坪内祐三、都市辺縁のまち語り

今週の書物/
『玉電松原物語』
坪内祐三著、新潮社、2020年刊

世田谷線松原

〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……。
なんのことか、と思われるだろう。これらはみな、私の散歩圏内にある。〇〇や◇◇や△△は、いずれも60年ほど前、小学生時代をともに過ごした級友たちの名前だ。

私は今、あのころ暮らしていた場所の近くに住んでいる。住まいを転々とした後、昔の町内に戻ってきたのだ。だが級友の多くはどこかへ引っ越したままで、ここにはいない。

10年近く前、退職したころのことだ。町内をぶらついたり、自転車を走らせたりする機会がふえて、この坂には〇〇くんの家があったな、この通りには◇◇さんが住んでいたな……と思いだすようになった。それで、散歩道のあちこちを級友の名で呼ぶことにしたのだ。折しもそのころ、クラス会が約50年ぶりに開かれた。〇〇くんも、◇◇さんも、△△くんも、この町に帰ってきた――。散歩道の風景に生気が吹き込まれたように私は感じた。

この私的体験はたぶん、だれもが共有するものではない。農漁村には地縁血縁があるから、いったん地元を離れても、里帰りすれば昔と同じ景色を眺めて昔と同じ人々に再会できる。都会はどうか。歴史のある市街地には、その町を象徴する名所旧跡や伝統行事が残っているから、転居しても「わが町」のイメージを抱き続けることが可能だ。わざわざ個人的な街路名までつくって町の記憶を今の風景に紐づけなくとも、それは逃げていかない。

ところが、都市辺縁部はそうはいかないのだ。私の町を例に挙げよう。ここは東京西郊にあり、かつては農村地帯だった。1927(昭和2)年に私鉄電車が開通すると、関東大震災に遭った商家が都心から移ってきて、駅周辺に商店街が生まれた。やがて、勤め人の家々が建ち並ぶ。住宅街の誕生だった。戦後は社宅など、集合住宅もふえた。住人の出入りは激しい。その入れ替わりに急かされるように、町の風景も次々に塗りかえられてしまった。

だから、意識して記憶を蘇らせたい。〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……というように。

私が強調したいのは、都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある、ということだ。農村の地縁血縁はなく、旧市街の伝統文化もない、人々が中途半端に入れ替わっていく郊外ならではの小世界がそこには存在する。郊外といえば、米国文学に郊外(サバービア)生活を小説化する流れがあることを思いだす。だが、あのサバービアとは異なる郊外を私は実体験してきたのだ。今回は、その体験と響きあう読みものを紹介しようと思う。

で、今週の1冊は『玉電松原物語』(坪内祐三著、新潮社、2020年刊)。著者は1958年、東京生まれ。雑誌「東京人」の編集部員を経た後、評論家、エッセイストとして活動した。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』などの著書がある。2020年1月、心不全で急逝。この『玉電…』は、「小説新潮」誌に2019年5月号から2020年2月号まで連載したエッセイを本にしたものだ。さらに続くはずだったので、未完の「遺作」ということになる。

書名を解説しておこう。「玉電松原」は東急世田谷線松原駅の旧名だ。この駅は世田谷区北部の、小田急線より北、京王線より南という中間領域にある。世田谷線は、かつて東急玉川線(通称「玉電」)の支線だった。玉電本線は路面電車だったので、世田谷線にはチンチン電車の雰囲気が漂う。松原駅もどこか停留所っぽい。著者は3歳のときに渋谷区から世田谷区赤堤に引っ越してきた。それで最寄り駅となったのが、この玉電松原だった。

著者は本文冒頭の一文で、自分は東京生まれ東京育ちでありながら「『東京っ子』とは言い切れぬ思いがある」と打ち明けている。読み進むと「私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ」という宣言にも出あう。このくだりでは、往時の「赤堤界隈」は「田舎」だったので「世間の人が思っている世田谷っ子ではない」ともことわっている。これこそ、前述した〈都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある〉ということの別表現だろう。

実は私も、その赤堤に近い町に生まれ育った。小中学校の校区は隣接する。だから、そこが「田舎」だという印象はかなりの部分、共有する。その象徴が、この本に出てくる「四谷軒牧場」だ。100頭超の乳牛を飼っていたことがあり、私が若かったころは「東京23区で最後の牧場」ともいわれていたが、1980年代半ばに閉鎖された。今回、「たしか名糖牛乳におろしていたと思う」という記述を見つけて、そうだ、そうだったな、と思った。

著者の四谷軒牧場をめぐる回想は事細かだ。通学していた赤堤小学校の隣接地が牧場の牛糞処理場だったこと、それがやがてトウモロコシ畑に変わったこと、作物の成長を目にするたびに「前身が前身だけに土地がよく肥えている」と納得したこと……1970年ごろには、牛が1頭脱走して牧場前の赤堤通りに「デンと座っている」のを教室から目撃したという。そのころは車の行き来が激しくなっていたから、大騒動だったらしい。

私は著者より7歳年長だ。赤堤がもっと「田舎」だったころも知っている。思い違いがあるかもしれないが、幼少期の記憶を一つ披瀝しよう。当時は赤堤通り――その街路名がまだなかったかもしれないが――が牧場の近くで北沢用水という小川をまたいでいたが、その橋が土管だったのだ。川幅いっぱいに土管を並べ、水流を土管に通し、土管の上に板を載せたような簡易な橋だった。ちなみに今、この川は暗渠化されて緑道になっている。

この本の主題の一つは、あのころの小さな商店街だ。フランチャイズの店の出店攻勢が始まる前で、個人商店が存在感を示していた。印象深いのは、玉電松原駅近くの書店。著者は小学生のころから常連で、漫画誌「ガロ」を買ったりしていた。その書店も、今はコンビニになった。東京では昭和30~50年代、「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」。そのことを証言しておくのが、エッセイ執筆の最大の「動機」だったという。

実際、本の巻頭には「松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」が見開きで載っている。手描き風。このマップでもっとも入念に描き込まれているのが、玉電松原駅を挟んで東西に延びる商店街だ。鮮魚店がある、青果店がある、薬局もある、家具店もある……。

店々からは、いくつかの特徴が見てとれる。その一つは、〈よろづや〉性であるように私は思った。くだんの書店は、店舗の3分の2が本屋で残りは文房具屋、たばこ売り場の一角もあった。もう一つ、この本に出てくるのは、玩具店の役目も果たしていた菓子店。子どもに人気の「プラモデルやメンコ」「怪獣のブロマイド」「2B弾やカンシャク玉」……などが置かれていた。〈よろづや〉性には、どこか田舎町の雰囲気がある。

店が商売以外で地元と結びついていたことにも、私は心を動かされた。それは、著者が子ども時代に弟や友だちと「三角野球」に興じた話に見てとれる。三角野球は、二塁抜きの野球ごっこ。両チーム合わせて6人ほどは必要だが、4人しか集まらないこともあった。そんなときは蕎麦店に電話して安い麺類を断続的に注文、出前に来る店員を一人二人とメンバーに引き込んだという。店主は、事情を知りながら助っ人を送りだしていたらしい。

最後の章――本当の遺稿ということだ――では、著者が子ども心に感じた商店街の謎を二つ挙げている。まずは「人が入っていく姿が見えなかった」というスナック。子どもが寝入った時間帯に賑わっていたのだろうか。もう一つは、住宅地なのに結婚式場があったこと。「そもそも商売は成り立っていたのだろうか」「一度で良いから足を踏み入れておけばよかった」と綴っている。著者は世を去る直前まで、あの町に思いをめぐらせていたのだ。

著者は1989年まで赤堤にいて転居した。この本に書かれていることの大半は、著者の少年期、1960年代半ばから1970年代半ばまでの話だ。これは奇しくも、私が近隣の町で過ごした青春期に重なる。あの一帯は、心が挫けた夜にひとりで歩きまわった場所ではないか。今回、この本を読んで赤堤小学校周辺や世田谷線松原駅界隈を再訪してみた。町並みからは個性が薄れ、むかし私を癒してくれた「田舎」の空気は感じられなかった。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月17日公開、通算631回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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ヴィアン、実存熱をジャズで笑う

今週の書物/
『うたかたの日々』
ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊

ピアノ

ジャズと実存主義は相性がいい。ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』には、主人公のロカンタンがキャフェでジャズのレコードを聴く場面が出てくる。その曲は、女性歌手がしゃがれ声で歌う“Some of These Days”(「いつか近いうちに」)だ。

このくだりについては、拙稿「サルトルを覚えてますか」(「文理悠々」2010年6月17日付、当時、朝日新聞ウェブサイトに連載)で話題にした。そのときに引用した一節を再引用しよう。「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く」。ロカンタンはそれをつかまえたいが、そうはいかないことも心得ている。「それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろう」

この体験は、ロカンタンに心地よさをもたらす。「〈嘔気〉の中のささやかな幸福」と呼べるものだった。しかも、歌が“some of these days……”というサビの部分にさしかかると、〈嘔気〉はどこかへ消えてしまう(白井浩司訳=人文書院版『嘔吐』による)。

実存主義は、人間を「実存が本質に先立つところの存在」とみる(*1)。これはジャズの楽曲が「つまらない、すぐに衰えて行く一音」の連なりであることに似ている。一つの音がリズムに乗って一つの歌になるように、人間も一瞬一瞬の〈投企〉によって人生をつくりあげていく――この相似関係ゆえに、実存主義はジャズと相性が合うのだろう。こうして両者は第2次大戦後のフランスで共振し、世界中の若者たちにも広がったのである。

では、2022年の今、ジャズと実存主義はどんな状況にあるだろうか。ジャズの心地よさは、人類に定着したと言ってよい。そのことは、私たちが日常の空間で聞き耳を立てていればすぐわかる。ショッピングモールであれ、ヘアカットの店であれ、居酒屋であれ、そこに小さな音量で流れるBGMはジャズ、ということが多くなった。私たちが若かった1970年代にはジャズはジャズ喫茶で聴くものだったのだが、最近は空気のように遍在する。

では、実存主義はどうか。「新実存主義」という更新版が、20世紀後半の科学の進展などを取り込んで提案されてはいる(*2、*3)。だが、かつてフランス知識人の心をとらえた左翼思想としての実存主義は見る影もない。今春のフランス大統領選挙をみると、左派そのものが衰退している。社会主義の退潮は世界的傾向だが、だからこそ実存主義が右派思想に正面から対抗してもよいはずだ。ところが、その気配はほとんど感じとれない。

で、今週は『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊)。著者(1920~1959)は、フランスの小説家。国立中央工芸学校卒の理系エリートで、エンジニアの仕事をしながら多分野で活躍した。創作のほか翻訳、批評も手がけ、ジャズのトランペット奏者、シャンソン歌手でもあった。この小説は1946年に書きあげた。本書の略歴欄によれば、死後に評価が高まり「現代恋愛小説の古典」になったという。

巻頭「まえがき」には、いきなり「ひとは集団になると間違いを犯す」が、「個人はいつだって正しい」という文言が出てくる。これが、フランス人の多くがナチスドイツに抵抗した直後に執筆されたことを思うと納得する。続けて著者は、人生で「大切」なものは「きれいな女の子相手の恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」であり、「ほかのものは消えていい」と言ってのける。実際、この作品では恋物語がジャズの軽快さで語られていく。

「まえがき」には、もう一つ奇妙な宣言もある。この作品について「全部が本当にあった話」と言いながら、「何から何まで、ぼくが想像した物語」と打ち明けているのだ。どういうことか。答えらしき説明もある。著者は創作にあたって、現実を「不規則に波打った歪みのある基準面」に「投影」したという。小説という表現形式に現実世界を虚構世界に移しかえる一面があるのは事実だ。それを理系風に味つければ、こういう言い方になるのだろう。

では、本文に入ろう。冒頭に「コランはおめかしを終えるところだった」とある。風呂あがり、バスタオルで体を巻いている。「爪切りを手に取って、目つきに神秘的な感じを出すために、くすんだまぶたの端をぱちんと斜めにカットした」――???だ。男子が目もとに化粧を施すことはあってよい。だが、まぶたを爪切りで切るなんて自傷行為だ。これが本当の話とは思えない。やはり、「何から何まで、ぼくが想像した物語」なのだろう。

読み進むうちに、コランは22歳男子であり、コック兼執事のような使用人を雇えるほど金持ち、ということがわかってくる。友人のシックに自慢げに見せるのが、発明したばかりの「カクテルピアノ」だ。鍵盤の一つひとつに各種酒類や香料があてがわれている。足もとの強音ペダルは卵を泡立てたもの、弱音ペダルは氷。曲を奏でれば、望みのカクテルのできあがりというわけだ。これも「ぼくが想像した物語」にほかならない。

この小説はなんでもあり――そのことを読者はあらかじめわきまえておくべきだろう。

私が驚いたのは、この「ぼくが想像した物語」が21世紀を先取りしていることだ。たとえば、コラン邸のキッチン風景。コックのニコラは「計器盤を見守っていた」。ローストターキーをオーブンから取りだす頃合いをうかがっているのだ。「ニコラが緑のボタンを押すと、味見センサーが起動した」。センサーがターキーに突き刺さり、計器の針が「ちょうどよし」を指した。五感がセンサーに取って代わられる時代への予感があったのだろうか。

この小説の筋は、このあとコランの結婚やシックの恋愛に突き進んでいくが、それは意表を突く出来事の連続だ。当欄は、そのほとんどをすっ飛ばして、シックが実存主義哲学者ジャン=ソール・パルトルの追っかけだったという一点に焦点を合わせようと思う。パルトルがサルトルのもじりであることは、だれでも気づくだろう。シックは、サルトルゆかりのものならば書物であれ物品であれ、手持ちの金を惜しみなくつぎ込んでいく。

シックが、恋人のアリーズらとパルトルの講演会をのぞく場面がある。偽造のチケットが市中に出回るほどの前人気。会場はごった返していた。後方には片足立ちの人もいる。そこにパルトルが、象の背に設えたハウダ(かご)に乗って登場する。「象は群衆を切り裂いて大またで進み、四本の柱のような脚がにぶい音を立てて人々を踏みつぶしながら情け容赦なく近づいてきた」――実存主義が人間を押しつぶすとは、なんという戯画化か。

パルトルは演壇で講演の準備に入る。そのしぐさには「恐るべき魅力」があり、聴衆のなかには「失神」する女性もいた。まるで往年のロカビリーブームのようではないか。

このときシックは「大きな黒い箱」を持ち込んだ。録音機だ。1940年代だからテープレコーダーということはない。レコード盤に音を刻むのだろう。女友だちの一人が言う。「いいアイデアねえ……」「講演を聞かなくてもすむわね!……」。シックも「家に帰ってから一晩中でも聞けばいいんだ」と答え、レコード会社に掛けあって「商品化」してもいい、という思いつきまで口にする。実存主義を量産品にしてしまうあたりも、時代の先取りだ。

ちなみに、この催しはパリで1945年10月にあったサルトルの講演会「実存主義はヒューマニズムである」をモデルにしているという。現実の講演は、当欄が去年とりあげた『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)で追体験できる。聴衆との対話などを通じて、実存主義がマルクス主義とどう違うかを際立たせていた。(*4、*5)

さて、シックは書店で、パルトルの『文字とネオン(レトル・エ・ル・ネオン)』という本を見つける。中身は「電飾看板についての批評的研究」とされているが、これも『存在と無(レトル・エ・ル・ネアン)』のもじりだ。ここでシックは、本の表面にパルトルの指紋まで見つける。日ごろから「指紋採取パウダー」や『模範的警察官便覧』を持ち歩いていて、その小道具を使って検出したのだ。この話にもオチがあるのだが、ここには書かない。

書店主は、パルトルのズボンやパイプも売り込む。ズボンは本人が講演中、自分でも気づかないまま脱がされたものらしい。さらに『嘔吐百科全書』全20巻の原稿も書店に入荷できそうだ、とも思わせぶりに言う。シックは全部をほしがるが、手が出ない……。

この小説は、実存主義のブームを徹底的に笑い飛ばす。ところがその同じ著者が、ジャズを語るくだりでは居住まいを正しているふうだ。たとえば、アルトサックス奏者ジョニー・ホッジスの演奏については「天上的な何かがあった」「説明のできない、完璧なまでに官能的な何か」「肉体から自由になった、純粋状態の官能性」――といった言葉が書き連ねられる。この本の注によると著者はジャズ批評家でもあったようで、その面目躍如だ。

コランがカクテルピアノを骨董屋に売りにだす場面では、骨董屋がデューク・エリントンの「ヴァガボンドのブルース」を弾く。著者はそれを「バーニー・ビガードのクラリネットの真珠を転がすような響きにも劣らない天上的な音色が舞い上がった」と書く。エリントン楽団員ビガードのクラリネット演奏を真珠の転がりにたとえ、骨董屋のピアノ演奏は、それに比肩するほど「天上的」というのだ。ジャズのことは実存主義のようには茶化さない。

この理由を考えるとき、巻末の訳者解説が参考になる。訳者によれば、著者の作品に登場する若者たちは、若い世代が「反体制」的であることが当然視された時代に「政治的意識」と無縁だった。「趣味」に耽り、「消費生活」に浸り、友人関係は「狭い範囲」にとどめている。この行動様式は、たぶん著者自身の生き方に重なっているのだろう。著者にとって、「反体制」熱に浮かされた実存主義ブームはパロディのネタでしかなかった。

私見だが、主人公のコランも、そして著者のヴィアンも、ジャズを愛することで真に実存的だったように思える。「本当にあった話」を「ぼくが想像した物語」に転化する軽快さは即興演奏にも似ていて「肉体から自由になった」実存に近づいているのではないか。

最後に一つ、訳者解説から仕入れた余話を紹介すれば、サルトルは、この作品でパルトルが風刺されていることを大いにおもしろがったという。ブームとしての実存主義をもっとも冷静に見ていたのは、あるいはサルトル自身だったのかもしれない。
*1 当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する
*2 「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか
*3 当欄2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する
*4 *1に同じ
*5 当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月20日公開、通算627回
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ウィーンでミューズは恋をした

「ココシュカ 風の花嫁」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈濃いめ〉

ウィーンは、ただの芸術の都ではない。芸術革新の都でもあった。19世紀末から20世紀初めにかけて、繁栄と貧困が混在する帝都に絵画や建築の新潮流が起こる。分離派である。官能の画家グスタフ・クリムトも、その旗を振った。そんなことを先週は書いた。(*)

分離派の運動は、芸術分野で旧時代と切り離された新時代の作品群を生みだそうというものだった。それで気づくのは、同様の動きが別分野にもあったことだ。分離派よりもやや遅れて1920~1930年代、学術分野に旋風を巻きおこしたのが「ウィーン学団」だ。

ウィーン学団は、ウィーン大学を拠点に文系理系の研究者が専門の違いを超えて議論をたたかわせた学者集団である。形而上学を排して哲学の科学化をめざし、論理実証主義を重んじた。物理学者であり、哲学者でもあるエルンスト・マッハの影響を強く受けている。

ここまでのことでわかるのは、ウィーンはオーストリア・ハンガリー二重帝国の末期、芸術と学術の坩堝であったことだ。その片鱗をうかがわせる記述は、先週とりあげた記事「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1985年8月4日付)にもあった。当時の帝都には、性を禁忌とする表の顔と性に耽溺する裏の顔があったが、その「二重基準」と向きあった科学者に精神医学のシグムント・フロイトがいたという。

そんなウィーンの空気が横溢するのが、同じ連載の別の回「ココシュカ 風の花嫁」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1987年2月8日付)という記事だ。これも、『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)で読むことができる。オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリア出身の画家、「風の花嫁」は彼が1914年に仕上げた油彩画である。

「風の花嫁」に描かれた女性のモデルは、アルマ(1879~1964)だ。記事に姓はない。彼女の人生を語るときに姓が馴染まないからだろう。父親は貴族の家系に連なる画家だったが早逝、その後、母は父の弟子と結ばれる。自身も長じてから、結婚を3回経験している。だから、彼女の生涯を一つの姓で括ることには無理があった。いや、それだけではない。アルマ自身が家に縛られることのない自由な生き方を追求していたのである。

アルマの恋人や夫たちを並べてみると、その顔ぶれに驚く。初恋の相手は、当欄が先週とりあげた絵描きのクリムトだった。ただ、この恋は、アルマの母親が割って入って打ち切られる。母は娘の日記を盗み見て「早すぎる」と判断したのだ。最初の結婚相手は、すでに名声を博していたオーストリアの作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーだ。二人の結婚生活は8年間続き、子どもにも恵まれたが、マーラーの病没によって終止符が打たれた。

二人目の夫は、ドイツで活躍していた建築家ヴァルター・グロピウス(記事の表記では「グローピウス」)だ。モダニズム建築の巨匠である。三人目はオーストリアの詩人で、劇作家、小説家でもあるフランツ・ウェルフェルだ。アルマの恋人や夫たちが打ち込んだものは、絵画、音楽、建築、そして文学。芸術のほぼ全領域を覆う。別々の分野でそれぞれ大仕事をしていた芸術家たちが同じ一人の女性に魅せられたという事実には圧倒される。

ウィーンの芸術家人脈は科学者人脈にもつながっていた。たとえば、マーラーはフロイトに接触している。夫婦仲がギクシャクしていることに悩み、精神医学にすがったのだ。もともとの原因は、マーラーが結婚当初、音楽の才能に秀でたアルマの作曲活動を認めようとしなかったことにあるのだが、彼は精神分析を依頼した。夫は妻に母親像を追い求め、妻は夫に父親像を見ようとしている、というのがフロイトの見立てだった。

で、今回の本題。アルマを取り囲む華麗な人脈でとりわけ輝いて見えるのが、「風の花嫁」の作者ココシュカだ。見かけのうえでは、アルマの最初の結婚と二番目の結婚の間で中継ぎの恋愛相手を務めたに過ぎない。だがその関係は、短くとも強烈なものだった。

ココシュカは1912年春、アルマ邸に呼ばれる。肖像画の発注を受けたのだ。マーラーは前年に亡くなっている。アルマは喪服姿だった。横顔のスケッチが始まる。「深く澄んだ目。通った鼻筋。ふくよかな成熟を示すほお」。アルマはピアノを奏でる。ココシュカは、その姿を描きとめようとした。瞬間、咳き込み、ハンカチを口に当てる。血がにじんでいた。この出来事に「ココシュカはいきなりアルマを抱きすくめ、逃げ去った」という。

こうして二人の恋が始まる。アルマ32歳、ココシュカ26歳。ココシュカは斯界では「強烈な表現」や「挑戦的な言辞」で知られた存在だった。アルマに対しても、いきなり「生涯の伴侶(はんりょ)になって下さい」と書いた手紙を送る。本人は求婚のつもりだったようだが、アルマはこれを求愛とだけ解釈して受け入れた。こうして二人は2013年、スイスとイタリアに旅行する。このときに着想されたのが「風の花嫁」だった。

その絵は、深い青を基調にしている。荒波の海だ。風が吹いている。一組の男女が小舟に揺られ、横たわっているように見える。女性が男性の肩に頬を寄せているから、恋人同士なのだろう。女性は「うっとり」目を閉じている。これに対して、男性の「虚空にすえたまなざし」は「不安とも悲愁ともつかない色」をたたえている。ココシュカは、恋愛の絶頂期でも不吉な予感を拭えなかったのだろう。そして現実も、その通りの展開となる――。

1914年、アルマはココシュカの子を身ごもる。ココシュカは子をほしがったが、アルマは産まなかった。この年、第1次世界大戦が勃発する。ココシュカは結婚の望みを絶たれ、志願して軍隊に入った。このとき「風の花嫁」を売り払い、その代金で馬を買いつけて出征したという。絶望感が深かったのだろう。一方、アルマは翌年にはグロピウスの妻となっている(この結婚年は、ウィキペディア英語版=2022年4月24日最終更新=による)。

筆者外岡は、この失恋の理由をココシュカ資料保管所長のウィンケラー氏から聞いている。氏の見解によれば、ココシュカもアルマに「母親像」を見ようとしたが、アルマが欲したのは「自由」と「旅」だった。「風の花嫁」はもともと「情熱的な赤の色調」だったが、それを「憂いを含む青ざめた色調」に塗りかえていったという。ここまでなら、年下のマザコン男が年上の恋多き女にふられる話だ。だが、この顛末はそれにとどまらない。

外岡はウィーンのカフェで、アルマの孫にも会っている。マーラーとの間にできた子どもの子で、名は祖母と同じアルマだ。夜泣きしても「祖母の姿を見ただけでぴたりと泣きやんだ」という幼時体験を披露しつつ、祖母を「さまざまな芸術家に霊感を与えたミューズ」と位置づけた。ウィンケラー氏も同じ言葉を用いて、アルマがココシュカの求婚を拒んだ深層心理を読み解く。「彼女は、ミューズの地位を失うことを恐れたのかもしれない」

ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる9人姉妹の女神たちのことだ。詩神と呼ばれたりもするが、もともとはあらゆる知的営みをつかさどる存在を指したという。だから、祖母アルマに「ミューズ」を見いだした孫アルマの目は的を外していない。

この記事を読むと、当時のウィーンでは芸術や学問の濃度が比類ないほど高かったことを実感する。高濃度だから、ミューズを結節点とするネットワークが生まれたのだ。
*当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月6日公開、通算625回
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ウィーン、光と翳りとアドルフと

今週の書物/
「クリムト 接吻」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈薄め〉

あのころに見ておきたかったなあ、という絵がある。19世紀末から20世紀初めにかけて欧州の画壇に新風を吹き込んだオーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の作品群がそうだ。1990年代のロンドン駐在時代、ウィーンに出張する機会は幾度かあったが、仕事の合間に美術館をのぞく時間はなかった。夏休みや冬休みに見にゆく手もあったが、家族旅行の立ち寄り先としてクリムトの絵は優先順位が高くはなかった。

クリムトの絵と言えば、女性のエロティックな姿が目に浮かぶ。ただし、それは解毒され、気品が漂っている。あの沈潜した色調のせいだろうか。あるいは、捻りがきいた構図がもたらす効果なのか。いずれにしても、従来の絵画世界にない何かがそこにはある。

この画家が「ウィーン分離派」創始者の一人とされていることも、彼の絵に心惹かれるようになった理由の一つだ。「分離派」と聞くと、私は建築をすぐに思い浮かべてしまうのだが、この用語は実は分野の垣根を超えた一群の芸術家を指すものだった。美術作品であれ、建造物であれ、旧来の様式から離れて新しいものをつくろうというのが分離派の芸術運動だ。19世紀末、オーストリアやドイツで台頭した。その源流にクリムトがいたことになる。

建築について言えば、分離派の作品群はギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック……と続く歴代の建築様式が国際様式と呼ばれるモダニズム建築にとって代わられる端境期に現れた。型にはまらず自由、重厚というより軽快――そんな印象を受けることが多いので、私は好きだ。それは、クリムトの絵画にも通じる。あの沈潜した色調も、捻りがきいた構造も、絵画界での様式離脱の産物と言えるのだろう。

で、今週は、そのクリムトの絵について書いた文章を読む。『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)所収の「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆)だ。朝日新聞日曜版1985年8月4日付紙面に載った記事の文庫版再録である。著者は1953年生まれの朝日新聞記者(当時)。去年暮れ、病に倒れて死去した。その人となりは今年2回、当欄で触れている。(*1、*2)

中身に立ち入る前に「世界 名画の旅」という企画について説明しておこう。これは1980年代半ば、朝日新聞が日曜版の目玉商品として始めた連載。日曜版がカラー刷りだったことをフルに生かして、世界各地の美術館などに所蔵された絵画を大きく載せ、その作品にまつわる話題を掘り起こして記事にするというものだった。執筆陣は、筆力がある名うての記者ばかり。バブル経済崩壊前のことなので海外出張にも潤沢な予算がついたようだ。

「クリムト 接吻」の書き出しも紀行文風だ。ウィーンの町並みを見物するには市電の環状線に乗ればよい、という話から始まる。約40分で旧市街を1周。この路面電車の通り道が「リング通り」だ。「窓からは、ハプスブルク帝国期に建てられた荘重な建物のシルエットを眺めることができる」。劇場、大学、市役所、議事堂、王宮、博物館、美術館……。この道路は1857年、当時のオーストリア皇帝の意向を受けて建設が始まった。

皇帝は何を望んだのか。もともとリング通り一帯には「旧市街を囲む城壁」があった。それをあっさり取り壊して「強大な帝国の威光を示す建物」を次々に配置していく。30年ほどかけての大事業。中世の城郭都市を近代の帝都につくりかえたかったのだろう。

このリング通りのことは、私も『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)を紹介したときに触れている。この本は、それを「分離派」と関係づけていた。ここでは、拙稿のその一節をそっくり引用しよう。

《当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという》(*3)。皇帝の近代はしょせん、旧時代の様式をなぞるものだった。そうではない本当の近代を分離派は求めていた。

では、分離派クリムトは画家として、どんな近代をめざしたのか。「接吻」という作品に沿って考えてみよう。この絵では、肩を露わにした女性が花園に立ち、男性の接吻を受けている。目を閉じてうっとりした表情、体にぴったり合った着衣が官能的だ。不思議なのは、男性の足が地についていないことだ。そう思って見ると、女性は横たわっているようでもある。二人をくるむように描かれた模様がベッドを覆う布の柄にも見えてくるではないか。

「接吻」記事はこう読み解く――。絵が「官能を大胆に描きながら、不思議にみだらさを感じさせない」のは「『死』のイメージ」が「放逸な悦楽」を粉砕しているからだ。「悦楽に沈む女性」は「つま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているかに見える」。ここで「絶壁」とあるのは、花園が画面右側で途切れているからだ。「途切れる先に広がる金色の奈落――それは、ウィーンが置かれた現実そのものだった」とある。

「接吻」が描かれたのは1907~1908年。そのころ、ウィーンは華やかさの陰で「死の病に侵されていた」。帝国の支配は民族主義のうねりを受けて崩れそうだった。帝都にも経済格差の亀裂が走り、リング通りの外側には、内側の繁栄と隣り合わせの貧困があった。

「接吻」記事は、クリムト作品の「官能」が19世紀末~20世紀初めに「もてはやされた」理由を探っている。着目するのは「性に対する意識」だ。記事によると、帝都には表向き「性」に触れない空気があった。その裏で、街には売春行為など「性」があふれていた。リングの内外に繁栄と貧困があるように、「性」にも二重性があったのだ。クリムトの絵は、上流階級の気品漂う世界にも実は官能が潜むことを強調しているように見える。

記事のもう一つの読みどころは、この時代にこの都市で画家を志した二人の青年を対比させていることだ。二人には、ウィーン美術アカデミーの入試を受けたという共通点がある。一人は1906年に合格した。後にクリムトの弟子となるエゴン・シーレだ。「死と少女」などの作品で知られる。もう一人は1907年と1908年に受験したが、合格できなかった。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。やがて独裁者となるあの人である。

記事の筆者外岡がすごいのは、シーレ青年とヒトラー青年がウィーンで住んだ場所をすべて見てまわったことだ。どちらも転居を繰り返したようで、居住先はそれぞれ6カ所ずつ。1908年には、二人の住まいが300mの近距離だったこともある。面識はなくとも「人込みの中で視線を交わしたこと」くらいはあっておかしくないという。もう一つ興味深いのは、二人とも最初と最後の住まいがリング通りの外側にあったことだ。

実際、「リングの外」は二人に影響を与える。ただ、その方向はまったく異なっている。

シーレは美術アカデミーを退学して「リングの外」の労働者街に住み、貧しい人々をモデルに絵筆をとった。ウィーンの世情は、リング内側の虚飾が剥げ落ちる時代にさしかかっていた。そこで「当時の美術の主流だった装飾的な要素を捨て、切り込むように赤裸々な人間を描いた」のである。これは、クリムト作品がリング建設期の余韻を漂わせているのと対照的だ。「接吻」でも、官能は装飾性のある衣服や花畑に包まれていた。

ヒトラーも、「華麗なウィーンの幻影の裏に潜む悲惨」を目の当たりにしたところまではシーレと同じだ。だが、そのウィーンに憎しみを募らせ「腐敗の根源にユダヤ人がいる」という妄想にとらわれる。これが人類史に刻まれる残虐行為の駆動要因となった。

この記事には、ヒトラーの絵画作品が1点載っている。1907年ごろ、リング通りをやや上方から見通した水彩画だ。遠近法に従っているのに平板。陰翳がほとんどない。このありきたりな絵の描き手が、世界をあのような悪夢に陥れたとは――。一瞬、背筋が凍った。
*1当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 「本読み by chance」2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月29日公開、通算624回
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「渡し」で出会う人生の偶然

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

リースリング

今週も渡し船に乗り続ける。19世紀ドイツのロマン派詩人ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」という詩と、それを旋律に乗せたカール・レーヴェの歌曲をめぐる話だ。詩は、ライン川水系ネッカー川が舞台。主人公は、かつて同じ渡しに乗った亡き友に思いを寄せて……。その情景が日本人の心も動かし、詩想を語りあう人々の交流が新聞の投書欄を経由して広がったことを先週は書いた。それを「昭和版ネットワーク」と呼んだのである(*)。

私が読んだのは、『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)という本。昭和版ネットワークに連なる人々が、めいめいの視点で交流秘話を綴っている。

当欄が今回とりあげようと思うのは、人間社会にネットワークが生まれるとき、そこに偶然が関与してくることだ。この本には、この人とあの人がつながったのは偶然の妙があったからだ、とわかるエピソードが随所に出てくる。そのいくつかを拾いあげよう。

偶然がいっぱい詰まっているのは、松田昌幸さんの回顧だ。松田さんは電機会社の社員だった1970年代半ば、NHKのラジオ番組「趣味の手帳」で「渡し場」のことを知った。番組は、1956年の朝日新聞「声」欄がきっかけとなり、この詩を愛でる人々がつながったことを伝えていた。一度聴いて心に残ったが、幸運にも再放送があった。松田さんはそれをとっさに録音し、話の要点をカードにメモして、ファイルに綴じ込んでおいた。

松田さんが60歳代半ばになった1990年代末のことだ。妻が掃除中、ファイルからはみ出たカードを見つけた。偶然にも、この録音のメモだった。もう一度聴きたいと思ったが、テープが見つからない。ここで、たまたまテープのコピーを友人に贈っていたことが幸いする。その音源で番組を再聴した。「渡し場」について、もっと知りたくなる。思い立つとまず、「声」欄投書の反響を記事にした『週刊朝日』1956年10月7日号を探した。

ここでも、偶然のいたずらがある。松田さんが国会図書館に行くと、この雑誌は1956年10月分だけが欠落していたという。探しものに限ってなかなか出てこない――これは、私たちがよく体験することだ。結局、この号は東京・立川の公立図書館で見つけた。

松田さんの話で最大の偶然は、小出健さんとの出会いだ。小出さんは1956年、渡しが主題のあの詩は誰の作品か、と問うた猪間驥一さんの「声」欄投書に返信を寄せた人の一人である。『週刊朝日』にはウーラント「渡し場」の邦訳も載り、猪間さんとの共訳者として小出さんの名があった。この人に会ってみたい――幸い、誌面には住所が載っていた。番地こそないが、町域は記されている。個人情報保護に敏感な今ならばなかったことだろう。

このときの興奮を、松田さんはこう書く。「私の脳裏にボンヤリと“小出健”なる表札のイメージが浮かんでくるではないか。それもその筈、私の家から7軒目にあることに気が付くのに時間はかからなかった」。こうして二人はめぐりあい、意気投合するのである。

小出さんは2006年、松田さんに誘われてレーヴェの音楽会に出かける。そこで歌曲「渡し」を聴き終えたとき、立ちあがって一礼した。その光景が朝日新聞のコラム『窓』で紹介され、「ウーラント同“窓”会」という21世紀版のネットワークが芽生えたのだ。

「同“窓”会」は、昭和版ネットワークを引き継ぎながら新しい様相も帯びている。IT(情報技術)を取り込んで、さらなる広がりを見せているからだ。松田さんは、自身のウェブサイトでウーラント「渡し場」の話題を広めた。それを見て同“窓”会の存在を知り、仲間に入ったのが当欄に前回登場した中村喜一さんだ。先週書いたことだが、中村さんも今、自分のサイト内に「友を想う詩! 渡し場」のサブサイトを開設している。

中村さんが松田さんに初対面するまでの経緯も微笑ましい。松田さんのウェブ発信で、松田邸が小出邸の近所にあるとの情報を得た。小出邸の所在地は『週刊朝日』の記事で大まかにはわかっている。それをもとに「住宅地図とGoogle Street View」を駆使して松田邸の住所を突きとめ、「書状」で打診してから訪問したという。ストリートビュー、住宅地図、手紙、面談。デジタルとアナログが見事に組み合わされているではないか。

この本は、「渡し場」の詩だけではなく、その歌曲「渡し」にこだわる人々の軌跡もたどっている(邦題で「場」の有無は、原題に前置詞“auf”があるかないかに拠っている)。猪間さんも、詩がウーラント作だとわかると今度は曲探しに乗りだした。1961年の欧州滞在時には、ドイツの新聞に働きかけて記事にしてもらった。この時点では歌曲があるかどうかも不確かだったので、曲がないなら曲をつくってほしい、とも呼びかけたという。

詩「渡し場」にレーヴェが曲をつけているという情報は1973年、朝日新聞名古屋本社版「声」欄の投書でもたらされた。ウーラントの故郷テュービンゲンに留学経験のある大学教授からのものだった。曲の探索でも新聞が情報の交差点になっていたことがわかる。

1973~1975年には、譜面を手に入れたい、という投書が「声」欄に相次いだ。このうち1975年の1通に対しては、ドイツからも反響があった。国際放送局ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長からの報告だ。レーヴェの曲について作品番号まで調べてくれていたが、「これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが」と書かれていた。本国でも、そんなに有名な歌ではなかったらしい。

ところが、ここから急進展がある。丸山明好さんという人が、アルテンドルフさんに書面でさらなる探索を頼んだのだ。丸山さんは中央大学で猪間さんの教え子だった。手紙には恩師とウーラント「渡し場」との縁なども記した。ドイチェ・ヴェレはこれで奮起したのだろう。大学の研究者の力も借りて「渡し」の楽譜を発掘、それだけではなく東ドイツ(当時)の歌手が歌ったという音源が西ベルリンの放送局に残っていることも突きとめてくれた。

1975~1976年、楽譜と録音が丸山さんの手もとに届く。その結果、レーヴェの歌曲「渡し」もウーラントの詩「渡し場」と同様、日本の愛好家に共有されたのである。

余談だが、丸山さんには、この録音をめぐって忘れがたい思い出がある。1988年、ドイツを旅行中のことだ。特急列車に乗ったとき、アタッシェケースに「渡し」のカセットテープを入れていた。あの歌をハイデルベルクのネッカー川河畔で聴きたい、そんな思いがあったからだ。ところが、駅で下車したとき、手荷物がないことに気づく。置き引きに隙を突かれたのだろう。テープは、アタッシェケースもろとも失われてしまった。

ところが2日後、アタッシェケースが警察からホテルに届けられる。中身の金品は奪われ、テープレコーダーもなかったが、なぜかテープは残されていた。「ドイツの泥棒さん」は「几帳面で親切(?)だ」と感じ入り、いっぺんにドイツ好きになったという――。この本には、こんな小さなドラマがいっぱい詰め込まれている。書名のもととなった元朝日新聞論説委員高成田享さんのコラム表題のように「『渡し』にはドラマがある」のである。

考えてみれば、私たちの日常は偶然の積み重なりで進行している。偶然が人と人との間に思いがけない出会いをもたらし、そのつながりが人生をドラマチックに彩ってくれるのだ。この本は、そのことをさりげなく教えてくれる先輩たちからの贈りものと言ってよい。
*当欄2022年2月18日付「渡し』が繋ぐ昭和版ネットワーク
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月25日公開、同月27日最終更新、通算615回
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