植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

文章にも陰翳をみる谷崎日本語論

今週の書物/
「文章読本」
=『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)所収

どうしてこんなことに、ああだ、こうだ、と頭を悩ますのだろうか。当欄を書いていて、そんなふうに苦笑することがままある。たいていは文章作法にかかわる。たとえば、「だだだ」の問題。末尾が「だ。」の文が何回も繰り返されてしまうことだ。見苦しいというより聞き苦しい。黙読してそう感じる。で、「だ。」の一つを「である。」に置き換えたりする。「〇〇だ。」の「〇〇」が名詞なら、「〇〇。」と体言止めにすることもある。

ただ、この切り抜け策にも難がある。「である。」でいえば情報密度の問題だ。私は新聞記者だったので、文を短くするよう叩き込まれてきた。ニュース記事では「だ。」が好まれ、「である。」は嫌われた。だから今も、文末を「である。」とすることには罪悪感がある。

体言止めについては、社内で別の視点から追放運動が起こったことがある。「容疑者を逮捕。」のような文が槍玉にあがったのだ。これでは、「逮捕した。」なのか「逮捕する。」なのかがわからない。私たちは、文の完結を求められた。辟易したのは、これで体言止めそのものが悪者扱いされたことだ。私は、納得がいかなかった。文章のところどころを名詞で区切ることは、ときにリズム感をもたらす。だから、当欄では遠慮なく体言止めを使っている。

「たたた」の問題もある。過去の事象を綴るときに「た。」の文が続くことだ。こちらは、「だだだ」ほど耳障りではない。「た。」「た。」……とたたみかけることは韻を踏んでいるようで、詩的ですらある。だが半面、文章が単調になってしまうことは否めない。

そんなこともあって、私は「た。」も続かないように工夫している。一つは、「た。」のうちのどれかを「たのである。」に替える方法だ。ただ、これは「だ。」の「である。」化と同様、簡潔さを損なう副作用がある。もう一つの解決法は、「た。」の一部を現在形にしてしまうことだ。日本語は時制が厳格でないので、読者が過去の世界に誘い込まれた後であれば、「した。」が「する。」にすり替わっていても、現在に引き戻されることはない。

一介のブログ筆者でも、このように苦心は尽きない。なかには馬鹿馬鹿しいこともあるが、気になりだしたら振り払えないのだ。これは、文筆を生業としてきた人間の宿命だろうか。同じ悩みは文豪も抱えていたらしい。そのことがわかる一編を今週はとりあげる。

谷崎潤一郎が1934年に発表した『文章讀本』(中央公論社刊)。今回は、『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)というエッセイ集に収められたものを読む。「陰翳礼讃」は私が好きな文化論で、こちらについても語りたいが別の機会にしよう。

「文章読本」の目次をみると、第一部は「文章とは何か」、第二部は「文章の上達法」、第三部は「文章の要素」。この一編が文字通り、作文の指南書とわかる組み立てだ。第一部は「現代文と古典文」「西洋の文章と日本の文章」の比較論が読みどころ。第二部では「文法に囚われないこと」という章も設け、日本語の融通無碍さを論じている。第三部は、文章を「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の切り口で考察している。

谷崎流の指南は話が具体的だ。たとえば、本稿のまくらで触れた「だだだ」や「たたた」の問題もきちんと扱っている。その箇所を読んで気づかされたのは、「だだだ」「たたた」は日本語ならではの悩みということだ。日本語の文は、ふつう主語、目的語、述語の順なので、文末は「だ」や「た」や「る」になりやすい。これに対して、英語は文の終わりに目的語の名詞がくることが多いので、“is,is,is”問題や“was,was,was”問題はありえない。

この「読本」によれば、同一音の文末が反復されると、その音が「際立つ」という。「最も耳につき易い」のは、「のである」止めと「た」止め。「のである」には「重々しく附け加えた」印象があり、「た」は「韻(ひびき)が強く、歯切れのよい音」だからだ。「た」止め回避の手だてとして、著者は「動詞で終る時は現在止めを」と提案している。「た。」の一部を現在形にしてしまうという私の切り抜け策は、文豪も推奨していたことになる。

この助言からうかがえるのは、著者が文章を人間の五感でとらえていることだ。「た」止めを避けるというのは聴覚の重視である。別の箇所では太字でこうも書く。「音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない

この「読本」は作文教室でありながら、日本語論としても読める。日本語の特徴を見定めながら、それを生かした文章のあり方を探っていると言ってもよいだろう。

「文法に囚われないこと」の章には「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません」と書かれている。一例は、時制の緩さ。規則があるにはあるが「誰も正確には使っていません」。だから、「たたた」も切り抜けられるわけだ。あるいは、主語なしの許容。日本語文は「必ずしも主格のあることを必要としない」――。これらの特徴が「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない」という日本語の美学に結びついている。

日本語の語彙の乏しさを論じたくだりも必読だ。ここで、日本語とは大和言葉を指す。

例に挙がるのは「まわる」。大和言葉では、独楽の自転に対しても地球の公転に対しても「まわる」という動詞を使うが、これに対応する中国語(原文では「支那語」)、すなわち漢字の種類は多い。「転」「旋」「繞」「環」「巡」「周」「運」「回」「循」……。これらの文字を使い分けることによって、独楽の自転のように「物それ自身が『まわる』」ことと、地球の公転のように「一物が他物の周りを『まわる』」ことの区別もできるのだ。

語彙が豊かでないのは、大和言葉の欠点だ。それは著者も認めている。だから、日本語は「漢語」を取り入れ「旋転する」などの動詞を生みだしてきた。さらに「西洋語」やその「翻訳語」も取り込んで語彙を増強している。「翻訳語」には「科学」「文明」などがある。

著者は、この欠点を「我等の国民性がおしゃべりでない証拠」とみている。続けて「我等日本人は戦争には強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のために引けを取ります」と述べているのは1930年代だからこそだが、いま読むと心に突き刺さる。

だが、欠点は長所の裏返しでもある。そのことを、著者は『源氏物語』須磨の巻を題材に解説している。光源氏が都を離れ、須磨の漁村に移り住んだときの心理描写に「古里覚束なかるべきを」という表現があるが、その英訳を「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは」と訳し戻して、原文と比べている。ちなみに、この英訳は英国の東洋学者アーサー・ウェイリー(原文では「ウエーレー」と表記)の手になるものだ。

著者によれば、光源氏を悲しませているのは、社交界の人々との離別だけではない。「古里覚束なかるべきを」には「いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさ」を「取り集めた心持」が凝縮されているのだ。この「心持」を精密に分析しようとすればキリがなく、分析を重ねるほど輪郭がぼやけてくる。こういう心理状態を描くとき「わざとおおまかに、いろいろの意味が含まれるようなユトリのある言葉」を用いるのが、日本流というわけだ。

『更科日記』を引いた一節では、足柄山を描いた文章に「おそろしげ」という言葉がなんども出てくることを著者は見逃さない。日本の古典文学には、このように同一の言葉の反復が多いという。ただ著者によれば、同じ言葉であっても、それぞれが「独特なひろがり」を伴っている。「一語一語に月の暈のような蔭があり裏がある」というのだ。これは、文章にも「陰翳」を見ていることにほかならない。さすが谷崎と言うべきだろう。

私たちは今、ワープロソフトを使うので文章を何度も推敲することが習慣になってしまった。だが、墨と筆を使っていた時代は違う。いったん墨書した文言は消えずに残った。だから、頭に浮かぶ言葉がそのまま作品になったのだ。大和言葉の文学では、語彙が限られる分、同じ言葉が書きとめられやすい。だから私たち読者は、同じ言葉から別々のニュアンスをかぎ分けなくてはならない。いや、かぎ分ける自由を手にしたのだともいえる。

同じ言葉の繰り返しは、私がブログを書くときに避けようとしていることの一つだ。だが著者谷崎の卓見によれば、それは排除すべきものではなく、美点にさえなりうる。同じ言葉のそれぞれに多様な「蔭」があるだなんて、なんと素晴らしい言語観だろうか。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月31日公開、同年4月3日更新、通算672回
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竹中労が大杉栄で吠える話

今週の書物/
『断影 大杉栄』
竹中労著、ちくま文庫、2000年刊

アナーキーな色

古書店の書棚で背表紙に懐かしい名を見つけた。竹中労(たけなか・ろう)。知らない、という人が若い世代には多いだろう。私もよく知っているわけではない。ただ、その人が1960~1970年代、メディア界で“危険視”されていたことは印象に残っている。

名前は、週刊誌でよく見かけた。と言っても、書かれる側にいたわけではない。書く側である。肩書はルポライター。政治に首を突っ込み、芸能界にも興味津々だった。タブーのない人。テレビに出ると何を言い出すかわからない。見るほうも気が気でなかった。

竹中労は謎めいている。今回経歴を調べていて、そのことを痛感した。たとえば出生年。ネット検索すると「1930年生まれ」としている記述が多い。竹中が1991年に死去したときの朝日新聞記事(1991年5月20日付朝刊)も、1930年生まれで没年齢を計算している。ところがウィキペディア(2023年3月20日最終更新)によると、1930年は「戦災後復活した戸籍」に載っている生年であり、1928年生まれとする記録もあるという。

最終学歴もはっきりしない。ネット検索では「東京外語大学除籍」としているものを見かけるが、ウィキペディアでは「甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)中退」となっている。東京外大に入ったかどうかが判然としないのだ。ちなみに旧制甲府中の中退は、校長に退陣を迫り、ストライキを打ったことが問題化して「退学勧告」を受けたためらしい(ウィキペディアによる)。竹中の青春は波乱に富んだものだったらしい。

経歴の不透明は、戦後の混乱のせいだけではない。竹中の父英太郎(1906~1988)は画家で、戦前は探偵小説や怪奇小説に挿絵を描いていたが、労働運動にもかかわり、アナキズム(無政府主義)に惹かれていた。労の型破りな言動には父の影響もあっただろう。

で、今週の1冊は、その竹中労がアナキズムについて語った『断影 大杉栄』(竹中労著、ちくま文庫、2000年刊)。大正期のアナキスト大杉栄の軌跡をたどりながら、その思想に対する共感を思う存分書き込んでいる。だから本書は、ただの評伝ではない。

巻頭の「凡例(はじめに)」によれば、本書は竹中没後、本人が大杉について書いていた文章を「夢幻工房」を名乗る人物、もしくは集団がまとめたものだ。一部は現代書館刊『大杉栄』(FOR BEGINNERSイラスト版、1985年)の原稿、あとは未発表の原稿という。

「凡例」は、著者竹中のテキストには誤った表記が多く、固有名詞や数字の確認作業はしたが「パーフェクトではありません」と言う。しかも、著者は自著に文献を引くとき、「資料を見ないで」記憶を頼りに書いていたので、「引用文は原著と相当ことなっています」とことわっている。「夢幻工房」氏は、そのほうが「原文よりずっと意味が明解」と開き直り、悪びれた様子がない。本のつくりそのものがアナーキーなのだ。

ということで、当欄も今回はアナーキーにならざるを得ない。いつもは、書物の要点を原文にできる限り忠実に紡ぎだしているが、本書については通読後の感想をそのまま書きつけることにしよう。そのほうが著者の主張を正確に汲みとれるような気がする。

私の印象では、本書は日本では無政府主義が正当に扱われてこなかったことへの抗議の書であるように思われる。著者の念頭にはアナ・ボル抗争がある。無政府主義即ちアナキズムとマルクス・レーニン主義即ちボルシェヴィズムの対立である。人々が国家権力に抵抗して自由を求める運動は、無政府主義がマルクス・レーニン主義によって切り捨てられたことでやせ細ってしまった。著者は1980年代半ばにそのことを肌で感じている。

1980年代半ばといえば、国内では学生運動が勢いを失ったころだ。旧ソ連・東欧圏では民主化の動きが台頭して、マルクス・レーニン主義に翳りが見えていた。そんな折、著者は若者に向けて、反体制は「ボル」だけではない、「アナ」もある、と言いたかったのだろう。だからこそ、大杉栄をFOR BEGINNERSシリーズでとりあげたのではないか。ちなみに著者自身も日本共産党員だったが、1967年に「除籍」で党を離れたという。

FOR BEGINNERSシリーズ『大杉栄』の「あとがき」は本書巻末にも収められているが、そこには、こんな記述がある。「アナキズムは鉄の規律を強制せず、個別の情動と創意とを連動する。自由を求めるものは、みずから自由でなければならない……」

ところが、日本の左翼運動史では無政府主義は党派の統制を逸脱するものとされ、ときに「反革命」のレッテルも貼られた。代表的なアナキスト大杉栄にいたっては、男女関係の刃傷沙汰「葉山日蔭茶屋」事件で被害者となったことや、関東大震災後に軍人の手で伴侶や甥ともども殺害されたことばかりが語り継がれ、大杉周辺に漂う自由の精神が正当に評価されていない――著者の思いをすくいとれば、そういうことになるだろう。

ここでは、1916(大正5)年秋の日蔭茶屋事件に焦点を当てよう。そのころ、大杉は女性A、B、Cと「一対三の多角恋愛」の関係にあった。Aは妻、Bは愛人、Cは新しい愛人だ。Bは新聞記者、Cは結婚していて夫は女学校時代の恩師だった。大杉とCが神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」にいるところへ突然、Bがやって来る。Cは帰京。Bは大杉と言い争いになり、彼の首を切りつけた――大杉は逗子の病院へ運び込まれて一命をとりとめる。

この事件は映画の題材となり、1970年に公開された。「エロス+虐殺」(吉田喜重監督)。出演陣は、大杉が細川俊之、Bが楠侑子、Cが岡田茉莉子だった。私は封切り後まもなく、その作品を新宿のアートシアターで観ている。映像は美しいが、衝撃的だった。

著者はこの事件を論じるとき、アナキズムは「個人の自我」を「ただちに全的に解放」して「社会制度」の「解体」をめざす、と強調している(太字は原文では傍点、以下も)。ここが、ポルシェヴィズムと違うところだ。問うているのは「個々人の悟性」であり「マルクス・レーニン流の弁証法的理性」は関心外、というのだ。「自由恋愛」は「個別人間の覚悟」を重んずる点で、「革命運動」「出家遁世」「テロリズム」と同根という。

このくだりで著者が批判の目を向けるのは、戦後の既成左翼だ。性をめぐって「道徳的に最も保守であり」「徹底した公序良俗を金看板にしている」ことを見逃さない。「むしろ今日のほうが、“自由な魂”への軛(くびき)はより重くきびしいのでありますまいか」

2023年の今、大杉の女性とのつきあい方や、それを前向きに受けとめる著者の恋愛観に違和感を覚える人は多いだろう。昨今は婚前の自由恋愛を認めつつ、結婚している人の婚外恋愛はダメという見方が標準仕様だからだ。不倫は、週刊誌の鉄板ネタになっている。

もう一つ、著者が「自由恋愛」を「テロリズム」と同列視していることも、今ならば炎上騒ぎを呼びおこしたはずだ。これは、若者がまだ「武力闘争」という言葉を平気で使っていたころだからこそ公言できた論法。要らぬ誤解を招く例示と言うべきだろう。

こう見てくると、竹中労は“out of date”の人だ。時代遅れというよりも、時代の枠からはみ出しているという感じか。だが私は、「個人の自我」の「解放」にとことんこだわる姿勢には心惹かれる。今の時代、そんな解放志向の精神があまりにもなさすぎる。

大杉はAと別れてCと連れ添い、5人の子に恵まれた。本書によれば、1923年の震災前は「子供らの面倒」をみて「乳母車を押して歩く」日々だったという。この情景は今のジェンダー観にもぴったりくる。大杉はやはり、先駆的な人だったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月24日公開、通算671回
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「原子の火」1950年代の原子力観

今週の書物/
『原子力発電所――コールダーホール物語』
ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊

黒鉛を使う

12年という時間幅は忘却に十分なのか。日本の現政権は東京電力福島第一原発事故の傷が癒えず、事故炉の後始末も道半ばだというのに、原子力発電の推進路線に回帰した。懲りない面々だ。私はそこに、歴史に学ぼうとしない姿勢を見てしまう。

原子力発電の歴史でまず注目すべきは勃興期の1950年代だ。この時代に何があったのか、どんな議論があったのか――それは2020年代の今、原発にどう向きあうかという問題につながっている。そこで今週は、原子力の古文書ともいえる書物を読む。

『原子力発電所――コールダーホール物語』(ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊)。著者は、英国のハーウェル原子力研究所の研究者で、金属物理学が専門。原著は、コールダーホール原子力発電所が稼働を始めた1956年に出た。

中身に入る前に予備知識を仕入れておこう。コールダーホール原発(すでに運転停止)は、英国イングランド北西部カンブリア地方にある。1号機は、商用発電を実現した第1世代の原子炉といえる。発電方式は、私たちがいま原発と聞いてイメージする軽水炉とは大きく異なっている。まず、燃料は濃縮ウランでなく天然ウラン。冷却材に水を使わず、二酸化炭素ガスで冷やした。中性子の減速材も液体の水ではなく、固体の黒鉛だった。

この炉は1950年代後半、日本でも関心を集めた。日本初の商用炉をどうするか、という懸案があったからだ。政府の原子力委員会がめざしたのが、実用化を果たしたコールダーホール型原子炉の輸入だった。だが、それが論争を巻き起こす。問題視されたのは、炉内に黒鉛をレンガのように積みあげる構造だ。英国のように大地震が少ないところならばともかく、地震国日本では不安を拭えない。日本学術会議も批判的な立場をとった。(*1)

政府は結局、コールダーホール型を改良して使う方針で押し切った。これが、日本原子力発電東海発電所(16.6万kw、1966年営業運転開始、廃炉の工程が進行中)である。

本書の邦訳も、この経緯と無縁ではないだろう。刊行年の1957年は原子力委員会発足の翌年。翻訳陣をみると、伏見は執筆当時、大阪大学教授(素粒子論)で原子力委の参与でもあった。森はジャーナリスト出身で日本原子力産業会議に身を置いていた。末田も同会議のスタッフだ。伏見は学術会議でも発言力があったから、コールダーホール型炉の安全性にも関心が深かったと思われる。ただ本書の翻訳は、別の動機で手がけたらしい。

訳者あとがきによれば、本書は「原子力の基礎についての解説書」と「原子力発電所の実際の建設記録」との両面を併せもっている。いわば、原発の初等教科書といった感じだ。章立ては「解説書」→「建設記録」の順なので、当欄もその流れに従う。

私の目にまずとまったのは、「原子の火」という言葉だ。著者は、そこで「火」を二つに分けて論じている。「ふつうの火」と「原子の火」である。前者の燃料は、石炭、石油、ガス、木材などさまざまある。これに対して「原子の火をもえつづけさせることのできる天然の物質」は「ただ一つ」で、それがウランだという。原発が生みだすのは熱なのだから「火」にたとえたくなる気持ちはよくわかる。だが、この類推には無理がある。

著者も「素人からしばしばうける質問」をもちだす。「その原子の火をともすにはどうすればよいのか?」。これに対する答えは、こうだ。「原子の火は、連鎖反応を持続させるようなうまい条件で、じゅうぶんな量のウランが原子炉にあつめられたときにしかおこらない」。これでは「素人」も戸惑うだろう。油に火をつけるのに油がいっぱいなければない、ということはない。核分裂という原子核反応と酸化という化学反応は同列に語れない。

それなのに、原子力報道では「原子の火」などの言葉がしばしば用いられてきた。日本では1957年8月、茨城県東海村の実験用原子炉が核分裂の連鎖反応を続けること(臨界)に成功したとき、新聞各紙が「原子の火」(朝日)「第三の火」(毎日)「太陽の火」(読売)という大見出しを掲げている。このたとえには問題があるのではないか、と私はかねがね考えてきた。そのことは福島第一原発事故後、いっそう強く思うようになっている。

福島の事故直後、私たち科学記者のもとには社内の別部門から問い合わせが殺到した。その一つが「炉内はいつになったら鎮火するのか?」だ。炭火が燻っているなら水をかければ消える。だが、放射性物質の崩壊現象は一定の時間幅で続くので、炉内の発熱は放水では止まらない。科学記者は受け売りの知識でそう答えたが、なかなか納得してもらえなかった。「原子の火」は、どうしても「ふつうの火」の延長線上に置かれてしまうのだ。(*2)

今回、私は「原子の火」をめぐって二つのことに気づいた。一つは、原子力を「火」にたとえる論法が日本だけのものではないこと。もう一つは、本書の刊行が1957年4月なので、それが東海村「原子の火」報道に影響を与えたかもしれないということだ。

さて、話を「建設記録」に進めよう。ああ、そうだったのかと教えられたのは、コールダーホール型炉の主目的が発電ではなかったことだ。本書によれば、1950年前後、原子炉研究は軍事優先の状況にあった。「あたらしいアイディアがでてくると、それがプルトニウム生産という目的に貢献するかどうかをしらべ、これにプラスするかぎりでのみ受けいれられた」と著者は書く。プルトニウムには「原爆材料」としての用途があった。

研究拠点のハーウェル原子力研究所では、発電炉(愛称「ピッパ」)の設計が進行中だったが、そこに軍部の意向が届いた。「軍事用プルトニウムの生産を増強してほしい」というのだ。その結果、ピッパは「発電を主としあわせてプルトニウム生産をも行なうもの」から「プルトニウム生産設備であってあわせて発電もするもの」に性格を変えた。1953年、政府はピッパ型の原子炉の建設を決める。これがコールダーホール原発だった。

発電炉では、タービンの熱効率を高めるため、炉から高温で熱を取りだそうとする。ところがプルトニウム生産炉は、その生産量さえふえればよいので高温の必要はない。この折り合いをつけるために技術陣が悪戦苦闘したことが、この本には詳述されている。

こうみてくると、第2次大戦後に颯爽と登場した原子力平和利用の試みは戦中の核兵器開発とひとつながりだったことを改めて思い知らされる。軍民両用(デュアルユース)が露骨なかたちで姿を現しているのだ。1953年は、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が「平和のための原子力(atoms for peace)」を提唱した年である。麗句によって核保有国の既得権を守りつつ核拡散を牽制したわけだが、その空虚さを感じてしまう。

コールダーホール原発は湖水地方の一隅にある。この地方は「ピーターラビットの里」とも呼ばれ、観光客の人気を集めている。本書は、原発所在地の地誌にも触れている。それによると、近くにはコールダー川が流れ、原子炉は荘園領主の館コールダー・ホールの農場に建てられた。原発名に、立地場所の自然と歴史が刻まれたわけだ。このくだりを読んで、そうか、あのあたりも本来はイングランドの田園地帯だったのだなと思った。

私は1993年にこの地域を訪れている。稼働準備中の核燃料再処理施設ソープ(THORP)を取材するためだった。一帯には原子力施設が集まり、セラフィールドの名で呼ばれるようになっていた。だだっ広い平原にコンクリート建造物が点在する様子は寒々しかった。

私には、その風景が日本国内の原発密集地とだぶって見えた。1970年代、新人記者として北陸福井に赴任したころ、半島部には原子炉が建ち並び、さらに増設されようとしていた。原子力は過疎地を狙い撃ちする。これも洋の東西を問わない現実のようだ。

*1 言論サイト「論座」2021年6月21日付「学術会議史話――小沼通二さんに聞く(3)=尾関章構成」(一部有料)
*2 『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代選書)
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月3日公開、同年4月10日更新、通算668回
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2・26で思うkillとmurder

今週の書物/
『二・二六事件』
太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊

決起の破綻

ウクライナのニュースを見ていると、頭がクラクラすることがある。「敵国に兵士×××人の損害を与えた」というような報道発表に出あったときだ。要するに「敵兵×××人を殺した」ということではないか。それなのに、どこか誇らしげですらある。

これは、邦訳がなせる業かもしれない。英文の記事でよく見かける言い方は“×××troops were killed.”ここで用いられる動詞は“kill”であって“murder”ではない。日本語にすれば、どちらも「殺す」だが、英語では両者に大きな違いがある。

“kill”は幅広く、なにものかを死に至らしめることを言う。目的語が人とは限らない。生きものはもちろん、無生物であっても、機能を無効化するときに使われる。主語も人に限定されない。事故や災害が原因でも“kill”であり、犠牲者は受動態で“be killed”と言われる。だから「殺す」と訳すにしても、意味をかなり広げなくてはならない。日本語でも「はめ殺しの窓」のような用法があるが、あれと同じような殺し方である。

これに対して“murder”は、ミステリーの表題で「~殺人事件」と訳されるように故意の「殺人」を指す。日本語で「故殺」「謀殺」などと言うときの「殺す」だ。

ウクライナ報道で私が覚える違和感は何か。それは、情報の発信源が“kill”と言っているのを“murder”と受けとめたことにあるのだろう。だが、私が間違っているとは思わない。戦場で“kill”された人々も、結果としてやはり“murder”されたのである。

こと戦争にかかわる限り“kill”と“murder”は切り分けられない。こう確信するのは、私が戦後民主主義に育てられた世代だからだろう。戦後民主主義は、生命の尊重を最優先する。だから、仮にたとえ崇高な目的があったとしても、そのために他者の生命を奪ってよいとは考えない。敵兵を攻撃して生命を絶つ行為を“murder”ではないと言い切れないのだ。平和ボケと冷笑されても、この認識は私の思考回路に染みついている。

ただ心にとめておきたいのは、私たちの社会にも“kill”と“murder”を切り分ける人々がかつてはいたことだ。だからこそ、大日本帝国は戦争を始め、ドロ沼に陥っても立ちどまることができず、膨大な犠牲を払った末にようやくそれを終えたのだ。

で今週は、そんな戦前日本社会にあった“kill”の正当化に焦点を当てる。とりあげる書物は、『二・二六事件』(太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊)。1936年2月26日、陸軍青年将校と有志民間人の一群が起こした政権中枢に対する襲撃事件の顛末を、史料を渉猟して再構成したものだ。この文庫版は、河出書房新社「ふくろうの本」シリーズの1冊、『図説 2・26事件』(2003年刊)をもとにしている。

著者は、1937年生まれの出版人。明治期以降の戦史を中心に日本の近現代史を扱った編著書が多い。在野のグループ「太平洋戦争研究会」の主宰者でもある。

本書の中身に立ち入る前に、2・26事件とは何かをおさらいしておこう。昭和初期の日本経済は世界恐慌の大波を受け、失業者の増加や農村の疲弊が深刻になっていた。政治に対する不満が高まるとともに軍部の影響力が強まり、軍内部に権力闘争が起こった。そんな情勢を背景に、尉官級の陸軍将校が天皇親政の国家体制をめざそうと決起したのが、この事件である。クーデターを企てたわけだ。だが軍上層部は同調せず、頓挫した。

本書では、事件の全容が一覧表になっている。決起将校は20人、これに下士官や兵士、民間人らを加えた参加者の総勢は1558人。襲撃場所は16カ所。即死者は計9人。高橋是清蔵相ら政府・宮中の要人だけでなく、巡査部長、巡査級の警察官も含まれる。

本書は、2・26事件の一部始終をほぼ時系列に沿って再現している。血なまぐさい場面が続出するので、それを一つひとつなぞりたくはない。ここでは、岡田啓介首相がいた官邸や高橋蔵相の私邸に対する襲撃に焦点を絞り、何があったかを見てみよう。

首相官邸を襲撃したのは、歩兵第一連隊(歩一)機関銃隊の約290人。歩一は、今の東京ミッドタウン所在地に駐屯していた連隊だ。未明に出動、午前5時には官邸を取り囲んだ。「挺身隊」が塀を越えて門を開け、将兵がなだれ込み、官邸内の首相居宅(公邸)へ突入した。「屋内は真暗だった。手さぐりで進むのだが予備知識がないのでさっぱり見当がつかない」と、二等兵の一人は振り返っている(埼玉県編纂『二・二六事件と郷土兵』所収)。

この二等兵は、和室を一つずつ見てまわる。警官の拳銃の発砲音も聞こえてくるので油断はできない。前方の廊下で「白い影」が動いた。後を追い、「ココダ!」と思って飛び込むと、お手伝いさんの部屋だったらしく、女性の姿があった。当てが外れて部屋を出た途端、銃弾が腹を直撃する。這って洗面所まで逃げたところで意識が途絶えた――。手記を残したのだから、一命はとりとめたわけだが、生きるか死ぬかの攻防が、そこにはあった。

別の二等兵は、居宅部分の中庭に逃げ込む「老人」を目撃した。報告を受けた少尉は、すぐさま射殺の命令を下す。二等兵は「老人」の顔と腹を撃ったが、それだけでは絶命しなかった。襲撃部隊を率いる中尉は、上等兵の一人にとどめの発砲を命じる。胸と眉間に2発。「老人」は息絶えた。ここで信じられないことが起こる。中尉が「老人」の顔を岡田啓介首相の写真と突きあわせ、その男が首相本人であると見誤ったのだ。

「老人」は実は首相の義理の弟で、「首相秘書官事務嘱託」の立場にある松尾伝蔵陸軍予備役大佐だった。面立ちがもともと首相に似ていたが、髪を短く刈ってわざわざ首相に似せていた可能性もある。結果として、影武者の役を果たすことになったのは間違いない。襲撃部隊は、人違いの銃殺に万歳の声をあげ、樽酒を運び込ませて乾杯までしたという。本物の首相は「お手伝いさんの部屋」の押し入れに隠れ、難を逃れたという。

高橋是清蔵相の殺害では、将校たちが直接手を下した。蔵相の私邸は東京・赤坂にあり、蔵相は二階の十畳間で床に就いていた。近衛歩兵第三連隊の中尉や鉄道第二連隊の少尉らが二手に分かれて押し入り、寝室へ。中尉が「『国賊』と呼びて拳銃を射ち」、少尉は「軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました」――事後、少尉自身が憲兵隊にこう供述したという。この場面からは、相手が「国賊」なら“kill”は正当化できるという論理が見てとれる。

こうみてくると、2・26事件の青年将校らは人間の生命よりも国家の体制を大事に思う人々だったのだろうと推察される。だが、そう決めつけるのはやめよう。本書を読み進むと、意外なことに気づく。彼らにとっても生命はかけがえのないものであったらしい――。

青年将校らに対する軍法会議のくだりだ。1936年6月に死刑を求刑された少尉(前出の少尉二人とは別人。階級は事件当時、以下も)は手記にこう書く。「死の宣告は衝撃であった」「全身を打たれたような感じがして眼の前が暗くなった」。同様に死刑の求刑を受けた民間人(元将校)の手記にも「イヤナ気持ダ、無念ダ、シャクニサワル、が復讐のしようがない」とある。“kill”を正当化した人々が“be killed”に直面して動揺した様子がわかる。

この心理は人間的ではある。前出の元将校は仲間に「軍部は求刑を極度に重くして、判決では寛大なる処置をして我々に恩を売ろうとしている」と楽観論を披瀝したらしい。7月の判決では「眼の前が暗くなった」少尉が無期禁固、楽観論の元将校は死刑だった。

自分の生命はだれもが可愛い。こう言ってしまえば、それまでだ。だがだからこそ、他人の生命を粗末にすることは罪深い。人の生命は“kill”されても“murder”されるのと同等の結果をもたらす。キナ臭いにおいがする今だからこそ、そのことを再認識したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月24日公開、通算667回
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