「太陽」の好奇心が輝いた日

今週の書物/
「太陽の族長――谷川健一」
船曳由美著
「地名と風土」第15号(日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊)所収

太陽の贈りもの

ご近所からのいただきものが書物というのは、今どきめったにないことだ。この春、近くにお住まいのベテラン編集者で、著述家でもある船曳由美さん(*1、*2)が「地名と風土」という雑誌を一冊分けてくださった。出版人であり、日本地名研究所の設立にかかわり、なによりも在野の民俗学者として知られる谷川健一(1921~2013)の生誕100年を記念する号だという。特集に谷川健一にゆかりの26人が文章を寄せている。その一人が船曳さんだ。

谷川は大学卒業後、平凡社に入った。同社が1963年夏、日本初のグラフィックマガジンとして月刊「太陽」を創刊すると初代編集長に就く。その編集部で谷川の薫陶を受けたのが1962年入社の船曳さんだ。で今週は、「太陽の族長――谷川健一」(船曳由美著、「地名と風土」第15号〈日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊〉に寄稿)を読むことにする。そこに満載された逸話からは、往時の出版界の活気が伝わってくる。

中身に踏み込む前に、私の世代――1963年夏には小学6年生だった――の目には「太陽」がどう映っていたか、という話をしておこう。小6男子の手が伸びる雑誌は、なんといっても「少年サンデー」や「少年マガジン」だった。「平凡パンチ」が翌年創刊されたが、それは買って読むものではなく、どこかでこっそり開くものだった。だから「太陽」は、医院の待合室や銀行のロビーに置かれた行儀のよい雑誌という印象しか残っていない。

谷川民俗学が雑誌を通じて読者と分かち合おうとしたものの価値が、私にはまだわからなかったのだ。10代前半の少年には仕方のないことだ。ただ青春期に入っても、その真価に気づかなかったのは不覚というしかない。考えてみれば、あの1960~1970年代は工業化や都市化によって国内外の文化遺産がないがしろにされた時代にぴったりと重なる。谷川の「太陽」は、カメラとペンの力でその激流に抵抗したのである。

ここでは、船曳さん(以下、著者と呼ぶ)の寄稿の読みどころをみていこう。まずは誌名「太陽」について――。これは、著者が社内公募に応えて出した案が通ったのだという。谷川は、その名に琉球列島の「太陽=てだ」を託した。沖縄には「太陽は毎朝、東方の穴から出て中天をかけり、夜はまたその穴にかえっていく」という古来の信仰がある。著者が「谷川さんは太陽(てだ)の族長ですね」と言うと、谷川は「晴レガマシイな」と答えた。

平凡社は当時、東京・麹町にある旧邸宅の建物を社屋にしていた。かつては満鉄副総裁の公舎だったという。本館には舞踏会の会場にもなる大部屋があったが、その上層部に3階をつくるなど改築や増築を重ね、出版社の体裁を整えていった。「太陽」編集室は3階の大広間。「どの机にも資料が乱雑に山と積まれている。ピースの青缶にタバコの箱。机の引き出しにはウイスキーの小ビン」とある。IT端末が並ぶ昨今の出版職場とは大違いだ。

編集部員の行動様式にも隔世の感がある。先輩部員たちは午後3時になると「サア、汗を流してくるか」と近くの銭湯に出かけた。浴衣姿で戻ってくると、ビールを一杯ひっかけ、頭に鉢巻を巻いて仕事モードに入る。体内時計が夜行性に設定されていたのだろう。

新人の著者に割り当てられた仕事は、「女ひとりの旅」という連載の編集作業だった。この企画は「日本列島の、いま現在を生きている人びとの実像」を「女性の視点で見、かつ記録する」ことをめざした。その第1回の筆者に白羽の矢が立ったのが、当時、新進作家として多忙を極めていた有吉佐和子だ。著者は、谷川と有吉邸を訪ねた。二人が作家の旅心をくすぐる様子には出版文化ののどかさがあり、新聞人としてはうらやましい限りだ。

このとき編集部が旅の行き先として提案したのが、大分県臼杵の磨崖仏(まがいぶつ)だった。「ダメ、ダメ!」と有吉。クリスチャンであっても仏を見にいくのはかまわない。「でもネ、私はホンモノしか認めない」――まがいはまがいでも「紛い仏」と勘違いしたのだ。著者は「磨崖仏」の3文字を手持ちのノートに大書して誤解を解いた。石仏の数は60体を超え、高さ3mほどのものもある、と聞いて有吉は大いに乗り気になった、という。

編集者泣かせは、想定外の事態が生じることだ。この企画でも、それが起こった。ある日、四ツ谷駅近くで聖イグナチオ教会の塔を仰ぐと、青空に白い雲が浮かんでいた。その形は、天使の翼のようだ。著者は、予感にとりつかれたように電話ボックスに飛び込み、有吉に電話した。「先生、しつこいようですが」と切りだし、臼杵行きの念押しをする。著者が「大天使ガブリエルが来てもですよ」とたたみかけると、「“受胎告知”? バカね」。

ところが、本当に大天使ガブリエルが舞い降りたのだ。「貴女って予言者?」。作家は身ごもった。創刊を数カ月後に控え、有吉佐和子臼杵の旅は大事をとって中止に。その子は無事に生まれた。作家、エッセイストとして知られる有𠮷玉青である。

著者はドタキャンに遭遇してもめげない。それならばこの人、と思いついたのが詩人の岸田衿子だ。旅先に選んだのは、「椰子の実」にまつわる柳田国男の逸話と島崎藤村の詩で有名な愛知県伊良湖岬だった。ここでも岸田邸を訪れる場面が詳述されている。

東京・谷中の岸田邸の描写。玄関の引き戸を開けると、「いらっしゃい」の声とともに「美しい詩人が、天蓋から下がる薄紅の花のれんの間から白い顔をのぞかせた」。貝殻草のドライフラワーが数えきれないほど垂れ下がっていたのだ。著者は貝殻草のチクチクを首筋に感じながら、伊良湖岬行きの話をもちかける。「渥美半島は、花々に埋もれています」と言い添えて。「花は嬉しいわ、いいわ」――この世ばなれした執筆依頼である。

このときもハプニングがある。家の奥から男が出てきたのだ。著名詩人の田村隆一ではないか。それはちょうど、詩人二人が共同生活を始めたころだった。伊良湖岬の話をすると「面白い」と言う。お願いしている相手は岸田さんだと釘を刺すと「分かっているよ、だからボクが付いていく」。結局は「新米」には「衿ちゃん」を「任せられない」という田村の意向に沿って、著者は伊良湖岬行きから外された。代わりに田村自身が同行したという。

これらの回顧に触れると、1960年代の出版文化は人と人との血の通った関係のうえに成り立っていたのだな、とつくづく思う。出版人が、書き手を選ぶ。選ばれたほうはそれをありがたがるでもなく我を通す。その構図は今も変わらないだろう。ただ今日では、ほとんどのことが電子メールのやりとりで決められるのではないか。本づくり、雑誌づくりから偶然の妙が消え、遊びもない、駆け引きもない、ただの事務手続きになってしまった。

この寄稿で著者は、初期「太陽」の誌面を振り返っている。「特集」を列挙すれば、創刊7月号が「エスキモー」、8月号が「タヒチ・マルケサス」、9月号が「沖縄」、10月号が「海の高砂族」……。表紙の写真をたどると、7月号が「西ニューギニア原住民の木偶の祖霊像」、8月号が「埴輪女子頭部」、9月号が「ナイジェリアの木彫騎馬戦士像」、10月号が「ペルーのチャンカイの人形壺」、11月号は「縄文時代後期の土偶」……。

「女ひとり旅」の行き先だけを挙げると、7月号「伊良湖岬」、8月号「萩」、9月号「大神島・池間島」、10月号「阿蘇山」、11月号「篠山」、12月号「男鹿半島」……。

一覧してわかるのは、「太陽」が向かうところ、国境もなければ、文明の境界線もないということだ。極寒の地もある、常夏の島もある、アフリカもある、南米もある、日本列島もある。日本列島については虫の目で細部に分け入っている感がある。

分け隔てがなく、飽くこともない知的好奇心。これこそが雑誌「太陽」の編集姿勢を、そして谷川民俗学を貫いた基本精神なのだろう。その様相は、専門領域を細かく分ける象牙の塔とは大きく異なる。まさに在野の知的活動を具現するものが「太陽」だった。
*1 「本読み by chance」2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、「地方」の豊饒
*2 「本読み by chance」2020年2月28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月27日公開、同月30日最終更新、通算628回
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ヴィアン、実存熱をジャズで笑う

今週の書物/
『うたかたの日々』
ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊

ピアノ

ジャズと実存主義は相性がいい。ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』には、主人公のロカンタンがキャフェでジャズのレコードを聴く場面が出てくる。その曲は、女性歌手がしゃがれ声で歌う“Some of These Days”(「いつか近いうちに」)だ。

このくだりについては、拙稿「サルトルを覚えてますか」(「文理悠々」2010年6月17日付、当時、朝日新聞ウェブサイトに連載)で話題にした。そのときに引用した一節を再引用しよう。「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く」。ロカンタンはそれをつかまえたいが、そうはいかないことも心得ている。「それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろう」

この体験は、ロカンタンに心地よさをもたらす。「〈嘔気〉の中のささやかな幸福」と呼べるものだった。しかも、歌が“some of these days……”というサビの部分にさしかかると、〈嘔気〉はどこかへ消えてしまう(白井浩司訳=人文書院版『嘔吐』による)。

実存主義は、人間を「実存が本質に先立つところの存在」とみる(*1)。これはジャズの楽曲が「つまらない、すぐに衰えて行く一音」の連なりであることに似ている。一つの音がリズムに乗って一つの歌になるように、人間も一瞬一瞬の〈投企〉によって人生をつくりあげていく――この相似関係ゆえに、実存主義はジャズと相性が合うのだろう。こうして両者は第2次大戦後のフランスで共振し、世界中の若者たちにも広がったのである。

では、2022年の今、ジャズと実存主義はどんな状況にあるだろうか。ジャズの心地よさは、人類に定着したと言ってよい。そのことは、私たちが日常の空間で聞き耳を立てていればすぐわかる。ショッピングモールであれ、ヘアカットの店であれ、居酒屋であれ、そこに小さな音量で流れるBGMはジャズ、ということが多くなった。私たちが若かった1970年代にはジャズはジャズ喫茶で聴くものだったのだが、最近は空気のように遍在する。

では、実存主義はどうか。「新実存主義」という更新版が、20世紀後半の科学の進展などを取り込んで提案されてはいる(*2、*3)。だが、かつてフランス知識人の心をとらえた左翼思想としての実存主義は見る影もない。今春のフランス大統領選挙をみると、左派そのものが衰退している。社会主義の退潮は世界的傾向だが、だからこそ実存主義が右派思想に正面から対抗してもよいはずだ。ところが、その気配はほとんど感じとれない。

で、今週は『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊)。著者(1920~1959)は、フランスの小説家。国立中央工芸学校卒の理系エリートで、エンジニアの仕事をしながら多分野で活躍した。創作のほか翻訳、批評も手がけ、ジャズのトランペット奏者、シャンソン歌手でもあった。この小説は1946年に書きあげた。本書の略歴欄によれば、死後に評価が高まり「現代恋愛小説の古典」になったという。

巻頭「まえがき」には、いきなり「ひとは集団になると間違いを犯す」が、「個人はいつだって正しい」という文言が出てくる。これが、フランス人の多くがナチスドイツに抵抗した直後に執筆されたことを思うと納得する。続けて著者は、人生で「大切」なものは「きれいな女の子相手の恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」であり、「ほかのものは消えていい」と言ってのける。実際、この作品では恋物語がジャズの軽快さで語られていく。

「まえがき」には、もう一つ奇妙な宣言もある。この作品について「全部が本当にあった話」と言いながら、「何から何まで、ぼくが想像した物語」と打ち明けているのだ。どういうことか。答えらしき説明もある。著者は創作にあたって、現実を「不規則に波打った歪みのある基準面」に「投影」したという。小説という表現形式に現実世界を虚構世界に移しかえる一面があるのは事実だ。それを理系風に味つければ、こういう言い方になるのだろう。

では、本文に入ろう。冒頭に「コランはおめかしを終えるところだった」とある。風呂あがり、バスタオルで体を巻いている。「爪切りを手に取って、目つきに神秘的な感じを出すために、くすんだまぶたの端をぱちんと斜めにカットした」――???だ。男子が目もとに化粧を施すことはあってよい。だが、まぶたを爪切りで切るなんて自傷行為だ。これが本当の話とは思えない。やはり、「何から何まで、ぼくが想像した物語」なのだろう。

読み進むうちに、コランは22歳男子であり、コック兼執事のような使用人を雇えるほど金持ち、ということがわかってくる。友人のシックに自慢げに見せるのが、発明したばかりの「カクテルピアノ」だ。鍵盤の一つひとつに各種酒類や香料があてがわれている。足もとの強音ペダルは卵を泡立てたもの、弱音ペダルは氷。曲を奏でれば、望みのカクテルのできあがりというわけだ。これも「ぼくが想像した物語」にほかならない。

この小説はなんでもあり――そのことを読者はあらかじめわきまえておくべきだろう。

私が驚いたのは、この「ぼくが想像した物語」が21世紀を先取りしていることだ。たとえば、コラン邸のキッチン風景。コックのニコラは「計器盤を見守っていた」。ローストターキーをオーブンから取りだす頃合いをうかがっているのだ。「ニコラが緑のボタンを押すと、味見センサーが起動した」。センサーがターキーに突き刺さり、計器の針が「ちょうどよし」を指した。五感がセンサーに取って代わられる時代への予感があったのだろうか。

この小説の筋は、このあとコランの結婚やシックの恋愛に突き進んでいくが、それは意表を突く出来事の連続だ。当欄は、そのほとんどをすっ飛ばして、シックが実存主義哲学者ジャン=ソール・パルトルの追っかけだったという一点に焦点を合わせようと思う。パルトルがサルトルのもじりであることは、だれでも気づくだろう。シックは、サルトルゆかりのものならば書物であれ物品であれ、手持ちの金を惜しみなくつぎ込んでいく。

シックが、恋人のアリーズらとパルトルの講演会をのぞく場面がある。偽造のチケットが市中に出回るほどの前人気。会場はごった返していた。後方には片足立ちの人もいる。そこにパルトルが、象の背に設えたハウダ(かご)に乗って登場する。「象は群衆を切り裂いて大またで進み、四本の柱のような脚がにぶい音を立てて人々を踏みつぶしながら情け容赦なく近づいてきた」――実存主義が人間を押しつぶすとは、なんという戯画化か。

パルトルは演壇で講演の準備に入る。そのしぐさには「恐るべき魅力」があり、聴衆のなかには「失神」する女性もいた。まるで往年のロカビリーブームのようではないか。

このときシックは「大きな黒い箱」を持ち込んだ。録音機だ。1940年代だからテープレコーダーということはない。レコード盤に音を刻むのだろう。女友だちの一人が言う。「いいアイデアねえ……」「講演を聞かなくてもすむわね!……」。シックも「家に帰ってから一晩中でも聞けばいいんだ」と答え、レコード会社に掛けあって「商品化」してもいい、という思いつきまで口にする。実存主義を量産品にしてしまうあたりも、時代の先取りだ。

ちなみに、この催しはパリで1945年10月にあったサルトルの講演会「実存主義はヒューマニズムである」をモデルにしているという。現実の講演は、当欄が去年とりあげた『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)で追体験できる。聴衆との対話などを通じて、実存主義がマルクス主義とどう違うかを際立たせていた。(*4、*5)

さて、シックは書店で、パルトルの『文字とネオン(レトル・エ・ル・ネオン)』という本を見つける。中身は「電飾看板についての批評的研究」とされているが、これも『存在と無(レトル・エ・ル・ネアン)』のもじりだ。ここでシックは、本の表面にパルトルの指紋まで見つける。日ごろから「指紋採取パウダー」や『模範的警察官便覧』を持ち歩いていて、その小道具を使って検出したのだ。この話にもオチがあるのだが、ここには書かない。

書店主は、パルトルのズボンやパイプも売り込む。ズボンは本人が講演中、自分でも気づかないまま脱がされたものらしい。さらに『嘔吐百科全書』全20巻の原稿も書店に入荷できそうだ、とも思わせぶりに言う。シックは全部をほしがるが、手が出ない……。

この小説は、実存主義のブームを徹底的に笑い飛ばす。ところがその同じ著者が、ジャズを語るくだりでは居住まいを正しているふうだ。たとえば、アルトサックス奏者ジョニー・ホッジスの演奏については「天上的な何かがあった」「説明のできない、完璧なまでに官能的な何か」「肉体から自由になった、純粋状態の官能性」――といった言葉が書き連ねられる。この本の注によると著者はジャズ批評家でもあったようで、その面目躍如だ。

コランがカクテルピアノを骨董屋に売りにだす場面では、骨董屋がデューク・エリントンの「ヴァガボンドのブルース」を弾く。著者はそれを「バーニー・ビガードのクラリネットの真珠を転がすような響きにも劣らない天上的な音色が舞い上がった」と書く。エリントン楽団員ビガードのクラリネット演奏を真珠の転がりにたとえ、骨董屋のピアノ演奏は、それに比肩するほど「天上的」というのだ。ジャズのことは実存主義のようには茶化さない。

この理由を考えるとき、巻末の訳者解説が参考になる。訳者によれば、著者の作品に登場する若者たちは、若い世代が「反体制」的であることが当然視された時代に「政治的意識」と無縁だった。「趣味」に耽り、「消費生活」に浸り、友人関係は「狭い範囲」にとどめている。この行動様式は、たぶん著者自身の生き方に重なっているのだろう。著者にとって、「反体制」熱に浮かされた実存主義ブームはパロディのネタでしかなかった。

私見だが、主人公のコランも、そして著者のヴィアンも、ジャズを愛することで真に実存的だったように思える。「本当にあった話」を「ぼくが想像した物語」に転化する軽快さは即興演奏にも似ていて「肉体から自由になった」実存に近づいているのではないか。

最後に一つ、訳者解説から仕入れた余話を紹介すれば、サルトルは、この作品でパルトルが風刺されていることを大いにおもしろがったという。ブームとしての実存主義をもっとも冷静に見ていたのは、あるいはサルトル自身だったのかもしれない。
*1 当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する
*2 「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか
*3 当欄2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する
*4 *1に同じ
*5 当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月20日公開、通算627回
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あるべきものがあるアメニティ

今週の書物/
『歴史的環境――保存と再生』
木原啓吉著、岩波新書

町並み

この季節、古巣の新聞社から元社員にも届く「社内報」は、新入社員の顔であふれ返る。入社式での決意表明、横顔紹介……。紙媒体を背負いながら、デジタルメディアを切りひらく。そんな大仕事が、この人たちには待ち受けているのだ。大変な時代によくおいでいただいた――古巣を代弁して、正直そう思う。私が入社した45年前は新入社員、とりわけ編集部門の新米記者が業界の行く末を心配することなど、ほとんどなかった。

あのころ、新聞記者を志す者の多くには、記事を書くことで世の中を変えたいという野心があった。それは、私利私欲とは別ものだったと言えよう。記者の給与は悪くはなかったが、生活の安定をめざすなら別の業界があった。記事はほとんど無記名だったから、目立ちたがり屋の下心をくすぐることもない。金銭欲でもない。売名欲でもない。ただ自分の記事で社会に一石を投じたかったのだ。今思えば、傲慢なことではあるのだが……。

では、私は世の中をどう変えたかったのか。理系教育を受けたので、応募書類には科学部門を希望する旨を記したが――そして実際に科学記者になったわけだが――当時の関心事は科学ではなかった。若者には左翼志向が強い時代だったが、私にはそれもなかった。入社試験のグループ討議で「幸福とは何か」という課題が出され、「幸福」を社会主義思想に結びつけて論じる受験者が目立つなかで、私はその議論に乗らなかった。

では、私がグループ討論で「幸福」の代名詞として挙げたのは何だったか。それは「アメニティ」だ。この言葉は直訳すれば「快適さ」ということになるが、1970年代には都市景観を語るときのキーワードになりはじめていた。そのころ、私が暮らしていた東京郊外は雑木林や畑地の緑が宅地などの開発で一掃されつつあったが、その変遷を目の当たりにして都市の心地よさとは何だろうかという問題意識を抱いていたのである。

「アメニティ」は、都市問題の専門家によって“The right thing in the right place”と表現されることがある。日本語にすれば「あるべきものがあるべき場所にある」ということだ。私はグループ討議で、この発想に立って議論を展開した。駅前の広場に大きな樹木が1本、葉を繁らせている。その木陰では老人が一人、ベンチに腰かけている。周りでは幼子たちが遊んでいて、いつのまにか老人と友だちになる。そんな光景に幸福はある――と。

で、今週の1冊は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)。著者はこの本の刊行時、千葉大学教授。略歴欄には「環境政策・都市政策」専攻とある。ただ、本人が「あとがきに代えて」で打ち明けているように、1981年まで30年近く朝日新聞記者だった。1970年代には歴史的環境の保存再生問題を連載記事にしていた。私は学生時代、それを熟読した。「アメニティ」という言葉は、その記事で知ったのである。

記事が連載されたころ、著者は「環境問題」担当の編集委員だった。あの当時、「環境問題」と聞いて地球環境を思い浮かべる人は少数派。私たちの頭にまず浮かんだのは、高度経済成長の裏側で進行した公害だった。次いで開発がもたらす自然破壊が批判され、ついには町並みが壊されることにも目が向けられるようになった。ここに至って「歴史的環境」という概念が確立する。著者は、この流れをいち早くつかみとったジャーナリストだった。

では、歴史的環境はアメニティにどう結びつくのか。著者はこの本で、英国の著名な都市計画家ウィリアム・ホルフォードの考え方を紹介している。それによれば、アメニティとは“The right thing in the right place”の心地よさをつくる「複数の総合的な価値のカタログ」であり、そこには「歴史が生み出した快い親しみのある風景」も含まれる。アメニティを重んじる思想は、英国では「住民共通の血肉化した価値観」になっているという。

そのことは、英国の「ナショナル・トラスト運動」をとりあげたくだりを読むとよくわかる。ナショナル・トラストはロンドンに本拠を置く民間団体で1895年に設立された。「国民自身の手で」「自然や歴史的建造物」を「保護管理する」ことをめざしている。そのために、当該不動産を譲り受けたり買い取ったりする。1982年時点の会員は約104万人、会費は年10ポンド(当時の円換算で5000円弱)であると著者は記している。

その「資産目録」には、「森林」「草原」「荒地」「湖沼」に交ざって「遺跡」「古城」「教会」「修道院」「領主館」もある。「農地」「牧場」「公園」「庭園」もあれば「水車小屋」「納屋」まである。自然の産物か人工物かを問わず、風景に価値を見いだしているのだ。

この本は、文化遺産の守り方が第2次大戦後の経済成長期に一変したことを強調している。単体の建物を「点としての文化財」ととらえるのではなく、建物の集まりを「面としての歴史的環境」とみて重んじるようになった。この変化は洋の東西に共通するという。

国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の設立につながる1964年の「ベネチア憲章」は、歴史的記念物は「単一の建築作品」だけではない、と明言した。「特定の文明」や「事件の証跡」などを具えた「都市や田園の環境」も含むというのだ。著者によれば、これは「草の根の庶民の生活する生活環境こそが歴史的環境」とみる思想をはらんでいる。水車小屋や納屋のある風景を歴史的環境とみなす考え方とも、軌を一にしているといえよう。

点ではなく面を、という発想は私にもしっくりくる。そのことを痛感したのは、東京・国立競技場の建てかえ問題だ。最初に選ばれた案は「単一の建築作品」としては斬新で、魅力もあった。だが、それが彼の地にふさわしいかどうかは別の話だ。そこには1943年の学徒出陣壮行会という刻印がある。1964年東京五輪の記憶もある。戦争と高度成長の残影のなかに新競技場を置いてみる、という発想はあまり感じられなかったように思う。(*)

この本で見逃してならないことは、もう一つある。歴史的環境の保存再生では「再生」の比重が大きいということだ。たとえば、ドイツ(この本では「西ドイツ」)南部の小都市ローテンブルクは「中世以来の町並みを、ほぼ完全な形で復元した」。第2次大戦末期の空襲で市内の建物は半分近く失われたが、それを元に戻したのだ。背景には「中世以来、たびたび戦火を受けて」「復元をくりかえしてきた」市民たちの伝統がある、と著者は言う。

これを読んでわかるのは、「面としての歴史的環境」の尊重が1960年代に叫ばれた理由だ。古来、町や村は戦火や大火で幾度となく破壊の憂き目に遭ってきた。ただ、そのたびに元と変わらない風景が再現されたのは、建築土木の技術革新が緩やかだったからだろう。ところが20世紀、壊れた建造物は、放っておけば鉄とコンクリートと新建材のかたまりに置き換えられる宿命にあった。意志をもって「復元」する必要が出てきたのだ。

この本では、長野県にある中山道の宿場町、妻籠宿の「復元」も詳述されている。妻籠は町並み「保存」の成功例と言われることが多いが、実は「復元」の側面があった。1967年、建築史学者太田博太郎氏のグループが町並みの現状を調べ、聞き取り調査もして、古文書や古図を漁った。改造された家が多かったので、沿道の1軒ごとに住人と相談を重ねて図面を引き直し、「正面から奥行き一間をできる限り復元するようにした」という。

「復元」にからんで複雑な思いにかられるのは、この本に東京・丸の内の「三菱旧一号館」が出てくることだ。英国の建築家ジョサイア・コンドルの設計で、「飛鳥時代の法隆寺にも比すべき明治時代の代表的建築」(太田氏)とまで言われていた。ところが三菱地所は1968年、再開発のため、保存を求める声を押し切って解体した。著者はこの本で「建物のイメージを保存するような何らかの工夫」があるべきではなかったか、と批判している。

ところが2009年、驚くべきことが起こる。三菱地所が同じ場所に、旧一号館そっくりの「三菱一号館美術館」を建てたのだ。これも「復元」ではある。ただ、自分で壊して自分で元に戻すという自作自演からは、アメニティの思想よりも資本の論理を感じてしまう。

さて、新聞記者になってアメニティの記事を書きたい、という私の初心は実らなかった。だから今、一個人として叫ぼう。あるべきものはあるべき場所にあれ、と。
*当欄2021年7月23日付「1964572021の東京五輪考参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月13日公開、同月16日更新、通算626回
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ウィーンでミューズは恋をした

「ココシュカ 風の花嫁」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈濃いめ〉

ウィーンは、ただの芸術の都ではない。芸術革新の都でもあった。19世紀末から20世紀初めにかけて、繁栄と貧困が混在する帝都に絵画や建築の新潮流が起こる。分離派である。官能の画家グスタフ・クリムトも、その旗を振った。そんなことを先週は書いた。(*)

分離派の運動は、芸術分野で旧時代と切り離された新時代の作品群を生みだそうというものだった。それで気づくのは、同様の動きが別分野にもあったことだ。分離派よりもやや遅れて1920~1930年代、学術分野に旋風を巻きおこしたのが「ウィーン学団」だ。

ウィーン学団は、ウィーン大学を拠点に文系理系の研究者が専門の違いを超えて議論をたたかわせた学者集団である。形而上学を排して哲学の科学化をめざし、論理実証主義を重んじた。物理学者であり、哲学者でもあるエルンスト・マッハの影響を強く受けている。

ここまでのことでわかるのは、ウィーンはオーストリア・ハンガリー二重帝国の末期、芸術と学術の坩堝であったことだ。その片鱗をうかがわせる記述は、先週とりあげた記事「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1985年8月4日付)にもあった。当時の帝都には、性を禁忌とする表の顔と性に耽溺する裏の顔があったが、その「二重基準」と向きあった科学者に精神医学のシグムント・フロイトがいたという。

そんなウィーンの空気が横溢するのが、同じ連載の別の回「ココシュカ 風の花嫁」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1987年2月8日付)という記事だ。これも、『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)で読むことができる。オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリア出身の画家、「風の花嫁」は彼が1914年に仕上げた油彩画である。

「風の花嫁」に描かれた女性のモデルは、アルマ(1879~1964)だ。記事に姓はない。彼女の人生を語るときに姓が馴染まないからだろう。父親は貴族の家系に連なる画家だったが早逝、その後、母は父の弟子と結ばれる。自身も長じてから、結婚を3回経験している。だから、彼女の生涯を一つの姓で括ることには無理があった。いや、それだけではない。アルマ自身が家に縛られることのない自由な生き方を追求していたのである。

アルマの恋人や夫たちを並べてみると、その顔ぶれに驚く。初恋の相手は、当欄が先週とりあげた絵描きのクリムトだった。ただ、この恋は、アルマの母親が割って入って打ち切られる。母は娘の日記を盗み見て「早すぎる」と判断したのだ。最初の結婚相手は、すでに名声を博していたオーストリアの作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーだ。二人の結婚生活は8年間続き、子どもにも恵まれたが、マーラーの病没によって終止符が打たれた。

二人目の夫は、ドイツで活躍していた建築家ヴァルター・グロピウス(記事の表記では「グローピウス」)だ。モダニズム建築の巨匠である。三人目はオーストリアの詩人で、劇作家、小説家でもあるフランツ・ウェルフェルだ。アルマの恋人や夫たちが打ち込んだものは、絵画、音楽、建築、そして文学。芸術のほぼ全領域を覆う。別々の分野でそれぞれ大仕事をしていた芸術家たちが同じ一人の女性に魅せられたという事実には圧倒される。

ウィーンの芸術家人脈は科学者人脈にもつながっていた。たとえば、マーラーはフロイトに接触している。夫婦仲がギクシャクしていることに悩み、精神医学にすがったのだ。もともとの原因は、マーラーが結婚当初、音楽の才能に秀でたアルマの作曲活動を認めようとしなかったことにあるのだが、彼は精神分析を依頼した。夫は妻に母親像を追い求め、妻は夫に父親像を見ようとしている、というのがフロイトの見立てだった。

で、今回の本題。アルマを取り囲む華麗な人脈でとりわけ輝いて見えるのが、「風の花嫁」の作者ココシュカだ。見かけのうえでは、アルマの最初の結婚と二番目の結婚の間で中継ぎの恋愛相手を務めたに過ぎない。だがその関係は、短くとも強烈なものだった。

ココシュカは1912年春、アルマ邸に呼ばれる。肖像画の発注を受けたのだ。マーラーは前年に亡くなっている。アルマは喪服姿だった。横顔のスケッチが始まる。「深く澄んだ目。通った鼻筋。ふくよかな成熟を示すほお」。アルマはピアノを奏でる。ココシュカは、その姿を描きとめようとした。瞬間、咳き込み、ハンカチを口に当てる。血がにじんでいた。この出来事に「ココシュカはいきなりアルマを抱きすくめ、逃げ去った」という。

こうして二人の恋が始まる。アルマ32歳、ココシュカ26歳。ココシュカは斯界では「強烈な表現」や「挑戦的な言辞」で知られた存在だった。アルマに対しても、いきなり「生涯の伴侶(はんりょ)になって下さい」と書いた手紙を送る。本人は求婚のつもりだったようだが、アルマはこれを求愛とだけ解釈して受け入れた。こうして二人は2013年、スイスとイタリアに旅行する。このときに着想されたのが「風の花嫁」だった。

その絵は、深い青を基調にしている。荒波の海だ。風が吹いている。一組の男女が小舟に揺られ、横たわっているように見える。女性が男性の肩に頬を寄せているから、恋人同士なのだろう。女性は「うっとり」目を閉じている。これに対して、男性の「虚空にすえたまなざし」は「不安とも悲愁ともつかない色」をたたえている。ココシュカは、恋愛の絶頂期でも不吉な予感を拭えなかったのだろう。そして現実も、その通りの展開となる――。

1914年、アルマはココシュカの子を身ごもる。ココシュカは子をほしがったが、アルマは産まなかった。この年、第1次世界大戦が勃発する。ココシュカは結婚の望みを絶たれ、志願して軍隊に入った。このとき「風の花嫁」を売り払い、その代金で馬を買いつけて出征したという。絶望感が深かったのだろう。一方、アルマは翌年にはグロピウスの妻となっている(この結婚年は、ウィキペディア英語版=2022年4月24日最終更新=による)。

筆者外岡は、この失恋の理由をココシュカ資料保管所長のウィンケラー氏から聞いている。氏の見解によれば、ココシュカもアルマに「母親像」を見ようとしたが、アルマが欲したのは「自由」と「旅」だった。「風の花嫁」はもともと「情熱的な赤の色調」だったが、それを「憂いを含む青ざめた色調」に塗りかえていったという。ここまでなら、年下のマザコン男が年上の恋多き女にふられる話だ。だが、この顛末はそれにとどまらない。

外岡はウィーンのカフェで、アルマの孫にも会っている。マーラーとの間にできた子どもの子で、名は祖母と同じアルマだ。夜泣きしても「祖母の姿を見ただけでぴたりと泣きやんだ」という幼時体験を披露しつつ、祖母を「さまざまな芸術家に霊感を与えたミューズ」と位置づけた。ウィンケラー氏も同じ言葉を用いて、アルマがココシュカの求婚を拒んだ深層心理を読み解く。「彼女は、ミューズの地位を失うことを恐れたのかもしれない」

ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる9人姉妹の女神たちのことだ。詩神と呼ばれたりもするが、もともとはあらゆる知的営みをつかさどる存在を指したという。だから、祖母アルマに「ミューズ」を見いだした孫アルマの目は的を外していない。

この記事を読むと、当時のウィーンでは芸術や学問の濃度が比類ないほど高かったことを実感する。高濃度だから、ミューズを結節点とするネットワークが生まれたのだ。
*当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月6日公開、通算625回
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ウィーン、光と翳りとアドルフと

今週の書物/
「クリムト 接吻」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈薄め〉

あのころに見ておきたかったなあ、という絵がある。19世紀末から20世紀初めにかけて欧州の画壇に新風を吹き込んだオーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の作品群がそうだ。1990年代のロンドン駐在時代、ウィーンに出張する機会は幾度かあったが、仕事の合間に美術館をのぞく時間はなかった。夏休みや冬休みに見にゆく手もあったが、家族旅行の立ち寄り先としてクリムトの絵は優先順位が高くはなかった。

クリムトの絵と言えば、女性のエロティックな姿が目に浮かぶ。ただし、それは解毒され、気品が漂っている。あの沈潜した色調のせいだろうか。あるいは、捻りがきいた構図がもたらす効果なのか。いずれにしても、従来の絵画世界にない何かがそこにはある。

この画家が「ウィーン分離派」創始者の一人とされていることも、彼の絵に心惹かれるようになった理由の一つだ。「分離派」と聞くと、私は建築をすぐに思い浮かべてしまうのだが、この用語は実は分野の垣根を超えた一群の芸術家を指すものだった。美術作品であれ、建造物であれ、旧来の様式から離れて新しいものをつくろうというのが分離派の芸術運動だ。19世紀末、オーストリアやドイツで台頭した。その源流にクリムトがいたことになる。

建築について言えば、分離派の作品群はギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック……と続く歴代の建築様式が国際様式と呼ばれるモダニズム建築にとって代わられる端境期に現れた。型にはまらず自由、重厚というより軽快――そんな印象を受けることが多いので、私は好きだ。それは、クリムトの絵画にも通じる。あの沈潜した色調も、捻りがきいた構造も、絵画界での様式離脱の産物と言えるのだろう。

で、今週は、そのクリムトの絵について書いた文章を読む。『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)所収の「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆)だ。朝日新聞日曜版1985年8月4日付紙面に載った記事の文庫版再録である。著者は1953年生まれの朝日新聞記者(当時)。去年暮れ、病に倒れて死去した。その人となりは今年2回、当欄で触れている。(*1、*2)

中身に立ち入る前に「世界 名画の旅」という企画について説明しておこう。これは1980年代半ば、朝日新聞が日曜版の目玉商品として始めた連載。日曜版がカラー刷りだったことをフルに生かして、世界各地の美術館などに所蔵された絵画を大きく載せ、その作品にまつわる話題を掘り起こして記事にするというものだった。執筆陣は、筆力がある名うての記者ばかり。バブル経済崩壊前のことなので海外出張にも潤沢な予算がついたようだ。

「クリムト 接吻」の書き出しも紀行文風だ。ウィーンの町並みを見物するには市電の環状線に乗ればよい、という話から始まる。約40分で旧市街を1周。この路面電車の通り道が「リング通り」だ。「窓からは、ハプスブルク帝国期に建てられた荘重な建物のシルエットを眺めることができる」。劇場、大学、市役所、議事堂、王宮、博物館、美術館……。この道路は1857年、当時のオーストリア皇帝の意向を受けて建設が始まった。

皇帝は何を望んだのか。もともとリング通り一帯には「旧市街を囲む城壁」があった。それをあっさり取り壊して「強大な帝国の威光を示す建物」を次々に配置していく。30年ほどかけての大事業。中世の城郭都市を近代の帝都につくりかえたかったのだろう。

このリング通りのことは、私も『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)を紹介したときに触れている。この本は、それを「分離派」と関係づけていた。ここでは、拙稿のその一節をそっくり引用しよう。

《当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという》(*3)。皇帝の近代はしょせん、旧時代の様式をなぞるものだった。そうではない本当の近代を分離派は求めていた。

では、分離派クリムトは画家として、どんな近代をめざしたのか。「接吻」という作品に沿って考えてみよう。この絵では、肩を露わにした女性が花園に立ち、男性の接吻を受けている。目を閉じてうっとりした表情、体にぴったり合った着衣が官能的だ。不思議なのは、男性の足が地についていないことだ。そう思って見ると、女性は横たわっているようでもある。二人をくるむように描かれた模様がベッドを覆う布の柄にも見えてくるではないか。

「接吻」記事はこう読み解く――。絵が「官能を大胆に描きながら、不思議にみだらさを感じさせない」のは「『死』のイメージ」が「放逸な悦楽」を粉砕しているからだ。「悦楽に沈む女性」は「つま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているかに見える」。ここで「絶壁」とあるのは、花園が画面右側で途切れているからだ。「途切れる先に広がる金色の奈落――それは、ウィーンが置かれた現実そのものだった」とある。

「接吻」が描かれたのは1907~1908年。そのころ、ウィーンは華やかさの陰で「死の病に侵されていた」。帝国の支配は民族主義のうねりを受けて崩れそうだった。帝都にも経済格差の亀裂が走り、リング通りの外側には、内側の繁栄と隣り合わせの貧困があった。

「接吻」記事は、クリムト作品の「官能」が19世紀末~20世紀初めに「もてはやされた」理由を探っている。着目するのは「性に対する意識」だ。記事によると、帝都には表向き「性」に触れない空気があった。その裏で、街には売春行為など「性」があふれていた。リングの内外に繁栄と貧困があるように、「性」にも二重性があったのだ。クリムトの絵は、上流階級の気品漂う世界にも実は官能が潜むことを強調しているように見える。

記事のもう一つの読みどころは、この時代にこの都市で画家を志した二人の青年を対比させていることだ。二人には、ウィーン美術アカデミーの入試を受けたという共通点がある。一人は1906年に合格した。後にクリムトの弟子となるエゴン・シーレだ。「死と少女」などの作品で知られる。もう一人は1907年と1908年に受験したが、合格できなかった。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。やがて独裁者となるあの人である。

記事の筆者外岡がすごいのは、シーレ青年とヒトラー青年がウィーンで住んだ場所をすべて見てまわったことだ。どちらも転居を繰り返したようで、居住先はそれぞれ6カ所ずつ。1908年には、二人の住まいが300mの近距離だったこともある。面識はなくとも「人込みの中で視線を交わしたこと」くらいはあっておかしくないという。もう一つ興味深いのは、二人とも最初と最後の住まいがリング通りの外側にあったことだ。

実際、「リングの外」は二人に影響を与える。ただ、その方向はまったく異なっている。

シーレは美術アカデミーを退学して「リングの外」の労働者街に住み、貧しい人々をモデルに絵筆をとった。ウィーンの世情は、リング内側の虚飾が剥げ落ちる時代にさしかかっていた。そこで「当時の美術の主流だった装飾的な要素を捨て、切り込むように赤裸々な人間を描いた」のである。これは、クリムト作品がリング建設期の余韻を漂わせているのと対照的だ。「接吻」でも、官能は装飾性のある衣服や花畑に包まれていた。

ヒトラーも、「華麗なウィーンの幻影の裏に潜む悲惨」を目の当たりにしたところまではシーレと同じだ。だが、そのウィーンに憎しみを募らせ「腐敗の根源にユダヤ人がいる」という妄想にとらわれる。これが人類史に刻まれる残虐行為の駆動要因となった。

この記事には、ヒトラーの絵画作品が1点載っている。1907年ごろ、リング通りをやや上方から見通した水彩画だ。遠近法に従っているのに平板。陰翳がほとんどない。このありきたりな絵の描き手が、世界をあのような悪夢に陥れたとは――。一瞬、背筋が凍った。
*1当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 「本読み by chance」2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月29日公開、通算624回
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