あのゴドーの「待つ」とは何か

今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊

続・樹木の傍らで

「見ているやかんは沸かない」。英語には、こんな諺がある。
“A watched kettle doesn’t boil.”とも、
“A watched kettle never boils.”ともいう。

私がこの言葉に出あったのは1995年。科学記者としてロンドンに駐在していたころだ。物理学界で量子情報科学という新潮流が生まれ、量子コンピューターや量子暗号が話題になりはじめていた。私は欧州各地を回り、物理学者たちから取材した。このときに聞いた量子力学の不可解さの一つが、原子や電子の世界では観測の頻度を高めると状態が変わりにくくなるという話だ。観測が変化のブレーキになる。これを「量子ゼノン効果」という。

似たようなことは日常生活にもある。湯沸かしのやかんを火にかけて、もう沸くか、もう沸くか、と見ているとなかなか沸かない。ところが、ちょっとのあいだキッチンを出て戻ってくると泡を噴いている。あるいは、バス停でバスが来る方向をじっと見つめていてもバスは現れないが、一瞬目を離すと目の前に来ている――。量子ゼノン効果は、そんな「あるある」を連想させる。だから物理学者も、譬えに「見ているやかん…」をもちだすのだ。

量子ゼノン効果という命名は、ギリシャの哲学者ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」という逆説に因む。ゼノンの逆説では、矢は実際には飛んでいるが、ある瞬間をとらえると1カ所に止まっている。一方、量子ゼノン効果はこうだ――。原子の状態が電波照射によってAからBへ跳び移る現象を考えよう。照射時間を延ばして状態Bへ移る確率を高めていっても、観測を頻繁にしていると原子は状態Aに留まることが多いという。

量子力学には、観測する側が観測される側に影響を及ぼすのではないかという問題提起がある。量子ゼノン効果も、その一つだ。ただ、これはそのまま実生活に当てはめられない。「見ているやかんは沸かない」は、たぶん心理的な効果だ。私たちは、お湯がなかなか沸かなくてイライラした体験ばかりを記憶する。だから、「見ていると沸かない」を法則のように思ってしまうのだ。これは、人間の「待つ」という習性に起因するらしい。

で今週も、先週に続いて『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊、)。エストラゴン、ヴラジーミルという二人組が夕刻、田舎道でひたすらゴドーを待っているという話だ。ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある、と先週は書いた。今週は「待つ」とは何かを考えよう。ゴドーを待つというのは、湯が沸くのを待ったりバスが来るのを待ったりするのと同じなのか。

作品を読んで実感するのは、ゴドーの到来は湯の沸騰やバスの到着と違うことだ。お湯は100℃になれば煮えたぎる。バスは時刻表に沿って運行されていて、渋滞の遅れはあってもほぼ確実にやって来る。ところがゴドーの来着は、はっきりしない。

これは先週も書いたことだが、ゴドーはいつ来るかが不確かだ。待っている場所がここでよいのかも確信がもてない。そもそも、ゴドーから待つように指示されたのか、あるいはゴドーと待ち合わせの約束をしたのかさえ定かではない。なにもかもぼやけている。

私の頭を一瞬よぎったのは、ゴドーとは死のようなものか、ということだ。死は、いつ身に降りかかるかわからない。どんな状況下で起こるかも見通せない。ぼんやりしているところはそっくりだ。ただ、死はいずれ必ずやって来るが、ゴドーは現れるかどうか不明だ。

そして、私たちは――少なくとも私は――死を待ってはいない。いずれは死ぬと覚悟して死を予期することはあっても、それを積極的に望むことはない。「待つ」とは違うのだ。これに対して、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っている。ヴラジーミルが「希望」めいたものをゴドーに頼んだと打ち明けていることからも、そうとわかる。著者自身が訳した『ゴドー…』英語版の題名も“Waiting for Godot”。ゴドーは死ではなさそうだ。

このことからわかるのは、人間は相手が漠としたものであっても待とうとすることだ。この作品でそれが際立つのは、時代背景と関係しているかもしれない。戯曲が刊行されたのは、第2次世界大戦終結の7年後。人々の精神世界には、まだ解放感があった。著者ベケット自身は戦時中、ナチス占領下のフランスでレジスタンス運動にかかわっていたから、なおさらだったに違いない。希望を漠然と待つというのは、いかにも戦後の風景だ。

だが希望めいたものは、おいそれとは手に入らない。そもそも、ヴラジーミルがそれを人に頼んだことに無理がある。ゴドーが即答を避けたのも当然だ。安請け合いしていたら、逆に怪しげな輩ということになる。生半可な返事をしたのもうなずける。

ということで、ゴドーはなかなか現れない。代わりに登場するのが、ポッツォとラッキーの二人連れだ。ポッツォは地主を名乗り、ラッキーを牛馬のように扱っている。この二人がエストラゴンやヴラジーミルと交わす意味不明の会話に私たちはまた、引っかき回される。

意味不明の極みはラッキーの長口舌だ。それは、ポッツォの「考えろ!」のひとことでスイッチが入る。「単調に」とト書きにある。「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時(じ)かか間(かん)と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうが」(太字は本書原文では傍点)……これが延々2ページ半も続く。

ここに至って観客は、この作品では言語がただの音に還元されていることを思い知る。舞台では登場人物が訳のわからないことをしゃべっているが、それを逐語的に追いかけることが馬鹿馬鹿しくなる。意味するものから意味されるものがどんどん離れていく感じだ。

この作品には、反対に脳裏に焼きつく台詞がある。先週の当欄でも引用したエストラゴンとヴラジーミルの言葉の投げ合いだ。エ「もう行こう」、ヴ「だめだよ」、エ「なぜさ?」、ヴ「ゴドーを待つんだ」、エ「ああ、そうか」――同趣旨のやりとりは第一幕、第二幕を通じて繰り返し出てくる。細部が微妙に異なっても、エストラゴンが先を急ごうとするのをヴラジーミルが引きとめ、ゴドーを待たなければならないと戒める構図は変わらない。

ここで、「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」の問答には含蓄がある。一つには、ヴラジーミルがこの場を離れない理由を「ゴドーを待つ」ためと言い切っていることだ。これまでも述べてきたようにゴドーが来るかどうかは曖昧だが、それにもかかわらず決然としている。さらに言えば、第三者のエストラゴンも当事者の決意を当然のことと受け入れている。人間は、当てにならないものでも待とうとするものなのか。

舞台では、第一幕が終わるころ、ゴドーの使用人で「山羊(やぎ)の番」をしているという「男の子」が登場してヴラジーミルに言う。「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」。そして、ゴドー宛てにことづけがないかを尋ねる。ヴラジーミルは、男の子が自分やエストラゴンに「会った」という事実をきちんと伝えるよう頼む。ゴドーとヴラジーミルとの関係性がみてとれる場面だ。

こうして日は暮れ、第一幕は終わる。第二幕は「翌日」の「同じ時間」「同じ場所」だ。登場人物もまったく変わらない。エストラゴンとヴラジーミルに何が起こるかは大体察しがつくだろう。だから、ここには書かない。こうして毎日が過ぎていく――。

翻って今、私たちには漠然と待とうとするゴドー的なものがあるのだろうか。「希望」を「嘆願」するような相手が見つからないということだ。大変な時代だと改めて思う。
* 当欄2023年7月14日付「あのゴドーの『ゴドー』とは誰か
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月21日公開、通算687回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

あのゴドーの「ゴドー」とは誰か

今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊

樹木の傍らで

言葉の形骸化は目を覆うばかりだ。形骸化とは、中身を失って殻だけ残ったような状態をいう。たとえば、政治家の常套句――「重く受けとめる」「注視していく」。急場をしのぐために使っているうち、そこに詰まっていたはずの意味が薄められてしまった。

政治家だけではない。世の中全体が言葉の形骸化という病に侵されてはいないか。たとえば、芸能界で不祥事があったとき、当事者が公表するコメントにも同様の傾向がある。「皆様には多大なご心配とご迷惑をおかけして、申し訳なく感じております」「ご批判を真摯に受けとめ、コンプライアンスの徹底に努めてまいる所存です」――形骸化がいつのまにか定型化して、読まされるほうはもはや読もうという気持ちにすらならない。

ここで私が言いたいのは、当事者の発言やコメントに誠意がないということではない。たしかに、これらの多くからは誠意を感じとりにくいが、その一方で、いまどき誠意を示そうとしても定型化した文言よりほかに表現が見つからない、ということがあるだろう。

むしろ私にとって気がかりなのは、私たちの思考がこれからどうなっていくのか、ということだ。悩みごとを抱えたときのことを思いだそう。解決法の選択肢が脳内に浮かんでは消えていくものだが、それらを固定化して整理してくれるのが言語だ。もし、それが定型の常套句ばかりとなり、中身が抜け落ちていたらどうだろう。形骸化は私たちの思考回路にも感染して、思考そのものをスカスカにしてしまうのではないか。

この懸念は、生成AI(人工知能)の登場によって増幅される。政治家の発言やタレントのコメントは、実際は事務方や広報担当者が執筆しているのだとしても、チャットGPTの文面と大差ないように思う。生成AIは、その局面で無難な言葉をビッグデータの貯水池から釣りあげて文章にしていく。そこに見てとれるのは、思考の不在だ。むやみに生成AIをもてはやすのは、言語の形骸化を受け入れるのと同じことだろう。

翻ってひと昔前はどうだったか。私は文学者でないので確たることは言えないが、言葉には意味が横溢していたように思う。言葉という言葉に既成の価値観が詰め込まれていた。だから、それを解体して無効化しようという知的作業が流行ったのだ。この解体願望はとりわけ、フランス文学界で顕著だった。1950年代に現れたアンチ・ロマン(反小説)はその運動の典型だ。それは小説の領域に限られない。同様の動きは演劇にもあった。

で今週は、戯曲『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊)を読む。作者(1906~1989)はアイルランド生まれだが、フランスで活躍した作家。1952年に本作を発表、「アンチ・テアトルの旗手」(本書略歴欄)として脚光を浴びた。1969年にノーベル文学賞を受けている。本書は、白水社が1990年に『ベスト・オブ・ベケット』の1冊として出版したものを「uブックス」化した。

ではさっそく、本を開こう。まずは登場人物一覧。エストラゴン(ゴゴ)、ヴラジーミル(ディディ)、ラッキー、ポッツォ、男の子の5人だ。カッコ書きされたのは愛称。人名はロシア的だったり、イタリア的だったり、英語風だったりして無国籍の空気が漂う。

第一幕の冒頭では、情景が素描される。「田舎道」「一本の木」「夕暮れ」とある。幕が開いたとき、舞台にいるのはエストラゴン。靴が脱げなくて悪戦苦闘している。道端に腰を下ろし、両手を使い、足から引き抜こうとするのだが、うまくいかない。そこに現れるのが、ヴラジーミル。考えごとに夢中の様子で、なにかぶつぶつつぶやいているが、エストラゴンの姿に気づいて呼びかける。「やあ、おまえ、またいるな、そこに」

こうして二人のおしゃべりが始まるのだが、文脈がなかなかつかみきれない。なんとなくわかるのは、二人はホームレス仲間らしいということだ。エストラゴンは、会話が一段落したところで言う。「さあ、もう行こう」。だが、ヴラジーミルは同調しない。以下、二人のやりとり。ヴ「だめだよ」 エ「なぜさ?」 ヴ「ゴドーを待つんだ」 エ「ああそうか。(間)確かにここなんだろうな?」 ヴ「何が?」 エ「待ち合わせさ」……。

これが、ゴドーという人物の名が出てくる最初の場面だ。ここから推し量れることがある。ヴラジーミルに「ゴドーを待つ」という強い意志があること、エストラゴンにもヴラジーミルが「待つ」なら自分もつきあうという消極的同意があることだ。ゴドーとの関係性はヴラジーミルのほうが強いようだが、エストラゴンも「ああそうか」という口ぶりからするとまったくの無縁というわけではなさそうだ。ゴドーは公的な存在なのかもしれない。

そこで思いつくのが、ゴドーはゴッド(God=神)のもじりではないかということだ。巻末の注(高橋康也執筆)にも「英語のGodにフランス語の愛称的縮小辞-otをつけたもの」とする見方が「やはり有力」とある。ただ注は、フランスの人名にGodeau(ゴドー)があるとして、「当時有名だった競輪選手」や「バルザックの作中人物」から引いてきたとの見方も紹介している。作者が謎めいた命名をしたことは間違いない。

実際、ゴドーそのものが謎めいている。ヴラジーミルによれば、ゴドーは「確かに来ると言ったわけじゃない」。だから、きょう来なければあしたも、あした来なければあさっても待つことになる。土曜に来ると言っていた気もするが、そもそもきょうが何曜日かがはっきりしない。二人は、自分たちがきのうゴドーを待っていたかどうかさえ確信がもてないでいる。もしかしてゴドーはきのう来ていて、もう「きょうは来ない」かもしれないのだ。

こんな場面がある。エストラゴンが唐突に「首をつってみようか?」と言いだすのだ。二人は立木の枝に近づき、どちらが先にやるかで順番を譲りあう。そして結局、ヴ「なんていうか聞いてからにするか」 エ「誰に?」 ヴ「ゴドーさ」 エ「ああ、そうか」

どうやら、ゴドーは二人にとって頼りになる存在らしい。ただ、このあとヴラジーミルが口にする台詞を聞くと、崇拝しているとは到底思えない。「やっこさんがなんて言うか、ちょいとおもしろい。聞くだけなら、こっちは、どうってこともないからな」

その「やっこさん」のことで、エストラゴンはヴラジーミルにこう尋ねる。「つまるところ、何を頼んだんだい?」。その場には自分も居合わせていたが、聞き漏らしたので改めて教えてほしいというのだ。ヴ「別に、はっきりしたことじゃない」 エ「まあ一つの希望とでもいった」 ヴ「そうだ」 エ「漠然とした嘆願のような」 ヴ「そうも言える」――このやりとりからも、ヴラジーミルのゴドーに頼ろうとする姿勢が見てとれる。

では、ゴドーはヴラジーミルの「嘆願」にどう応じたか。「今はなにも約束はできない」と即答を避け、じっくり考えて家族や友人と話しあい、「支配人」や「取引先」の意向も聴き、「会計」や「銀行預金」を精査してから答える――そんな趣旨のことを言ったという。

二人の会話から推察するに、ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある。

まずは、神らしさについて。ヴラジーミルがゴドーに「希望」めいたものを「嘆願」したのは、人間に頼んでもダメだからだ。「希望」のように漠としたものがほしければ、神仏にすがるしかない。たぶん、ゴドーには人間を超えた存在を思わせるなにかがあるのだろう。

だが、ゴドーには神らしくない一面もある。ヴラジーミルの嘆願への対応も、神ならば絶対の決定権があるはずだが、周りの意見や諸事情を勘案して決めるという。よく言えば民主的、別の言い方では世俗的。「やっこさん」と呼ばれるにふさわしい軽さがある。

ことわっておくと、この戯曲にはゴドーがゴッド(神)かどうかをめぐって議論があるわけではない。たぶん、作者はその問いに重きを置いていないのだろう。ただ、エストラゴンとヴラジーミルの会話を深読みすると、人間は心のどこかで絶対的な存在を欲しているらしいという気になってくる。現代では絶対的な存在の存在を確信できなくなっているにもかかわらず、である。だから、人間にできるのはその存在を待っていることしかない。

この作品では登場人物が意味不明な台詞を口にすることで、言語が意味から切り離されていく。そのこともまた、絶対的な存在の存在を懐疑させる。ただ、ひとこと言い添えたいのは、無意味な言葉があふれ返っていても、それらは力をもっていることだ。言葉の背後に作者の思考が仄見えている。昨今のメディアを賑わす発言やコメントのほうが、よほど空疎。アンチ・ロマンやアンチ・テアトル以上にアンチではないか。

さて、ゴドーは現れるのか。来週も不条理劇の不条理をもう少したどってみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月14日公開、同月15日最終更新、通算686回
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日高敏隆、DNA時代の動物観

今週の書物/
『人間はどういう動物か』
日高敏隆著、ちくま学芸文庫、2013年刊

DNA

私が「科学記者」になったのは、1983年のことだ。私がいた新聞社で大阪にも「科学部」を置くことになり、その一員に加わったのだ。希望が叶っての異動だった。

とはいえ、科学記者になってみると戸惑うことが多かった。取材先は、たいてい大学の研究者。研究室をふらりと訪ねても会ってはくれない。警察署や役所の取材とは勝手が違った。アポイントメント(面会予約)という言葉を使うようになったのも、そのころだ。

そんなアポイントメント取材で印象深いのは、当時、京都大学理学部教授だった動物行動学者の日高敏隆さん(1930~2009)だ。昆虫類から鳥類、哺乳類まで動物世界の語り部としてメディア露出も多かった人だ。だが、それだけではない。動物の研究を通じて人間のありように関心を抱き、文明批評にも長けた教養人だった。虫ぎらいの私が幾度となく日高研究室にアポをとったのも、日高さんの幅広い好奇心に魅せられていたからだろう。

あのころのことを思いだそう。研究室に入ると、ゼミ室のような一角に案内された。真ん中に、木製の大机がどんと置かれている。その机を挟んでまず、日高さんと向きあう。日高さんは、当日私が取材させてもらう予定の研究をかいつまんで話し、愚問にも答えてくれた。ただ話の区切りがつくと、パッと立ちあがって、どこかへ消える。そのあと、実地調査の手順や観察の結果を具体的に説明してくれるのは、若手の研究者だった。

これは間違いなく、日高流の心づかいだった。大学の場合、科学論文が連名で発表されるとき、研究の中心にいる若手研究者が筆頭著者となり、指導役の教授が最終著者になることが多い。ところが、メディア報道では「〇〇教授のグループが発表した」とされるのが通例で、若手研究者の存在が隠されてしまう。日高さんは、それを避けようとして記者を若手に引きあわせたのだ。実際に私の記事では、その若手が主役として登場していた。

日高さんの思い出は尽きない。だが、それに浸っていては行数を費やすばかりだから、昔話は後日に譲ろう。今回焦点を当てたいのは、20世紀にあった生命観の変転だ。

生物学では今からちょうど70年前、1953年に遺伝子本体DNA(デオキシリボ核酸)の立体構造が突きとめられた。その結果、生命はDNAで説明されるようになったが、このとき私たちの念頭にあるのは細胞レベルの現象だった。いわばミクロの生物学だ。ところが、話はそれだけでは終わらない。ミクロに呼応するようにマクロの生物学にも変化が起こった。日高さんもマクロの側にいる生物学者だったが、DNAと無縁ではなかった。

で、今週の1冊は『人間はどういう動物か』(日高敏隆著、ちくま学芸文庫)。これは、『日高敏隆選集Ⅷ』(本郷尚子編集、ランダムハウス講談社、2008年刊)の文庫化だ。第一章の章題で書名同様に「人間はどういう動物か」と問いかけ、第二章「論理と共生」、第三章「そもそも科学とはなにか」と話の幅を広げている。学術書のような組み立てだが、読んでみると雰囲気がまったく違う。肩の凝らないエッセイ集という感じだ。

本書は第一章冒頭の一文で、「人間もまた動物である」と宣言する。これは当たり前の事実でありながら、なかなか受け入れられないという。近現代には「人間は動物よりもえらい」「人間には理性がある、知性がある」という人間観が強まった。だが著者は、現実には戦争が後を絶たないことを指摘する。だから、私たちは自身も動物であることを認め、「人間とはいったいどういう動物なのか」を問い直すべきだ、と提言する。

こうして第一章では、人間は「直立二足歩行」をするために体の構造をどう変えてきたのか、人間が「毛のないけもの」になった理由は何か、などが話題となる。人間社会も俎上にあがり、一夫一婦制や少子化が動物行動学の視点から考察される。

読み進むと「人間はなぜ争うのか」と題する一節にも出あう。ここでまず登場するのが、オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツ(1903~1989)。動物行動学を切りひらいた人だ。その研究から引きだした結論は「すべての動物のすべての個体は攻撃性をもっている」。個体は、なわばりや食べもの、異性などをめぐって同類の仲間と争う。この攻撃性は「遺伝的に組みこまれたもの」であり、「種を維持するために不可欠なもの」だという。

ところが動物行動学が進展するにつれて、「個体の攻撃性」を「種族維持のため」とみるローレンツの学説に反論が現れる。そうではなくて、「個体自身の遺伝子をできるだけたくさん後代に残していく」ためだという。英国の進化生物学者であり、動物行動学者でもあるリチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」説だ。ドーキンスは「利己的なのは遺伝子であって、個体ではない」と主張する。個体は「遺伝子のロボット」なのか。

話を整理しよう。「攻撃性」をローレンツは「遺伝的」なものととらえた。ドーキンスは「遺伝的」なものを具体的に「遺伝子」としてイメージした。結果として主役は遺伝子に取って代わられ、生物の個体や種は遺伝子を運ぶ乗り物になってしまった――。

第二章「論理と共生」では、意外だが都市計画の論考が並んでいる。都市工学、環境工学系の雑誌に寄稿したものが集められているからだ。だが、そこにも動物行動学者の視点は見てとれる。たとえば、「計画と偶然の間」と題された一編を見てみよう。

そこではアリの巣が「じつにうまくできあがっている」ことなどを例に挙げ、「地球上の自然」は「あたかもデザインされたよう」であるという。これは、生物の「形」や「構造」や「機能」、生物種間の「関係」にもいえることだ。では背後に、だれかデザイナー(設計者)がいるのか? 著者は、ここでもドーキンスを引きあいに出す。ドーキンスは、デザイナーは不要として「偶然の突然変異と自然淘汰。それだけでじゅうぶん」と断じている。

著者の思考に広がりがあるのは、このドーキンス説を都市論に結びつけていることでもわかる。砂浜の美が「打ち寄せる波という偶然」から生まれたように、心地よい風景に「偶然」が果たす役割は大きい。これを踏まえて著者は言う。「人は都市計画によって『与えられた』ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう」。この一編の初出は「日本都市計画学会」の刊行物への寄稿だが、そこで計画至上論をチクリと刺している。

第三章「そもそも科学とはなにか」には、ローレンツが再登場する。ローレンツが動物の行動は「遺伝的にもともと決まっていて」、そのもって生まれた性質が「あるきっかけで」顕在化すると気づいたのは1930年代のことだ。著者によれば、そのころは動物の行動は学習によって身につけたものとみる考え方が主流だった。そんな思潮が背景にあったので、ローレンツの学説は「古い」「保守反動」と冷ややかに扱われたという。

当時は旧ソ連が台頭したころだ。ソ連では、農学者T・D・ルイセンコが遺伝よりも環境の影響を重くみる学説を提唱、それが政治思想と結びついた。動物の行動を生得的ととらえるローレンツの学説に「保守反動」のレッテルが貼られても不思議はない。

ところが20世紀半ば、形勢が逆転する。ローレンツは、本書の見出しにあるように「時代の『すこし先』をいっていた」のだ。1953年、DNA立体構造の発見で遺伝子の正体がわかり、生命現象の多くがDNAの働きに還元されるようになった。DNAの探究はミクロの領域にあるが、その影響はミクロにとどまらない。遺伝の実体がつかめたことでマクロ生物学も変わった。ドーキンスの利己的遺伝子説はその代表例だろう。

ただ、DNA重視の流れは人間のゲノム(遺伝情報一式)解読に行き着いて、今度は偏重の兆しが見られるようになった。親が子の遺伝情報を設計しようというデザイナーベビーの発想も一例だ。その落とし穴を日高さんならどう論じるか。読んでみたい気がする。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月30日公開、通算684回
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時間の流れを感じる物理学

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

シャッフル

先週は、物理学に時間は要らないという話をした。読んだ本は、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。理論物理学者が書いているのだから、トンデモの類と切り捨てるわけにはいかない。一応は納得した。(1

そのココロは、こういうことだった――。私たちは物事の様子が変わっていくとき、その変化を時間変数tの関数で記述する。“t”は時計の針のようなものだ。言葉を換えて言えば、私たちは日常の暮らしで物事の変化を時計の変化に関係づけている。

だが著者は、関係づける相手は時計でなくともよいと主張する。地球の自転や月の公転、地球の公転のように1日や1カ月や1年の目安となるものである必要もない。一つの変化を別の変化に関係づければ、それで物理学の方程式ができあがるという。

なるほど。そうならば「時間は存在しない」と言ってよいのかもしれない。だが、ここにはトリックがある。それは「変化」の一語に潜む。私たちは物事が変わると言うとき、時間を思い浮かべている。“t”を追い払っても、時間を排除したことにはならない。

先日の当欄でとりあげた哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を思い起こしてみよう(*2 *3)。こちらも「時間の非実在性」を言っていた。ただ、それを論証する過程で、時間に“t”で表しきれない一面があることも教えてくれていた。

マクタガートによれば、時間はA、B、Cの3系列に分けて考えることができる。重要なのはA、B両系列で、A系列は「過去・現在・未来の区別」、B系列は「より前・より後の区別」に注目する。この二つの着眼点は、いずれも“t”の枠に収まり切れない。

A系列について言えば、この世界では未来の出来事が現在の出来事に変わり、やがて過去の出来事になるという変化が起こっている。この変化は、“t”を表す時間軸だけでは説明できない。一方、B系列のほうは微妙だ。「より前・より後」は、時間軸のイメージになじみやすい。ただ、マイナス方向を「より前」ととらえ、プラス方向を「より後」とみるのはどうしてか。時間には“t”の多寡では測りきれないなにかがある。

以上のことから言えるのは、世界は時間変数“t”なしで成り立つが、それなのに私たちは世界に時間があると認識していることだ。それは本書『時間は存在しない』のもう一つのテーマとして、後段に詳述されている。今週は、そちらに焦点を絞ろう。

ここでのキーワードは「ぼやけ」だ。「時間の存在は、ぼやけと深く結びついている」「ぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ」と、著者は断じる。時間は人間が無知であることの表れにほかならない、というのだ。

この話を聞くと、私のように学生時代に物理学を齧った者は、ああ、エントロピーのことを言っているのだな、とわかったような気分になる。エントロピーは熱力学、統計力学に出てくる数値。講義では、「失われた情報の総量」と説明されたように記憶している。

コップの水を例にとろう。私たちが見ているのは、水という液体が透明な容器に入っているという「マクロな状態」だ。水中には数えきれないほどの水分子があり、その一つひとつがさまざまな位置にあるが、それは見分けられない。このぼやけが、エントロピーである。著者は、オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの理論をもとにエントロピーの値は「わたしたちには区別できない配置の数で決まる」と解説している。

さて物理学には、エントロピーはふえる一方、という「エントロピー増大の法則」(熱力学の第二法則)がある。机の上に整然と積まれた書類がいつのまにか乱雑な紙の山に化けるようなことをいう。そこでは「秩序ある配置」が「無秩序な配置」へ変わっていく。これは、机上の書類だけの話ではない。著者は、宇宙のありようも「シャッフルによって一組のトランプの秩序が崩れていくような、緩やかな無秩序化の過程」とみる。

興味深いのは、本書がエントロピーで過去と未来の違いを説明しようとしていることだ。著者によれば、過去は「現在のなかに痕跡を残す」。月面のクレーターも、古生物の化石も、脳内の記憶も、そういう「痕跡」にほかならない。では、過去をとどめる痕跡があっても未来の痕跡がないのはなぜか? 著者によれば、それは「過去のエントロピーが低かった」ことに起因する。「過去と未来の差を生み出すもの」はほかに見当たらないという。

ほんとかな、という話ではある。これには、エネルギーの保存則がかかわっているらしい。「痕跡」は、隕石が月にぶつかってクレーターをつくるように、なにかが動きを止めて運動エネルギーが熱エネルギーに変わるときに生じる、という。熱への変化は無秩序化だから時間に沿って進行する。こうして痕跡は、事後に見ることになる。未来の出来事も痕跡を残すだろうが、それを現在という事前の時点で確認することはできない。

著者によると、私たちが過去は「定まっている」と感じるのは痕跡がたくさんあるからだ。その結果、脳内には「過去の出来事の広範な地図」ができあがり、その過去に縛られる。これに対して未来は痕跡が見えないから、いくつもの選択肢があるのだという。

さて、ここまで来たところで先週の話をもう一度、復習しよう。本書によれば、世界は出来事のネットワークでできている、ということだった。だから、いくつもの変数同士の関係によって記述できる。実は今週の話も、この世界像と無縁ではない。

本書によれば、私たちは世界の「部分」に「属している」。どのように部分なのかといえば、私たちと影響を及ぼしあう変数が変数のすべてではないということだ。人間が関係するのは世界全体ではなく、その一部に限られると考える立場である。

これは、エントロピーに影響する。エントロピーは「ぼやけ」の度合いを反映しているが、そのぼやけ方は「自分たちがどの変数と相互作用するか」に左右されるという。「どの変数と相互作用するか」は部分ごとに異なるので、「ぼやけ」の度合いも自分が属する部分次第だ。では、私たち人間はどこにいるのか。「この世界が始まった頃のエントロピー」が「きわめて低かったように見える」部分に置かれている、と著者は説明する。

宇宙初期のエントロピーが小さい状態を著者はこう理解する。「宇宙は特別な配置になってはいない」「わたしたちが特殊な物理系に属していて、その物理系に関する宇宙の状態が特殊なのだろう」――ここで「物理系」とあるのが部分のことだ。

この見解は、宇宙論の人間原理に一脈通じているように私は思う。人間原理では、宇宙がこうなっているのは、こうでなければ人間が存在できないからだ、という見方をする。著者の時間観はこれに似て、宇宙にこのような時間が流れているのは、そうでなければ人間は時間を感じとれないからだ、と言っているように思える。私たちはたまたま、宇宙のなかでこのような時間が流れる部分にいることができた、と言うこともできるだろう。

「部分」の話ではもう一つ、付言したいことがある。著者が、「宇宙の無数の変数のごく一部と相互に作用している」ことを「視点」の意義と結びつけていることだ。私たちは宇宙を「内側から」見ているので「視点」なしに世界を記述できない。そこで無視できないのが、「今」「ここ」「わたし」のようにその場に応じて指示するものが換わる言葉だ……こんな論旨に触れて、マクタガートの時間論を思いだした。(*2 *3

『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫)の訳者「付論」にある「端的な現在」「端的な私」が連想されたのだ。哲学者であれ、物理学者であれ、時間を語るには内側からの視点が欠かせないのか。

本書『時間は存在しない』を読んで、理系文系の時間像が近年、かなり近づいていることがわかった。ただ両者の間には、なお乗り越えるべき壁がある。たとえば、マクタガート時間論の「過去・現在・未来の区別」に「痕跡」はどうかかわるのか。あるいは、未来が現在となり、やがて過去へ行き着くという「変化」はエントロピーの増大とどう関係するのか。問うてみたいことは山ほどある。今後もゆっくり、時間について考えていきたい。
*1 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*2 当欄2023年4月21日付「『時間がない』と哲学者は言った
*3 当欄2023年4月28日付「時間を『我が身』に引き寄せる
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月12日公開、通算678回
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「時間がない」と物理学者は言った

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

時間は不要?

薔薇の花を見て、ああまた初夏が巡ってきた、と思う。年をとると時の流れは速い。生に限りがあることを自覚して、時の終わりが頭にちらつくこともある。時間は切実な関心事だ。で当欄は今春、哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を読んだ。(*1 *2

ただ、哲学談議だけでは時間の半面を見たに過ぎない。学問の世界には、まったく別の観点から時間を考えている一群の人々がいる。それは自然科学者、とりわけ物理学者だ。

自然界は、物体によって成り立っている。物体は空間軸と時間軸の座標で位置づけられ、その動き方は空間の位置変化を時間で割った速度や、その速度変化をさらに時間で割り込んだ加速度によって記述できる――物理世界の出来事をこのようにとらえることに私たちは慣れてきた。現代に入ってニュートン力学の限界が見え、相対性理論や量子力学などのややこしい話が出てきたものの、空間と時間の大枠は健在のように見える。

文系の時間像は前々回、前回に書いたように一筋縄ではいかないが、理系の時間像は見通しが良い。かつて「本読み by chance」でとりあげた『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)は、この文理の断絶を見抜いていた。(*3

橋元さんはこう指摘した。「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」「一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない」。私も同感だ。科学者だって、忙しがったりのんびりしたりしているのに不思議なことだ。だが最近は、物理系の人が「人間的時間」に踏み込むようになった。それは、橋元さんだけではない。

『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。この本のことは新刊当時、新聞で知った(朝日新聞2019年11月16日朝刊読書面「売れてる本」欄)。評者は批評家の福尾匠さん。「本書には文系/理系という安易な分割を越えた知性が、というより、理系にしか引き出せない文系の魅力が刻まれている」と結んでいた。私も一読してそう思った。本の帯に「革命的な時間論」とあるのも、うなずける。

著者は1956年、イタリア生まれの物理学者。パドヴァ大学大学院で博士号を得た後、イタリア、米国、フランスの大学で理論研究を重ねてきた。相対性理論と量子力学を一つにまとめる理論の構築に挑んでおり、「ループ量子重力理論」を主張する一人だ。その一方、一般向けの物理本も次々に執筆している。本書は、2017年にイタリアで出版された。著者紹介欄によると、30を超える国々で刊行が決まり、「世界的ベストセラー」になっている。

この本の要点は二つある。一つめは、物理学は時間がなくても成り立つということ。もう一つは、それでも私たちには時間があるように感じられるということ。後者は、人間の本質にかかわる。二つめがあるから、「人間的時間」に踏み込んでいると言えるのだ。

時間が絶対的でないことは、すでに多くの科学ファンが知っている。20世紀に入ってアルバート・アインシュタインが相対性理論を築いたことで、アイザック・ニュートン流物理学の絶対時間が否定されたからだ。そのことは本書も念押ししている。

たとえば、第一章「所変われば時間も変わる」の冒頭部では「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」と書かれている。これは、一般相対論の効果だ。「物体は、周囲の時間を減速させる」と説明して、「山より平地のほうが減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〔の質量の中心〕に近いからだ」(〔〕内は訳注、太字表記は原文に従った)と言う。この話の切りだし方に私は戸惑い、そして納得した。巧い、この人は!

アインシュタインの相対論を扱う一般向け科学書は、特殊相対論から入るのが常道だ。特殊相対論は慣性座標系同士を扱う理論なので、列車と駅のホームのようなわかりやすいイメージで考察できる。実際、アインシュタイン自身もまず特殊相対論を仕上げ、そのあとに一般相対論へ進んだ。ところが著者は、いきなり一般相対論を読者に提示した。推察するに、それは時間が「物体」とかかわっていることを印象づけたかったからだろう。

一般相対論の解説では見事な論法がある。太陽と地球の間に重力が働く様子を、このように描く。「直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか」。いわゆる近接作用だ。そうならば「水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」――時空が重力の伝え手なら、それはコンクリート塊のような剛体ではありえない。

ここまでの話では、時間は存在する。ただそれは、物体によって影響を受ける。この限りでは、著者は、時間よりも物体を重視している。だが、よく読むと、その物体も絶対視してはいない。むしろ、逆なのだ。物体を幻のようなものとみている。

その話が出てくるのは、第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」だ。モノよりもコトを重んじる世界観を全展開している。物体の代表格「石」を例に挙げ、こう言い切る。それは「崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程」である――と。古典物理学も現代物理学も「物の状態」ではなく「出来事の起き方」を語っており、「『物』はしばらく変化がない出来事」に過ぎないという。

この考え方に立てば、世界は「出来事の集まり」ということになる。しかも、それらは互いにつながりあって「出来事のネットワーク」をかたちづくっている。物理学者は長い間、素粒子研究などで「基本的な実体の正体」を探し求めてきたが、最近は「出来事同士の関係」を知るほうが世界をとらえやすいことがわかってきた、という。モノよりコトを重んじる世界観は、「実体」より「関係」を重んじる世界観と言い換えてもよいだろう。

著者は、人間についても「出来事のネットワーク」論で語る。人間は、自身が「食べ物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程」という出来事だが、それは「社会的な関係」や「化学反応」や「同類の間でやりとりされる感情」のネットワークの「結び目」となり、ほかの出来事とつながっている。ここで「食べ物」や「光」や「化学反応」が、「言葉」や「感情」や「社会的な関係」と並列されるところに本書のおもしろさがある。

見落とせないのは、著者が「出来事」の本質を「変化」とみていることだ。「出来事」は、「物」のように続くことはあっても、それはあくまで「しばらく」だ。ずっとではない。ということは、出来事から成る世界も「絶えず変化している」と見たほうがよい。

世界が「変化」とともにあるなら、そこに時間は欠かせないように思われる。ところが著者は、時間は要らないという。なぜ、そんなことがいえるのか。第八章「関係としての力学」に進むと、この疑問は氷解する。「変化」は時間変数“t”の関数によって表すものという常識が私たちにはあるが、著者はそれにこだわらない。或る量の変わり方は別の量の変わり方と関係づければ、どのようにも表現できる。別の量は“t”でなくともよいのだ。

人類は、物事の変化をまず、「日数」や「月の満ち欠け」「太陽の高さ」に関係づけた。これらが暦や時計を生み、「一つの変数を選んで『時間』という特別な名前をつける」ことになった。だが、それは不要だ、と著者は断言する。知りたいのは「もの同士が、互いに対してどのように変化するのか」だ。著者の専門である量子重力の基本方程式も「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」形式をとっているという。

ここまでの話で、本書の要点の一つめ、物理学に時間はなくてもよいということの論旨はおぼろげながら見えてきたように思う。だが、もう一つの難問が残っている。私たちはなぜ時の流れを感じるのか、だ。この問いの答えを求めて、次回も引きつづき本書を読む。
*1 当欄2023年4月21日付「時間がない』と哲学者は言った
*2  2023年4月28日付「時間を我が身に引き寄せる
*3 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月5日公開、通算677回
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