北行きの飛行機で「北帰行」を読む

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

北へ

機体がふわりと浮かびあがり、秋空のど真ん中へ飛び込んでいく。某日午前、東京羽田発札幌千歳行きの航空便が離陸すると、私はポケットから文庫本をとりだした。『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年刊)である。今回、旅の道づれはこの本と決めていた。

外岡秀俊(1953~2021)は、勤め先の朝日新聞社で私と同期だった。卓抜な記者だっただけではない。言動に品位が漂い、社内外の敬愛を集めていた。だから、一線記者の立場から中間管理職を飛び越えて編集局長の任に就いた。その後、早期退職して故郷札幌に戻り、母親の介護を引き受ける。そんな見事な半生が去年暮れ、突然途絶した。心不全だった。私が北に旅するとき、この本を手にした心情もわかっていただけるだろう。(文中敬称略)

当欄は今年、外岡のことを繰り返し書いてきた。2月と3月には『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書)を2回に分けてとりあげた(12)。4月と5月には『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)に収められた著者の記事を紹介した(34)。今回、もう一度話題にしたら過剰感は否めない。だが、どうしてもそうしたい。それは、こういうことだ――。

『3・11…』『世界 名画の旅…』で私が注目したのは、外岡の新聞記者としての一面だった。前者は東日本大震災被災地からの報告、後者は欧州の絵画紀行。どちらにも、同業の身として心に響く話が盛り込まれていた。もちろん、彼は私にとってまぶしい記者だが、それでも共有するものはある。ひとことで言えば、同じ時代を取材者の立場で駆け抜けてきたという思いである。私は今年、当欄で4回を費やしてその共感に浸ったのである。

だが、それだけでは外岡の一面しか見ていない。彼は1977年に新聞記者になる以前から、すでに作家だった。前年、今回とりあげる長編小説『北帰行』で文藝賞を受けていたのだ(「文藝」1976年12月号に発表)。ただその後、記者の仕事に忙殺され、創作活動をほとんど休止している。人間外岡秀俊の内部では記者としてのエンジンが全開したが、この間、作家としての衝動はどこでどうなっていたのか。旧友としてはそれが知りたい。

ということで、今回は『北帰行』を熟読する。この小説は、北海道の炭鉱町U市から集団就職で東京に出た「私」が、流血沙汰を起こして町工場をやめさせられ、職を転々としたあげく帰郷を決心、歌人石川啄木の足跡に思いを馳せながら北へ北へと向かう物語だ。そこに、「私」の内面を去来する自身の回想や啄木の史実が織り込まれている。当欄は、例によって筋はたどらない。「私」の視点がどこにあったかに注目しようと思う。

まずは、時代背景を押さえておこう。今昔の隔絶を印象づけるものの一つは馬橇(ばそり)だ。「私」が小学生のころは馬が雪道で橇を引く様子が校舎の窓からも見えた。手綱を引き、馬を叱咤する馭者の源さん、その源さんを「私」と親友の卓也に引きあわせてくれた図工教師びっくりさん、そして源さんの小屋で見せてもらった仔馬。卓也と「私」は、その仔馬をジルゴという愛称で呼んだ。ジルゴをめぐる「私」の思い出は作品の随所で蘇る。

もう一つ、時代を特徴づけるのはテレビだ。「日一日と、屋根に林立するアンテナの数が増えていく」変化を「私」は10歳のころに現認した。「何か得体の知れないものがひたひたとU市に打ち寄せてくる」ように感じたという。人々の暮らしに家電製品やクルマが入り込み、町では道路工事やビル建設が進んだ。「私」の町では、そんな高度経済成長の起点が馬橇の行き交う光景だったのだ。飛躍の幅は大都会よりもはるかに大きかった。

ただ、炭鉱町の人々は高度成長の恩恵を受けたとは言い難い。いやむしろ、その犠牲者だったとも言えるだろう。石炭業界は1950年代後半から石油に市場を奪われ、廃山や閉山、規模縮小を余儀なくされていた。U市の炭鉱も、政府から「合理化」をせっつかれていた。この作品では、「私」が通う中学校に由紀という少女が東京から転校してくるのだが、彼女の父親も会社から「合理化」狙いで送り込まれた鉱山技師らしかった。

この作品で、私がもっとも心を動かされたのは、炭鉱事故に震撼するU市を描いたくだりだ。「けたたましいサイレンの唸りが鳴り響いたのは、寒空に初雪が舞う冬の昼下がりのことだった」。このとき、「私」は中学校で数学の授業中。教師が幾何図形を板書する手をとめた。チョークが「ぼきんと折れて粉を散らした」。炭鉱町で、「コヨーテの遠吠え」のようなサイレンは不吉な報せだ。その音を聞いて、校内がざわめきはじめる。

まもなく、校内放送が流れる。三番坑で落盤があったという。「皆のお父さんがいるかもしれん。兄さんが居るかもしれん」……。「私」も、父親は炭鉱で働いている。学校を出て、坑口へ直行した。そこはもう人々が大勢群がり、殺気立っている。救急車が次々に駆けつける。毛布や握り飯も運び込まれる。坑内には二十数人が取り残されているらしい。「お父ちゃんが中に入ってんだよ」。そんな悲鳴が聞こえる。「私」の父は坑口のそばにいた。

坑口を封じなければ大爆発が起こる、というのが会社の判断だった。これに対して、封鎖すれば坑内の家族や仲間が「生殺し」にされる、というのが群衆の声だ。両者の間で、「私」の父は保安長という微妙な立場にあった。「坑夫」でありながら、会社側に立たされる役回り。父は「裏切り者」と指弾されると、自身を含む有志11人で救助隊をつくり、坑内へ突入する。結果として、そのことで事故の犠牲者が11人追加されることになった。

一方に資本家や経営者がいる。他方に労働者たちがいる。その狭間で、中間管理層が板挟みになっている。考えてみれば1960~70年代は、こういう構図で社会を読み解くことができる時代だった。著者は郷里北海道の炭鉱町に、その雛形を見いだしたのだろう。

2020年代の今は、これほどには単純でない。社会問題を階級の構図だけでとらえきれなくなった。貧しさは労働者階級にとどまらず、社会の隅々に浸潤している。経済だけで論じ切れない難題も顕在化した。その一つに、誰から先に助けるかというトリアージの問題がある。ある人を救うのに別の人を見捨ててもよいか、というトロッコ問題もある。そんな究極の選択が現代社会では避けられないとの認識を、著者は1970年代に先取りしていた。

その意味で、この作品は著者が新聞記者となることの予兆だった。今、記者外岡秀俊が遺した仕事を顧みるとき、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の取材は欠かせない。両震災で浮かびあがった今日的な難題に、こうした究極の選択があった。

記者活動の予兆といえば、このくだりで著者が報道のあり方に目を向けていることも見逃せない。報道陣は、「坑夫」の家族や仲間が待機する小学校に押し寄せてきた。「フラッシュを焚いたりテレビ・カメラを回したりするのを、私は苛立ちながら見詰めていた」。このとき、もっとも罪深いのは「不躾な質問」ではなかった。それよりも「同情の大袈裟な身振りをそのままなぞるような言葉」が「深く人々の腹に食い込んだ」と書いている。

著者や私が新聞記者になったころは、報道機関に対する風当たりが今ほどには強くなかった。事件事故の関係者を追いかけて取り囲む、という報道攻勢は今ではメディアスクラムと呼ばれて批判の的だが、当時はふつうにあった。自省を込めていえば私も、そしておそらくは著者も、若手のころは一線の記者としてその片棒を担いだのだ。著者は、やがては自身が背負わされるかもしれないそんな負の重荷を予感していたのだろうか。

本稿前段で書いたように私は、新聞記者外岡が30年余の記者生活を通じて作家外岡をどのように抱え込んでいたかを知りたかった。だが、炭鉱事故のくだりを読んでいると、彼の内面では作家としての視点が記者としての視点と重なりあい、新聞記事に影響を与えていたように思えてきた。人間に関心を寄せる文学者としての側面が、社会に目を凝らす報道人としての側面と共鳴している。その徴候が『北帰行』にすでに見てとれるのだ。

当欄はもう1回この作品をとりあげ、文学と報道とのかかわりを見ていこうと思う。

*1 当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2 当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
*4 当欄2022年5月6日付「ウィーンでミューズは恋をした
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月28日公開、通算650回
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■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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“もっている”記者という悲劇

今週の書物/
「災厄」
R
・シアーズ著、福島正実訳
『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)所収

記者の産物

クジというもので、特等賞に当たったことが私にはない。ツキがないのだ、とつくづく思う。ただ、自分の新聞記者生活を振り返ると、あながちそうとばかりは言えない。1987年2月、銀河系直近の大マゼラン雲に超新星が現れたのが、ツキに恵まれた例だ。

超新星は、恒星が一生の最期に大爆発する姿。このときは爆発で飛び散った素粒子ニュートリノを、東京大学教授小柴昌俊さんのグループが捕まえた。岐阜・富山県境の神岡鉱山に置いた水タンク「カミオカンデ」が検出したのだ。ではなぜ、私にツキがあったのか。実は1月に新聞社の科学部で持ち場替えがあり、私は天文担当になったばかりだった。もし持ち場替えがなければ、この科学的大事件を取材する機会を逃していただろう。

超新星ニュートリノをめぐっては、小柴さん自身の幸運がよく語られる。「カミオカンデ」をニュートリノの観測に合わせて改造した後、東大を定年退職するまで約3カ月間。この短い期間に、さほど遠くない超新星からニュートリノが届くというめったにない出来事が起こったのだ。それに比べれば、科学記者のツキなど取るに足らない。だが、個人的には大きな意味があった。物理学者の幸運に同期して、私にも大仕事が舞い込んだのである。

私自身がツキを得て大仕事に出あったのは、この一件くらいだ。ただ業界を見渡すと、この人は大仕事を引き寄せているのではないか、と言いたくなる記者もいる。俗な言い方をすれば“もっている”。何を「持つ」のかが不明の「持つ」である。スポーツのニュースで、偶然まで味方につけてしまうような選手によく使われる。ただこれは、記者に対しては誉め言葉になりにくい。少なくとも、当人が堂々と自慢できる話ではない。

というのも、新聞記者の大仕事は不幸な事件や事故であることが多いからだ。ところが、駆けだしの記者が警察回りを始めてすぐ大事件に遭遇すると、先輩たちから「事件を引っ張ってきたな」「もっているヤツだ」と冷やかされたりする。刑事事件には被害者がいるので、この軽口は不謹慎のそしりを免れない。だが、記者は事件の取材競争が始まると気持ちが高ぶっていく。それで仲間うちでは、こんな歪んだ心理が生まれてしまうのだ。

で、今週は、そんな記者心理を見透かしたような米国のSF短編を読む。「災厄」(R・シアーズ著、福島正実訳)。当欄が先週とりあげた作品と同様、『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)に収められた一編である(*)。

冒頭に描かれるのは1950年代半ば、独立戦争のさなかにあるアルジェリアの街だ。主人公の「ぼく」は米国人の新聞記者。なぜ、自分はこの戦地に特派されたのか。理由の一つは、どういうわけか「流血の惨事」に「縁」があって「いくつかの大きな事故や戦乱のスクープ」で名を馳せていたことにある。業界では「厄病神(カラミティ)」とも呼ばれている。たぶん、本社も彼を“もっている”記者とみて白羽の矢を立てたのだろう。

「ぼく」自身は、戦場取材を希望していたわけではなかった。このときもカフェの一角に陣取って、一群の売笑婦が通りを行き過ぎるのを眺めていた。と、突然、若い女性が近づいてきて同じテーブルに相席する。「アメリカ人じゃありません?」と声をかけてくる。「故郷のひとだと思ったら、たまらなくお話がしたくなっただけなの」。ニューヨーク出身の踊り子で、名前はカーラ。この街でもキャバレーでショウに出ているという。

カーラは謎めいていた。いきなり「ぼく」の職業を新聞記者と言い当てる。「あなたはおぼえていないでしょうけど、わたしはあなたをおぼえているのよ」。そう言って、7歳のときに火事があって……と昔話を始めると、「ぼく」にもその記憶がよみがえってくる。10年あまり前のこと、テキサス・シティでアパートの火事があり、そのとき「ぼく」が助けだした女の子がカーラだった。これで二人は意気投合、ついには一夜をともにする。

カーラはハニートラップではないか、と思われる導入部だ。話がスパイ小説めいたものに発展するのかなという気もしてくるが、それからの展開はこの予想を裏切る。

翌日早朝、二人は地中海沿岸へドライブに出る。あたりにはローマ時代の遺跡があったので、廃墟のそばでサンドイッチをぱくついた。朝の陽射しが注ぐなかでのピクニック。「すばらしい恋」だ。ただこのとき、「ぼく」の内心には「奇妙な不安定感」が湧きあがっていた。「胸さわぎ」のようなものだ。「悪いこと」の予感といってもよい。そして、それは現実になる。大理石の柱がぐらつき、倒壊した。大地震が起こったのである。

二人は、どうにか逃げ抜けた。「ぼく」はその日、地震の原稿を本社に送りつづける。仕事をしていても、避難時にカーラが「もういや! もう、またこんなことになるなんて!」と絶叫していたことが気になる。送稿を終えて「きみは、今までに、何度もこういう災害を見てるんじゃないの?」と尋ねると、彼女はそれを認めた。テキサス・シティの火災、列車事故2回、1年前のリオ・デ・ジャネイロ大火……。それらすべてに居合わせたという。

ここで交わされる「ぼく」とカーラの問答が、この小説の主題だ。「きみは、災害が起こるまえに、何か、感ずるんじゃないか?」「そうなの。わたし、何か恐ろしいことが起こるとき、かならず、何か感ずるの」。不安に駆られて、一人だけでいられなくなるという。「ぼく」は、前夜の情事にもそんな事情があったのかと思い、「奇妙な安堵と失望」の入り交じった気分になるが、カーラは「でも、それだけじゃないわ」と抱きついてくる――。

主題についてあれこれ書くのは、このくらいでやめる。その代わり、作品の後段で出てくる災厄のことで、私がとんでもないことに気づいてしまったことを書き添えておこう。

その災厄とは「一九五五年のマン島レース」で起こった大事故だ。「あの惨事については、皆さんのほうがよく知っているだろう」と作者がことわっているから、実際にあった事象を指しているらしい。レースに出場したクルマが「超満員の観客席の中へ、頭から突っこんで」「マン島レース始まって以来の悲惨な大事故を惹き起こした」とある。死者82人、重軽傷者100人余という数字まで示されているので、これは史実だろうと思った。

このとき頭に浮かんだのが、自動車レースの聖地ル・マンだ。いつのことかはわからないが、ここで大事故があったという話を聞いた気がする。ネットで検索すると、ウィキペディアに「1955年のル・マン24時間レース」という項目があり、接触による炎上事故でドライバーと観客「83名」が亡くなったと記されている(2022年4月15日確認)。この事故を作品に取り込んだのだな、と早合点しそうになった。が、どうもおかしい???

違和感の理由はすぐにわかった。作中で描かれているのは「マン島レース」であって、「ル・マン24時間レース」ではない。マン島は英国の自治保護領で、イングランド西岸のアイリッシュ海にある。一方、ル・マンは字面でわかるようにフランスの小都市で、ロワール地方にある。ここで話がややこしいのは、マン島も有名な「レース」開催地であることだ。オートバイの「マン島TTレース」が、毎年の恒例行事になっている。

これは、作者がわざとすりかえたのか、それとも単なる勘違いか。作者の創意を雑念なしにくみとるのが正攻法だが、作者はレース系の話題が苦手で混同したのだろう、とニヤッとするのも読書の楽しみ方としてはありだろう。もう一つ、翻訳の段階で取り違えられた可能性はどうか。原文で確かめるべきだが、今すぐ手に入らない。推測で言えば、原語で「マン島」は“Isle of Man”、「ル・マン」は“Le Mans”なので、間違えたとは考えにくい。

私の関心は本題から離れ、作中の「マン島レース」事故が実話かどうかという一点で立ち往生してしまった。事実の認定にこだわるのは元新聞記者だからだろう。たまたま読んだSFでこんな難所に出あうとは。私は別の意味で、“もっている”のかもしれない。
*当欄2022年4月8日付「忘れたらどうするかがわかる小説
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月15日公開、通算622回
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全電源喪失とはこういうことか

今週の書物/
『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』
共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊

電源

今年は、3・11が金曜日になった。11年前と同じだ。しかも当欄にとっては、拙稿公開日に当たる。あの日を想い起こしながら、東日本大震災の一断面を切りだしてみよう。

あの日、私は東京・築地のビル中層階にいた。勤め先の新聞社だ。地震に襲われたのは、長閑な昼下がり。言論サイトWEBRONZA(現「論座」)の編集会議に出ていたが、あまりの揺れに会議は中断した。窓際の自席に戻ると、書棚の本が落下して床一面に散らばっている。窓の外には青空が一面に広がっていたが、お台場あたりの海岸部で黒煙が不気味に立ち昇っている。これが、ふつうの地震でないことは明らかだった。

テレビの画面には、空撮の生映像が流れていた。仙台近郊で津波が家々をのみ込み、避難しようとするクルマを執拗に追いかけている。私は、それを同僚と見ていて言葉を失った。海水が容赦なく大地を覆っていく。あたかも、魔の手が指先を広げるように。

3・11を生涯でもっとも忘れがたい悪夢の日と呼ぶには、もうこれだけで十分だった。だが、この日はそれで終わらない。日差しが斜めに傾いた午後4時ごろ、福島県の東京電力福島第一原発が「全交流電源喪失」に陥ったという知らせが私にも届く。東京・霞が関の経済産業省にある原子力安全・保安院で、職員が報道陣に速報したというのだ。超弩級の自然災害に今日的な技術災害が追い討ちをかけた。そんな展開だった。

正直に告白しよう。私はそれを耳にしたとき、すぐには事の重大さに気づかなかった。原子炉の水位が下がり、冷却能力が失われたと聞いたなら、それだけで背筋が凍ったはずだ。だが、失われたのは交流電源だという。これは、送電線の電力が届かないということではないのか? そういうときは非常用の自家発電機が働くはずだ。だから、冷却水の循環が止まることはない……そう考えたのだ。だが、これは大きな誤りだった。

原発技術者が全交流電源というとき、非常用電源も勘定に入れているのだ。福島第一原発では、それも含めてダウンした。実際、保安院の速報には、非常用発電機が動いているのは6号機だけという情報も添えられていたらしい。津波が原発を襲うというのは、そういうことだった。だからそのとき、原発に詳しい同僚記者は私にこう言ったのだ。「尾関さん、これは大変なことだよ、チェルノブイリ級のことが起こってもおかしくない」

あの2011年3月11日以来、福島県一帯で続いている事態は、その予言が的中したことを物語っている。で、今週は『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』(共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊)。共同通信社が2014~2016年、断続して配信した連載(全213回)をもとにしている。2015年、前半の掲載分が祥伝社によって書籍化されたが、それに加筆したものが本書だ。

巻頭の一文「はじめに」によれば、本書が目を向けたのは福島第一原発事故の「発生直後」。そこに居合わせた人々が実名で登場して「何を見て」「何を思ったのか」を語ってくれたという。東京電力の所員がいる。協力会社の作業員がいる。東電本社の幹部や政治家もいる。その人たちが「何を思ったのか」に踏み込んだところが、政府や国会の事故調査委員会「報告書」と比べて異彩を放つ点だ。事故が生々しく再現されているのである。

編著者(高橋秀樹さん)は1964年生まれの共同通信記者。「はじめに」に同僚7人の名が記されている。本書は取材班が一体となって仕上げた労作と言えよう。

本書の描写で終始緊迫感が漂うのが、中央制御室の光景だ。ちょっと補足すると、福島第一原発の敷地では海沿いに原子炉6基が並んでいる。それらはぽつんぽつんと建っているのではなく、原子炉建屋と海岸線の間にタービン建屋などの建物が連なっている。このうち、原子炉建屋に隣接するのがコントロール建屋。中央制御室は、その2階にある。福島第一では、制御室一つが原子炉2基を受けもつつくりになっている。

地震発生直後の1・2号機はどうだったか。原子炉は緊急停止した。電力は外部送電網からの供給が停まったが、非常用ディーゼル発電機(DG)が動きだした――ここまでは想定の範囲内だったらしい。ところが、しばらくしてとんでもないことが起こる。「DGトリップ!」。運転員の一人が叫んだ。DGが発電不能に陥ったというのだ。こうして「制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消え」「天井の蛍光灯も消えた」。

これが、全交流電源喪失が察知された瞬間だ。運転員が受けてきた訓練は「ありとあらゆるケース」に対応している「はずだった」。ところが、「DGトリップ」は想定外だった。制御室に窓はない。テレビのニュースを見られるわけでもない。運転員たちには、何が起こったか見当がつかなかった。外から入ってきた同僚が「海水が流れ込んでいます!」と報告するまでは……。津波がタービン建屋地下のDGを水浸しにしたのだ。

電源が途絶えれば、制御室の計器類を見ることもできない。原発制御の手も足も出なくなる。これを「ステーション・ブラック・アウト(SBO)」と呼ぶ。この事態は、原発敷地内の免震重要棟に詰めていた所長たちに報告される。「1、2号、SBO!」「3、4号もSBO!」――そうとわかった瞬間、3・11東電福島第一原発事故は、原子力災害対策特別措置法10条の適用対象となり、法律的にも「原子力災害」となったのである。

ここで、福島第一原発では交流電源のみならず、全電源の喪失も起こっていたことを言い添えておこう。東京電力のウェブサイトによると、稼働中の1~3号機のうち1~2号機では直流のバッテリー電源も浸水被害で失われていた。このため計器類を復活させようと構内循環バスのバッテリーが持ち込まれたが、暗闇での配線作業は困難を極めた。午後9時すぎに1号機の水位計が読めるようになったものの、数値は正確でなかったという。

翌12日未明、免震重要棟の緊急時対策本部から、冷却不全で蒸気がたまった1号機格納容器のベント(ガス放出)が指示される。ベント用の弁も電源喪失で遠隔操作できないから、だれかが原子炉建屋内に足を踏み入れ、手作業で開けなくてはならない。

当直長は運転員を集め、こう告げる。「申し訳ないが……誰か行ってくれないか」。ただし、「若い者は行かせられない」。制御室には、出番ではない幹部級のベテランたちも応援に駆けつけていた。当直長が「まず俺が行く」と言うと、彼らは「残って仕切ってくれなきゃ駄目だ」と諫め、自分たちが次々に手を挙げた。ただ、手が途中でとまった人もいる。「怖かったです」「家族のことも頭をよぎりました」と、内心を率直に打ち明けている。

「突入」は午前9時すぎに始まった。第1班は原子炉建屋2階の弁を開いた。第2班は地下の弁を開くのが任務だ。ところが、こちらは近づくと、携帯の線量測定器の針が振りきれた。5年間の線量限度を6分で浴びてしまう状態。結局、撤退するしかなかった。

1・2号機制御室の様子を引きつづき見ていこう。ベント第3班を出すことは、とりあえず見合わせていた。制御室内の線量も上昇している。1号機寄りが高めなので、運転員の大半は2号機寄りにいた。事故発生から缶詰状態だから、疲れ切っているのだろう。40人ほどは床に腰を下ろしている。このとき、室内に声がとどろいた。声の主は、中堅運転員の一人だ。「何もできないなら、ここに何十人もいる意味があるんでしょうか」

当直長は、このときも運転員を集めて言う。「ここを放棄する」ことは「制御を諦(あきら)める」ことであり、「避難している地元の人たち」を「見捨てる」ことになる――こう説得して「残ってくれ」と頼んだ。これで一同は静まり返ったという。

事故2日後、13日の1・2号機制御室の光景には心が痛む。12日には1号機原子炉建屋の水素爆発があり、制御室の線量も急上昇したため、運転員は全面マスク、ゴム手袋姿だった。食べ物は乾パンだけだったが、すでに食べ尽くして、残るはスナック菓子くらい。あとはペットボトルの水だ。ただ、飲み食いするにはマスクや手袋をとらなくてはならない。「空腹に耐えるか、汚染覚悟で飲食するか」。そんな極限状況に置かれていたというのだ。

1・2号機と3・4号機の制御室で「数人1組の交代制」の勤務態勢がとられたのは13日夕からだという。私たちは原子炉建屋の水素爆発を遠景の映像で見て慄くだけだったが、あの瞬間も直近では、運転員がほとんど不眠のまま炉の制御を取り戻そうとしていたのだ。その様子は、コロナ禍の関連職場で働く人々の献身と重なりあう。原発に対する賛否は別にして、あの事故に第一線で立ち向かった人々に対する敬意と謝意だけは忘れずにいたい。

(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月11日公開、通算617回
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外岡秀俊の物静かなメディア批判

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

鉛筆1本

メディアが騒がしい時代にも物静かなジャーナリストはいる。記事を書けば、品位がにじみ出る。発言すれば、説得力がある。朝日新聞元記者の外岡秀俊さんは、そんな人だった。去年暮れ、突然の病に倒れ、68歳で死去した。(以下、文中敬称略)

外岡の記者歴はこうだ。1977年、新聞社に入り、二つの地方支局を経験、その後、学芸部や社会部に籍を置いた。ニューヨークとロンドンに駐在経験もある。特筆すべきは、デスク(出稿責任者)や部長などの中間管理職を経ることなく、編集局長に就いたこと。退任後は編集委員として第一線に戻った。この時代だから執筆は打鍵によるが、昔風に言えば「鉛筆1本」の記者生活を貫いた。2011年、介護のために早期退職、故郷の札幌に住んだ。

私にとって外岡は入社同期生。記者部門は30人ほどいたが、外岡は最初から有名人だった。東京大学在学中の1976年に『北帰行』という小説で文藝賞を受け、作家デビューしていたからだ。その作品は、石川啄木の足跡をたどる青年の物語。同じ年に芥川賞を受けた村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とは対極の空気感だ。外岡自身も1970年代風の若者ではなかった。貴公子然とした姿が女性誌のグラビアを飾るのを見た記憶が私にはある。

そんなこともあり、外岡は別格の同期生だった。たとえば最近、私たちの同期会は彼が東京にいる日に合わせて開かれた。記者という生きものは競争心のかたまりなので、自分を同期の仲間と比べたがるものだが、彼をライバル視する向きは皆無だった。理由には、彼が傑出した記者だからということがある。だが、それだけではない。彼の言動からは、世俗的な野心が微塵も感じとれなかったのだ。際立つのは記者精神のみだった。

その記者精神は、あくまでも「外岡流」のものだ。そこからは、肩をそびやかして巨悪に立ち向かう昔風の記者像は感じられない。当世風の記者のように弱者に目を向けるが、ただ寄り添うだけでは終わらせない。筋が一本通っているのだ。弱者を苦しめるものの正体を見定めることを決して忘れない。取材先には礼節をわきまえ、穏やかな態度で接するが、胸のうちは批判精神に満ちている――それが「外岡流」と言えるだろう。

で今週は、そんな「外岡流」を彼の著作から抽出してみる。手にとったのは、東日本大震災の1年後に出た『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)である。

著者(外岡)は、早期退職の直前に大震災に遭遇した。発生直後から被災地を取材、社を去っても「フリーの立場」でそれを続行したのである。この本では、「生と死の境」「自治体崩壊」「原発避難」……などと題する各章の冒頭に著者自身の取材報告(ルポ)を置き、そのあと災害の構図を関係機関の文書などをもとに考察して、教訓を紡ぎだしている。ルポの一部は、朝日新聞本紙や『アエラ』『世界』両誌に載った記事をもとにしたものだ。

「外岡流」はこの本の随所に見てとれるのだが、今回は一つだけを切りだそう。「最悪の事故」と題する章の書き下ろしルポである。焦点が当たるのは双葉病院。東京電力福島第一原発の膝元福島県大熊町にあり、地震直後に停電や断水に見舞われ、さらに被曝禍の追い討ちに遭った。入院患者たちは転院先を求めて一時難民状態となり、この本によれば、2011年3月末までに40人が落命した(提携する介護老人保健施設の入所者を含めると50人)。

3・11の原発事故は、津波と違って目に見えるかたちで人々の生命を奪うことは少なかったが、例外もある。それが、この双葉病院の悲劇だ。当時の東電幹部に刑事責任を問えるかどうかは別にして、あの事故がなければあの悲惨な死はなかった、とは言えるだろう。

注目したいのは、このルポが静かなメディア批判になっていることだ。著者は、双葉病院の患者に犠牲者が出たことを伝える報道が「病院関係者は患者を見捨てて逃げた」という印象を与えたことが気になった。それは、福島県災害対策本部が示した「見捨てたととられても仕方がない」との認識にもとづいていた。こういうとき、メディアはとりあえず役所の発表に頼らざるを得ない。著者もメディア人なので、そのことはわかっている。

ただ問題は、このとき県本部が事実関係を調べると表明していたのに、調査結果がなかなか出てこなかったことだ。メディアも、この問題の検証にすぐには乗りださなかった。そこで著者が退職まもない身で、院長ら関係者に対する直接取材を重ねたというのである。

著者が、取材で聞いた話をまとめるとこうなる――。双葉病院では地震でただちに電気、ガス、水道が止まった。事務職員らは帰宅させたが、医師7人、看護師64人の大半は勤務を続けた。照明は落ち、心電図も使えない。暖房も切れたので、病棟はダルマ式ストーブで寒さをしのいだ。夜には固定電話も携帯電話もつながらなくなった。手当てが必要な患者は一カ所に集められ、点滴などの処置はペンライトを頼りに続けられたという。

12日早暁、大熊町の防災無線が「全員避難」を告げる。病院職員は町役場に走って、避難用バスの手配を頼んだ。県外から観光バス5台が迎えに来たのは昼前。このときに避難できたのは、入院患者のうち歩くことができる209人。一行には、医師3人を含む職員数十人も付き添った。これが「第一次避難」だ。残されたのは、動けない患者131人と老健施設の入所者たち。院長ら医師2人と総務課長ら職員の一部は居残った。

このあと院長らは交代で病院を出て、さらなる避難の手立てを確保しようと奔走した。自衛隊の姿を見かけて救援を求めると、夜になって自衛官と警察官が二人連れで来院した。翌13日に救出するとのことだったが、結局は空手形。院長らは13日夜も事務室に泊まり込んだ。「これから迎えに行く」と連絡があったのは、14日早朝。まず警察が、次いで自衛隊が駆けつけた。この「第二次避難」で、患者34人と老健施設の入所者全員が病院を出た。

残されたのは計算上、患者97人。だが、この避難までに院内で絶命した人もいるので、著者は「約九〇人」と書いている。この人たちが一時、孤立状態に置かれたのは事実のようだ。それには事情がある。福島第一原発では、12日午後の1号機水素爆発に続いて14日午前中に3号機も同様の爆発を起こしたのだ。院長らはその夜、警察署から「緊急避難だ。すぐ車に乗れ」と促され、警察車両に分乗、町外退避を余儀なくされたというのである。

途中、自衛隊とともに病院へ戻るという話になったが、うまく合流できなかった。警察幹部からは、病院に残る患者は「自衛隊に任せるしかない」と告げられたという。これを受け入れたことには議論の余地があるかもしれない。だが著者は「院長らは、第二次避難に立ち会っただけでなく、その後も避難を続行しようと最大限の努力をしていた」と弁護する。病院が「患者を見捨てた」という認識は、こうした経緯を見ていないというのだ。

著者は、病院で第二次避難がどんな手順で進められたかを細部まで描写している。警察の指示で、まずは患者たちに防護服を着せた。被曝を避けるためだ。院長ら病院職員も防護服を着させられ、患者のオムツを換えたり、点滴装置を外したりした。警察官は患者たちをストレッチャーで病院の出口まで運び、そこからは自衛官に任せた。ちなみに、防護服の着用について自衛隊は「必要ない」と言っていた。現場は相当混乱していたらしい。

私が感心するのは、著者が院長ら病院関係者の「証言」を自らの目で確認しようとしていることだ。2011年12月、「警戒区域」にある双葉病院を現地取材して「残留物やストレッチャーの位置などから、その証言に偽りがないことを確信した」という。

双葉病院にとり残された患者は最終的に自衛隊に救いだされた。だがそれを待てず、院内で亡くなった人がいる。避難時の「移動中」に、あるいは「搬送先」で息絶えた人もいる。著者は、重症の患者たちがただでさえ死と隣り合わせなのに原発事故の被曝禍という未知の災厄に直面して死の淵に追い込まれた顛末を克明に記している。その誠実な筆致に触れると、渦中にいて「最大限の努力」をした人々に責めを負わせる気にはなれない。

双葉病院の避難をめぐる報道に対しては、著者が書いているように2011年秋ごろからメディア内にも検証の動きが出ている。コロナ禍の医療危機で私たちが似たような混沌を目の当たりにしている今、外岡秀俊の物静かなメディア批判に改めて耳を傾けたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月4日公開、同日更新、通算612回
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「識者」ファインマンの闘いに学ぶ

「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」
=『困ります、ファインマンさん』(リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊)所収

氷水

コロナ禍で問われているのは、専門家と政治家の関係だ。政治家は、次の一手を聞かれると「専門家の意見をうかがって決める」と言う。ところが実際には、その真意を汲みとらないことがままある。都合のよいところだけつまみ食いしたりするのだ。

専門家という言葉にも罠がある。専門家とは、特定の分野に通じた人のこと。だから、A分野のことを聴きたければ、Aの専門家を集めなければならない。B分野ならB、C分野ならCだ。ところが現実にはA、B、Cの専門家が一堂に会して、バランスよく結論をまとめることになる。これは、専門家というよりも有識者の集団だ。世論が二分される問題で合意点を探るのなら話は別だが、危機に直面して専門知を求めているときには不向きだ。

去年夏、コロナ対策をめぐって医療か経済かという二項対立が際立ったとき、私は朝日新聞の言論ウェブサイト「論座」(2020年7月24日付)に「コロナ対策、いま必要なのは『識者会議』か?」という論考を書いた。必要なのは「分科会」という名の識者会議ではなく、政策判断に直接の助言を与える実働集団だ。医療系、経済系それぞれの専門家集団が連携して、人々の接触機会の節減目標などを試算すべきではないか、と主張したのである。

1年たって、状況は変わった。医療か経済かの二項対立は薄れ、医療崩壊を抑えることが経済回復への近道との見方が広まっている。その結果、専門家の声がまとまりやすくなり、政府を動かす局面もあった。だが、事がオリンピック・パラリンピックの開催にかかわるとなると、政府はかたくな。専門家の意見をつまみ食いして済まそうとしている気配が濃厚だ。再び、識者会議の弱点を見せつけているとは言えないだろうか。

そんなことを考えていたら、この話にも例外があることに気づいた。識者として呼ばれ、おそらくは大所高所の議論だけを求められていたのに、自ら実働集団の役目まで果たした人がいた。米国の理論物理学者リチャード・P・ファインマン(1918~1988)である。

で、今週は「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」(『困ります、ファインマンさん』〈リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊〉所収)。著者は、素粒子論など理論物理学が専門。1965年、朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受けた。この一編は1986年、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査を担う大統領委員会に加わったときの体験記である。

事故は1986年1月、チャレンジャーの打ち上げ直後に起こった。爆発で機体は壊れ、乗組員7人は帰らぬ人となった。固体燃料ロケットの継ぎ目付近に欠陥があったことが、しだいにわかってくる。その事故を調べたのが、この委員会だ。委員長は元国務長官のウィリアム・ロジャーズ弁護士。委員13人の大半は理系で、軍人や雑誌編集者もいる。だから、専門家会議というよりも識者会議に近い。著者も、宇宙工学のことでは門外漢だった。

委員会は、この年の6月まで続き、最終報告書をまとめた。そこでは、著者自身の「報告」が「付録」扱いとなった。いわば、少数意見の併記。著者は持論を譲らなかったということだ。委員会では、その存在感をフルに発揮したのだとも言えよう。

著者の委員としての動き方を知って敬意を禁じ得ないのは、二つのことだ。一つは、自分は専門家ではない、と強く認識していること。もう一つは、にもかかわらず、いや、だからこそ、専門家の話を遠慮することなく聴きまくっていることだ。

それは、事前準備の段階から見てとれる。著者は2月上旬、初会合のために夜行便でワシントンへ向かう当日、地元パサデナで動きだす。勤め先のカリフォルニア工科大学は、米航空宇宙局(NASA)の研究を担うジェット推進研究所(JPL)を運営している。そこで、シャトルに詳しい技師の一人ひとりから、知っていることを洗いざらい聞きだしたという。「とにかく彼らはシャトルのことなら隅から隅まで知りぬいていた」と驚嘆している。

このときに書きとめたメモの2行目に「Oリングに焦げ跡を発見」とある。「Oリング」は、問題の継ぎ目部分にぐるりと巻かれた合成ゴムの密封材だ。チャレンジャー事故の調査でにわかに世に知られるようになった。朝日新聞の当時の報道では、大統領委員会でも2月中旬に「Oリング」という用語が登場しているが、著者はそれに先だって、Oリングがシャトルの要注意箇所らしいとの知識を自前の聞き込みで仕入れていたのである。

Oリングに目をつけた委員の一人に空軍高官のドナルド・クティナ氏もいる。初会合の日、地下鉄で職場に帰ろうとしている姿を見て「運転手つきの特別車なんぞにふんぞり返って乗りたがる軍人どもとは大違いだ」と著者は好感を抱く。こうして二人は仲良くなる。

ある日、そのクティナ氏から電話がかかってくる。「実は今朝、車のキャブレターをいじっているうちにひょいと思いついたんですがね」「先生は物理の教授でしょう。いったい寒さはOリングにどんな影響を及ぼすものですか?」(太字箇所に傍点)。事故は極寒の日に起こっているから「目のつけどころ」の良い質問だ。著者は「硬くなるはず」と即答した。それにしても、車をガチャガチャやっているときに頭が冴えるとは米国人らしい。

Oリングについては、著者自身の武勇伝もある。委員会の席で実験をやってのけたのだ。同様のゴム材を手に入れ、工具で締めつけて氷水に浸けた。しばらくして水から取りだすと、工具を外しても形が元に戻らない。「この物質は三二度(セ氏〇度)の温度のときには、一、二秒どころかもっと長い間弾力を失うということです」。余談だが、この日は前回の会議で委員席に置かれていた氷入りの水が配られておらず、あわてて注文したという。

こうして、Oリングの低温による硬化が密封機能を弱め、事故の引きがねになったことがわかってくる。これは著者の手柄話のように巷間伝えられたが、この体験記は、それもクティナ氏が「手がかり」をくれたからこそ、とことわっている。著者は公正な人だった。

もう一つ、著者の面目が躍如なのは、NASAがシャトル打ち上げの失敗率を低くみている事実を突きとめたことだ。技術者の一人は、それを1%(100回に1回)とはじき出していた。無人ロケットの実績をもとに、有人飛行時の安全対策も見込んで試算したという。ところがNASA上層部は、失敗は「10万回に1回」と言い張った。これだと1日1回打ち上げても300年間は成功が続くことになる、と著者はあきれる。

ちなみにこの技術者は、シャトルが上空で制御不能になる事態を想定して、墜落による地上の被害を小さくするために機体を爆破する装置を積むかどうかを決める立場にあった。技術者は任務を果たすために、失敗のリスクを直視しなくてはならないのである。

理系の有識者が果たすべきは、こうした理系思考を報告や提言や答申に反映することにあるのだろう。著者は、NASAの「10万回に1回」論を追及していくが、先方も譲らない。著者が米国の宇宙開発に対して抱いた最大の違和感は、ここにあったように思う。

苦笑いしたのは、忖度というものが米国にもあることだ。著者によれば、NASAではこんなことが起こっているらしい――。シャトル計画の予算を議会で通すには、それが安全で経済的であると言わなくてはならない。だから、上層部は「そんなに何回も飛べるわけがありません」という現場の声を聞いたとたん、議会で嘘をつく立場に追い込まれることになる。現場は、上層部から疎ましがられたくないから黙る。これが、NASA版の忖度だ。

2年後、著者は永眠した。素粒子だけでなく、官僚の振る舞いまで見抜いた最晩年だった。有識者とはこういう人を言うのだろう。お見事ですね、ファインマンさん!
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月25日公開、同年7月9日更新、同月9日更新、通算580回
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