という。

ところが壁崩壊後、東独内には統一を渇望する世論が起こる。デモでは「再統一」の横断幕が見られるようになった。集会で発言者が「四〇年を経て、もはや社会主義の新たな変種を試みる気などない」という思いを語って、拍手が鳴りやまなかったこともある、という。その発言者は、工具職人だった。市井の人々のすぐそばに、同胞たちの成功物語に彩られた自由主義経済があり、反対派の主張がもはや心に響かなくなっていたのである。

反対派はSED改革派とともに「円卓会議」に参加して東独再生をめざすが、世論の西独志向は強まるばかりだった。「ドイツ・マルクが来るなら、われわれはとどまる。来ないならば、われわれがそちらに行く!」。デモでは、そんなスローガンも現れたという。

この状況に攻めの姿勢をとったのが、西独コール政権だ。コール首相は1989年11月、「連邦国家的秩序」を目標に置く10項目の計画を発表、翌90年2月には両独の「通貨同盟」も提案する。首相はそれを急いだ理由を、農民が雷を警戒して「刈り入れた干し草をしまい込もうとする」心理で説明したという。念頭にあったのは、ソ連の不安定な情勢らしい。ゴルバチョフ体制が崩れれば鉄のカーテンが再び下ろされかねない、というわけか。

同じ2月、東西ドイツと米ソ、英国、フランスの戦勝国が「2+4」という対話の枠組みをつくることが発表される。それぞれの国の思惑が絡みあう力学もこの本の読みどころなのだが、要約は難しい。ただ、統一にとって大きな阻害要因はなかったと言えそうだ。

この本で見えてくるのは、統一が東独の人々にもたらした副作用の深刻さである。東独は、市場経済が一気に流れ込んだことで就業構造が一変した。農業、製造業の分野で労働人口が激減、サービス業ではふえたが、全体としては厳しい雇用状況に直面した。1993年になって壁崩壊当時の職場に居残っていた人はわずか29%という。この現実は「一般的に転職がきわめて稀であった東ドイツの伝統に鑑みると、由々しき問題」だった。

著者によれば、統一前の東独にあった社会主義体制下の企業は、労働者にとって単なる職場ではなく、「社会的共同体の場」だった。そこは「生活形成の場」でもあり、「子供の養育や休暇や文化のための組織」が付随していた。それをもぎ取られる人々が大勢いたというわけだ。私はこのくだりを読んで、かつて日本の終身雇用型企業に、運動会などの社内行事や保養所などの福利厚生施設が一式揃っていたことを思いだした。

こうした苦難は当然、体制の崩壊に起因する。人々は「補助金を多く投入する計画経済的な福祉独裁」の「停滞」から「市場経済的で多元主義的な経済・社会システム」の「混沌」に放り込まれた、と著者はみる。東独の産業は「重工業的段階」にあったが、そこにいきなり「自由とリスク」や「マイクロエレクトロニクス時代の変化のダイナミズム」や「グローバル化」の波が押し寄せ、「二重の近代化」をせっついたのだ。

二つの国が一つになるのは並大抵のことではなかった。たとえば、交換レート。この本によれば、東独マルクは西側のドイツ・マルクに比べて圧倒的に弱かったが、東独側は1対1での切り替えを求めた。最終的には、賃金給与は1対1だが、ほかの場合はさまざまな条件によって1対1のことも2対1のこともあるという複雑な方式で折りあった。その副作用にもこの本は触れているが、なにはともあれ「力業」で妥協点に漕ぎ着いたのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月23日公開、通算545回
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2 Replies to “東独、ひとつの国が消えたとき”

  1. 1990年前後のドイツをめぐる出来事は、7千5百万人のドイツ国民の生活を大きく変え、同じく7千5百万人くらいいると言われている国外のドイツ人に影響を与えました。
    ですから起きたことには、何千万もの違った説明があり、何千万もの違った解釈があり、Andreas Rödder に異を唱える人がいるのも当然のことなのでしょう。
    9月19日には尾関さんご紹介の岩波新書『ドイツ統一』が出版され、10月21日には中公新書『物語 東ドイツの歴史』が出版され、これまで出版された本の読者を含め、DDRの消滅についていろいろ違った考えを持つ人々が出てくるのは、悪いことではないですよね。
    DDRの消滅はもちろんゴルパチョフのぺレストロイカによるところが大きいのだけれど、私のイメージするDDRの消滅は、1987年6月6日のデヴィッド・ボウイの西ベルリンの壁のそばでのコンサートであり、1988年7月19日のブルース・スプリングスティーンの東ベルリンコンサートであり、東ドイツからハンガリー経由で西ドイツに移り住んだ人たちなのです。
    ありとあらゆる統計表からDDRが消え、2行の数字が1行になり、DDRがあった頃の数字もアジャストされ変えられました。無料だったスポーツクラブが有料になり、もらえるはずだった年金がもらえなくなる。なんともせつない変化だったと記憶しています。
    1990年前後に東欧で起きたことの印象は、人は思ったほど政治的ではないのだなということでした。
    それまで籠に入れて売っていた卵が、ケースに入れないと売れなくなり、ケースに入れるためには、ニワトリに大きさの整った卵を産ませなくてはならない。そんな切実なことが、ありとあらゆる場面で起きたように記憶しています。
    あの変化をトランジションと呼ぶか、トランスフォーメーションと呼ぶか、という論議が延々となされたのもあの頃でした。
    DDRに住んでいた人たちの暮らしは確かに変わったのですが、FRDにすんでいた人たちの暮らしも変わった。東ヨーロッパに人たちの暮らしはもちろん大きく変わったのですが、西ヨーロッパの人たちの暮らしも変わった。あの頃のおかげで大きく浮上した人たちがいる一方、あの頃のせいで沈んでいった人たちもいる。変化はいつもそんなものです。今起きている変化に個人としてどう対応していくか。ドイツの人たちに学ぶことは多そうです。

    1. 38さん
      《それまで籠に入れて売っていた卵が、ケースに入れないと売れなくなり、ケースに入れるためには、ニワトリに大きさの整った卵を産ませなくてはならない》
      こうした連鎖がいたるところにあったわけですね。
      終身雇用、年功序列社会の崩壊で、私たちも幾分かは似た経験をしたように思いますが、東独で起こったことは桁違い。
      すべての人々で生活のすべてがそっくり入れかわるような変化があったように思われます。

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