量子力学の正体にもう一歩迫る

今週の書物/
『量子力学の誕生』(ニールス・ボーア論文集2
ニールス・ボーア著、山本義隆編訳、岩波文庫、2000年刊

跳び跳び

私は数カ月前、量子の話題を継続的にとりあげていくと宣言した(2021年5月28日付「量子の世界に一歩踏み込む」)。量子コンピューターなど量子情報科学の技術が現実のものになりつつある今、それとつかず離れずの関係にある今日の量子力学的世界観に迫る、というのが最終目標だ。私は科学記者として1990年代半ば、この問題を集中的に取材したから、そのときに仕入れた知識を更新したいという切実な思いもある。

ただ、その前にしておきたい準備があった。これまでも書いてきたように、私は学生時代、量子につまずいている。「量子力学」の授業を一応は受けたが、板書される数式を追いかけていただけだった。だから後年、科学記者として量子力学の新しい解釈を知ることになっても、それと対比される旧来の解釈はぼやけていた。これでは新しい解釈を正しく位置づけられない。だから今からでも、旧来の解釈を輪郭づけたいと考えたのだ。

それで、まずはとっつきやすいものからと思い、日本人物理学者が日本語で書いた『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫)という短い書物を読んだのだ。その評伝が描くデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885~1962)は、原子の構造を考えるときにエネルギーはとびとびの値をとるという量子仮説をもち込み、量子力学の建設へ道を開いた人だ(前述の当欄「量子の世界に…」と2021年6月4日付「量子力学のリョ、実存に出会う」)。

だが、この書物の選択は半分成功で半分失敗だった。私がおぼろげながら覚えていた教科書的な知識を復習することはできた。だが、一方で隔靴掻痒の感があったことも否めない。それは「量子力学のリョ…」にも書いた通りだ。たぶんボーアの考え方を、また聞きしただけだからだろう。仁科は、欧州でボーアに師事した人なので、師の真意を誤解していることはあるまい。だが、学説には本人の言葉でしか伝わらない含蓄もある。

で、今週は『量子力学の誕生』(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳、岩波文庫「ニールス・ボーア論文集2」、2000年刊)。著者ボーアの論考や講演録が合わせて18編収められている。執筆や講演の日付で言えば、量子力学が提案された1925年から最晩年の1961年まで、36年間に及ぶ。量子力学が数式なしの言葉で述べられている文献が大半で、物理学者同士の交遊を素描したくだりは科学史の一級史料としても読める。

とはいえ、本書は、数式がほとんどなくても難解だ。前提の知識がないと文意を汲みとれない箇所がいっぱいある。たとえば、原子が放出したり吸収したりする光のスペクトルにどんな規則があるか、などがわかっていないと先へ進めなくなる。すんなり通読できないのだ。ということで私は今回、〈探し読み〉を試みた。まず標的を定め、ページをぱらぱらとめくって、それらしいくだりを見つけたらそこを集中的に読む、という方式だ。

最初の標的は、ドイツのウェルナー・ハイゼンベルクが1925年に発表した行列力学版の量子力学である。その要点は、本書冒頭に収められた「原子論と力学」(1925年)という講演録の後日に加筆されたらしい箇所で説明されている。ハイゼンベルクの立場では「従来の力学と異なり、原子的粒子の運動の時間的・空間的記述を扱わない」。計算はすべて「観測可能な量だけ」で書かれるという。では、観測可能(オブザーバブル)な量とは何か。

それでふと思いだしたのが、『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)だ。この本も、ハイゼンベルクの理論をとりあげていた。(当欄2020年11月27日付「偶然のどこが凄いかがわかる本」)

ムロディナウの解説によると、行列力学は「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念」を「原子のレベルでは観測不可能」とみる。では、何が観測可能か。原子がエネルギーを失うときに出る「光の色(振動数)」や「強さ(振幅)」などがそれに当たるという。

ボーア本に戻ろう。ハイゼンベルクが物理現象を表すのにもち込んだのは、一群の数値を縦横に並べた行列(マトリクス)だ。「ラザフォード記念講演――核科学の創始者の追憶とその業績にもとづくいくつかの発展の回想」(1958年)という一編によれば、その行列の数値(要素)は「定常状態間のすべての可能な遷移過程に関係づけられている」。それによって「状態のエネルギーと関連した遷移過程の確率」がわかるというのだ。

「定常状態」の間の「遷移」とは、原子で言えば、原子核の周りにある電子の状態がぴょんぴょん変わることを指している。著者も述べているように、それは「状態のエネルギー」にかかわる。原子は光を吸ったり吐いたりすることでエネルギーをやりとりしているから、私たちは、光の観測でエネルギーの出入りをみて状態の変化を知るわけだ。このときに電子そのものは観測不可能なので、「時間的・空間的記述」即ち軌道の描像はなじまない。

息抜きの余談だが、「量子力学の誕生」(1961年)では興味深い逸話が紹介されている。ハイゼンベルクがあるとき、「僕は、じつは行列が何であるのかさえ知らない」という言葉を漏らしたというのだ。文脈からみると、数学者が行列について語るのを聞いても、ついていけないというくらいの意味らしい。「知らない」の次元が違うのだ。ただ、行列は思考の一つの道具に過ぎないという突き放し感があって、物理学者らしいな、という気もする。

さて次の標的は、ハイゼンベルクの不確定性原理だ。粒子の位置を精確に測ろうとすると運動量がばらつき、運動量を絞り込めば位置がぼやけるという量子力学の掟である。著者は本書で、位置と運動量の対よりも「時間・空間概念」と「動力学的保存則」の対に目を向け、その両立しがたい関係が不確定性原理に対応すると言っている。「化学と原子構造の量子論」(1930年)や「ゼーマン効果と原子構造の理論」(1935年)から要点を掬いとろう。

著者は「すべての測定には対象と測定装置のあいだに有限の相互作用がまつわりつく」と指摘する。たとえば、原子核の周りにある電子の「時間・空間座標を確定しよう」とすると、電子と装置との間でなされる「エネルギーと運動量の受け渡し」が避けられない。その「受け渡し」は「制御不可能」なので、電子の「動力学的振る舞い」が測定の前後でどうなるかが曖昧になる。エネルギーや運動量などの動力学的保存則がぐらつくというのだ。

逆もまた真なり。ここで著者は「定常状態」の話をもちだす。さきほど行列力学のくだりでも述べた通り、原子核の周りの電子は定常状態のどれか一つにあり、別の状態には一定のエネルギーを吸ったり吐いたりして跳び移る、とみることができる。この見方をすれば、動力学的保存則は守られるが、電子がある時刻、どの位置にいるかがわかる軌道は思い描けない。「時間的・空間的描像」はあきらめなくてはならないということだ。

著者は「時間的・空間的な座標付けと動力学的保存則は、従来の因果性の二つの相補的側面」(太字箇所は本文でも)と結論づける。因果律について言えば、座標付けも保存則も「その固有の有効性を失うことはないけれども相互にある程度排除しあう」というのだ。「因果性という古典論の理想を相補性というより広い観点で置き換えなければならなくなる」ともある。因果律は、量子世界では見方によって別の側面から際立ってくるということか。

私には今回、宿題が一つあった。仁科本を当欄「量子力学のリョ…」で読んだとき、ボーアは量子世界でもエネルギーや運動量の保存則が成り立つとみている、と私は理解した。もしそうなら、運動量のばらつきを織り込んだ不確定性原理に矛盾する。そんなふうに思って困惑したのだ。たぶん、それは私の読み方が浅かったからだろう。本書によって、ボーアも保存則がぼやけることがあると考えていたとわかり、やっと腑に落ちた。

標的は、もう一つある。ただ、頭がだいぶ疲れた。回を改めることにしよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月10日公開、同月14日最終更新、通算591回
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原爆の真実はないことにされた

今週の書物/
『原爆初動調査 隠された真実』
NHK
スペシャル、2021年8月9日放映

テレビ(番組表は朝日新聞より)

表題に「…書物たち」と謳いながら、テレビ番組について語るのはどうか。そんなためらいはあった。だが、前身のブログも「本読み…」を名乗りながら、ときに映画を題材にしていた。映像も音声も「書物」の別形態と解釈して、思考の糸口にさせてもらおう。

『原爆初動調査 隠された真実』(NHKスペシャル、2021年8月9日放映)。この番組を見ようと思った理由は、当欄先々週の『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(政池明著、京都大学学術出版会)にある。(2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ」)

あの本によると、京都帝国大学のグループが被爆直後の広島を踏査した結果は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が原爆被害の研究を規制するよりも早く世に出たので、史料価値が高いということだった。それで、原爆をめぐる米軍の情報操作が気になったのだ。

実際、京大グループの調査結果は異例なかたちで公表されていた。グループを率いる物理学者荒勝文策教授が一般紙に寄稿したのだ(朝日新聞大阪本社版に4回連載、1945年9月14日~17日付)。新聞の手早さがGHQを出し抜いたとも言えよう。

本題に入ろう。このドキュメンタリーでは、米国の軍部が広島、長崎への原爆投下後、被爆地の初動調査で何を見いだしたのか、そのデータをどう扱ったのか――が主テーマになっている。取材班は、日本国内はもとより米国や旧ソ連圏にも足を運んで、当事者の親族や関係分野の専門家から話を聞きだし、秘蔵の資料も掘り起こしていく。それで見えてくるのは、原爆の真実が政治の思惑に翻弄され、歪められたという事実だ。

このドキュメンタリーは、そんな戦後史の構図を大上段からは描かない。政治の思惑によってもたらされた不条理を、一つの地域の住人の目でとらえ直している。そのことで、この初動調査をめぐる情報操作がどれほど罪深いことであったかが胸に迫ってくる。

その地域とは、長崎市中心部から約3km離れた西山地区だ。8月9日、原爆が落とされた瞬間は、熱線や爆風が周りの山に遮られて被害を免れた。ただこの日、住人は不気味な体験をする。「泥の雨」が降ったのだ。やがて、体調不良を訴える人や原因がわからずに亡くなる人が出てくる。原爆の怖さは一過性ではなく、尾を引く。その正体は、天空から降る物質や地上で放射化した物質が出しつづける放射線――残留放射線である。

米国は1945年9月から約4カ月間、科学者や軍人を長崎と広島へ派遣して、現地調査に当たらせた。取材班は今回、米海軍が二つの被爆地の約1000地点で残留放射線を調べた記録を発掘する。そこで注目されている地点の一つが「西山地区」だった。

その報告書に特記されていたのは、こういうことだ。「西山地区は山あいにあり、爆発時の初期放射線を受けずに済んだ。ところが、残留放射線は爆心地よりも高かった」。計測された最高線量は1時間当たり11マイクロシーベルト。まる4日間で一般人の年間線量限度に達する。測定器を地面に近づけると数値が倍に跳ねあがる、という生々しい体験も記されている。この地区の残留放射線が高いのは地形に起因するらしい、と結論づけていた。

この報告書のまとめ役となった海軍少佐は、生理学が専門だった。当然、健康被害への関心がある。調査では放射線の線量を測るだけでなく、住人の血液も分析したという。

では、この記録は米本国でどんな扱いを受けたのか。くだんの少佐の証言はこうだ――。帰国してから報告書を完成させ、マル秘(シークレット)文書として提出すると、上官に呼びつけられる。そこには、原爆開発のマンハッタン計画を仕切り、被爆地調査の責任者でもあったレズリー・グローブス陸軍少将がいた。「これは、トップシークレットにすべきだった。すべてを忘れろ。報告書を書いたことも忘れろ」。耳を疑う言葉ではないか。

グローブスはなぜ、こんな無茶を言ったのか? このドキュメンタリーによれば、彼にとって、そのころの悩みの種は残留放射線だったらしい。被爆者の受難は「疫病」に似てすぐに収まらない、被爆地には「70年も草木が生えない」――世間ではそんなことが言われだし、原爆の健康被害は長く続くとの見方が強まっていた。米国は、そこに占領軍の兵士を送り込むわけだから、議会や世論に反発の嵐が吹いても不思議はなかったのだ。

グローブスにとって残留放射線はあってほしくないものだった。だから、「ない」と言いたい。好都合にも、助け舟があった。マンハッタン計画の中心にいた物理学者ロバート・オッペンハイマーの見解だ。広島や長崎の原爆は高度600mで爆発したので、放射性物質はほとんど落下せず、直下の地上に残留放射線はない――というのだ。グローブスは、これに飛びついた。科学によって確認された事実を科学者の権威によって否定したのである。

このドキュメンタリーは、米国原子力委員会の議事録も引いている。グローブスは残留放射線について問われ、こう答えた。「皆無と断言できます」。高いところでの爆発であることを強調して「放射能による後遺症はない」とも言う。質問に「倫理」という言葉が出てきたときは「ひと握りの日本国民が放射能被害に遭うか、その10倍もの米国人の命を救うかという問題」と切り返している。被爆者の立場からみれば許しがたい暴言である。

原子力委の議事録によれば、グローブスは国家戦略として核開発を続行する必要も訴えている。「原子力研究をやめることは、米国が自ら死を選ぶことに等しい」。この立場からみれば、被爆地で見つかった残留放射線は邪魔ものでしかなかっただろう。

グローブスの論理は、あまりにも自己中心的だ。戦争を正当化して「ひと握り」の他国民を見捨てる。自国民にも放射線のリスクを伏せて、占領政策や核政策を進めようとする。そこにあるのは自国第一、軍事第一の思想で、科学者は都合よく利用されるばかりだった。

ドキュメンタリーでは、西山地区の一人の女性に焦点を当て、この不条理をあぶりだす。1945年夏には1歳、兄の背におんぶされていたとき、泥の雨を浴びた。健康だったが、17歳で白血病が見つかり、23歳で命が尽きた。発病は残留放射線のせいなのか? 疑わしいが断定はできない。被爆していない人も一定の比率で白血病を発症するからだ。もっていきようのない怒り。画面には、成人式を記念する着物姿の写真が映しだされる。

米国の核科学者の一人も、西山地区の調査資料を遺していた。今年、遺族が遺品のなかから見つけたという。そこには、採取した土が含む放射性元素の核種名が並んでいた。このドキュメンタリーは、日本の科学者にも取材して、これらのデータがもし「日本に伝えられていたら」……と問いかける。核種によっては人体の特定の部位にたまりやすいものがある。だから、データはどんな病気が起こりやすくなるかを知る手がかりにはなりえたのだ。

白血病死した前述の女性の義姉は言う。「腹がたちます。人として見ていない感じがする。実験みたいにしているなって」。胸に突き刺さる言葉だ。米国は、実証を重んじる気風のせいか、原爆被害の実態をつぶさに調べた。だが、その結果を真っ先に知らせるべき人に知らせず、自分たちが知っていることすら伏せ、あることをないことにした。西山地区の人々は被爆し、被曝し、そして無断で被験者にさせられたとは言えないか。

このドキュメンタリーは後段で、連合国の一つであった旧ソ連も被爆地を調査したことに触れている。これで驚くのは、調査員の手帳には被爆のものすごさや残留放射線に起因するらしい被害が書きとめられているのに、ソ連政府の報告書が「被爆地は、報道されていたほど恐ろしい状況にない」としていることだ。当時のスターリン政権は米国への対抗心から原爆の威力を小さく見せようとしていた、と歴史学者は分析している。

原爆は原子核反応によって爆発するから、放射線という目に見えないものを伴う。だからその影響調査は、科学的な測定だけが頼りだ。ところが現実には、政治の思惑に弄ばれていた。その実態は、20世紀最悪の情報操作の一つだったように私には思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月20日公開、同日最終更新、通算588回
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半藤史話、記者のいちばん長い日

今週の書物/
『日本のいちばん長い日 決定版』
半藤一利著、文春文庫、2006年刊

8月15日

20年前の出来事を書くことは、たやすい作業のように思える。当事者たちの記憶は、まだ鮮明だ。40代だった人は60代、50代だった人は70代……取材すれば、きのうのことのように話してくれるだろう。だが、待てよ。逆の効果もある。20代だった人は40代、30代だった人は50代……今もバリバリの現役が多くいて、うそのない話を打ち明けることに差し障りを覚える向きもあるだろう。だから、近過去史の発掘はやさしいようで難しい。

取材の難しさは、過去と現在の間に価値観の断絶があるときに倍加する。過去に良かれと思ってとった言動が非難の的になることがあるからだ。その難作業を果敢にやってのけた人がいた。今年1月に90歳で亡くなった作家・ジャーナリストの半藤一利さん。文藝春秋社員だった1965年、20年前の「終戦」を関係者の証言をもとに再現したのである。8月15日正午までの24時間に政権中枢で何があったかを活写している。

で、今週は、その『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利著、文春文庫、2006年刊)。「あとがき」によると、この本はもともと1965年、著名評論家の大宅壮一を編者として世に出た。ただ、その取材・構成が文藝春秋社内の「戦史研究会」によるものだったことは、大宅自身が序文のなかで開示している。「研究会」の中心にいた半藤さんが、大宅の家族から許しを得て名義者となり、改訂したのがこの「決定版」。単行本は1995年に出た。

「あとがき」をもう少し紹介しよう。半藤さんは1965年当時を、こう振り返っている。「毎朝四時に起きて原稿用紙をしこしことうめた」「毎朝机にむかっていると、日一日と、夜明けが早まってくるのがよくわかった」。出版社員として日常の業務をこなしながら、連日早朝、自分の仕事に打ち込んだのだ。話を聞いた相手は50人を超える。一部は同僚に任せたが、軍部や政府、NHKの関係者は、すべて自身で取材したという。

半藤さんは「決定版」を自分の名で出すにあたって、その心境を「長いこと別れていた子供に『俺が親父なんだ』と名乗ったような酸っぱい気分」と表現している。取材したことや書いたものへの愛着が感じられる言葉だ。ジャーナリストとして正直な気持ちだろう。

私は、この作品を映画で観た記憶がある。本が「大宅壮一編」で世に出た2年後の1967年に東宝が製作したもので、岡本喜八がメガホンをとり、三船敏郎、加山雄三という二大スターが共演する大作だった。ただ、筋書きはあまり覚えていない。原作が脚色されていたこともあるだろうが、映像になることで俳優の演技が際立ち、文章ならば感じとれる実録としての側面が薄らいだのだろう。そのことは今回、原作を読んで痛感した。

この作品は「大宅壮一編」の刊行以来、すでに読み尽され、語り尽くされた感がある。だから、当欄は的を絞る。着眼点は、報道機関が終戦にどうかかわったかだ。記者たちは歴史の転換点に何を思い、何をしていたのか。それがわかる記述を拾いあげていこう。

報道機関が置かれていた状況は「プロローグ」からも見てとれる。1945年8月15日正午の玉音放送までの24時間ドキュメントに先立つもので、戦争末期の内外の動きを跡づけている。その一つが、米英中3カ国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言だ。新聞各紙は7月28日付朝刊で、これを「内閣情報局の指令のもとに」報道した。「指令」が、どこまで紙面の中身に立ち入ったかは不明だが、「宣言」が歪めて伝えられたことは間違いない。

たとえば、宣言には「(連合国が)日本人を民族として奴隷化しまたは国民として滅亡させようとしているものではない」という記述があるが、記事にはそれがない。「国民の戦意を低下させる条項」とみなされて、伏せられたのだろう。見出しをみても、宣言を「笑止」(読売報知、毎日)とあざけったり、「政府は黙殺」(朝日)と強がったりしている。その報道姿勢は、事実をありのままに、というジャーナリズムの基本精神から大きく外れていた。

もう一つ、私が驚くのは、内閣の迫水久常書記官長が重大情報を報道機関から入手していたことだ。政権中枢が情報をリークするのではなく、逆に貰っていたのだ。ソ連参戦がそうだ。「八月九日午前三時、首相官邸の卓上電話が鳴った。迫水書記官長の半ば眠っている耳に投げこまれたのは、同盟通信外信部長の声であった」。第一声は「たいへんです!」。続けて、ソ連の日本に対する「宣戦布告」を伝えた。米国の日本向け放送が報じたという。

通信社は、記事を新聞社や放送局に配信する報道機関だ。ただ、戦前戦中の同盟通信社にはそれだけではない国策企業としての側面があった。ソ連参戦第1報の耳打ちは、そのことを如実に物語っている。通信社が政府の一部のように動いていたことを示す怖い話だ。それだけではない。通信社が海外の短波放送に耳を聳てるのは当然のことだが、政権中枢がその取材行為に乗っかって外国の動きを察知したというなら情けない話でもある。

ただ、事は「宣戦布告」だ。公式ルートの通告はなかったのか。そんな疑問も起こる。ウィキペディア(「ソ連対日宣戦布告」2021年8月8日最終更新)によると、ソ連は日本時間で1945年8月8日午後11時、駐ソ日本大使に伝えていたが、大使が東京に宛てた公電はモスクワ中央電信局で滞った。タス通信の報道が始まったのも日本時間9日午前4時だったという。だとすると、午前3時の電話が日本政府にとって初耳だった可能性はある。

ここからは、8月14日正午以降の24時間を1時間ごとに章立てした本文に入ろう。政府や軍部、宮中の動きを刻々追いかけているが、記者たちの仕事ぶりも記述している。

14日正午~午後1時の章には首相官邸地下室の描写がある。下村宏情報局総裁(国務大臣)が記者会見で、直前の御前会議の様子を報告していた。ポツダム宣言受諾の「聖断」が下されたとき、天皇からは「国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない」という言葉があったという。会見中、下村は「ぽろぽろと涙がでるにまかせていた」。御前会議がもたらした「鮮烈な感動」で、老身をようやく支えているように見えた。

特記すべきは、泣いたのが老閣僚だけではなかったことだ。記者も同様だった。この本によると、朝日新聞の政治部記者二人は「メモ用紙がぽつんぽつんと濡れる」のを見て「自分も泣いている」ことに気づいた。総裁の秘書官も「これは記者会見などというものではない」と涙しながら思った。政府が方針を大転換したのだから、記者は感情に溺れている場合ではなかったはずだ。理由を冷静に問いただすべきだった。ここに記者本来の姿はない。

この朝日記者の一人は、前日に手柄を立てていた。13日、軍部が新しい勅命を受けて新しい作戦を始めた、とする大本営の発表文が新聞社や放送局に届いた。記者は裏をとるため、それを内閣書記官長に見せる。その結果、抗戦派将校によるニセ文書とわかり、政府も間一髪、虚偽発表をラジオの電波に乗せずに済んだ。新聞社が虚報に踊らされなかったのは立派だ。だが、報道機関が政府と一体化しているような印象は、ここでも拭えない。

この本でもっとも気になるのは、ポツダム宣言受諾を表明した終戦詔書を記者がいつ手にしたか、である。14日午後9~10時の章には、首相官邸で各紙記者が詔書の記事を朝刊2版に載せようと、その公布を待つ様子が描かれている(当時、新聞は朝刊のみで、締め切りが早い1版と遅い2版があった)。だが、公布は午後11~12時。翌15日午前2~3時の章に「首相官邸詰記者から終戦の詔書の原稿が送られてきた」という記述がある。

朝刊最終版は、配送の時間を考えると遅くとも午前2時ごろには印刷を始めたい。ところが、この記述には記者たちが詔書の記事を急いで書いた気配がない。各社は朝刊出稿を見送ったのか。いや、そうではなかった。主要紙は15日、本来朝刊のはずの新聞を玉音放送後に配ったのだ。これにも政府の意向が反映していると思われるが、新聞社も終戦が決定済みの日の朝、それを伏せて戦意高揚の紙面を届けるわけにはいかなかっただろう。

私がいま問いたいのは、1945年8月14日正午から15日正午まで記者は何をしていたかということだ。聖断が下った時点で日本のポツダム宣言受諾は決まった。それを情報局総裁が明らかにしたのだから、「受諾へ」とは書けた。いや、書かなくてはいけなかった。

報道の世界にはエンバーゴという約束事がある。科学論文の発表でいえば、論文誌が解禁時刻を設定している場合、その時刻まで報道を控えることだ。だが、エンバーゴを解除する例外もある。人道面から一刻も早い公表が望まれる論文が出てきたときがそうだ。政権が戦争続行から戦争終結へと舵を切るというニュースは、無駄な犠牲をこれ以上ふやさないという観点からエンバーゴが許されないだろう。号外を出してでも速報すべきだった。

確かに、報道に踏み切りにくい事情もあった。この本によれば、15日午前2~3時には「全陸軍が全国的に叛乱のため立上った」との情報が飛び交い、詔書を軍部の謀略とみる説も流れていた。軍は「安心して近寄ってくる敵を海岸に迎撃し、一大水際作戦を敢行するつもり」というのだ。政府も軍部も追いつめられていたから、何があっても不思議はない。夜更けの新聞社で、記者たちは事態が和戦どちらへ動くのか頭を悩ませていたらしい。

思えば御前会議直後の会見から24時間、記者は耳にした超弩級の発表をどこにも発信できなかったのだ。この不作為の一昼夜が、記者の「いちばん長い日」ではなかったか。
*引用では本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月13日公開、通算587回
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あの夏、科学者は広島に急いだ

今週の書物/
『荒勝文策と原子核物理学の黎明』
政池明著、京都大学学術出版会、2018年刊

8月6日

東京五輪2020はまもなく閉幕だが、コロナ禍の拡大はとどまるところを知らない。気がかりなことが多い夏だが、今週は公開日が8月6日にぴったり重なった。折しも政府は7月、広島の原爆で「黒い雨」を浴びた人々に対して「被爆者」認定の幅を広げることを決めた。当事者たちが起こした訴訟で下級審による原告勝訴の判決を受け入れ、上告を見送ったのだ。そこで今回は76年前、広島の現実に科学者がどう向きあったかに着目する。

それならばあの本がある、と思い浮かんだのが『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(政池明著、京都大学学術出版会、2018年刊)。著者は1934年生まれ、京都大学出身で、素粒子研究が専門の物理学者だ。京大教授などを務めた後、2000年代半ばに日本学術振興会ワシントン研究連絡センター長として現地に駐在した。本書は、このときに米国の議会図書館や公文書館の資料を調べ、さらには国内の文献も読み込んでまとめた大著である。

著者は私にとっても、おつきあいの深い物理学者だ。若手記者のころは素粒子物理の取材でお世話になった。新聞社を退職してからは同じサイエンスカフェに参加していた。そう言えば去年2月、コロナ禍のマスク生活に突入する直前、会食をご一緒している。

その席での話題の一つが、本書が跡づけた京都帝国大学の戦時研究だった。表題にある荒勝文策は敗戦前後、京大教授だった原子核物理学者。戦中は海軍の委託で原子核エネルギーの解放を軍事に用いる可能性を探った。「F研究」である。それが原爆開発にどれほど近づいていたのか。著者から教わることは多かった。だから、いずれは当欄で本書を紹介したいと考えていた(書名だけは2020年8月28日付「戦時の科学者、国家の過剰」で言及)。

この流れで言えば、本書を手にとったならば、まずはF研究の記述を読み込むのが筋だ。だが今回はあえて、もう一つの読みどころをとりあげることにする。荒勝を中心とする京大チームが被爆直後の広島を踏査した記録である。新型爆弾は、一瞬にして都市一つを全壊させるほどのものなので核エネルギーの解放である疑いがきわめて濃厚だったが、即断はできない。現地調査の第一の使命は、その正体を確定させることだった。

私が、この記録に惹かれたのには理由がある。原子核物理学者が被爆現場を歩くというのは、科学者が科学の生みだした地獄を目撃することだ。そこで何を思い、どんな動きをとったかを見れば、そこから科学者特有の思考様式や行動様式が浮かびあがってくるように思われた。で、今回は本書第1編「通史」の第2部「原爆の調査」に的を絞る。京大が1945年8月から9月にかけて都合3回、広島へ送りだした調査団の活動が詳述されている。

まずは8月6日、広島に原爆が落とされた後、荒勝グループにはどんな情報がどのようなかたちで届いたのか。本書によると、荒勝は7日夕、同盟通信の記者から「情報を得た」。情報の中身は書かれていないが、米国のハリー・トルーマン大統領が原爆投下を公表したのが日本時間7日未明だから、そのことも含まれていたのだろう。同じ日、東京でも同盟通信記者が理化学研究所の物理学者仁科芳雄に接触、大統領声明文を手渡したという。

さすが理系集団と思わせるのは、グループの一員である京大化学研究所の所員が、米国の短波放送を聞いて原爆の詳報を得ていたことだ。それは大統領声明だけでなく、原爆開発にどれほどの資金と人員が投じられ、核実験がどんなものだったかについても伝えていた。

8月9日、京大調査団が広島に向けて出発する。京都駅午後9時半発の夜行に乗った。荒勝を団長とする総勢11人。「理学部班」と「医学部班」の2班編成で、理学部班には荒勝グループの助教授や大学院生が含まれ、陸海軍の技術将校も加わっていた。広島到着は翌10日正午前。調査団は「広島駅近くで死傷者を積んだ無蓋貨車とすれ違い、さらに駅前の屍を見て衝撃を受ける」。これは、団員の日記をもとにした記述である。

調査団は土壌などの試料採取を駅裏の東練兵場から始め、続いて市内を回った。荒勝ら幹部は、陸海軍が仁科ら東京の調査団と開いていた「合同特殊爆弾研究会」に合流する。興味深いのは、会議で新型爆弾の正体について問われたとき、仁科は「原子爆弾だと思います」と答えたが、荒勝は「そう思います」と同調しつつ「今科学的な調査をやっているから、それが出来たら判断します」と確答を控えたことだ。科学者らしい見解ではある。

実際、この時点では原爆否定説もあった。陸軍がまとめた報告書によれば、米軍が夜のうちに上空から発火剤や閃光剤を撒き散らし、夜が明けてから火をつけて爆発させたという説などが出ていたらしい。大本営発表流のフェイクか、情報収集力の乏しさゆえの妄想か。

荒勝チームは10日夜、帰途につく。二夜連続の列車泊。一刻も早く「確証を得たい」と考えたのだ。11日昼前、京都着。大学では大学院生や学部生が待ち構えていて、手づくりのガイガーカウンターで放射能を測った。本書は、当時の学部生が60年余の歳月を経て、当日を振り返った私信を紹介している。試料に人骨が混ざっていたこと、「練兵場の砂」から「自然放射能の3倍以上」を検知して「ゾー」としたこと……その記憶は生々しい。

ただ、これでも「科学的」には不十分だった。著者によれば、荒勝にとって原爆の確証を得るとは「核分裂によって生ずる放射性物質」や「核分裂の際発生する中性子による誘導放射能」をとらえることを意味した。「核分裂」の直接証拠を押さえようとしたのだ。それには、試料がもっと要る。そこでグループは12日夜、広島へ第2次調査団を送りだす。今度は合わせて9人。理学部の研究者と海軍の技術陣が中心で学部生も動員された。

第2次調査団もまた、市内を歩き回って試料を集めた。背中のリュックは試料で満杯になる。「焼け跡の泥棒に間違えられた」ことが一度ならずあったという。集めたのは、土壌や金属片、馬の骨片など。倒壊電柱の碍子からは接着剤の硫黄成分が、焼け跡に残る電力計からは部品の磁石やアルミニウム回転板が、それぞれ採取された。馬の骨(カルシウムを含む)、硫黄、磁石(たぶん鉄製)、アルミ板……目のつけどころが、ちょっと違う。

荒勝の目論見は、海軍に提出した「調査結果」の文書に載っている。その筋書きはこうだ。爆弾がウランの核分裂によるものなら、爆発時に中性子が放たれ、地上の物質にぶち当たる。その結果、物質は放射能を帯びる。放射化による誘導放射能だ。カルシウムも硫黄も鉄もアルミも、中性子によって放射化されればβ線を放つ――。実際、収集した試料にはどれも「強烈なβ放射能」があり、「高速中性子による誘導放射能」の存在が歴然だった。

荒勝は8月15日、結論を下して、海軍技術研究所の将校宛てに電報を打つ。
「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンテイス」
この日、日本は敗戦したのである。

本書は、科学者の心にときに悪魔が顔をのぞかせることも見逃さない。たとえば、調査団の学生が後年、自著に記した反省の弁を引用している。この人は、自分が拾った試料の放射能が京大調査団のなかで最高値を記録したことに「少し気をよくしていた」。そんな自分が「恥ずかしくなる」と振り返っている。本書を読むと、当時すでに放射線被曝の怖さはかなりの程度まで知られていたことがわかるが、それでもこんな心理状態に陥ったのだ。

もっと怖い話もある。荒勝が第1次調査団の帰洛を急がせたのは、調査報告を早めるためだけではなかったとする側近の証言だ。京都にも原爆投下があるらしいという噂を広島で聞きつけ、爆発の一部始終を比叡山頂で観測しようと思い立ったからだという。本書は『昭和史の天皇――原爆投下』(読売新聞社編、角川文庫)を引いているだけで、それを裏打ちする史料はない。もし本当なら、科学者の探究心の底知れなさに背筋が寒くなる。

京大は9月、第3次の調査団を広島へ送り込んだ。理学部班の目的は残留放射能を調べることだった。ところが17日、枕崎台風が中国地方を襲い、深夜に宿舎の陸軍病院が山津波の直撃を受ける。11人が犠牲となった。本書は、そのいきさつも入念に記している。

被爆直後の広島に入った京大の科学者は志の高い人々だった。一つには、一都市を壊滅状態にさせた元凶の正体をあくまでも科学によって突きとめようとしたことだ。もう一つは、そのためならば、ということで、放射線によって自らが受けるリスクも顧みず、焼け野原を歩きまわったことだ。いずれも、科学者らしいと言えば科学者らしい。だが、その科学者らしさは、ときに理性と矛盾する。そんな痛切な教訓が本書からは見てとれる。
*この拙稿本文では、本書に登場する人物の敬称を省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月6日公開、同日更新、通算586回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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1964+57=2021の東京五輪考

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

57年間

「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた)。

「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。

三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。

シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。

この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?

石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。

5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。

今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。

国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。

大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。

想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。

開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。

観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。

5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。

……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。

たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。

二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。

思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。

「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。

さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。

午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。

ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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