フランクリンにみる米国の原点

『フランクリン自伝』
ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊

アメリカの味

今年は、米国の年だった。いや、米国に幻滅した年だったと言うべきか。米国の出来事に思いをめぐらせる機会は、いつになく多かった。だが、たいていはあきれ、げんなりさせられて、もの悲しくなることもあったのだ。極めつけは、大統領選挙。現職大統領が相手候補を口をきわめて罵る姿は、私たちが憧れ、ときにうらやましく感じていた米国人の美学とは、まったく相反するものだった。あのアメリカらしさはどこへ行ったのか?

コロナ禍が、それに追い打ちをかけた。感染の波を抑えられなかった、という結果をどうこう言うつもりはない。医療現場で医師や看護師、検査技師たちが果敢に任務をこなしていることもわかっている。私がアメリカらしくないと思うのは、あれほどの事態に陥りながら平然とマスクをしないでいられる人々が大勢いたことだ。マスクは鉄壁ではないが、感染の確率を確実に減らせる。その合理主義がどこかへ消えてしまった!

もちろん、米国にも反科学の精神風土があることはわかっている。ダーウィン進化論を宗教心から信じない人がかなりいる、とも言われている。だが、そうであっても実践の局面では理にかなった行動をとる――それが米国流だと思っていたのである。

で今回は、私がこれぞ米国流と思ってきた行動様式の水源を1冊の本から探っていこう。『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)。著者(1706~1790)は、米国の独立・建国運動を率いた政治家の一人。それだけではない。もともとは実業家であり、理系の探究心も豊かだった。雷の正体が電気だと見抜いたのだ。欧州からは離れたところで近代精神を体現した人と言えるだろう。

この自伝によれば、フランクリンは1706年、ボストンで生まれた。10歳で学校をやめ、父が営むろうそく・石鹸の製造業を手伝ったり、従兄のもとで刃物職の修業をしたり、兄が始めた印刷所で「年季奉公」したりした。17歳のとき、ニューヨーク経由でフィラデルフィアに移り、ここで印刷工の職を得る。さらに18歳で英国ロンドンへ渡り、そこでも同じ仕事に就いた。今はやりの言葉で言えば、たたき上げの苦労人ではあったのだ。

20歳で帰米、フィラデルフィアで元の勤め先に戻るが、まもなく同僚と組んで、活字や印刷機など備品一式を取り揃えて開業する。1728年のことだ。20代前半での独立は、今の感覚で言えば早いが、この時代では当たり前のことだったのだろう。

フランクリンがふつうの青年とは異なっていたのは、知的好奇心の強さだ。それはオタク的な興味にとどまっていない。1727年秋の思い出として、次のような記述がある。「私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントーと名づけて、金曜日の晩を集りの日にしていた」(「ジャントー」は「徒党」「秘密結社」の意との注が挿入されている)。20歳そこそこで、知的集団を主宰したのだ。

フランクリンはこの自伝で、ジャントー・クラブ会員の人となりも詳述している。当初の会員には、独学の数学者がいた。放浪中の英オックスフォード大生がいた。学徒ばかりではない。測量の専門家も、指物師も、商家の番頭もいた。集いでは会員が一人ずつ、倫理・政治や自然科学の話題を提供してみんなで議論する。3カ月に1本は論文を書くという決まりもあったという。この本気度はサロンの域をはるかに超えている。

ここから見えてくるのは、植民地時代の北米では、貴族でもなく、大富豪でもない人々が文化活動の主役でありえたことだ。総勢12人と決めて始めたので、会員数はふやさない方針だったが、会員たちがそれぞれ独自にクラブをつくることを認めたので、一つのネットワークができあがったようだ。フランクリンは、ジャントー・クラブが地元ペンシルヴェニアで「もっともすぐれた哲学・道徳・政治の学校」になったと誇っている。

実際、これはやがて大学(現・ペンシルヴェニア大)創設という大事業に結びつく。1749年、その準備に着手したとき、フランクリンが真っ先に思い立ったのは、ジャントー・クラブの会員を中心とする友人たちに協力を呼びかけることだったという。

印刷は、表現の手段ともなる。フランクリンは1729年、「ペンシルヴェニア・ガゼット」という新聞の発行に乗りだしている。紙面では論陣も張った。マサチューセッツ植民地で知事と議会が対立すると、そのニュースに飛びついて「威勢(いせい)のいい批評を書いて載せた」。これで、識者たちの「ガゼット」紙に対する関心が高まったという。こうしてメディアを通じて自らも政治言論にかかわり、論客にもなっていくのである。

この年、匿名で執筆した小冊子が『紙幣の性質と必要』。世の中の紙幣増発を求める声を受けて、富裕層の増発反対論に一撃を加えるものだった。それは、「巻パンをかじりながらフィラデルフィアの往来をそこここ初めて歩き廻った頃」の記憶にもとづいていた。当時の町はさびれていたが、紙幣が発行された後、商取引や住民数がふえた――そう実感したからこその増刷論だった。フランクリンは、皮膚感覚を大事にする人だったことがわかる。

紙幣増発案はこの小冊子も一役買って、州議会で可決されたという。議会内からは、その「功績」に「報いる」との理由で紙幣はフランクリンに刷ってもらおうという動きが起こって、実際に受注したらしい。自伝では「とても割りのいい仕事で、おかげで私はたいへん助かった」と打ち明けている。この時代には競争入札制度が整っていなかったのだろう。彼の増発論に利権を得ようという魂胆はなかったと信じたいが、ちゃっかりはしている。

ここで、フランクリンの自然科学者としての足跡もたどっておこう。自伝では、自分が10代から理神論者であったことを明言している。神の存在は受け入れるが、自然界のものごとは自然法則に従うという立場だ。17~18世紀欧州の啓蒙思想の影響が見てとれる。

雷をめぐるあの危険な実験については意外な史実があった。自伝によると、フランクリンはたしかに「稲妻(いなずま)は電気と同一」との説を唱えたが、このときに提案した検証実験、即ち「雲の中から稲妻を導き出す」ことをやってのけたのはフランスのグループだというのだ。その先行の試みを認め、「まもなく私がフィラデルフィアで凧(たこ)を使って行った同様な実験に成功して限りなく嬉しかった」と記している。公正な態度である。

フランクリンは、オープン・ストーブも発明している。その方式では、暖房の効率を高める工夫が凝らされていた。自伝は、知事が一定期間の専売特許の付与をしようともちかけたが、それを辞退したことを明かしている。英国ロンドンの業者が類似品を考案し、特許を得てひと儲けしたとの話を伝え聞いても、彼は動じない。「われわれは他人の発明から多大の利益を受けている」「特許をとって自分が儲けようという考えはない」というのだ。

私が感動したのは、造船について論じたくだりだ。当時は帆船の時代だが、それでも設計時には速さが追求されたらしい。ところが、「快速船」が航海に出ても遅いことがある。フランクリンは、その一因として「船荷の積み方、艤装(ぎそう)の方法、操縦法(そうじゅうほう)に関する考えが海員によって異る」ことを挙げている。技術を、つくり手のつくり方だけでなく使い手の使い方まで含めて考えよう、というシステム思考の視点がある。

この自伝では、ところどころでアフリカ系の人々、あるいは北米に先住する人々に対する偏見が見てとれる。フランクリンがしたたかに宗主国英国の植民地支配に抵抗する話が出てくるが、今のものさしでとらえ直せば、彼もまた支配する側にいたことになろう。

ただ、米国建国の立役者たちが新しい文化の種を撒いたのはたしかだ。草の根の知的活動、実生活直結の探究心――ひとことで言えば、プラグマティズム(実用主義)だろうか。そこにこそアメリカのアメリカらしさがある。それが今は見えない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月6日公開、同月8日最終更新、通算547回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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アガサで知る英国田園の戦後

今週の書物/
『予告殺人』
アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊行

お茶の時間

戦後という言葉は今、若い世代の心にどう響くのだろうか。たぶん、「センゴ、what?」という感じではないか。先の大戦の痕跡がほとんど消えているのだから、当然かもしれない。ただ、一つ言っておきたいのは、戦後は戦中とは切り離された時代区分であることだ。

こんなふうに思うのも、私が昭和20年代(1945~1954年)生まれであり、若いころは戦争を知らない子どもたちと言われたからだろう。たしかに戦争は知らない。でも、戦後は知っている。それは、明るかったが闇がある、闇はあったが明るい――そんな印象か。

今の一文で、「明」と「闇」2文字のどちらに重きを置くかで、ちょっと迷った。あれほどの大戦の後なのだから「明」を強調するのは不謹慎ではないか。そうは思う。だが、私たちの世代には「明」のほうがピンと来る。

ふと思いだすのは昭和30年ごろ、私が親類宅の庭で遊んでいたときのことだ。上空を巨大な飛行機が通り過ぎていった。銀色の機体がまぶしかった。そのとき、傍らの伯母が「アメリカの輸送機だわ、きっと」とつぶやいた。あのころは米軍機が東京上空を頻繁に飛び交っていたのだ。伯母が「アメリカの…」と言うとき、彼女の心には戦中の記憶が去来していたのだろう。だが私にとって、それはガイジンが乗るピカピカの飛行機に過ぎなかった。

戦後はたしかに明るかった。そのことは『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)をみてもわかる(「本読み by chance」2020年3月6日付「サザエさんで終戦直後の平凡を知る」)。それは、「闇」をはらむ「明るかった」なのかもしれないが。

で、今週は、海外の戦後をミステリー作品から嗅ぎとることにする。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊)。描かれるのは、英国田園地帯の戦後。戦勝国なので、敗戦国の世相とは大きく異なる。だが戦争は、負けた側だけでなく、勝った側にも混乱を引き起こす。その結果、「明るかったが闇がある」が、ここにも顔を出すのだ。著者は、その空気をミステリーの作中に吹き込んだ。

小説の舞台は、チッピング・クレグホーンという名前の小村。作品のなかで地元警察署長が口にする言葉を借りれば「広々とした絵のように美しい村」だ。「かなりの数の建物がヴィクトリア朝時代に建てられたもの」(署長)で、高級感が漂う。かつて農場の働き手の住まいだった家も改築され、年配の人々が住んでいたりする。当時の労働党政権の政策「ゆりかごから墓場まで」に支えられた高齢世代のゆとりがここにはある。

余談だが、作中には「セントラルヒーティング」という言葉がしばしば出てくる。英国の家々で暖房方式が変わり、暖炉が飾りものになったのはこのころだったのだろう。

小説の冒頭は、新聞配達の話。村の商店街には、新聞の取り次ぎもしている書店があって、配達人が月曜から土曜まで毎朝、自転車で新聞を配っている。日本のように宅配制度が行き渡っていないので、各紙ごとの専売店はない。家ごとに異なる注文の新聞を届ける。

金曜日は大忙しだ。全国紙に加えて、ほぼ全戸に地域週刊紙「ノース・ベナム・ニューズ・アンド・チッピング・クレグホーン・ガゼット」を配達するからだ。たいていの住人が全国紙に載る国連総会や炭鉱休業の記事はほったらかしにして、「《ガゼット》をそそくさと広げると、地元のニュースをむさぼるように読んだ」。今や高級住宅地と化した小村にも地域社会が根を張っていることが、このミニコミ紙の人気からもうかがわれる。

最初に登場するのは、スウェットナム親子。一人息子はもの書きのようだが、売れっ子ではないらしい。それでも家政婦を雇っているから、資産があるのだろう。この家でも、金曜朝は母親がガゼットに目を通す。目当ては個人広告欄。「スメドリー家は自動車を売りにだすようね」「ふうん、セリーナ・ローレンスがまたコックを探してるわ」……。紙面に固有名詞を見つけては、その人の面立ちやその建物の佇まいを思い浮かべている気配がある。

と突然、母親が驚きの声をあげる。広告欄に「殺人をお知らせします」という文言を見つけたのだ。その日午後6時半にリトル・パドックスで、とある。リトル・パドックスは、村内にある邸宅の一つ。あるじは、レティシア・ブラックロックと名乗る60代の女性だ。広告文は「お知り合いの方々にご出席いただきたく、右ご通知まで」と締めくくられていた。母は戸惑うが、息子は「一種のパーティー」「殺人ゲームみたいなもの」と本気にしない。

当然のことながら、この広告はあちこちの家庭で話のタネになる。元インド駐在の軍人とその妻、改造田舎家で共同生活している年配女性の二人組、そして、牧師館に住む牧師とその妻。予告をまともに受けとめた人は村にいないようだ。たとえば、年配女性同士のやりとりはこんなだった。「一杯やりましょうってことでしょ、どっちみち」「招待状のようなものかしら?」「向こうに行ってみれば、どういう意味なのかわかるわよ」

リトル・パドックス邸内でも広告は話題になった。この家の住人には、あるじのほかに彼女の古い友人がいる。遠い親戚という若い兄妹もいる。さらに、子育て中のシングルの女性が下宿しており、大陸から難を逃れてきたメイドもいる。あるじは広告を遠戚の兄か妹の悪ふざけと疑ったが、それは即座に否定された。だが、さほど動じる様子もなく、近隣の人々はきっと興味津々で来訪するだろうと見込んで、パーティーを準備するのだ。

夕刻になると、ほんとにみんながやって来る。客たちが関心事の「殺人」をなかなか口にしないのは英国流の作法か。訪問の理由も「たまたま、こっちのほうに来たものですから」「アヒルが卵を産んでいるかどうかお訊きしたかったので」……。例外は、牧師の妻だけだ。夫が所用で来られないことを「それはもう残念がってました」と言って、「主人は殺人が大好きなんです」。牧師をミステリー好きにしてしまうのは、クリスティー流の諧謔だろう。

予告の午後6時半、明かりが消えて「部屋が真っ暗」になる。悲鳴が起こったが、どこか「満足げ」で「楽しげ」。みんなまだ、パーティー感覚だったのだ。ところが、ドアが開いて懐中電灯の光があちこちを照らしたかと思うと、男の声が響きわたる。「手をあげろ!」。そして、拳銃の発射音が3回。まもなく明かりが戻ってわかったのは、衝撃の事実。血を流して倒れているのは騒ぎの張本人、さっき声をあげた男だったのだ――。

ミステリーなので、当欄はこの事件の筋書きを追わない。おなじみのジェーン・マープルが登場して刑事たちに知恵を貸すのだけれど、その謎解きについても触れない。この穏やかな地域社会にも、戦争の影響が見え隠れしていることだけを強調しておこう。

もっとも暗い影を引きずっているのは、リトル・パドックスのメイド。広告が出た日、あるじに暇を願い出る。「死にたくないんです!」「家族はみんな死んだんです――殺されたんですよ」「またやつらがあたしを殺しに来る」と脅えている。「誰が?」と問われると、まず「ナチス」の名を挙げ、次いで「今度はボルシェビキかもしれない」と言う。戦後の英国には、戦前戦中に大陸を席巻した全体主義の恐怖が消えない人々が大勢いたのだろう。

事件後、刑事が事情を聴こうとすると、「あたしをいじめに来たんでしょ」「爪をはがしたり、マッチの炎で皮膚を焼いたり」「だけど、あたしはしゃべらない」と頑なだ。自分は学歴があるのにこの地では相応の扱いを受けていない、という恨みもほのめかす。

たしかに、村には難民を疎外する空気があった。庭師の一人は刑事の聞き込みに、村内にくすぶる憶測のあれこれを証言する。この事件を「よそ者がうろつきまわっているせい」にして、リトル・パドックスの厨房にいる「ひどい癇癪(かんしゃく)持ちの娘」に疑いの目を向ける人物もいる――。戦時、欧州大陸の人々を苛んだ出来事は戦後、英国の長閑な田園にも歪みをもたらしていた。クリスティーの一編からも戦争の「闇」は見えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月30日公開、同年11月1日更新、通算546回
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東独、ひとつの国が消えたとき

今週の書物/
『ドイツ統一』
アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊

ドイツビール

去年の今ごろ、私たちの世代はベルリンの壁崩壊から30年の感慨に耽った(当欄の前身「本読み by chance」2019年11月15日付「あの日、壁崩壊に僕らが見たもの」)。1年後の今、壁崩壊30周年のあとにもう一つ、大きな通過点があることに気づいた。

ドイツ統一から30年の歳月が流れたのだ。1990年10月3日、東西ドイツ――と言ってもピンと来ない世代がふえたが――が合体して、一つのドイツが再登場した。これによって、第2次大戦後、欧州中央に居座っていた大きな変則状態が消滅したと言ってよい。

壁崩壊は、ひとことで言えば解放だった。閉じ込められた人々が壁を壊し、外へ出て、自由の空気を思いきり吸った。それは、祝祭にほかならない。だが、祭りのあとには大きな宿題が残った。東ベルリンを首都とする東ドイツ(東独)、即ちドイツ民主共和国の今後をどうするか、という問題だ。ドイツ人は結局、東西統一という道を選んだ。東ドイツが、それまでの西ドイツ(西独)、即ちドイツ連邦共和国の一部になる、という方式だった。

考えてみれば、これは大変なことではなかったか。一つの国が、戦争もなく平和裏に消滅したのだ。ドイツ民主共和国は1949年の建国以来、ソ連型の社会主義体制をとってきた。西側とはまったく違う政治がある。経済の様相も異なる。それが、なにはともあれ民意を反映させるかたちで解消された。こんな大事業が成し遂げられたのは、なぜなのだろう。国際政治の力学がそうさせたのか、ドイツ市民が理性的だったからか。

ともあれ30年後の今、あのドイツ統一はないほうがよかった、と思う人はそう多くないように見える。もちろん、歪みはさまざまなかたちで噴出している。それを差し引いても、あのタイミングであの体制転換を果たしたことは賢明だったのではないか。

で、今週は『ドイツ統一』(アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊)。著者は1967年生まれのドイツの現代史家。略歴欄に現職はマインツ大学教授とあるが、訳者解説によると「中道保守のキリスト教民主同盟(CDU)の熱心な党員」であり、政治活動にも積極的だという。ドイツ統一の西側の牽引車はCDUを中心とするヘルムート・コール政権だったので、この本は、そのことを念頭に置いて読んだほうがよいだろう。

この本で、ああ、そんなことがあったなあ、と思いだされるのが、東独の人々が列をなして国境を越えようとしている映像だ。壁崩壊よりも前のこと、いきなり西独に入るのではない。同じ東欧圏の国を通って西側へ脱け出る人の流れが起こったのである。先駆けとなったのは、ハンガリールート。この国は1989年9月、中立国オーストリアとの国境を開放した。月末時点で、東独から来た3万人がオーストリア経由で西独に移り住んだという。

旧チェコスロヴァキアのプラハにも、ポーランドのワルシャワにも東独の人々が「難民」として押し寄せた。東独指導部は「難民のイメージ」が建国40年の式典に水を差すことを嫌って、プラハで「難民庇護」を求めていた自国民向けに東独経由西独行きの特別列車まで仕立てた。これには「出国者たちの身元を確認する機会を確保しよう」との思惑もあったが、「列車の通過は、指導部の降伏を国民の前にはっきりと示すことになった」。

実際、そのころ、ドイツ社会主義統一党(SED)が率いる東独指導部はガタガタだった。その体制崩壊の要因を、著者は三つ挙げる。ソ連がゴルバチョフ体制になったこと、党指導部が硬直化していたこと、そして、1989年に顕著になった「反対派運動の台頭」だ。

事実上の一党支配が続く東独に、どんな「反対派」がありえたのか。この本によれば、1980年代には、教会を核にして「平和、環境、人権を掲げるグループ」が生まれていた。壁崩壊の89年11月に並び立っていたのは、「新フォーラム」「民主主義をいま」「民主主義の出発」などの運動体。リーダーには、画家、映画監督、分子生物学者、物理学者や弁護士らがいた。文化人や知識人が東独体制の抑圧に対して声をあげたという色彩が強かったようだ。

ここで押さえておくべきは、反対派イコール統一志向派ではなかったことだ。著者は、新フォーラムについて「彼らのプライオリティは、改革され、独立した東ドイツに置かれていた」と指摘する。めざしていたのは「政治的な自由《と》経済的な自由に塗り潰されている西側のシステム」(《 》は傍点箇所)ではなかった。東西いずれの体制とも異なる「第三の道」――「改革された民主的な社会主義」だった、という。

ところが壁崩壊後、東独内には統一を渇望する世論が起こる。デモでは「再統一」の横断幕が見られるようになった。集会で発言者が「四〇年を経て、もはや社会主義の新たな変種を試みる気などない」という思いを語って、拍手が鳴りやまなかったこともある、という。その発言者は、工具職人だった。市井の人々のすぐそばに、同胞たちの成功物語に彩られた自由主義経済があり、反対派の主張がもはや心に響かなくなっていたのである。

反対派はSED改革派とともに「円卓会議」に参加して東独再生をめざすが、世論の西独志向は強まるばかりだった。「ドイツ・マルクが来るなら、われわれはとどまる。来ないならば、われわれがそちらに行く!」。デモでは、そんなスローガンも現れたという。

この状況に攻めの姿勢をとったのが、西独コール政権だ。コール首相は1989年11月、「連邦国家的秩序」を目標に置く10項目の計画を発表、翌90年2月には両独の「通貨同盟」も提案する。首相はそれを急いだ理由を、農民が雷を警戒して「刈り入れた干し草をしまい込もうとする」心理で説明したという。念頭にあったのは、ソ連の不安定な情勢らしい。ゴルバチョフ体制が崩れれば鉄のカーテンが再び下ろされかねない、というわけか。

同じ2月、東西ドイツと米ソ、英国、フランスの戦勝国が「2+4」という対話の枠組みをつくることが発表される。それぞれの国の思惑が絡みあう力学もこの本の読みどころなのだが、要約は難しい。ただ、統一にとって大きな阻害要因はなかったと言えそうだ。

この本で見えてくるのは、統一が東独の人々にもたらした副作用の深刻さである。東独は、市場経済が一気に流れ込んだことで就業構造が一変した。農業、製造業の分野で労働人口が激減、サービス業ではふえたが、全体としては厳しい雇用状況に直面した。1993年になって壁崩壊当時の職場に居残っていた人はわずか29%という。この現実は「一般的に転職がきわめて稀であった東ドイツの伝統に鑑みると、由々しき問題」だった。

著者によれば、統一前の東独にあった社会主義体制下の企業は、労働者にとって単なる職場ではなく、「社会的共同体の場」だった。そこは「生活形成の場」でもあり、「子供の養育や休暇や文化のための組織」が付随していた。それをもぎ取られる人々が大勢いたというわけだ。私はこのくだりを読んで、かつて日本の終身雇用型企業に、運動会などの社内行事や保養所などの福利厚生施設が一式揃っていたことを思いだした。

こうした苦難は当然、体制の崩壊に起因する。人々は「補助金を多く投入する計画経済的な福祉独裁」の「停滞」から「市場経済的で多元主義的な経済・社会システム」の「混沌」に放り込まれた、と著者はみる。東独の産業は「重工業的段階」にあったが、そこにいきなり「自由とリスク」や「マイクロエレクトロニクス時代の変化のダイナミズム」や「グローバル化」の波が押し寄せ、「二重の近代化」をせっついたのだ。

二つの国が一つになるのは並大抵のことではなかった。たとえば、交換レート。この本によれば、東独マルクは西側のドイツ・マルクに比べて圧倒的に弱かったが、東独側は1対1での切り替えを求めた。最終的には、賃金給与は1対1だが、ほかの場合はさまざまな条件によって1対1のことも2対1のこともあるという複雑な方式で折りあった。その副作用にもこの本は触れているが、なにはともあれ「力業」で妥協点に漕ぎ着いたのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月23日公開、通算545回
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新聞記者というレガシー/その1

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

鉛筆

8月、柴田鉄治という先輩が逝った。1935年生まれ、85歳だった。朝日新聞の社会部記者として活躍、社会部長や論説委員を務め、退職後も言論活動を続けた。テレビを賑わす有名人ではない。だが、業界では「シバテツ」の愛称で慕われていた。私が社会部経験もないのに「先輩」と書くのは、シバテツが一時――それは私が科学部員になるより前だが――科学部長だったことがあるからだ。晩年は自らも科学ジャーナリストと名乗っていた。

柴田さんの人となりは、私も幾分かは知っている。記者の集まりなどで会食する機会があったからだ。そのほのかな交流の思い出も踏まえて言えば、シバテツは戦後民主主義を体現する社会部記者だったように思う。

その行動様式と思考パターンを一つずつ挙げておこう。行動様式は〈現場主義〉だ。これは自身の取材歴が立証している。1965~66年に南極の観測隊に同行した。69年には米国でアポロ11号の月探査を取材した。思考パターンでは、なにごとも〈情報公開〉に結びつける傾向があった。脳死臓器移植のように世論が二分される問題について論じるのを幾度か聞いたことがあるが、透明性が不可欠という結論に落ち着くことが多かったように思う。

2020年の今、シバテツがめざした新聞記者の〈現場主義〉も〈情報公開〉も厳しい局面に立たされている。〈現場主義〉を売りものにできなくなったのはIT全盛のせいだ。ネット空間にはソーシャルメディアが広まり、だれもが現場から発信できるようになった。〈情報公開〉にも強敵がいる。個人情報の保護が壁になっているのだ。最近は政官界の不祥事でも当事者が「個人情報にかかわる」と言って、だんまりを決め込むことがある。

シバテツは、新聞記者が戦後民主主義を大らかに謳歌していた時代を生きた人と言えよう。当欄は、彼の追求した記者像が今どこまで成り立つかを見極めることで、その価値観のどの部分が過去のものとなり、どの部分を受け継いでいくべきかを考えてみようと思う。で、今週は『新聞記者という仕事』(柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊)。米国の同時多発テロから2年、春にイラク戦争が勃発した年の夏に刊行された本だ。

冒頭の一文は「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」。それは「新聞の地位」が「多メディア時代」で低下したことではない、と著者はことわる。「産業としての新聞」ではなく「ジャーナリズムとしての新聞」が危ないというのだ。この「産業」と「ジャーナリズム」の切り分けは、2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる。そのことについては後で論じることにしよう。まずは、2003年の著者の声に耳を傾ける。

著者は、この年にあったイラク戦争の報道を1960~70年代のベトナム戦争のそれと比べる。後者では、日本の新聞社も戦地に記者を送り込んだ。ところが、前者では「全社がバグダッドを離脱してしまった」。これは「日本の新聞のジャーナリスト精神の衰退」を表しているという。危険地帯の取材について「死地に赴くような社命は出すべきではない」としながら、「最終的な判断は現地の記者に任せるべきなのだ」と主張する。

背景には、少年期の体験があるようだ。この本によれば、著者は戦時中、機銃掃射で「戦闘機が急降下しながらこちらに向かってくるときの恐怖」を実感した。1945年3月の大空襲では東京・麹町の自宅を失っている。焼け跡には「敷地を覆い尽くすばかりに焼夷弾の殻が落ちていた」。戦場にも、そこに住む人がいる。そのことを身をもって知っているから〈現場主義〉なのだろう。(当欄2020年8月14日付「コロナ禍の夏、空襲に思いを致す」)

戦後ほどなく姉を亡くしてもいる。栄養失調に陥り、病死したという。「つくづく戦争はいやだと子ども心に刻みつけられた」。その裏返しで日本国憲法に共鳴する。東京大学理学部に進み、地球物理を学ぶが、一方で東大新聞研究所(現在は東大大学院情報学環に統合)でも受講した。「就職するなら、平和と人権を守る仕事、すなわちジャーナリズムの仕事をしたい」。そんな思いから新聞記者になった。まさに、戦後民主主義が生んだ記者である。

1959年に朝日新聞社に入った後、支局や支社を経て社会部員となり、最初の大仕事が南極取材だった。65年出発の観測隊に同行したのである。そこで見たものは、61年発効の南極条約のもとで国境線が引かれず、「パスポートもいらなければ、税関もない」世界だった。ソ連の基地に近づいて無線通信で訪問を打診してみると、「どうぞ、どうぞ」。訪ねてみると「基地をくまなく案内してくれた」だけでなく「ウオツカの乾杯攻め」にも遭った。

米ソ冷戦の真っ盛りで、東西両陣営の間には見えない壁が立ちはだかる時代だったから、さぞかし強烈な印象を残したことだろう。これが、著者晩年の一念につながってくる。地球上から戦争をなくすにはどうするか、そのヒントは南極にある、という主張だ。

この本は、1969年のアポロ11号報道にも触れている。著者は、月面の生中継を米国ヒューストンにある航空宇宙局(NASA)の施設で見た。記者室は、宇宙飛行士たちが月面で動きまわる様子に沸いていたが、著者の脳裏に焼きついたのは「月から見た地球」の映像だったらしい。写っているのは「青く、小さい、ガラス玉のように輝く美しい星」であり、「この広い宇宙で人間が住めるところは地球しかなさそうだ」と思わせるものだった。

興味深いのは、この映像の衝撃が世相の変転と結びつけて語られていることだ。日本列島は1960年代にすでに公害や自然破壊に蝕まれていたが、著者によれば、それが社会の一大事になったのは70年代初頭だった。「新聞報道によって社会が燃え上がる」には「燃料(具体的な事実)」「酸素(人々の関心)」「発火点以上の温度(新聞の報道)」の三つが揃わなくてはならない。60年代はまだ、その「人々の関心」が足りなかったのではないか――。

で、「月から見た地球」の出番だ。著者は、その「小さく頼りなげな」姿が環境問題に対する「人々の関心」を呼び起こしたとの仮説を示す。地球の遠望映像はアポロ8号も撮っていたので、11号で世情が一変したとは言い難い。ただ一連の月探査が、当時はやりだした「宇宙船地球号」という言葉とも呼応して、1970年代に環境保護の機運を高めたとは言えよう。(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)

余談だが、この柴田仮説は、情報の広がり方を燃焼という化学現象になぞらえている点で寺田寅彦の随筆「流言蜚語」を思いださせる(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)。二人は、地球物理つながりで響きあうところがあるのかもしれない。

さらにもう一つ、余談を。この本には出てこないのだが、私にはシバテツのアポロ取材でどうしても触れておきたい記事がある。見出しは「『月より地上の飢え』黒人が抗議のデモ」(朝日新聞1969年7月16日付夕刊)。フロリダ州ケネディ宇宙センター発の柴田特派員電だ。11号の打ち上げ直前、その足もとで開かれた集会を取材、公民権運動家の演説を記事にしたのだ。さすが社会部記者。月探査の報道でも地球の現実を忘れていない。

と、ここまで書いてきてわかるのは、著者の〈現場主義〉がいつも地球観と結びついているということだ。南極では戦時とは真逆の体験をして、地球に平和がありうることを確信した。アポロ取材では、月のことよりも地球を気づかって、エコロジー思想の台頭も予感した。そこには、鋭い洞察がある。ただ駆けつけるだけの〈現場主義〉とは違うのだ。来週は、そのシバテツ流の可能性と限界を〈情報公開〉にも話を広げて考察してみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月11日公開、同年10月18日更新、通算539回
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戦時の科学者、国家の過剰

今週の書物/
『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』
小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊

戦中戦後

今年の終戦記念日、NHKが「太陽の子」というドラマを放映した。先の戦時、日本でも陸軍と海軍がそれぞれ原爆開発を画策したことは知られているが、このドラマでは京都帝国大学の物理学徒たちが海軍の委託を受けて原爆研究にかかわったことが主題となった。

で今週は、その渦中にいた科学者たちの現実を近刊の書物を通じて垣間見てみよう。『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』(小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊)。著者は1931年生まれ、素粒子論が専門の物理学者。東京大学出身だが京都大学にも勤務、理論物理で日本初のノーベル賞を受けた湯川秀樹の活動を支えた。現在は慶應義塾大学、東京都市大学の名誉教授、世界平和アピール七人委員会のメンバーでもある。

個人的な話をすれば、著者は私にとって最大の恩人の一人だ。新聞社で科学部員になって3年目の1985年、湯川のノーベル賞研究「中間子論」の論文発表50年を記念する国際会議(開催地・京都)でお世話になったのが始まりだった。2007年に湯川の個人日記を記事にしたときは、湯川家との話しあいから記述内容の読み解きまで、全面的なお力添えをいただいた(朝日新聞2007年1月23日付朝刊「中間子着想 湯川博士の4日間」)。

この個人日記は、湯川家が保存していたもので、主に1930年代、日米開戦前の日々のあれこれを記していた。ヤマ場は、中間子論を完成させた1934年の記述分。これについては、著者が編者となって『湯川秀樹日記――昭和九年:中間子論への道』(小沼通二編、朝日選書)という本が出ている。一方で湯川は京都大学にも、本来は研究室日誌と呼ぶべき日記を大量に残していた(京大湯川記念館資料室所蔵)。ここには開戦後のことも綴られている。

今週の書物『…戦争と平和』は、湯川の生い立ちまで遡ってその人となりが描かれ、1981年に亡くなるまでの平和運動家としての足どりも跡づけられている。とはいえ、最大の読みどころは「第二章 戦火の時代に」だろう。この章では京大所蔵の日記をもとに、湯川が戦時中にどんな学究生活を送ったかを浮かびあがらせている。気になるのは、軍事色の強い活動だ。それらのどこまでが自発的で、どこからが強制されたものだったのか――。

そのあたりの見極めは難しい。湯川の日記は身辺の出来事の記録が中心で、心情の吐露が少ないからだ。戦時の心模様を推し量るには、戦後の日々に焦点を当てた「第三章 思索の人から行動の人へ」が助けになる。この章では、湯川が反核平和運動に奔走した姿が描きだされている。戦後の平和に対する熱情が戦中に戦争がもたらした深淵の底深さを逆に照らしだす。戦中戦後を貫いて湯川の「戦争と平和」に迫ったこの本の意義は、そこにある。

では、第二章に立ち戻って、日記の要点を拾いあげていこう。1941年12月8日の日米開戦から1943年末まで、湯川自身は軍事研究に近づいていないようだ。目立って見えてくるのは、一人の国民――臣民と言うべきか――としての心情だけ。開戦の日の夜、帰宅して夕刊を開くと「ハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース」が載っていた。「久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と書いている。

この本では1943年、湯川が地元の京都新聞に寄せた年頭所感も引用されている。「既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用すること」を「今日の科学者の最も大いなる責務」としつつ、「科学の真の根基をわが国土に培養する」必要を説き、それなしには「科学、技術の源泉は久しからずして枯渇する」と警告している。すぐには応用できない基礎研究のことも忘れるな、という科学者の危機感がそう言わせたのだろう。

この年4月、湯川は文化勲章を受けた。そのことで国家主義的な団体とのかかわりが出てくる。6月には東京で大日本言論報告会総会に出席、受章を祝う記念品を贈られる。機関誌『言論報告』創刊号には、湯川の午餐会での「卓上演説」が収録されている。「言論界で日本的世界観の樹立が力強く言われている、自然科学の方面からそういう思想に何らかの基礎づけができればしたい」と述べたという。こじつけの感は否めない。

日記によれば、湯川の軍事接近は1944年初めから。前年、文部省が科学者の「動員」策を打ちだした影響があるのだろう。1月27日、神奈川県横須賀で海軍の航空機研究施設などを見学した。2月13日には東京にある財界人の大倉喜七郎男爵邸で、当時は海軍軍人だった高松宮や物理学者の仁科芳雄を交えた会合に出ている。大倉財閥は海軍の電波兵器開発に敷地を提供しており、会合は「海軍の研究に関係があると思う」と著者はみる。

この本の強みは、湯川と軍事とのかかわりを日記の記述から定量的に浮かびあがらせた点にある。余談だが、これができる人は著者を措いてほかにいない。日記は、湯川流の癖字だらけでふつうの人には太刀打ちできないが、著者には読める。さらに周辺事情も知っているから、メモ書き一つでも意味を汲みとれる。その解読の結果は、こうだ。湯川の「軍事研究関連の会合や訪問や視察」は1944年が27回29日、45年が12回16日――。

この数字の見方は、さまざまだろう。私自身は、湯川の学究生活のかなりの部分が「軍事」に割かれていた、あるいは攪乱されていたように感じる。活動件数は1944年1月~45年8月の20カ月に計39回なのだから月2回のペースだ。新幹線がない時代、京都から横須賀へ、東京へ出張もしている。湯川は戦争末期に及んで、基礎科学を「国土に培養する」などと言っているだけでは済まされず、自身もキナ臭い世界に引きずり込まれたのだ。

その最たるものが、「太陽の子」でドラマ化された「F研究」だろう。海軍が荒勝文策京大教授に委託した研究。ウランの原子核分裂(nuclear fission)を軍事利用する道を探ろうとした。日記には1944年9月22日、「荒勝氏と核分裂の件相談」とある。10月4日には大阪で海軍との相談会にも出た。出席者が残した記録によれば、湯川も「連鎖反応の可能性」を解説したらしい。核分裂の「連鎖反応」は、原爆のエネルギーを得る要件である。

日記をさらにたどろう。1945年5月には、F研究が正式の「戦時研究」となり、6月23日には「第一回打合せ会」が学内で開かれる。7月21日には滋賀県大津の琵琶湖ホテルへ。著者によれば、海軍との会合があり、湯川は「世界の原子力」について語ったらしい。

湯川の終戦までの1年をどうみるか。占領軍は、湯川は原発開発計画に「全く関与していなかったか、わずかしか関与していなかった」と判定した。「湯川自身が非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」事実が、関与のなさ、もしくは小ささと「符合している」とされたのだ。(占領軍に協力した米国の物理学者P・モリソン執筆の「秘密報告」=本書が引用した政池明著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』〈京都大学学術出版会〉による)

私は、この判定に敵国の科学者にもあった湯川への敬意を感じつつ、違和感も覚える。引っかかるのは「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」とある点だ。湯川は、買って出たことではないかもしれないが、軍人を相手に原子核物理の先生役を務めている。心の片隅には、開戦の日に真珠湾の戦果を称えた素朴な心情があり、自分は「非常に抽象的な物理学」を「国土に培養する」のだという自負が芽生えていたのではないか。

そう考える理由は、湯川自身が終戦後まもなく発した言葉にある。第三章の冒頭では『週刊朝日』(1945年11月4日付)への寄稿「静かに思ふ」が引かれている。そのなかで湯川は、「道義の頽廃」を招いた原因に「個人・家族・社会・国家・世界といふやうな系列の中から、国家だけを取り出し、これに唯一絶対の権威を認めたこと」を挙げたという。科学者として戦中、国家ばかりにとらわれた浅慮を悔いているように思える。

湯川は戦後、世界政府の樹立をめざす運動にかかわった。その構想は冷戦時、夢想の産物に見えた。自国第一主義台頭の今は、なおさらだ。それは実現しても遠い先のことだろう。ただ、一人の科学者の内面を思い、国家意識の過剰を戒めることなら今でもできる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月28日公開、同年9月20日最終更新、通算537回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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