ノーベル賞作家、事実と虚構の間で

今週の書物/
「嫉妬」(アニー・エルノー著、堀茂樹訳)
=『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫、2022年10月刊所収

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ブログを続けていると、過去の稿を読み返して一つのテーマが浮びあがってくることがある。当欄には「実存主義」や「量子力学」のように意図して設定しているテーマもあるが、それではない。こんな問題意識が自分にはあったのか、と後から気づくものだ。

この1年で言えば、フィクションとノンフィクションの違いがこれに当たる。

国木田独歩の「武蔵野」(新潮文庫『武蔵野』所収)は「小説」に分類されているが、読んでみるとエッセイ風の都市論だった。都市のアメニティ、すなわち景観の心地良さを考えるとき、参照したい話にあふれている。独歩は詩人・小説家とされているが、新聞記者の職歴もある。この作品は、その核心に事実があり、小説というよりもノンフィクションの色彩が強かった。(当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く」)

外岡秀俊も、フィクションとノンフィクションの間を行き来する。学生作家として世に出た後、朝日新聞社に入って記者を34年間続けた人だ。昨年暮れに急逝した。私は新聞社の同期なので思い入れがあり、今年は当欄で彼の著作を6回とりあげた。うち2回は入社前の小説『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫)だった(2022年10月28日付「北行きの飛行機で『北帰行』を読む」、2022年11月4日付「抒情派が社会派になるとき)。

『北帰行』で私が感じたのは、人間外岡秀俊のなかでは作家の問題意識が新聞記者の仕事に転写されたらしい、ということだ。彼の問題意識は小説というフィクションを通じて涵養されたものだった。それが新聞記事というノンフィクションで実を結んだのである。

フィクションとは何だろう? ノンフィクションとは何か? これは、私のように文章を書くことを生業とし、今や趣味にもしている者にとってはぜひ考えておきたいテーマだ。とくに新聞記者は、事実に即することに厳格であろうとするあまり、虚構の水域に近づくことを嫌う傾向がある。ノンフィクションが当然という世界を生きてきた結果、フィクションの値打ちを低くみていたようにも思う。そろそろ、この偏見を脱してもよい。

で、今週の話題はオートフィクション。「自伝的なフィクション」と訳される。今年のノーベル文学賞発表でにわかに注目されるようになった。受賞者に決まったフランスの作家アニー・エルノーさんの作品群が、この範疇に入るからだ。自伝はノンフィクションのはずだが、オートフィクションはあくまでもフィクションを名乗っている。ならば、ただフィクションとだけ言えばよいのではないか。なぜ、「自伝的」と形容するのか?

で、今週の書物は、彼女の作品「嫉妬」(堀茂樹訳)。『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫)に収められている。この本は今年10月25日刊。著者の受賞が決まってすぐ私は通販サイトで予約注文できたから、早川書房はタイミングよく出版を企画していたわけだ。著者は1940年生まれ。本作「嫉妬」は2001年にル・モンド紙の付録として発表された後、それに手を入れたものが翌年刊行された。

「訳者あとがき」(堀茂樹執筆)は、本作が小説、フィクション、ノンフィクションのいずれでもない、と断じている。正解は「著者自身が引き受ける一人称の『私』の名において記述された自伝的『文章』『テクスト』」だ。作中の「私」は著者が「引き受ける」存在であって著者そのものではない、だから虚構も混在する――ということか。私は記者出身だから、それならばフィクションだろうと思ってしまうが、そうも割り切れないらしい。

作品に入ろう。主人公の「私」は18年間の結婚生活に終止符を打った後、Wという若い男性と6年間つきあったが、彼とも別れることにした。離婚で手にした自由を失いたくなかったのだ。自分から別れを言いだしたのに嫉妬が芽生えたのは、Wの電話がきっかけだった。自宅を引き払い、別の女性と暮らす、という。「その瞬間、そのもうひとりの女性の存在が私の中に侵入した」「その女性が私の頭を、胸部を、腹部を埋め尽くしていた」

本作の原題は“L’Occupation”。Occupationは英語と同じ綴りだから、「占領」「占有」であることにすぐ気づく。嫉妬する人間は嫉妬される人物によって占拠される、ということだ。作中の「私」は全編を通じて、その心模様を包み隠すことなく打ち明けている。

告白は具体的だ。「私」は「もうひとりの女性」の「姓名を、年齢を、職業を、住所を知る」という欲求に駆られる。Wとは別れたあとも音信が途絶えたわけではなかったので、彼からそれらのデータを聞きだす。47歳、教師、離婚歴あり、16歳の娘がいてパリ7区ラップ大通り在住――まずは、ここまでわかった。そのとたん、スーツ姿で髪を小ぎれいにブローした女性が「中産階級風のアパルトマン」で講義の下調べをしている姿が思い浮かぶ。

データは独り歩きを始める。たとえば、47歳という年齢。「私」は女性たちに「老いのしるし」を見つけ、自分のそれと比べて年齢を推し量るようになる。40~50歳で「上品なシンプルさ」を漂わせる女性は、「もうひとりの女性」の「写し」のように見えた。

あるいは、教師という職業。「私」は自分にも教師経験があるのに、女性教師という種族が嫌いになってしまう。地下鉄の車両に乗り合わせた40代の女性が教師風の鞄を携えていたとしよう。それだけで「私」には、彼女が「もうひとりの女性」に思えてくるのだ。その女性がどこかの駅で座席を立ち、電車を降りるときの決然とした動作は、車内に残された私にとって「私というものをまるごと完全に無視し去る」行為のように感じられた。

「私」は嫉妬を分析して、その「最も常軌を逸している」点は「ひとつの街に、世界に、ある人…(中略)…の存在ばかりを見てしまうこと」にあると看破する。ここで(中略)の箇所には、「ある人」が面識のない人物のこともあるとの注釈が書き込まれている。嫉妬は、嫉妬される人が嫉妬する人の心を占めるだけではない、嫉妬する人の目に映る世界までそっくり占拠してしまう――少なくとも作中の「私」は、そんな状況にあった。

著者の作品を特徴づけるのは、赤裸々な描写だ。一例は、冒頭の一節にある話。「私」はWと愛しあっていたころ、朝方目が覚めるとすぐ「睡眠の効果で勃起した彼のペニスをつかみ」「そのままじっとしている」のが常だった。今は別の女性がWの傍らにいて、同じことをしているのか。頭から離れないのは、その手のイメージだ。それが、まるで自分自身の手のように思えてくる。嫉妬は皮膚感覚と結びついて、妄想を次々に生みだしていく。

ただ、私たちが読んでいて怖くなる赤裸々さは、この種の話にあるのではない。それは、嫉妬が妄想という心理作用の域にとどまらず、行動となって発現することだ。とても誉められない行為まで、作中の「私」はためらうことなく微に入り細を穿って語っていく。

「私」は、Wが明かそうとしない「もうひとりの女性」の名をとことん突きとめようとする。Wを問いつめ、彼女がパリ第三大学で歴史学の准教授であることまで白状させると、こんどはインターネットと格闘する。教員一覧のページを見つけ、氏名と電話番号が記載されているのを目にした瞬間、「俄(にわか)には信じ難い、常軌を逸した幸福感」に「私」は浸る。ただそれでもなお、標的を一人に絞り込むことができなかった。

そこで「私」は、Wから「もうひとりの女性」の論文テーマを聞きだす。検索エンジンを駆使してそれらしい人物にたどり着くが、住所がパリ7区ではない……。そんな悪戦苦闘の末に結局、彼女とWが住むアパルトマンの各戸に電話をかける挙に出る。これも、電話番号を公表している住人に限られるわけだが……。番号に「非通知コード3651」(日本ならば184、186か)をつけて、女性が出たら「Wさん」の名を出して反応を窺う――。

結果は、ここには書かない。ただ「私」が危険水域に入り込んでいることは確かだ。「私」自身、そこには「不法性へのどきどきするような飛躍」があったことを認めている。

「私」は、「もうひとりの女性」のアパルトマンまで特定していた。ならば「私」自身が言及しているように、そこに乗り込むという手段もあったはずだ。そうしなかったのは、「愛されていない女としての私の孤独」と「愛されていたいという私の願望」をWと彼女に見せたくなかったからだ。ではなぜ今、「私」は自分の嫉妬のすべてを作品化して白日の下にさらけ出そうとしているのか? その理由も「私」は書いている。

読者が本作に見るものは「私の欲望」や「私の嫉妬」ではない。「誰のものでもない具体的な欲望」「誰のものでもない具体的な嫉妬」だというのである。(太字箇所には傍点)

作家が「誰のものでもない」普遍の事象を描こうとするとき、それはフィクションで十分だ。だが「欲望」や「嫉妬」のような内面の普遍事象を「具体的」に表現するには「私」が必要になる。オートフィクションとは、そのために用意された手法なのだろう。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月25日公開、通算654回
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新幹線お薦めの雑誌を読む

今週の書物/
「Wedge」2022年11月号
株式会社ウェッジ発行

新幹線

久しぶりに東海道新幹線に乗った。記憶する限りでは3年ぶり。コロナ禍で遠出を控えていたからだ。駅のホームも列車内もどことなく様子が変わったな、と感じる。コロナ禍によるものもあるが、そうでないものもある。3年間の空白は大きい。

気づいた変化の一つが、ホームのキヨスクだ。私がN駅で、上りの「のぞみ」を待っていたのは午後8時ごろ。元新聞記者の習性で夕刊が読みたくなり、売り場をひと回りしたが、見当たらない。駅の売店といえば、刷りたての新聞の束を突っ込んでおくラックがつきものだったが、それがどこにもないのだ。「新聞は、ないんですね?」。私は男子販売員に聞いてみた。「ええ、終わりました」。青年は、屈託のない笑顔でそう答えた。

「終わりました」のひとことに私は一瞬、たじろいだ。これは、二通りに解釈できる。一つは、その日午後に届いた夕刊はもう売り切れてしまいました、という意味。もう一つは、もはや新聞の時代ではありませんよ、という意味。ふつうに考えれば前者だろうが、ラックがないところをみると、後者の可能性も否めない。たしかに今は、列車内でもスマホでニュースを読める。青年から見れば、新聞は過去の遺物なのかもしれない。

キヨスクでは、文庫本が姿を消していたことにも驚かされた。私が現役時代、新幹線をよく利用していたころは売り場の片隅に書籍用の回転式ラックがあり、くつろいで読める小説などが幾冊も並んでいたものだ。出張帰りの夕刻は一日の疲れで硬い本を開く気力がなくなり、軟らかな本が無性に読みたくなる。今回も似たような事情で本のラックを探したのだが、それもなかった。いったい、活字文化はどこへ消えたのだろうか。

気落ちしながらも、私はなおも活字を追い求めた。バッグのなかには読みかけの本もあったのだが、疲れを癒すにはやや重たい。そうだ、雑誌がいい。売り場をもう一度見まわすと、ごくわずかだが幾種類かの雑誌がひっそりと置かれていた。そこで手にしたのが、「Wedge」2022年11月号である。東海道新幹線などで車内販売されていて、「右寄り」の論調でも知られる月刊誌……食指がふだんなら動かないが、今回は動いた。

「Wedge」について素描しておこう。創刊は1989年。発行元ウェッジ社はJR東海が設立した出版社だ。「新幹線の利用客はビジネスマンが多く、この層を対象にこれまでとは違った経済情報を提供する」という狙いだった(朝日新聞1989年3月8日付朝刊)。その後、経済や産業の話題にこだわらず、安全保障やエネルギー、医療などもとりあげ、総合情報誌の色彩を強めたらしい。私が手にとった11月号からも、それはうかがえた。

当欄は今回、特集「価値を売る経営で安いニッポンから抜け出せ」に焦点を当てる。経済学者、経営学者、企業人、ジャーナリストの論考5本(大半は、談話を編集部が構成したもの)とリポート記事6本から成る。のぞみ車中でいくつかをぱらぱらめくったが、おもしろい。帰宅後、全編に目を通した。私が経済記事をこれほど系統だって読むことは、めったにない。若いころ経済部員だったこともあるのだが、当時ですら関心は乏しかった。

経済記事に惹かれない理由の一つは、そこに人間は経済原理に従うものだという決めつけを見てしまうからだ。人々はホモ・エコノミクス(経済的人間)ばかり、という感じか。この印象は、行動経済学の視点にも通じている(当欄2022年7月22日付「経済学もヒトの学問である」参照)。ところが今回、私は「Wedge」というこれまでもっとも縁遠かった雑誌に引き込まれた。経済記事にも変化の兆しが表れているのかもしれない。

編集部も、いいところを突いている。それは、特集の表題に「安い」の2文字を入れ込んだことだ。あまりの円安にビジネスに無縁な人も危惧を抱いている。「安い」は良いことばかりでない、という空気が出てきたのだ。その一方で円安が物価を押しあげ、「安い」モノを求める心理は強まるばかりだ。私たちは通貨の「安いニッポン」を恐れつつ、モノの「安いニッポン」を望んでいる。この特集は、後者の要求からは脱却せよ、と提言する。

冒頭の論考(談)で、東京大学教授の経済学者渡辺努氏は「値上げと賃上げの好循環」論を展開する。例に挙がるのが、2017年にあったヤマト運輸「宅急便」の値上げだ。このとき同社は、配送現場の厳しさを「臆することなくオープンにした」。消費者は、配達員が受取人の都合に合わせて物を届ける苦労をよく知っている。その仕事ぶりに思いを致してもらおうということなのだろう。ここには、行動経済学風の利他精神に対する期待がある。

これに続くリポート記事(生活家電.com主宰者多賀一晃氏執筆)では、家電業界の故事が紹介される。1964年、スーパー・ダイエーが松下電器(現パナソニックホールディングス)のカラーテレビを安売りしたとき、松下は「定価」を守ろうと取引停止の挙に出た。世に言う「ダイエー・松下戦争」だ。その後、家電販売は公正取引委員会の勧告もあり、値引きがふつうになっていく。だが多賀氏は、松下の「定価」へのこだわりにも利点をみる。

実際、パナソニックは今、一部の商品で「メーカー指定価格」方式を導入している。同社が在庫リスクを引き受けるのと引き換えに小売店に指定価格で売ってもらう。これだと公取委も認めてくれるのだという。メーカーにとっては、価格が安定するので一つの製品を長く売ることができ、目先だけを変えた新製品を頻繁に売り出す必要もなくなる。「小売りからメーカーに価格決定権が移ることは時代にかなった動き」と多賀氏はみる。

この考えを支持しているのが、「人を大切にする経営学会」会長坂本光司氏の論考(談)だ。見出しは「値決めは企業経営の命」とうたっている。全国の中小企業約1000社から聞いたアンケート調査で、自社の競争力は価格だとする企業が約8割を占めたことに触れ、これでは人件費が「格好の“生贄”」にされてしまう、と嘆く。安値で顧客を獲得しようとすれば経費節減が至上の目標となり、社員の賃金にしわ寄せがくるのは必至というわけだ。

坂本氏は、ハード、ソフト両面で「非価格競争力」の必要を説く。ハードは「前例のないもの」を商品化することだからハードルが高い。これに対して、ソフトは「アフターサービス」などがものを言うから「創意工夫次第」という。このあたりが経営学的ではある。

ここまででわかるのは、この特集では「値上げと賃上げの好循環」論が「メーカーに価格決定論」に分かちがたく結びついていることだ。ここ数十年、世界経済は新自由主義の市場万能論が優勢で、価格は市場が決めるべきとされてきたが、流れが変わったのか。

「強いブランド」を企業の価格決定権に結びつける議論もある。三菱マテリアル社外取締役得能摩利子氏の論考(談)だ。フェラガモジャパンCEOを務めた経験をもとに「値上げ=悪」の価値観を見直すよう促す。欧米ブランドには「『自分たちがつくりたいものをつくる』という意識」があり、それが製品の美しさを生みだし、「買うか買わないかは買い手次第」「価格は自分たちが決める」という考え方につながっている、と論じる。

東京都立大学教授水越康介氏(経営学)の論考(談)には、「応援消費」という概念が出てくる。被災地の産品を買う、コロナ禍で苦戦する地元飲食店に行く、といった「他人のため」の消費を分析している。この利他行動も安値志向とは逆向きで「値上げと賃上げの好循環」論に通じている。ただ私が注目したいのは、水越氏が応援消費の背景に新自由主義を見ていることだ。そこには「金銭的に余裕のある人の消費行動」という一面もあるわけだ。

ここで、トリクルダウンという言葉が私の頭に浮かんだ。富裕層の豊かさは貧困層にも浸透する、という新自由主義流の見方だ。応援消費はそんな浸透作用を担う毛細管現象の一つなのか。ただ、トリクルダウンが難しいことは格差社会の現実が証明している。

この特集を読みとおして私は、一連の考察に目を見開かれ、共感することも少なくなかった。ただ一つ、違和感もある。それは、なべて企業経営者の視点が際立っていることだ。

利他行動もブランド力も、企業経営の枠をはみ出している。これらは、人間社会のありようを再設計するときにも避けて通れない論題なのだ。その議論では、企業経営者とは異なる視点に立つことも必要だろう。新幹線の乗客は企業人ばかりではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月18日公開、通算653回
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抒情派が社会派になるとき

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

コンクリート

「戦争を知らない子供たち」(北山修作詞、杉田二郎作曲)という歌が流行ったのは、1971年のことだ。男子が髪を伸ばしてなぜいけないのか、われわれは戦後生まれ、あの戦争を知らない世代なのだ――歌詞には、若者たちのそんな開き直りがあった。

この歌は、若者が「戦争を知らない」ことに引け目を感じていることの裏返しでもあっただろう。少なくとも、私にはそう思われる。戦争は、日本社会にあっては1945年8月15日をもって正当なものから不当なものに変わった。だがそれは、あくまでも建前の話だ。戦前戦中を通り抜けてきた人々の心には往時の思考様式がしっかり組み込まれていた。その意味で、私たちは戦争を知らなくとも戦争の残滓に取り囲まれていた。

私自身の経験を打ち明けよう。私が学んだ公立の小中学校では体罰が日常のことだった。今ならば教育の倫理として×印がつくことは間違いないが、1950~60年代にそんなことはなかった。私たちが慕っていた先生も男子を叱るときは悪びれることなく平手打ちした。不思議な記憶もある。それは、体罰容認派の先生に組合活動に熱心な人が含まれていたことだ。あのころは日本社会に戦争と平和、軍国主義と戦後民主主義が混在していた。

この混在は、小中学生には気にならなかっただろう。だが10代も後半になれば、大人社会の二重基準として許しがたくなった。そう考えれば、1960年代後半に盛りあがった学生運動も理解できる。戦争を知らない世代は戦後社会に巣くう自己矛盾と闘ったのである。

で、当欄は今週も、引きつづき長編小説『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊)を読む。この作品でも、主人公「私」の内面には「戦争を知らない子供たち」の意識がちらつく。たとえば、「私たちが生まれたとき、既に戦争は終わっていた」と切りだされる段落。「私たち」にとって戦争は「雨に濡れた硝子窓の彼方に広がるぼんやりとした情景」だった、とある。それは「浪漫的」で、男たちが「手柄話」として語ったりするものだった。

続く段落で、「私たち」には――たぶん、主人公のみならず著者や私にも――「決定的な体験が欠けているとの卑小感、劣等感」があるという。「予め去勢されていた」との自覚もある。このことは、作品を貫く視点として押さえておくべきだろう。

さて、この作品のもう一人の主役は、明治の歌人石川啄木(1986~1912)だ。そこでは、啄木が抒情派として詩壇に登場しながら、最晩年は1910~11年の大逆事件に衝撃を受けて左派思想に傾倒したことが史料に沿って描かれる。ただ、本書は近代日本文学史の再検証ではない。啄木に内在する「抒情詩人としての彼」と「無政府主義者、社会主義者としての彼」の対立を参照しながら、1970年代を生きる若者の姿を浮かびあがらせている。

当欄は今回も啄木には深入りしない。啄木像に重なる1970年代の若者像に焦点を絞る。

では、この作品の主人公にとって「大逆事件」に相当するものは何か? 唐突だが、それは「コンクリート」であるように私には思われる。主人公の「私」は郷里の北海道へ向かう途中、上野発の夜行列車を盛岡で降り、啄木ゆかりの渋民村(現在は盛岡市に編入)までバスに乗る。車窓には切り通しの崖が見えるのだが、「私」はその地肌を見て寒気に襲われた。赤茶けて見えるのは、土ではなくコンクリートだった。なぜ、「肌寒い」のか。

「私」は東京で集団就職先の町工場を追われ、帰郷の途につくまで工事現場で働いていた。そのなかには、崖をコンクリートで覆う現場もあった。パイプの埋設を受けもっていたが、1回だけ、セメントや砂利を吹きつける作業を志願したことがある。銃器のような機械の操作は苛酷で「腕はがくがくになり、意識は徐々に混濁していった」。事なきを得たのは、同僚が機械を止めてくれたからだ。車窓の光景に、その記憶が蘇ったのである。

特筆すべきは、このバス車中での回想で、著者が主人公の内面を借り、実に6ページにもわたってコンクリート論、アスファルト論を展開していることだ。主人公は思う――。日本社会は、あたかも「非国民を摘発する」ように「どんなに細い道も見つけ次第アスファルトで塗り潰し、どんな瑣細な亀裂も赤茶けたコンクリートで塗り固めずにはすますことができなかった」。それは「土に対する恐怖」「風景に対する敵意」の表れのようだという。

このくだりを読んで思いだしたのが、当欄前回で触れた馬橇だ(*1)。主人公の小学生時代、U市には「馬糞風」が吹いた。春になると馬糞が雪の下から顔を出し、カサカサに乾いて風に舞う。そこに見えるのは、コンクリートの対極にある泥臭い世界だ。

考えてみれば主人公や著者や私は、津々浦々の道という道が次々に舗装されていく様子を自らの目で見てきた世代だ。それは、高度経済成長による都市化や自動車文明の投影にほかならなかった。列島改造を象徴するものは新幹線や高速道路の建設だったかもしれないが、このとき同時に列島全土の泥道の多くがアスファルトに覆い尽くされたことも忘れてはならない。著者の繊細な感性は、そのことを見過ごせなかった。

この作品ではもう1カ所、コンクリートという言葉が頻出する場面がある。

建設工事の飯場で主人公の「私」は、小学校時代からの親友卓也に偶然再会する。卓也は新米の作業員だった。東京の大学に進んだが、今は休学中だという。その彼が、昼休みの雑談で始めたのがコンクリート談議だ。コンクリートは「固く充実している」。だが、それは「現実だろうか」と問いかける。卓也によれば「現実ではない」。コンクリートでつくったものはかつて「存在しなかった」。いずれは「また存在しなくなってしまうだろう」。

卓也は、街歩きをしているときの心模様を語る。両側に聳える高層ビルが崩れ、足もとの路面に亀裂が走る――それは「夢」のようだが「夢」と言い切れない。都市は「高速度撮影で捉えた世界の崩壊の、ほんの一齣(ひとこま)」ではないだろうか。

卓也の話はしだいに過激になる。唯一の「現実」は「爆弾」だ、と言ったりもする。「だってコンクリートを粉々に砕いちまうんだからな」。これには「私」も、コンクリートの破壊がなぜ「現実」なのか、と問い返す。卓也の答えは、ビルをじっと見ていれば、それをかたちづくる線も面も立体も消えていく、というものだった。私たちはコンクリートの建造物が「永久に」「在りつづける」と思い込まされているだけ、と結論づけるのだ。

「私」は、その爆弾について「譬え話なんだろ」と聞いてみる。「いや、譬えじゃない」と卓也は言い返す。当時は過激派の動きが活発だったから、政治的な理由があるのだろうか。「私」にはそうは思えない。卓也の爆弾論に「理窟」がないからだ。「爆破しようとする意思」しか見てとれない。すなわち、爆弾は「純粋な表現」であり、「抒情」なのではないか。「私」は、「理窟の空白」を「暴力で埋める」という発想に違和感を拭えなかった。

こう読んでくると、この作品を解くキーワードは「コンクリート」にほかならないと確信する。それは直接的には、列島改造を後押しした高度経済成長を象徴している。だが、その奥には「管理社会」という化けものが潜んでいる。作中では、自分が「出自」「家庭の経済力」「学歴」「職場」などによって測られ、自分で自分を意味づけることができない社会を指している。卓也も「私」も、それを拒絶しようとしてできずにいるのだ。

抒情派だった啄木が大逆事件の顛末を見て、社会主義者を自認するようになったのと同様、外岡秀俊はコンクリートの塊に囲まれて息苦しい時代の到来を感じとり、青春小説の作家から社会派の新聞記者に転身したのではないか。そんな気がしてならない。

私は今回、北海道札幌への旅でこの『北帰行』文庫版を携えた。仕事があっての札幌滞在だったが、日程の合間に著者外岡の母校、札幌南高校周辺を歩いた(*2)。それは、直線の道路と中低層のビルが公園の樹木や街路樹の葉の色づきに彩られる街だった。コンクリートには不思議と圧迫感がない。この作品の主人公も札幌を「無性格」で「透明な光」に満ち、そこには「拍子抜けがするような質の健やかさ」がある、と評している。

外岡がこの街にずっといて東京に出てこなければ、コンクリートに管理社会を見ることはなく、新聞記者になることもなかった?――私はふと、そんな「もしも(if)」を思った。

*1 当欄2022年10月28日付「北行きの飛行機で『北帰行』を読む
*2 周辺の地理情報については、外岡秀俊さんの学友でもある札幌在住の作家澤田展人さんのご教示を受けました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月4日公開、通算651回
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北行きの飛行機で「北帰行」を読む

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

北へ

機体がふわりと浮かびあがり、秋空のど真ん中へ飛び込んでいく。某日午前、東京羽田発札幌千歳行きの航空便が離陸すると、私はポケットから文庫本をとりだした。『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年刊)である。今回、旅の道づれはこの本と決めていた。

外岡秀俊(1953~2021)は、勤め先の朝日新聞社で私と同期だった。卓抜な記者だっただけではない。言動に品位が漂い、社内外の敬愛を集めていた。だから、一線記者の立場から中間管理職を飛び越えて編集局長の任に就いた。その後、早期退職して故郷札幌に戻り、母親の介護を引き受ける。そんな見事な半生が去年暮れ、突然途絶した。心不全だった。私が北に旅するとき、この本を手にした心情もわかっていただけるだろう。(文中敬称略)

当欄は今年、外岡のことを繰り返し書いてきた。2月と3月には『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書)を2回に分けてとりあげた(12)。4月と5月には『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)に収められた著者の記事を紹介した(34)。今回、もう一度話題にしたら過剰感は否めない。だが、どうしてもそうしたい。それは、こういうことだ――。

『3・11…』『世界 名画の旅…』で私が注目したのは、外岡の新聞記者としての一面だった。前者は東日本大震災被災地からの報告、後者は欧州の絵画紀行。どちらにも、同業の身として心に響く話が盛り込まれていた。もちろん、彼は私にとってまぶしい記者だが、それでも共有するものはある。ひとことで言えば、同じ時代を取材者の立場で駆け抜けてきたという思いである。私は今年、当欄で4回を費やしてその共感に浸ったのである。

だが、それだけでは外岡の一面しか見ていない。彼は1977年に新聞記者になる以前から、すでに作家だった。前年、今回とりあげる長編小説『北帰行』で文藝賞を受けていたのだ(「文藝」1976年12月号に発表)。ただその後、記者の仕事に忙殺され、創作活動をほとんど休止している。人間外岡秀俊の内部では記者としてのエンジンが全開したが、この間、作家としての衝動はどこでどうなっていたのか。旧友としてはそれが知りたい。

ということで、今回は『北帰行』を熟読する。この小説は、北海道の炭鉱町U市から集団就職で東京に出た「私」が、流血沙汰を起こして町工場をやめさせられ、職を転々としたあげく帰郷を決心、歌人石川啄木の足跡に思いを馳せながら北へ北へと向かう物語だ。そこに、「私」の内面を去来する自身の回想や啄木の史実が織り込まれている。当欄は、例によって筋はたどらない。「私」の視点がどこにあったかに注目しようと思う。

まずは、時代背景を押さえておこう。今昔の隔絶を印象づけるものの一つは馬橇(ばそり)だ。「私」が小学生のころは馬が雪道で橇を引く様子が校舎の窓からも見えた。手綱を引き、馬を叱咤する馭者の源さん、その源さんを「私」と親友の卓也に引きあわせてくれた図工教師びっくりさん、そして源さんの小屋で見せてもらった仔馬。卓也と「私」は、その仔馬をジルゴという愛称で呼んだ。ジルゴをめぐる「私」の思い出は作品の随所で蘇る。

もう一つ、時代を特徴づけるのはテレビだ。「日一日と、屋根に林立するアンテナの数が増えていく」変化を「私」は10歳のころに現認した。「何か得体の知れないものがひたひたとU市に打ち寄せてくる」ように感じたという。人々の暮らしに家電製品やクルマが入り込み、町では道路工事やビル建設が進んだ。「私」の町では、そんな高度経済成長の起点が馬橇の行き交う光景だったのだ。飛躍の幅は大都会よりもはるかに大きかった。

ただ、炭鉱町の人々は高度成長の恩恵を受けたとは言い難い。いやむしろ、その犠牲者だったとも言えるだろう。石炭業界は1950年代後半から石油に市場を奪われ、廃山や閉山、規模縮小を余儀なくされていた。U市の炭鉱も、政府から「合理化」をせっつかれていた。この作品では、「私」が通う中学校に由紀という少女が東京から転校してくるのだが、彼女の父親も会社から「合理化」狙いで送り込まれた鉱山技師らしかった。

この作品で、私がもっとも心を動かされたのは、炭鉱事故に震撼するU市を描いたくだりだ。「けたたましいサイレンの唸りが鳴り響いたのは、寒空に初雪が舞う冬の昼下がりのことだった」。このとき、「私」は中学校で数学の授業中。教師が幾何図形を板書する手をとめた。チョークが「ぼきんと折れて粉を散らした」。炭鉱町で、「コヨーテの遠吠え」のようなサイレンは不吉な報せだ。その音を聞いて、校内がざわめきはじめる。

まもなく、校内放送が流れる。三番坑で落盤があったという。「皆のお父さんがいるかもしれん。兄さんが居るかもしれん」……。「私」も、父親は炭鉱で働いている。学校を出て、坑口へ直行した。そこはもう人々が大勢群がり、殺気立っている。救急車が次々に駆けつける。毛布や握り飯も運び込まれる。坑内には二十数人が取り残されているらしい。「お父ちゃんが中に入ってんだよ」。そんな悲鳴が聞こえる。「私」の父は坑口のそばにいた。

坑口を封じなければ大爆発が起こる、というのが会社の判断だった。これに対して、封鎖すれば坑内の家族や仲間が「生殺し」にされる、というのが群衆の声だ。両者の間で、「私」の父は保安長という微妙な立場にあった。「坑夫」でありながら、会社側に立たされる役回り。父は「裏切り者」と指弾されると、自身を含む有志11人で救助隊をつくり、坑内へ突入する。結果として、そのことで事故の犠牲者が11人追加されることになった。

一方に資本家や経営者がいる。他方に労働者たちがいる。その狭間で、中間管理層が板挟みになっている。考えてみれば1960~70年代は、こういう構図で社会を読み解くことができる時代だった。著者は郷里北海道の炭鉱町に、その雛形を見いだしたのだろう。

2020年代の今は、これほどには単純でない。社会問題を階級の構図だけでとらえきれなくなった。貧しさは労働者階級にとどまらず、社会の隅々に浸潤している。経済だけで論じ切れない難題も顕在化した。その一つに、誰から先に助けるかというトリアージの問題がある。ある人を救うのに別の人を見捨ててもよいか、というトロッコ問題もある。そんな究極の選択が現代社会では避けられないとの認識を、著者は1970年代に先取りしていた。

その意味で、この作品は著者が新聞記者となることの予兆だった。今、記者外岡秀俊が遺した仕事を顧みるとき、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の取材は欠かせない。両震災で浮かびあがった今日的な難題に、こうした究極の選択があった。

記者活動の予兆といえば、このくだりで著者が報道のあり方に目を向けていることも見逃せない。報道陣は、「坑夫」の家族や仲間が待機する小学校に押し寄せてきた。「フラッシュを焚いたりテレビ・カメラを回したりするのを、私は苛立ちながら見詰めていた」。このとき、もっとも罪深いのは「不躾な質問」ではなかった。それよりも「同情の大袈裟な身振りをそのままなぞるような言葉」が「深く人々の腹に食い込んだ」と書いている。

著者や私が新聞記者になったころは、報道機関に対する風当たりが今ほどには強くなかった。事件事故の関係者を追いかけて取り囲む、という報道攻勢は今ではメディアスクラムと呼ばれて批判の的だが、当時はふつうにあった。自省を込めていえば私も、そしておそらくは著者も、若手のころは一線の記者としてその片棒を担いだのだ。著者は、やがては自身が背負わされるかもしれないそんな負の重荷を予感していたのだろうか。

本稿前段で書いたように私は、新聞記者外岡が30年余の記者生活を通じて作家外岡をどのように抱え込んでいたかを知りたかった。だが、炭鉱事故のくだりを読んでいると、彼の内面では作家としての視点が記者としての視点と重なりあい、新聞記事に影響を与えていたように思えてきた。人間に関心を寄せる文学者としての側面が、社会に目を凝らす報道人としての側面と共鳴している。その徴候が『北帰行』にすでに見てとれるのだ。

当欄はもう1回この作品をとりあげ、文学と報道とのかかわりを見ていこうと思う。

*1 当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2 当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
*4 当欄2022年5月6日付「ウィーンでミューズは恋をした
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月28日公開、通算650回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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