今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊
ウクライナから届くニュース映像には背筋が凍る。集合住宅の中層階にぽっこり穴が開いている。穴の暗闇には、今テレビを見ている私と同じような人々がいたに違いない。
戦争とはそういうものなのだろう。一家団欒の〈日常生活〉が、それを営む者にとっては不条理極まりない一撃で一瞬のうちに〈無に帰する〉。あの穴の闇のような無に――。
そのことは、戦場がどこにあっても同じはずだ。中東であれ、アフリカであれ、南米であれ、〈日常生活〉が〈無に帰する〉という戦争の本質は変わらない。ただ、映像で見る限り、ウクライナの〈日常生活〉は日本のそれと類似している。列島のどこにでもあるような集合住宅が砲弾に刳り抜かれ、居住空間が〈無に帰する〉ことが身につまされるのだ。あの光景を見て戦争は縁遠いものでないと感じた人々が、私たちの間には少なくないだろう。
ただ、言うまでもないことだが、77年前、日本人自身も戦争の渦中にいた。列島の主要都市は空襲の標的となった。沖縄は陸上戦に巻き込まれ、広島、長崎は原子爆弾の直撃を受けた。〈日常生活〉が〈無に帰する〉ことになった人々は日本列島に数えきれない。
そんななかで見落とされがちなのが、外地邦人の苦難である。1945年の終戦時、中国東北部には内地出身者が大勢いた。生命を奪われた人、生命を絶った人、尊厳を傷つけられた人も少なくない。だが、そのことが後続世代に十分伝わっているとは言い難い。関係者の口が重い理由には、邦人の居留そのものが日本の侵略政策と無縁でないこともあるだろう。だが、だからこそ、外地邦人が当時置かれていた状況を記憶にとどめる意味は大きい。
で、今週は『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)。著者(1930~2021)は入念な取材と史料の渉猟によって、昭和史など近現代史に迫った作家・ジャーナリスト。文藝春秋社で要職を務めた。当欄は著者が逝去した去年、代表作『日本のいちばん長い日』をとりあげている(*)。本書『ソ連が…』は1998~1999年に「別冊文藝春秋」に発表されたノンフィクション作品。単行本は1999年に同社から刊行された。
最初に「満洲」についてことわっておこう。「満洲」は、中国の遼寧省、吉林省、黒竜江省とその周辺を指す地域名だったが、今の中国では用いられない。日本のメディアも、一般記事では「中国東北部」という呼び方をしている。ただ、本書のように近現代史を跡づける書物では、史料を尊重して「満洲」「満州」を使うことが多い。今回の当欄もそれにならう。なお、私たちには「満州」の表記がなじみ深いが、もともとは「満洲」だったらしい。
当欄ではまず、在満洲の邦人たちが1945年の戦争最末期、内地の政府にどう扱われたかをたどっておこう。本書が問題視するのが、ソ連の対日参戦翌日8月10日早朝に出た大陸命1378号だ。「大陸命」は「大本営陸軍部命令」の略。東京の大本営陸軍部が、満洲国の首都新京(現・長春)に拠点を置く関東軍に向けて発したものだ。命令文の字面からは「対ソ全面作戦の発動」と読めるが、真意がそこにはないことを著者は強調する。
著者が注目するのは、対ソ作戦に乗りだす理由に「皇土ヲ保衛スル」ことを挙げている点だ。そのうえで「朝鮮を保衛スヘシ」と命じている。さらっと言われてしまうと気づかないが、「皇土」に満洲は含まれない。それは、あくまでも「満洲国」の国土だからだ。このとき、大本営上層部は「主敵アメリカの上陸作戦」とそれに対する「本土防衛」しか頭になかった。命令は、関東軍の主務であるはずの「満洲国防衛」に言及していない。
著者によれば、大陸命1378号の真意は「満洲放棄」と「朝鮮へ後退持久」だった。ところが命令文は、その作戦にあたって「一般民間人」をどう保護するかに触れていない。著者は、そこに一分の理は認める。戦争では、戦闘員が非戦闘員に「接触しない」のが「原則」であり、非戦闘員を「紳士的に保護」するのが「道義」だからだ。だが、現実は違った。日本の軍部は「ソ連軍に信頼をかけすぎていた」。ここに「判断の誤り」があるという。
もう一つ、この大陸命1378号には問題がある。軍部の機能不全だ。著者によれば、この命令は示達前日の9日午後6時前後に確定していた。その後まもなく10日未明、御前会議で一つの聖断が下る。連合国のポツダム宣言に応じて、天皇制に変更を加えないならば降伏しようというものだった。ところが大本営陸軍部中枢は、この聖断を受けて「動きらしい動きをほとんどみせていない」。1378号を「再考し、変更する」こともなかったのだ。
10日未明の聖断は、そのままポツダム宣言受諾とはならなかった。連合国側は無条件降伏を求めていたので、日本が一つでも条件をつけたことに納得しなかったのだ。ただ、これが転換点となり、戦争終結の流れは定まった。こうして14日、受諾の聖断に至る。
考えてみれば、この状況は混沌の極みだ。政府は、国としては終戦に舵を切った。それなのに関東軍に対しては表向き、新たな敵となったソ連と戦うよう号令をかけている。筋が通っていない。しかも、現地に居留する邦人たちは蚊帳の外に追いだされているのだ。
実をいえば、蚊帳の外はこのときに始まったことではない。1944年、太平洋方面での対米戦で敗色が濃くなると、陸軍中枢は「関東軍の精鋭師団の南方転用」に踏み切った。ただ、師団の移動は攻撃の的になりやすい。だから、この動きは厳秘だった。民間人も軍が離れたと知れば、大挙して退去するだろう。これは、敵に気づかれるきっかけになる。「敵を欺くにはまず味方から」。在留邦人は軍事行動のカムフラージュに利用されたのである。
こうして関東軍は「空洞化」された。関東軍自身も1944年夏、「今後は防衛を第一とする」という方針に切り換えている。このとき、満洲国で進行中の振興計画は中断された。それなのに「民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げる」などの指示は出ていない。
著者はここで、関東軍が邦人の満洲移民を牽引した歴史を振り返る。開拓団が「現地住民を追いはらってまで」入植に心血を注いだのは関東軍に対する信頼があったからだという。ところが、陸軍中枢が南方と本土の防衛を優先して関東軍を見限ったとき、「関東軍はそれならばと居留民と開拓団を見捨てた」。日本の軍国主義は民間人を侵略政策の最前線に送り込んだ挙句、最後の最後にその梯子を外したのである。罪深いというしかない。
本書には「歴史的汚点」とされる史実も記されている。ソ連参戦翌日の8月10日、さすがに関東軍も新京一帯に住む邦人婦女子の後方避難を決める。当初は民間人家族→官僚家族→軍人家族の順で列車に乗せる方針だったようだが、11日昼までに用意された計18便に乗れたのは軍や大使館、満鉄(南満洲鉄道)関係の家族が大半だった。軍人家族は機敏に動けるので避難行動の「誘い水」にした、という軍部の言い訳は空々しい。
こうして満洲は、慌ただしく8月15日を迎えた。だが現実には、この地には諸般の事情から終戦がなかったのだ。本書によると、関東軍が戦闘をやめたのは最後まで山中で戦っていた師団が武装を解いた8月29日。居留邦人の多くはこのときまで、いや、このときを過ぎても取り残され、危険にさらされ、苦難を強いられた。本書は、現地で何があったかを丹念に掘り起こしている。ただ、当欄はそれをなぞらない。あまりにも悲惨だからだ。
一つだけ、印象深い話を拾いあげておく。8月22日、関東軍が総司令部庁舎をソ連軍に明け渡したときのことだ。退去後も居残ることになった日本人が一人だけいた。地下室でボイラーを焚く老人だ。とどまってほしいというソ連軍将校の意向を受けて関東軍将校が老人に打診すると、「身寄りのないものゆえ、どこで死んでもいいから残ります」と言ったという。この言葉に、祖国から突き放された者の諦念を感じるのは私だけか。
さて私は先ほど、満洲で戦闘の終結が遅れた理由を〈諸般の事情から〉と書いた。その事情の過半は、日本外交の拙さに原因する。弱点は、終戦前後に次から次へ露呈した。著者の筆はそれらを鋭く突いている。次回は、そのあたりのところを浮かびあがらせる。
*当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月29日公開、同日更新、通算637回
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