実存の年頃にサルトルを再訪する

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

人は石にあらず

年頭恒例の夏目漱石ものの表題は今年、「漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日付)だった。実存とは青臭い。それでもすんなりこんな言葉がひらめいたのも、実存が身についてきたからだ。人間、70年近くも生きていると、いつのまにか実存的になっている。

つまりは、こういうことだ。50年前、喫茶店で友人を相手に「実存」「実存」とまくし立てていたころは、現実の存在が本質に先立つなどと言っても絵空事に過ぎなかった。学生はこうあるべきだ、男子はこうあるべきだ……といろいろ「べきだ」はあったが、その強制力はたかが知れていた。あのころは、言われなくとも存在が先に立っていたのだ。だから、「実存」を振りまわしても、それは空回りするばかりだったように思う。

ところが、大人になると様相が一変する。職業とは自分が受けもつ任務を指すので、若者は就職によって――たとえ、その仕事が本人の希望に適っていたとしても――世間から一つの役目を押しつけられるかたちになる。ここで強引に、役目≒本質とみなせば、本質>存在の力関係が生まれる。存在と本質の立場が逆転するのだ。私自身も25歳で新聞記者になって以来、記者はこうあるべきだ、という「べきだ」に縛られてきた。

その間、実存はどうしていたのか? 私自身について言えば、あの青臭い言葉は意識の外に追い払われていた。忙しくて、それどころではなくなったのだ。だが今振り返って、自分の半生は実存的でなかったのかと自問すれば、そうとは言い切れないぞ、と思えてくる。

私は新聞社にいた36年間、日々押し寄せる「べきだ」の大波に抗してきた。心の片隅に、記者らしい記者ではいたくないとの思いがあったのだ。これは、本質に先立つ存在に立ち帰ろうという志向に通じている。その抵抗が実りあるものだったとは言えないが……。

そして70歳を目前にした今、私は――たぶん、同世代の人々の多くもまた――現役を離れたことで、実存の抵抗を内に秘める必要がなくなった。ようやく堂々、自覚的に実存的となる年頃になったのである。しかも昨今のコロナ禍は、私たちを否応なく実存的にさせる。

で、今週は『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)。一昨年のことだが、近くの町にあった古書店で見つけた。この本は第2次大戦直後の1945年、パリのクラブであった講演をもとにしているので、口述の柔らかさがある。著者(1905~1980)は、言うまでもなく20世紀実存主義の中心にいたフランスの哲学者である。

まずは、実存主義を素描したくだりを見てみよう。そこには、私が若いころに聞きかじった「実存が本質に先立つところの存在」という言葉がちゃんと出てくる。著者のように「無神論的実存主義」の視点に立てば、人間はこうした存在にほかならない。

ここで注目すべきは、「実存が本質に先立つところの存在」を「何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在」と言い換えてもいることだ。著者によれば、人間は「最初は何者でもない」が、のちに「みずからが造ったところのものになる」。あなたも私も、もともとは未定義であり、本性を具えていないということだ。なぜなら「その本性を考える神が存在しないから」である――ここまでを、著者は「実存主義の第一原理」と呼ぶ。

このあとに出てくるのが「投企」だ。これもまた、実存主義用語として懐かしい。英訳すれば“project”。「人間は苔や腐蝕物や花キャベツではなく、まず第一に、主体的にみずからを生きる投企なのである」。あなたも私も「未来にむかってみずからを投げる」ことによって「みずからが造ったところのものになる」。だから、本来は「何者でもない」のに「石ころや机よりも尊厳」と言えるのだろう。人間を動詞でイメージしている点が新鮮だ。

ここで著者は、投企と意志とを分けて考えている。投企は意志の根っこにある、というのだ。たとえば、ある党派に入ろうとすること、ある本を書こうとすること、ある人と結婚しようとすること――こうした意志は「一そう根原的な、一そう自発的な或る選択の現れにほかならない」。人間には、まずどんな自分をつくるかという根本の選択、すなわち投企があり、その結果として意志が個別の決定をする、ということらしい。

著者は、この本で「われわれの出発点は個人の主体性」と主張している。「投企」の主語は、一人ひとりの個人ということだ。だから、17世紀の哲学者ルネ・デカルトが提起したコギトの命題を引いて「出発点において、『われ考う、故にわれあり』という真理以外の真理はあり得ない」と言い切っている。なにごとを議論するにしても、おおもとに絶対的な真理を必要としている。それは「自分自身を捉える意識」にほかならない、というわけだ。

この文脈で、著者は実存主義が唯物論と相容れないことを明言している。唯物主義は「あらゆる人間を物体として扱う」。これに対して、実存主義は「人間を物体視しない」。むしろ、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」としている――こう表明するのだ。著者は、自身の立場とマルクス主義の間に一線を引いていた。それなのに言論界では一貫して左派陣営に身を置いて、マルクス主義にも近づいた。それはなぜか。

本稿では、この疑問点を探ろうと思う。そのまえに押さえておきたいのは、著者は「われ考う」を重んじるものの、唯我論には迷い込んでいないことだ。そこには「われわれは『われ考う』によって、他者の面前でわれわれ自身をとらえる」との記述がある。自己を意識するとき、自己は他者に関係づけられているということか。「他者は、私が自分に関して持つ認識に不可欠」であり、「私の存在にとっても不可欠」というのが著者の論理だ。

これは、現象学の間主観性を示唆しているようにも思えるが、その用語は見当たらない。代わりに出てくるのが「相互主体性」だ。「私の内奥」に「他者」を発見することで「相互主体性」が見えてくるという。こうして、実存主義に社会派の視線が芽生える。

実際、著者はこの本の随所で、実存主義の社会性を強調している。たとえば、さきほどの「投企」を論じたくだり。実存主義は「みずからの実存について全責任を彼に負わしめる」と述べた後、次のような趣旨のことを言い添えるのだ。「彼」の責任は「彼個人」に対するものにとどまらない、それは「全人類」に及ぶのである、と。ちょっと飛躍が過ぎるのではないか、と問い返したくなる。だが、これにも答えが用意されている。

私たちは「あれかこれか」を選ぶとき、選んだほうの「価値」を「肯定」している、と著者はみる。「われわれが選ぶものは常に善であり、何物も、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはあり得ない」。実存は普遍の善を好むということか。著者の論理では、こうして「私」が万人につながり、「私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる」。サルトル哲学ならではの用語、アンガージュマンの登場である。

アンガジェは“engager”。縛る、かかわらせる……といった意味の動詞だ。その名詞形が“engagement”。フランス語読みでは、アンガージュマンとなる。1960~70年代、それは〈参加〉と訳され、政治性を帯びた意味合いで用いられたものだ。この本を読むと、著者がなぜ、この言葉を多用したかが痛いほどわかる。マルクス主義を強く意識しながら、それとは違う方法で社会とかかわり、政治に〈参加〉しようとしたからにほかならない。

巻頭では「コミュニストたちからの非難」を例示して、それに反論している。巻末所収の講演後の討論では、マルクス主義の視点から浴びせられる質問に反駁している。そこから見てとれるのは、実存主義を行動の伴わない「静観哲学」とみなす批判に対する強い反発だ。

著者は、左派論客として政治へのアンガージュマンを行使するときも、その行動の根源に投企があると言っておきたかったのだ。戦後、マルクス主義者と共闘したときも、その思いを内心に秘めていたのだろう。実存を「物体視しない」。私も、それに同意する。
*引用では、本文を現代風の仮名づかいに改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月29日公開、通算559回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

野に咲く花、あの社会党はどこへ

今週の書物/
『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』
保阪正康著、河出新書、2020年刊

「花はどこへ行った」はピート・シーガーのフォークソングだ。「野に咲く花はどこへ……」(日本語詞・おおたたかし)と唄いだされる。最近、日本の社会民主党が分裂して究極のミニ政党になるというニュースに触れ、その歌を小声で口ずさんでいる自分がいる。

社民党と言えば、やや失礼な言い回しをすれば野党界の老舗だ。前身の日本社会党は戦後、日本政界の一角を占め、とりわけ1955年から約40年間は与党自由民主党と対峙する野党第一党であり続けた。まさに「野に咲く花」だったのだ。ところが、その花の末裔が今、枯れ落ちる寸前のように見える。私はここで、一党派の盛衰について書くつもりはない。ただ、社会党的なるものに存在感があったという史実を心にとどめておきたいとは思う。

意外かもしれないが、社会党はおしゃれだった、という印象が私にはある。1970年前後、街角で見かけた政党ポスターがそうだ。それをおぼろげな記憶をもとに再現すれば、ガランとした電車の車内風景を写真に撮って全面に刷り込んでいた。アングルが斜めに傾いている。座席には終着駅まで乗り過ごしたらしいサラリーマンがいたような気もするが、はっきりしない。ただ、都市生活の人間疎外を感じさせる一瞬を巧く切りだしていた。

ひとことで言うと、都会的だったのだ。この印象を裏づけるように、当時、社会党のポスターづくりには大手広告代理店がかかわっていたという話を聞いたことがある。もしそうなら、もちろんビジネスとして請け負ったのだろう。だが、かかわったクリエイターやアーティストたちの内心には仕事の域を超えて、この政党に対する愛着があったのではないか。それほどにリキが入っていた。社会党は、カタカナ書きの職業を味方につけていた。

これは、テレビを見ていてもわかることだった。芸能人・タレントたちを政治の座標軸に位置づけてみると、ゴリゴリの左翼系ではなくても、自民党を嫌う一群が存在していた。そういう人たちが、それとなく社会党に好意的な発言をする場面がままあったように思う。

あのころは農村部では保守が優勢、都市部では革新が強いという色分けもあった。だから、社会党が都会的に見えたのは不思議ではない。問題は、高度成長期とその後のバブル期に農村地帯がどんどん都市化していったのに、なぜ、この党は大きくならなかったのかということだ。皮肉にも、列島改造政策などで都市化を推し進めたのは自民党政権だった。政敵がチャンスをくれたのに、それを生かせなかったのだとも言える。

で、今週の1冊は『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』(保阪正康著、河出新書、2020年刊)。著者は1939年生まれ、出版社の編集者出身の著述家。日本現代史、とりわけ昭和の戦前戦後史を学者とは異なる視点で読み解いてきた。あとがきによると、この本は「サンデー毎日」の連載「戦後革新の対立軸」をもとにしているというが、奇しくも社会党の後継政党に「消滅」の黄信号が灯る局面で世に出ることになった。

著者は、学者でないというだけではない。社会党関係者でもなかった。社会党嫌いであったわけでもない。序章では、自身が社会党の「熱烈とまでは言わないが、支持者であった」と打ち明け、「しかし次第にこの政党に関心を失った」と言い添える。この距離感がいい。

この立ち位置ゆえに、社会党のお家芸だった路線論争に深入りして、そこで唱えられたイデオロギーをマルクス主義の文献と突きあわせて吟味したりはしない。そうかと言って、社会党には追い風だった戦後民主主義まで否定したりもしない。むしろ、この政党が仲間うちの確執に明け暮れて、時代とともに移り変わってゆく人々の心模様を読みとることを怠り、世間の位相からどんどんずれていく様子を、これでもかこれでもかと指弾しているのだ。

序章は、「社会党に代表された戦後社会の姿あるいはイメージ」が私たちに残したものを辛辣な筆致で箇条書きにしている。「平和、自由、進歩といったプラスイメージの語彙を空虚にさせた」「生活の中の現実主義を糊塗するために空論を弄(ろう)することになった」……。現実を見て解決策を探らず、ただ立派なスローガンを掲げた。その結果、「空虚」な言葉の「空論」ばかりが飛び交うことになった。ずれていく、とはそういうことだ。

私は社会党のポスターを「都会的」と感じたが、著者は、1960年代から党の要職を務めた江田三郎に「都会的なスマートさ」を見ている。彼の存在は「党の人気を底上げする力」を秘めていたという。白髪のエネルギッシュな風貌で「テレビ映りも良い」と評しているが、「都会的」で「スマート」なのは外見のことではないだろう。思考の「柔軟性」がその印象を与えたのだ。それがかたちになったのが、構造改革論に根ざした江田ビジョン。

江田ビジョンでは、英国の議会政治、米国の豊かさ、ソ連の福祉、日本の平和憲法を理想像として提示している。この説明は、人々の胸にすとんと落ちた。ところが、これを「改良主義」と切り捨てる左派勢力が党内には強く、党の方針とはならなかったのだ。

江田は1977年、ついに社会党を離れる。このときの話が同じ著者の『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に出てくる。党は離党届を、本部のある社会文化会館では受けとろうとしなかった。党に近づくな、ということか。江田は会館建設の資金集めに貢献した人だ。著者は、党の仕打ちを「許せない」と断じている。(「本読み by chance」2015年4月10日付「『昭和』を聞きつづける人の本」)。同じ視点は、この『対立軸の…』にもある。

著者は、今回の本でも「昭和30年代、40年代の東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、戦前の陸軍の青年将校のようなタイプが多かったと思う」と述べている。振りかざす旗が「天皇絶対」から「社会主義絶対」に代わっただけで、「正義は我にあり」「自らに抗するものは非正義」とする点は共通だという。私も同感だ。社会党の社会主義者たちには、自分たちはなぜ社会主義をめざすのか、という自問がなかったように見える。

私がこの本でもっとも強く興味を覚えたのは、社会党の成長経済との向きあい方を振り返った箇所だ。「社会党は高度経済成長を受け入れていながら、そしてそれに見合う生活上の豊かな部分を満喫しているのに、体質は社会主義の路線や理論に甘えていた」という著者の指摘は図星だろう。あのころ、支持母体の労組は毎年の春闘で高度成長の分け前を手にしていた。その後ろ盾となるだけで義務を果たしている気になっていたのではないだろうか。

実際、高度成長の恩恵が相当なものであったことは、著者も認めている。「私自身、経済社会の豊かさの中で文筆業に入っただけに、当時の経済成長の一端に触れる実感があった」と打ち明け、「私のような実感を持っている者が、社会党の支持から離れ、いわゆる『支持政党なし』に変わっていったのであろう」と分析する。支持者たちが社会党の「古い体質」、すなわち「イデオロギーに固執している状態」を見限ったのである。

では社会党は、あの時代に存在理由を取り戻すことができたのか――それが私の関心事だ。この本は、その問いに真正面からは答えてくれない。ただ、高度成長期の社会を論述したくだりから、存在理由は失ってはおらず、見失っていただけらしいことがわかる。

著者は、1960年代後半から日本社会に「二つの特徴」が現れたという。一つは豊かさの不公平。ところが、個々人の所得増に惑わされて「分配が公平にいっているような錯覚」が生じた。もう一つは公害。それは「高度成長に伴う不可避的な問題」にほかならなかった。

この二つに、社会党はもっと目を向けるべきだったのだ。その後、分配の不公平は市場経済万能論や経済のグローバル化で深刻度を増し、格差社会を生みだしていく。公害は、住民対企業の構図に収まらないエコロジー思想を育て、地球環境に対する危機感が強まっていく。一つの左派政党が1960年代、この展開を予想できたとは思わない。だがせめて、その激流に取り残されないだけの思考の準備をしていてほしかった。そう思わざるを得ない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月18日公開、通算553回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。