オーウェルは二つの社会主義を見た

今週の書物/
『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』
川端康雄著、岩波新書、2020年刊

右寄り

新聞記者の一線を離れてみると、後悔がたくさんある。現役時代、もうちょっと頭を働かせれば、あんなことが書けたな、こんなこともできたな、ということだ。

今夏、朝日新聞デジタルに「オーウェルの道をゆく――『労働者階級の街』から見た英国のいま」という記事が連載された(2023年7月26~29日、8月2日、16~20日、その後、短縮版が朝日新聞夕刊「現場へ!」欄に載った)。筆者は、ロンドン駐在の金成隆一記者。「英国の地方を訪ね、特別な肩書のない人々の話を聞きたい」と思い、作家ジョージ・オーウェル(1903~1950)がかつて歩いたイングランド鉱工業地帯の今を見たという。

心にズシンと響いたのは、「特別な肩書のない人々の話を聞きたい」の一言だ。これだ、こんな取材がしたかったのだ。私も1990年代、ロンドンに駐在していたが、科学記者という肩書に縛られ、ほとんど学者ばかりを追いかけていた。そのことが悔やまれる。

イングランド北部の空気は、ロンドン時代の出張取材や休暇旅行でなんども吸っている。鉱工業地帯でパブにふらりと立ち寄ると、労働者らしい男たちがビールを片手に陽気に語りあっていたものだ。店内に飛び交うのはもちろん英語だが、ケンブリッジやオックスフォードで耳にするそれとはまったく違った。ここにいる人々こそが英国社会の本体なのだ――私もそう認識していたが、話を聴いてまわろうとは思わなかった。

それをやってのけたのが、金成記者だ。いや、もとをたどればジョージ・オーウェルということになろう。オーウェルは1936年、ジャーナリストとしてイングランド北西部、マンチェスターに近い炭鉱町ウィガンを取材した。ロンドンからは鉄道やバスを乗り継ぎ、安宿や民家に泊まる旅だった。こうして英国労働者階級の「もっとも典型的な人たち」の声に触れたのだ。翌年、『ウィガン波止場への道』というルポルタージュを発表している。

で今週は、そのオーウェルの伝記であり解説書でもある一冊を読む。『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』(川端康雄著、岩波新書、2020年刊)だ。著者は1955年生まれ。近現代の英国文化や英文学が専門の研究者。オーウェルの邦訳も多く手がけている。本書では、オーウェルの生涯46年余を幼少期から死の当日までたどっている。文筆生活を始めてからの記述では、そこに作品世界を絡ませているのが読みどころだ。

中身に入ろう。著者は「はじめに」の一文を「いまでは不思議なことに思えるのだが」と切りだし、日本では昭和中期、「政治的左派」や「進歩的知識人」の大勢がオーウェルを嫌っていたことを振り返る。たぶん、若い人々にはピンとこないだろう。

実際、オーウェルの代表作『動物農場』(1945年)と『一九八四年』(1949年、*1*2)は東西冷戦期、ソ連型社会主義に対する批判の書として読まれた。右寄りと見られたわけだ。西側には、オーウェルを「反ソ・反共のイデオローグ」に担ぎあげる動きがあった。

「はじめに」は、その後の変転も跡づける。『一九八四年』がブームを呼んだ現実の1984年前後、左派のオーウェル嫌いは収まり、代わりに「『情報革命』『管理社会』といったキーワードを用いた『一九八四年』論が増えてきた」。当然の流れだな、と私は思う。ソ連東欧の体制が崩壊に向かいつつあったこと、世の中がコンピューターを中心とする情報技術(IT)の台頭で隅々まで管理されようとしていたことが影響したのだろう。

「はじめに」は、2010年代の政治情勢にも言及している。日本では、マイナンバー法や特定秘密保護法などの法制で「監視社会化」の流れが強まった。米国では、ドナルド・トランプ大統領という専制的権力者が登場して、「フェイク・ニュース」「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などの流行語も生まれた。『動物農場』や『一九八四年』は「反ソ・反共」の色彩を弱め、「身近な世界の危機を表現した小説」になっているわけだ。

この構図の反転は大きな意味をもっている。『動物農場』や『一九八四年』の作品世界が当時のソ連型国家をモデルにしていることは間違いないが、そこにある「管理」や「監視」の過剰は社会主義そのものの病ではない、と本書は主張しているように思える。最近は、自由主義を別名にしていた資本主義が同じ病のリスクにさらされているではないか。病因は社会主義にあるわけではない。この一点は、心にとめておくべきだろう。

私が察するに、オーウェルの胸中には二つの社会主義像があった。一つは、陰湿な暗黒郷(ディストピア)の社会主義。もう一つは、それとは真反対に明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義。本書によると、オーウェルはスペイン内戦で、その二つの違いを見てとった。1936年暮れ、現地ルポを書くつもりでバルセロナに赴くが、町の「雰囲気」に気押され、ほどなく民兵組織に入る。町の様子は著書『カタロニア讃歌』に描かれている。

建物の大半は労働者階級が占拠して、旗がひらめいていた。オーウェルが心揺さぶられたのは、商店の店員やカフェの給仕の言葉づかいだ。相手が客であっても「セニョール」などの敬称は用いない。「同志」「君」と呼びかけていたという。エレベーターボーイにチップを渡そうとして、たしなめられたこともあった。この町では店員も給仕もエレベーターボーイも客もみな「対等」だった。オーウェルは、ここに社会主義のあるべき姿を見る。

この見方に、私は懐疑的だ。旧ソ連型の社会主義国では独裁的な指導者も「同志」と呼ばれる。それを「対等」とみるのは甘くはないか。実は『カタロニア讃歌』も「同志」という言葉が「たいていの国」では「まやかし」であることを認めている。ただ、オーウェルはスペイン内戦の民兵組織に参加した数カ月、「本当の同志的連帯」を経験したというのだ。ここでもまた、社会主義の本質は「階級のない社会」であることを強調している。

スペイン内戦は、選挙で政権に就いた人民戦線の共和国政府と、欧州のファシズム勢力を後ろ盾にするフランシスコ・フランコ将軍派との間で繰り広げられた。オーウェルは人民戦線の一翼を担う民兵組織「マルクス主義統一労働者党」(POUM)に入隊、スペイン北部で塹壕戦に加わった。著者によれば、『カタロニア讃歌』の戦場描写には「ずっこけた」印象がある。仲間を英雄視しなかったのは、「同志的連帯」のなせる業だったのだろう。

オーウェルはこの国で、もう一つの社会主義も現認する。入隊から4カ月後、1937年4月に休暇でバルセロナを再訪すると、町の空気が一変していたことを『カタロニア讃歌』は書きとめている。「同志」や「君」は消えつつあり、「セニョール」が復活していた。それだけではない。5月上旬には、共和国政府の内部抗争が激化してバルセロナで市街戦が起こり、オーウェルもPOUM本部を守るため、「歩哨任務」に駆りだされた。

本書には、この内部抗争の背景説明がある――。スペインの共和国政府はソ連を「最大の援助者」としており、ソ連の絶対的権力者ヨシフ・スターリンの意向を無視できなかった。POUMの方針は、スターリンとソ連共産党内で敵対したレフ・トロツキーの思想に近かったので、共和国政府主流派からは「ファシスト軍以上に危険」とみなされ、「粛清」を受けることになったというわけだ。その結果、POUMの党首は拷問の末に殺されている。

オーウェル自身も危うかった。本書によると、当局がオーウェル夫妻――妻も夫を追ってスペインに来ていた――を「狂信的なトロツキスト」とみていたことを示す文書が見つかっている。現に、オーウェルの戦友だった英国の青年は1937年6月に獄死している。

オーウェルは1937年5月、別の理由で死にかけた。バルセロナから戦場に戻ってまもなく、ファシスト軍の銃弾が首を貫いたのだ。動脈からずれていたことで一命をとりとめた。このあと療養施設で過ごした後、国外へ出る。列車に乗れたのは6月23日。共和国政府は6月16日にPOUMを非合法化していたから、間一髪で難を逃れたことになる。スターリン体制に対する警戒がオーウェルの皮膚感覚に根づいたとしても不思議はない。

本書でオーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月24日公開、通算705回
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ロヴェッリの物理、時間とは?

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

当欄は、1冊の本を2週にまたがってとりあげることが多くなった。当初は1週1冊を標榜していたが、そんなふうにして数を稼ぐことがばかばかしく思えてきたのだ。たまには2週1冊でいい。いや、ときには3週1冊でも4週1冊でもよいではないか。

ということで、今週もまた、『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)を続ける。1冊の本にこんなに長居するのも、著者が語るループ量子重力理論にとことん迫り、その世界像を見届けたいからだ。

先々週の話をざっくり言えば、こんなふうだった――。物理世界は「粒」の性格を帯びている。大きさには最小単位があり、それより小分けにできない。その極微世界は幾何学的であり、どのような曲がり方をしているかは方程式で確率的にはじき出される。(*1

先週は、物理世界の「粒」のありように迫った。それは箱に詰め込まれたボールのようなイメージで、隣りあう粒との間にリンクが張られている。ネットワーク的な世界像といえよう。粒から粒へリンクを伝ってひと回りすると、空間の曲がりが見えてくる。(*2

ループ量子重力理論の空間にはもう一つ、押さえておきたい特徴がある。「事物を内包する無定形の容れ物」とみてはいけないということだ。空間の量子は「自身と隣り合っている量子のなかに在る」。空間は「隣近所との関係性の織物」ととらえるべきなのである。

このように復習してみると、あることに気づく。本書は空間の議論にかまけて、時間をほったらかしにしてはいないかということだ。実は著者も、そのことを気にしていたらしい。本書の半ば、第7章「時間は存在しない」の書きだしでは、前章まで時間を論じようとしなかったことを率直に認めている。ただ、現代物理学は時間と空間をひとくくりに「時空間」とみているのだから、「そろそろ、見取り図のなかに時間を呼び戻す」と宣言する。

こんな正直な告白もある。量子重力の研究者は「時間と向き合うための勇気が湧くまで」「空間の問題にばかり取り組んできた」。時間の解明は、本書執筆時点の15年ほど前から進展したという。研究者にとっても近年になってからの関心事なのか。

さて、ではループ量子重力理論の時間像は、どんなものか。当欄が繰り返し書いてきたように、ループ量子重力理論の礎となったホイーラー=ド・ウィット方程式には時間変数“t”がない(*1*3)。それが何を意味するかが、本書を読み進むとわかってくる。

そこではまず、ガリレオ・ガリレイがピサの大聖堂で天井の燭台を見ていて振り子の等時性に気づいた、という話が出てくる。実話かどうかは疑わしいようだが、「伝承」によれば、ガリレオは燭台がゆらゆら揺れる周期を自分の脈拍で測った、とされている。その結果、振り子の周期が振幅によらず変わらないことに気づいたというのだ。著者は、ここで問題を提起する。ガリレオは何を根拠に「脈の打つ時間が一定」と確信したのか。

これには裏返しの話がある。ガリレオの発見後、医師は患者の脈を測るときに振り子を時計として使うようになったらしいのだ。「振り子の振動が規則的であること」を脈で確かめ、「脈が規則的であること」を振り子で確認する――そんなことを私たちはしている。

著者は言う。振り子の観察でも脈拍の測定でも、人は「『時間そのもの』を測っているわけではない」。複数の物理量を測って「ある変量と別の変量を比較している」だけだ。ところが物理学はこれまで、時間変数“t”の存在を「仮定」してきた。この慣習を断つのが量子重力理論だ。物理量A、B、Cがあるとすれば、それらを“t”の関数A(t)、B(t)、C(t)ではなく、変数相互の関数A(B)、B(C)、C(A)のように考えようとする。

この視点に立てば、世界の変化は事物間の関係の変わり方ということになり、世界が「時間のなかで変化する」ことはない。これは、空間を「容れ物」ではなく「隣近所との関係性の織物」ととらえるのに似た考え方だ。時間もまた「容れ物」ではないらしい。

さて、ここから先は難解だ。当欄は、本書が提示するイメージに頼って話を進めるしかない。著者は、物理現象を「箱」で説明する。ビリヤードの球2個がぶつかって二つの方向へ転がっていく現象を例に挙げ、その舞台となる時空間を箱で表す。本書掲載の略図では、箱が直方体で、その一辺が時間軸のように見えるが、単純にそう理解してはいけないことが文章を読むとわかる。なぜなら、「箱自体が時空間を『含みこんでいる』」からだ。

箱には別の表現もあって、そちらのほうがピンとくる。それは「軟体動物」の小片に似ており、「鮨(すし)のような形」をしているというのだ。余談だが、著者が「軟体動物」をもちだしたのには訳がある。アルバート・アインシュタインが、時空間の曲がりである重力場のことを「軟体動物」にたとえているからだ。その比喩を「鮨」にまで飛躍させたのは、日本人読者向けのサービスではあるまい。きっと、ご本人が和食好きなのだ。

問題は、「鮨」のようなものが何かだ。ループ量子重力理論では、ビリヤードの球同士の衝突という物理過程を考えるとき、球そのものだけでなく、時空間など「球を取り巻くすべてのもの」を考えに入れなくてはならない。「鮨」は、これらすべてを含んでいる。

本書によると、ここで目を向けるべきは「鮨」の末端だ。両端のうち片方は物理過程の始まりに、もう一方は終わりに相当する。ループ量子重力理論の方程式は、過程の始まりと終わりのそれぞれがとりうる「すべての状態の確率」をはじき出してくれるというのだ。ここでビリヤードに話を戻すと、これによって私たちは、衝突する球がどのように「鮨」に入り、どのように「鮨」から出ていくか、ということを確率的に知ることができる。

では、末端と末端の間はどうなのか。ここで助けになるのが量子力学の世界像だ。一つは、ウェルナー・ハイゼンベルクの行列力学。「量子力学は、過程の最中になにが起こるかは教えてくれない」とする。もう一つは、リチャード・ファインマンの「経路総和」。粒子の動きをいくつもの経路の束とみる。この考え方に立てば、二つの末端の間には、粒子がとりうるすべての経路を含み、ありうるすべての時空間をはらむ「雲」が存在する。

ループ量子情報理論は空間を「網」とみる。それが、時空間では「鮨」の末端に現れるという。ここで「網を手にもち、それを動かす」行為を思い描こう。それによって「網」の結び目である「節」は点が線となり、「節」と「節」のつながり(「リンク」)は線が面となる。著者は、これを「網の歴史」「網の歩み」と呼び、そこに生まれる構造を「泡」に見立てる。時空間の「雲」は「生じうるすべて」の「泡」の重なり合いとみてよいらしい。

本書によれば、物理学者はこの「泡」によって特定の物理過程の確率を算出する。ここで必要なのは、同じ一つの末端を分かちあう「泡」をすべて足し合わせて、その「総和」を求めることだ。ループ重力量子理論の方程式は、この計算を可能にしてくれる。

本書が描く時間を要約すれば、こうなる。世界には、事象に先だって「容れ物」の役目を果たす時間も空間もない。空間は「節」と「リンク」でかたちづくられる関係性の「網」であり、「網」の状態が変わることで「時空間」が生じる、というのだ。

ではなぜ、私たちは時間を一様の流れのように感じるのか。本書には「空間と時間は、大きなスケールにおいてはじめて現われる、近似的な存在」という示唆がある。「大きなスケール」には、時の流れを実感させるしくみがあるようだ。そのことは著者が別の著作で詳述しており、当欄もすでに紹介した(*4)。本書終盤にもヒントとなる章があるが、とりあえず今回のシリーズは3回で中締めにする。機会をみて再開しよう。

いま言えるのは、時間を絶対視するのはもうやめようということだ。時間は事象の相対的な変化のなかにある。そう思うと、1日という時間がちょっと長くなった気分になる。
*1 当欄2023年10月20日付「ロヴェッリの物理、空間は粒
*2 当欄2023年10月27日付「ロヴェッリの物理、空間は網
*3 当欄2023年5月5日付「『時間がない』と物理学者は言った
*4 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月3日公開、通算702回
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ロヴェッリの物理、空間は網

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

科学取材を長く続けていると、科学者たちの関心事の移り変わりがなんとなく見えてくる。この数十年、モノよりもコトに重きが置かれるようになったのも、その一つだ。

背景には、20世紀科学を彩った要素還元主義が極点に達したことがある。物理学でいえば、素粒子群の発見ラッシュがそうだ。生命科学でいえば、ゲノム解読がこれに当たる。物質や生命の根源に何があるかを探る方向性はもう限界に近づいてしまった。

代わりに台頭したのが、複雑系の科学だ。こちらは、モノの小分けにさほど興味がない。関心の的は物事の関係性。ネットワークと言い換えてもよい。物理学から生物学まで、基礎科学から応用技術まで、分野を横断してネットワークの理論が論じられている。

ネットワーク重視の流れは、もしかしたら人間自身がネットワークの構成要素になったこととも無縁でないかもしれない。20世紀後半にコンピューターが広まり、情報技術(IT)が進展したことで、だれもがインターネットを通じて世界中の人々とつながるようになった。今や人間社会はネットワークなしに存立できない。私たちの思考は日常的にネットワークに馴染んでいる。これに伴って科学が変わるのも当然だろう。

まくらにこんな話題を振ったのも、先週からとりあげている『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)の量子重力理論にネットワークを連想させる話が出てくるからだ。著者は極微の空間を考察しているので、一見、要素還元主義のようではある。ところが読み進むと、どうもそうではないらしい。要素を想定してはいるが、そこにネットワーク的なものを見ているのである。

では、本書の中身に戻ろう。先週は本書に導かれて、量子力学と一般相対性理論の統合をめざす量子重力理論の入り口まで来た。それは2点に要約される。一点目は、空間が限りなく分割できるものではなく、極微の領域では「粒性」を帯びていること。もう一つは、その領域にはホイーラー=ド・ウィット方程式という基本方程式があり、この式によって空間は「相異なる幾何学図形が重なり合ってできた雲」のようにイメージできることだ。(*)

ただ、そう言われてもピンとはこない。空間が「粒」であることと「雲」のようであることがつながらないのだ。今週は本書をさらに読み込み、このモヤモヤを払い除けたい。

まずは、ホイーラー=ド・ウィット方程式は解けるのか、という話から始めよう。本書によれば、1980年代末ごろ、方程式の改良が進み、「奇妙な解」が見いだされた。その解は、空間内の「閉じられた線」(輪、ループ)を「計算の対象にする」ときに得られた。別の言い方では「閉じられた線」が「解のなかに現われる」という表現もある。どうやら、ループには特別な意味があるらしい。「ループ量子重力理論」の名もここに由来する。

これでは要領を得ないので、ビジュアル素材の助けを借りよう。本書には、指輪のようなループが四方八方にいくつも絡みあう画像が載っている。本文を読むと、ホイーラー=ド・ウィット方程式の解がループ一つひとつの様子を表しているらしいことがわかる。

著者は、ループを「重力場のファラデー力線」とも呼ぶ。マイケル・ファラデー(1791~1867)は電場や磁場の力をファラデー力線で表したが、その重力版だというのだ。重力場の様子を視覚化しているわけだから、空間の曲がりにも関係しているのだろう。

ループ同士が接する点が「節」。本書によれば、これが「空間の量子的な粒」、すなわち「空間の量子」となっている。見落としてならないのは、「空間の体積」が「節のなか」にあるという記述だ。私たちの常識では「体積」は空間に広がる連続的な量だが、量子重力理論では勝手が違う。「節」には、「体積を形づくる離散的な小箱」という性格がある。その結果、「体積」はトビトビの値をとり、一つ二つと数えられることになる。

本書では、「節」という「空間の量子」が「居場所をもたない」ことも強調されている。「節」は自身が「空間を形づくっている」ので、自らの「居場所」を空間内に位置づけられない。これは、電磁場の量子である光子(光の粒)などと大きく異なるところだ。

では、「空間の量子」に居場所に代わるものはあるのか。本書によれば、ある。それは、隣り合うものが何かという情報だ。一つの「空間の量子」の隣には別の「空間の量子」がある。「誰のそばに誰がいるのか」ということで、空間の風景は違ってくる。

このあたりが本書のよみどころだ。「誰のそばに誰がいるのか」というのは、関係性に着目するということだ。ネットワークのようなイメージが思い浮かぶ。著者の量子重力理論は、空間を極小の粒にまでさかのぼったうえで、そこに網の目を見ているようだ。

著者によれば、空間の構造は「節」と「節」が「たがいに触れ合う」ことで成り立つ。このとき、「節」と「節」をつなぐものとして「リンク」と呼ばれる線が想定される。「リンクによってのみ、あるリンクと別のリンクの関係性においてのみ、個々の空間の量子は所在を特定される」という。「リンク」同士の関係性も「空間の量子」に影響を与えるということだ。ここでは、著者自身が関係性という言葉を用いている点に注目したい。

ちなみに「リンク」は、ホイーラー=ド・ウィット方程式の視点でいえば、ループの一部といえる。それは、重力場の表れと考えてよい。重力場も量子論に従うから、電磁場が光子(光の粒)という量子の姿で立ち現れるのと同じように、「リンク」にも量子の側面がある。本書によると、この量子は「節」と「節」が隣りあって接するときの境界面の広さで数値化される。だから「面積」もやはり、量子論風にトビトビの値をとるという。

著者は、「節」の「体積」と「リンク」の「面積」が「空間の量子的な網の目を特徴づけている」と指摘する。読んでいてなんとなくわかったのは、極微世界の空間がどんなものかを語るとき、私たちが今いるこの空間を思い描いてはいけない、ということだ。常識的な空間は、そこにはない。あるのは空間の粒である「節」と、それらをつなぐ「リンク」だけ。それらが「体積」や「面積」という数量を伴って重力場をかたちづくっている。

本書には「節」と「リンク」の模式図も載っている。一見すると、多面体の頂点と辺のようだ。通信網などのネットワークを模した図にも似ている。この図から、ループ量子重力理論という最新の物理学が世界の根底にネットワークを見ていることを確信する。

それにしても、ループとはいったい何なのか。本書にも、ヒントとなる記述はある。著者はリンクを「節」から「節」へ渡り歩いて元に戻ると、ひと回りで空間の曲率を測れることを論じている。これは、人間が地球の曲率をどう測るか、という話に通じる。たとえば、北極→南下→赤道を東西移動→北上→北極というループを旅すれば、地球表面がどう曲がっているかが検知できるという。ループは、空間の歪みに関係しているらしい。

ここまでの話をまとめよう。ループ量子重力理論では、極微世界が粒性を帯びている。空間の粒を「節」という。「節」はそれ自体が空間なので、空間のなかにはない。「節」の居場所は、「誰のそばに誰がいるのか」という情報によって決まる。「節」とそれらをつなぐ「リンク」で張りめぐらされた網の目が空間の構造をかたちづくっている。そして、「リンク」をたどってひと回りすればループになり、そこから空間の曲がりも見えてくる――。

なるほど、空間の構造はそんなものか。ただ、時間の話がなかなか出てこない。著者は、時間はなくともよいと言うが、時の流れを全否定しているわけでもなさそうだ。空間が粒になる極微世界で時間はどうなっているのか。次回も、この本を読みつづける。
*当欄2023年10月20日付「ロヴェッリの物理、空間は粒
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月27日公開、通算701回
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ロヴェッリの物理、空間は粒

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

当欄は最近、時間の不思議と向きあっている。理由は、私が年をとったからだろう。一日一日がとても貴重なのだ。もっと端的にいえば、一瞬一瞬が愛おしい。だが、その一瞬を捕まえ、どこかに取って置くことはできない。時間に凍結保存はない。

今年5月、私は理論物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019年刊)を読んだ(*1*2)。強調されていたのは、物理学は時間なしでも成り立つということだ。物理現象は時間変数“t”なしでも記述できる。ある量の変わり方を別の量の変わり方に数式で関係づければ、それで物理学の使命は果たせる――理科の授業を思いだすと意外だが、言われてみればなるほどと思う指摘ではあった。

もっとも、これでは私たちが時間を日々実感していることを説明できない。『時間は存在しない』が一般向けの書物として立派なのは、その難点を放置しなかったことだ。著者ロヴェッリは熱力学風の考察によって、私たち人間が感じる時間の本質をあばき出した。

ただ、私は科学記者だったので、時間なしでもよいとするロヴェッリの物理学にもう一歩迫りたいという気持ちがある。それは、どんな哲学から導かれたのか、世界観をどう変えようとしているのか……掘り下げてみたいことは多い。そこで今回は、同じ著者の別の本をとりあげる。奇しくも当欄は、前身コラムを含めて通算700回を迎えた。かつてコラム名に「文理悠々」の看板を掲げていたこともあったので、節目にふさわしい選択かと思う。

『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)。2017年に河出書房新社から出た邦訳単行本を文庫化したものだ。原著がイタリアで出版されたのは2014年であり、『時間は存在しない』の原著刊行より3年早い。

著者はイタリア出身。量子力学と一般相対性理論を統合する理論を模索しており、切り札として「ループ量子重力理論」を主張している。この理論は宇宙論と結びついており、宇宙の始まりに何があったかに深くかかわっている。私が、この著者の本に再度挑もうとしている理由の一つも、そこにある。もし、『時間は存在しない』が言うように物理学に時間が不要ならば、宇宙の原点はどんなものだったのか。そのヒントも得たいと思う。

本書の中身に入ろう。第1章「粒――古代ギリシアの偉大な発見」には「宇宙は粒状であり、滑らかに持続しているわけではない」とある。源流は、古代ギリシャの哲人デモクリトスの原子論らしい。宇宙を切り分ける作業は無際限に続けられないという考え方で、それによって、英雄アキレウスが亀に追いつけないというゼノンの逆説が解決される強みもある。本書を読むと、著者もデモクリトスの立場をとっていることがわかる。

そこから出てくるのが、「粒性」という言葉だ。著者は「あらゆる事物の根底」に「粒としての性質」があるという。量子論は、電磁波という波が光子(光の粒子)の群れでもあるとみているが、空間や時間にも「粒性」があると考えるのが量子重力理論らしい。

本書は、この探究の先駆者として旧ソ連の物理学者マトヴェイ・ブロンスタイン(1906~1938)を挙げている。空間を「際限なく分割できる連続体」とみると、量子力学と一般相対性理論の両立がありえないことを1930年代に論文発表した。量子力学と一般相対論がともに正しいなら、空間は「粒性」を帯びることを理論的に証明したのである。この人は旧ソ連のスターリン体制を批判したことで死刑判決を受け、若くして刑死している。

証明のさわりはこうだ――。粒子を空間の極小領域に置こうとすると、その粒子はハイゼンベルクの不確定性原理に従い、その領域から超高速で逃げ出そうとする。粒子のエネルギーが巨大になるわけだ。一般相対論によれば、その結果、空間は大きく曲がり、ついには内部が観測不能になる。今風に言えば、ブラックホールができるわけだ。「あるスケールを下回る領域」には「手が届かない」から、そこにはなにも存在しない、と言ってよい。

ブロンスタインは、その「あるスケール」を計算ではじき出した。プランク定数hにニュートンの重力定数Gを掛けたものを光速cの3乗で割り、その平方根をとることで得られる。hは量子論でエネルギーがとびとびの値をとることにかかわる基本定数。cは相対論に欠かせない定数だ。両者を含む計算式は、量子力学と一般相対論の両立をめざす試みにふさわしい。こうして得られた値が「世界に存在する『最小の長さ』」だった。

この長さは、1cmの1兆分の1の1兆分の1の10億分の1(10のマイナス33乗cm)。これを、物理学界は「プランク長」と名づけたが、著者は「わたしとしては、『ブロンスタイン長』と呼びたい」という。量子重力理論の先達への敬意だろう。

量子重力理論の進展に大きく寄与したのは、米国の著名な物理学者ジョン・ホイーラー(1911~2008)だ。重力崩壊する天体がブラックホールと呼ばれるようになったのは、この人の意向があったからだといわれている。本書によれば、ホイーラーはブロンスタインの論文を精読することで、量子的な空間を一つのイメージで思い描けるようになったという。それは「相異なる幾何学図形が重なり合ってできた雲のようなもの」だった。

「雲」といえば、量子力学の電子雲が思い浮かぶ。原子核の周りの電子をシュレーディンガーの方程式でとらえると、それは観測されない限り一点にはなく、さまざまな位置にある状態が重なってモワッと存在する。「確率の雲」である。量子重力理論によれば、空間もそれに似ているということか。ただし、重なり合うのが電子の位置ではなく、幾何学図形のかたちだという。なんとなくわかったような気にもなるが、これだけではピンとこない。

著者は、このことを海面にたとえる。海を上空から眺めれば「青く平らな一枚の板」だが、近づけば「あちらこちらに泡が浮かんでいる」。空間も、巨視的にとらえれば「平坦で滑らか」でユークリッド幾何学に従うが、微視的な景色はそうではない。

たとえば、物差しの目盛りがプランク長ほど小さな世界を覗き込んだとしよう。空間は、そこでは「細かく切り刻まれ、ぶくぶくと泡立っている」。本書は、この「空間の泡立ち」こそが「相異なる幾何学図形から成る確率の波」であると説明している。

ホイーラーが果敢なのは、「空間の泡立ち」を数式で記述する試みに挑んだことだ。若手の研究者ブライス・ド・ウィットとの共同作業だった。1960年代、二人が見いだしたのが「ホイーラー=ド・ウィット方程式」。この式から「特定の屈曲した空間が観察される確率」をはじき出せる、という目算があった。うまくいけば、特定の粒子状態が観測される確率をもたらすシュレーディンガーの方程式の量子重力理論版ということになる。

では、目算通りにホイーラー=ド・ウィット方程式は解けたのか。そこにも踏み込みたいが、今週は行数が尽きた。来週も本書をとりあげて、この話をすることにしよう。

今回は、ホイーラー=ド・ウィット方程式についてもう一つ、書き添えたいことがある。著者は『時間は存在しない』で、この式を「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」と説明していた(*1)。本書でも同様のことを言っている。

現代の宇宙論によると、宇宙の始まりは超極微の世界だ。量子重力理論によれば、それは時間変数“t”なしで描けるというのが著者の立場らしい。その世界が急膨張(インフレーション)したり、大爆発(ビッグバン)したりして今のようになった。

ここで私が言及したいのは、スティーヴン・W・ホーキングの理論だ。宇宙の始まりには虚数の時間があるという。このとき、「時間と空間はいっしょになって、大きさは有限だがどんな境界も縁ももたない一つの曲面を形づくっているかもしれない」(『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)。そこでは、時間と空間の区別がつかないのか。(*3

ということは、ホイーラー=ド・ウィット方程式を受け入れるのであれ、ホーキング宇宙論を支持するのであれ、宇宙の始まりを考えるときは時間を棚に上げ、とりあえず空間に注目すればよいらしい。問題は、空間がどんなものかだ。来週は、そこに焦点を当てる。
*1 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*2 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
*3 「本読み by chance」2018年3月30日付「ホーキングの虚時間を熟読吟味する
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月20日公開、同月22日更新、通算700回
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寺山修司の競馬で語る科学

今週の書物/
『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』
寺山修司著、中公文庫、2020年刊

競馬

当欄は先々週、詩人寺山修司を話題にした。1週で読み切りにしたのは、翌週にノーベル賞発表が控えていたからだ。本当はもう一つ、寺山についてぜひ書きとめておきたいことがあった。あの本には科学談議がある。そこにツッコミを入れてみたかった。

ということで、今週は異例だが、再び『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』(寺山修司著、中公文庫、2020年刊、単行本は読売新聞社が1969年に刊行)に戻る。

寺山修司といえば、科学には無縁の人のように思える。だが、本当はちょっと違うらしい。それがわかるのが、本書の「希望という病気――東京大学」と題する章で「はとバス」の教育効果などを語ったくだりだ()。唐突に、自身がかつて「物理学と因数分解と西洋史年表の暗記にたけた高校生」だったことを打ち明けている。得意分野に物理を挙げ、しかも数学に強かったというのだから、理系少年の側面が間違いなくあったのだろう。

科学談議があるのは、本書終盤の章「青少年のための賭博学入門」のなかの一節。著者は競馬について持論を展開しているのだが、それがそのまま科学論になっている。

とくに「近ごろ、私は電子計算機による『競馬予想』ということに興味を持っている」と語るくだりが読みどころだ。「電子計算機」と聞いてピンとこない世代もあるだろうが、これはもちろんコンピューターのことだ。ここで著者は、コンピューター予想に対する警戒感を隠さない。コンピューターが「合理的な法則」を見いだし、「完全な『的中』予想」が夢でなくなれば「競馬の賭博は姿を消さざるを得なくなってしまう」という。

コンピューター予想の問題は「レースの時間を追い越して、結果だけを先に発表してしまうこと」と、著者は言う。これは、コンピューター予想が「レースを分析してゆく科学的な大時間」のみを視野に入れ、「個人個人の選択してゆく運命的な小時間」を排除することを意味する。些細なブレが最終結果を左右することもあるのに、それには目もくれないということか。「コンピューターは、競馬から幸運を奪い取ってしまう」と指摘する。

ここで著者がもち出すのは、「ロマネスク」だ。小説のように数奇な、という語意だろう。物理学が支配する世界では、ロマネスク流の「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」という人生観が通用しない、とみる。

著者ははからずも、競馬談議から自身の科学観を吐露している。具体論に入るのは、1968年の日本ダービー、オークスなど重賞レース。コンピューター予想と実際のレース結果を比べて、コンピューターが何を見落としていたかを突きとめようとする。

ダービーは、競馬新聞のコンピューター予想で1着マーチス(2分28秒4)、2着タケシバオー(2分28秒6)とされていた。ところが、ふたを開けてみれば、1着タニノハローモア(2分31秒1)、2着タケシバオー(2分31秒9)だった。タイムが予想ほどよくなかったのは、雨で「馬場が稍(やや)重に変わったこと」が影響したらしい。ここで著者の関心は天候に向かう。雨降りはなぜ、コンピューターで予知できないのかという話だ。

雨降りは「科学的必然」とも思えるが、著者は、そうではなく「偶然」なのではないかと問いかけて次のように結論する。私たちは身の回りの出来事の大半を「科学を介して理性的認識に還元」する。だが、この世には「理性が届かない確率論の外の世界」がある!

ここで押さえておきたいのは、著者が考える「偶然」が「確率論の外」にあるということだ。「偶然」と聞くとサイコロが思い浮かぶが、本書の記述をそのまま受けとめれば、サイコロを振って3の目が出る確率が6分の1というのも「科学的必然」になる。ということは、量子力学を確率論でとらえるときにも「偶然」は介在しないのか。著者にとっての「偶然」は、サイコロのひと振りよりも強力なデタラメさを有しているらしい。

競馬では「偶然」の寄与が大きいという話は、レースそのものの分析にも出てくる。この年のダービーではタニノハローモアが最初から飛びだし、ハナ(先頭)に立った。ペースが遅いから、ほかの馬の騎手たちは高を括っていたが、結局、逃げ切られてしまった。敗者は口々に言う。「足をとられて、のめった」「前がふさがって出られなかった」……。「こうしたいくつかのアクシデントを、理性はどのようにして予測するか?」と著者は問いつめる。

この年は、オークスでもコンピューター予想が外れた。こちらにも、「偶然」はかかわっていた。一つは、レースのカギを握るとみられていた馬が車で輸送中に交通事故に遭って出走できなかったこと。もう一つは、逃げ馬の1頭がスタート時にフライング、余分に走った分、レース本番で力が尽きてしまったこと。勝ち負けを決めたのは結局、「悟性の限界を暴力的に超えていった、見えない偶然を支配する力」だったという。

この一文で著者が「偶然」の例に挙げているのは、気まぐれな空模様や不測の災難だ。私たちがいま2023年の時点で思うのは、これらは1968年から半世紀が過ぎてなお「偶然」のままか、それとも科学の進歩で「必然」と見なされるようになったか、という問題だ。天気予報についていえば、衛星画像などのおかげで的中率が高まったように思われる。競馬のコンピューター予想も精度が上がり、「必然」の度合いが強まっているのではないか。

話はそう簡単ではない。なぜなら、科学の新しい流れが「必然」と「偶然」のとらえ方に見直しを迫ったからだ。複雑系の研究が、「必然」であっても人間には事実上「偶然」と言うしかない現象、すなわちカオスが自然界に存在することを示したのである。

カオスの理論は、古典物理学の枠内にある。未来はニュートンの運動方程式などできっちり予測できるから、決定論の世界だ。ところが、方程式に打ち込む数値をちょっと変えただけで未来図が大きく異なってしまう場合がある。初期条件の違いに敏感な現象だ。蝶の羽ばたきが遠くの国で嵐を起こすというバタフライ効果が、これに当たる。未来予測は、理屈のうえでは可能でも実際は難しい。「必然」の未来が人間には「偶然」のように見える。

余談を言えば、1960年代に気象のカオス現象を見いだしたエドワード・ローレンツ(1917~2008、米国)の逸話がおもしろい。気象の移り変わりをコンピューターで再現する数値実験を試みていたとき、入力値を概数にまるめたら、まるめなかった場合と大きく違う結果になった、という。バタフライ効果を発見したわけだ。コンピューターは人間に科学の威力を見せつけているが、と同時に、科学の限界も教えてくれたことになる。

それにしても、著者の賭博論は示唆に富む。ダービーで馬場を稍重にした雨は古典物理学の方程式に従うので「必然」だが、私たちにはそれが「偶然」に映る。一頭の馬が「のめった」ことを蝶の羽ばたきに見立てれば、そのレースが番狂わせになったことはバタフライ効果といえるかもしれない。「幸運」の根源に何があるかが見えてくるではないか。著者は、競馬の醍醐味がカオスにあることを直観で見抜いていたのかもしれない。
* 当欄2023年9月29日付「寺山修司、反1960年代の美学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月13日公開、通算699回
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