新幹線お薦めの雑誌を読む

今週の書物/
「Wedge」2022年11月号
株式会社ウェッジ発行

新幹線

久しぶりに東海道新幹線に乗った。記憶する限りでは3年ぶり。コロナ禍で遠出を控えていたからだ。駅のホームも列車内もどことなく様子が変わったな、と感じる。コロナ禍によるものもあるが、そうでないものもある。3年間の空白は大きい。

気づいた変化の一つが、ホームのキヨスクだ。私がN駅で、上りの「のぞみ」を待っていたのは午後8時ごろ。元新聞記者の習性で夕刊が読みたくなり、売り場をひと回りしたが、見当たらない。駅の売店といえば、刷りたての新聞の束を突っ込んでおくラックがつきものだったが、それがどこにもないのだ。「新聞は、ないんですね?」。私は男子販売員に聞いてみた。「ええ、終わりました」。青年は、屈託のない笑顔でそう答えた。

「終わりました」のひとことに私は一瞬、たじろいだ。これは、二通りに解釈できる。一つは、その日午後に届いた夕刊はもう売り切れてしまいました、という意味。もう一つは、もはや新聞の時代ではありませんよ、という意味。ふつうに考えれば前者だろうが、ラックがないところをみると、後者の可能性も否めない。たしかに今は、列車内でもスマホでニュースを読める。青年から見れば、新聞は過去の遺物なのかもしれない。

キヨスクでは、文庫本が姿を消していたことにも驚かされた。私が現役時代、新幹線をよく利用していたころは売り場の片隅に書籍用の回転式ラックがあり、くつろいで読める小説などが幾冊も並んでいたものだ。出張帰りの夕刻は一日の疲れで硬い本を開く気力がなくなり、軟らかな本が無性に読みたくなる。今回も似たような事情で本のラックを探したのだが、それもなかった。いったい、活字文化はどこへ消えたのだろうか。

気落ちしながらも、私はなおも活字を追い求めた。バッグのなかには読みかけの本もあったのだが、疲れを癒すにはやや重たい。そうだ、雑誌がいい。売り場をもう一度見まわすと、ごくわずかだが幾種類かの雑誌がひっそりと置かれていた。そこで手にしたのが、「Wedge」2022年11月号である。東海道新幹線などで車内販売されていて、「右寄り」の論調でも知られる月刊誌……食指がふだんなら動かないが、今回は動いた。

「Wedge」について素描しておこう。創刊は1989年。発行元ウェッジ社はJR東海が設立した出版社だ。「新幹線の利用客はビジネスマンが多く、この層を対象にこれまでとは違った経済情報を提供する」という狙いだった(朝日新聞1989年3月8日付朝刊)。その後、経済や産業の話題にこだわらず、安全保障やエネルギー、医療などもとりあげ、総合情報誌の色彩を強めたらしい。私が手にとった11月号からも、それはうかがえた。

当欄は今回、特集「価値を売る経営で安いニッポンから抜け出せ」に焦点を当てる。経済学者、経営学者、企業人、ジャーナリストの論考5本(大半は、談話を編集部が構成したもの)とリポート記事6本から成る。のぞみ車中でいくつかをぱらぱらめくったが、おもしろい。帰宅後、全編に目を通した。私が経済記事をこれほど系統だって読むことは、めったにない。若いころ経済部員だったこともあるのだが、当時ですら関心は乏しかった。

経済記事に惹かれない理由の一つは、そこに人間は経済原理に従うものだという決めつけを見てしまうからだ。人々はホモ・エコノミクス(経済的人間)ばかり、という感じか。この印象は、行動経済学の視点にも通じている(当欄2022年7月22日付「経済学もヒトの学問である」参照)。ところが今回、私は「Wedge」というこれまでもっとも縁遠かった雑誌に引き込まれた。経済記事にも変化の兆しが表れているのかもしれない。

編集部も、いいところを突いている。それは、特集の表題に「安い」の2文字を入れ込んだことだ。あまりの円安にビジネスに無縁な人も危惧を抱いている。「安い」は良いことばかりでない、という空気が出てきたのだ。その一方で円安が物価を押しあげ、「安い」モノを求める心理は強まるばかりだ。私たちは通貨の「安いニッポン」を恐れつつ、モノの「安いニッポン」を望んでいる。この特集は、後者の要求からは脱却せよ、と提言する。

冒頭の論考(談)で、東京大学教授の経済学者渡辺努氏は「値上げと賃上げの好循環」論を展開する。例に挙がるのが、2017年にあったヤマト運輸「宅急便」の値上げだ。このとき同社は、配送現場の厳しさを「臆することなくオープンにした」。消費者は、配達員が受取人の都合に合わせて物を届ける苦労をよく知っている。その仕事ぶりに思いを致してもらおうということなのだろう。ここには、行動経済学風の利他精神に対する期待がある。

これに続くリポート記事(生活家電.com主宰者多賀一晃氏執筆)では、家電業界の故事が紹介される。1964年、スーパー・ダイエーが松下電器(現パナソニックホールディングス)のカラーテレビを安売りしたとき、松下は「定価」を守ろうと取引停止の挙に出た。世に言う「ダイエー・松下戦争」だ。その後、家電販売は公正取引委員会の勧告もあり、値引きがふつうになっていく。だが多賀氏は、松下の「定価」へのこだわりにも利点をみる。

実際、パナソニックは今、一部の商品で「メーカー指定価格」方式を導入している。同社が在庫リスクを引き受けるのと引き換えに小売店に指定価格で売ってもらう。これだと公取委も認めてくれるのだという。メーカーにとっては、価格が安定するので一つの製品を長く売ることができ、目先だけを変えた新製品を頻繁に売り出す必要もなくなる。「小売りからメーカーに価格決定権が移ることは時代にかなった動き」と多賀氏はみる。

この考えを支持しているのが、「人を大切にする経営学会」会長坂本光司氏の論考(談)だ。見出しは「値決めは企業経営の命」とうたっている。全国の中小企業約1000社から聞いたアンケート調査で、自社の競争力は価格だとする企業が約8割を占めたことに触れ、これでは人件費が「格好の“生贄”」にされてしまう、と嘆く。安値で顧客を獲得しようとすれば経費節減が至上の目標となり、社員の賃金にしわ寄せがくるのは必至というわけだ。

坂本氏は、ハード、ソフト両面で「非価格競争力」の必要を説く。ハードは「前例のないもの」を商品化することだからハードルが高い。これに対して、ソフトは「アフターサービス」などがものを言うから「創意工夫次第」という。このあたりが経営学的ではある。

ここまででわかるのは、この特集では「値上げと賃上げの好循環」論が「メーカーに価格決定論」に分かちがたく結びついていることだ。ここ数十年、世界経済は新自由主義の市場万能論が優勢で、価格は市場が決めるべきとされてきたが、流れが変わったのか。

「強いブランド」を企業の価格決定権に結びつける議論もある。三菱マテリアル社外取締役得能摩利子氏の論考(談)だ。フェラガモジャパンCEOを務めた経験をもとに「値上げ=悪」の価値観を見直すよう促す。欧米ブランドには「『自分たちがつくりたいものをつくる』という意識」があり、それが製品の美しさを生みだし、「買うか買わないかは買い手次第」「価格は自分たちが決める」という考え方につながっている、と論じる。

東京都立大学教授水越康介氏(経営学)の論考(談)には、「応援消費」という概念が出てくる。被災地の産品を買う、コロナ禍で苦戦する地元飲食店に行く、といった「他人のため」の消費を分析している。この利他行動も安値志向とは逆向きで「値上げと賃上げの好循環」論に通じている。ただ私が注目したいのは、水越氏が応援消費の背景に新自由主義を見ていることだ。そこには「金銭的に余裕のある人の消費行動」という一面もあるわけだ。

ここで、トリクルダウンという言葉が私の頭に浮かんだ。富裕層の豊かさは貧困層にも浸透する、という新自由主義流の見方だ。応援消費はそんな浸透作用を担う毛細管現象の一つなのか。ただ、トリクルダウンが難しいことは格差社会の現実が証明している。

この特集を読みとおして私は、一連の考察に目を見開かれ、共感することも少なくなかった。ただ一つ、違和感もある。それは、なべて企業経営者の視点が際立っていることだ。

利他行動もブランド力も、企業経営の枠をはみ出している。これらは、人間社会のありようを再設計するときにも避けて通れない論題なのだ。その議論では、企業経営者とは異なる視点に立つことも必要だろう。新幹線の乗客は企業人ばかりではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月18日公開、通算653回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です