元旦社説にちょっと注文をつける

今週の書物/
「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」
朝日新聞2021年1月1日朝刊

元旦の日差し

年が改まった。私には服喪という私的事情があるので、ここでも慶賀の言葉は控える。だが、そうでなくとも「おめでとう」とは言い難い。世界中、この列島にもこの都市にも、新型コロナウイルスの感染症でたおれた人々が数えきれないほどいる。今この瞬間、病床には息を喘がせている人たちも大勢いる。そして、そういう人々を助けようと、暦にかかわりなく治療と看護にあたるスタッフがいる。それが、2021年新春の風景である。

とはいえ、きょうは元日だ。お祝い気分はなくとも、心を新たにする節目であることに違いはない。とりわけ今年は元日がたまたま金曜日であり、拙稿ブログの公開日に重なった。心にひと区切りをつけるのにふさわしいものを読み、考えてみたいと思う。

で、選んだのは、今しがた届いた新聞だ。私自身の新聞記者としての体験から言うと、新聞人は昔から元日付の朝刊に異様なほどの力を注ぐ。第1面や社会面だけでなく各ジャンルのページも、これはという特ダネを掲げたり、全力投球の連載初回を大ぶりに扱ったりする。自分たちは時代の記録係であるとの自負がきっとあるのだろう。だから、紙面のどこをかじってみても新年のひと区切り感があるのだが、やはりここは社説をとりあげよう。

「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」(朝日新聞2021年1月1日付朝刊)。なぜ朝日新聞なのかと突っ込まれそうだが、今は1紙しか定期購読していないこともある。古巣の新聞が、どんな時代の切りとり方をしているかに注目したいと思う。

社説がまくらに振った話題は、昨春、長崎原爆資料館が玄関に掲示した「長崎からのメッセージ」。資料館の関心事である「核兵器」を「環境問題」「新型コロナ」と並べ、それらの共通項を見抜いていた。いずれも「立ち向かう時に必要」なのは、「自分が当事者だと自覚すること」「人を思いやること」「結末を想像すること」「行動に移すこと」だというのである。なるほど、同感だ。社説筆者は格好のまくらを掘りだしてきたものだ、と思う。

ここで社説は焦眉の問題、コロナ禍の話に入る。人々は今「誰もがウイルスに襲われうること」「感染や、その拡大という『結末』を想像し、一人ひとりが行動を律する必要」を知るに至った、という。たしかに、この災厄は人類のすべてが「当事者」であり、それに対抗するには、めいめいが周りの「人」に気を配り、社会に与える影響の「結末」まで思い描いて自らの「行動」を規制しなくてはならない――まさに、メッセージの言う通りだ。

まったくその通りなのだが、元科学記者としてやや物足りないと感じることが、いくつかある。一つには、「当事者」の意味にもう一歩踏み込んでほしかった。感染症で、人はうつされる側になる一方、うつす側にもなりうる。今回のコロナ禍は、無症状の人の感染が少なくないので、自分が当事者だと実感しないまま、うつされてうつすという過程に関与してしまうことがある。感性だけでなく理性でも、当事者意識を強めなくてはならない。

もう一つは「行動」だ。社説筆者が書くとおり、私たちはコロナ禍で「一人ひとりが行動を律する必要」に迫られた。マスク着用しかり、ステイホームしかり、大人数の飲み会自粛しかり。日本社会では、それらがおもに心がけとして為されたのだから、まさに各自が行動を律したと言ってよい。この方法で行動変容をかなりの水準まで達成できたのは、同調圧力が強いという精神風土の特徴が、今回ばかりはプラスに働いたのかもしれない。

ただ、ここには私たちがこれから対峙しなくてはならない難題が立ちはだかっている。世界は、そして日本も1980年代末に冷戦の終結を見てから、人間の自由を至上の価値観として共有するようになった。経済政策の新自由主義だけではない。世の中のさまざまな局面で選択の自由が重んじられるようになっていたのだ。そんなときに「行動を律する必要」が出てきたのである。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」参照)

自由の制限は、権力者が支配を強めるためのものなら許しがたい。だが、それが弱者の生命を守るという公益のためなら受け入れなければならない。その方法をどうするか。社説は、この一点にも目を向けてほしかった。コロナ禍に限らず感染症の大流行は、対策も急を要する。自由の制約を伴う手段を講じるとき、事前に十分な議論を尽くせないことがありうる。それならば事後の徹底検証が欠かせない――そんな提案もありえただろう。

今回の社説は、コロナ禍が効率優先の社会の暗部を浮かびあがらせたことを指摘している。テレワークなどの恩恵を受けられない「看護、介護、物流」など「対面労働」の「エッセンシャルワーカー」が「格差」に苦しんでいないか、といった問題提起だ。私も、この点は同感だ。これも新自由主義にかかわる論題だからこそ、コロナ後の時代に私たちが自由という概念をどうとらえ直すべきかについて思考を展開してほしかった。

コロナ禍論に対する注文はこのくらいにしよう。この社説は「長崎からのメッセージ」を踏まえ、コロナ禍対応と同様、核兵器の廃絶をめざすのであれ、地球環境を守るのであれ、「当事者」と「行動」の2語がカギになることを強調している。環境保護については、すぐ腑に落ちる。温暖化が化石燃料の大量消費に起因するのなら、私たちの行動次第でそれを食いとめられる。だれもが原因を生みだす当事者でもあり、被害を受ける当事者でもある。

ところが反核となると、ピンとこない面がある。核兵器の開発や保有を企てるのは政治家だ。私たちとは遠いところにある話ではないか。ふつうは、そう思ってしまう。だが、その通念を振り払って自分事としてとらえ直そう。この社説は、そう訴えているように見える。

最後に、言葉尻にこだわった余談。この社説の見出しにある「波頭に立つ」は結語にも登場する。「若い世代」が「未来社会の当事者」として「このままで人類は持続可能なのかという問いの波頭に立っている」というのだ。気になるのは、「波頭」という言葉である。

「波頭」は、辞書類によれば波の盛りあがりのてっぺん。「問い」のてっぺんに立つとはどういうことだろうか。読者の多くはたぶん、「最前線で問題と向きあう」といったイメージで理解したような気がする。あえて「波」に結びつけて言い換えれば、「問題を波面の先頭でとらえる」という感じか。今回の「波頭に立つ」を誤用とは言うまい。言葉の意味は、時代とともに変わる。「波頭」はやがて「波面の先頭」になるのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月1日公開、同月2日最終更新、通算555回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

もく星号はなぜ2度落ちたか

今週の書物/
「『もく星』号遭難事件」
『日本の黒い霧(上)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

離陸

「もく星」号と聞いて、ピンと来る人はそんなに多くはないだろう。日本航空の路線でかつて就航していたプロペラ旅客機。1952(昭和27)年4月9日、伊豆大島の三原山山腹に墜落、乗員乗客37人が全員落命した。戦後の国内民間航空史上、最初の大事故である。

私にとっては、1歳にもならない乳児期の出来事。当然のことながら、ひとかけらの記憶もない。ただ、それでも小学生のころ、そんな惨事があったとは聞いていた。なぜか? 家でテレビドラマを見ていたときにしばしば、この事故が話題になったからだ。

話は飛ぶが、テレビ草創期に人気を博した俳優に大辻伺郎がいる。「赤いダイヤ」(1963年、TBS系)という小豆相場を題材にしたドラマで、主役を演じていた。子ども心にも、クセのある役者だな、と思ったものだ。その彼が画面に現れると、大人たちはドラマとは関係のない話を始めた。大辻伺郎の父は大辻司郎という漫談家で、「もく星」号事故の犠牲者だという。そんなことがあって、私はこの飛行機の名を知ったのである。

ただ、この事故がいくつもの謎を残していることを私はずっと知らなかった。元新聞記者として、まことに恥ずかしい。最近、録画保存していた蔵出しのミステリードラマを見て、事故の原因や事故情報の流布に不可解な点が多々あることを教えられたのである。

ドラマは、「風の息」(1982年、テレビ朝日系)。松本清張の同名小説を原作にしたもので、「土曜ワイド劇場」の2時間(2H)枠をほぼ3時間に拡げて放映された。出演者は、栗原小巻、根津甚八、関根恵子(現・高橋惠子)……。栗原と根津が、それぞれの行きがかりから事故の解明に首を突っ込む、という筋立てだ。事故は現実のものだがフィクション仕立てなので、真相は見極めがたい。これをもって事故を知ったとは言えない。

ということで今回は、原作の小説をとりあげない。代わりに同じ著者のノンフィクションを読む。「『もく星』号遭難事件」(『日本の黒い霧(上)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『…黒い霧』の各編は1960年に『文藝春秋』誌に連載されたものだから、事故の8年後に書かれたことになる。ちなみに先日話題にした「追放とレッド・パージ」も、この連載の一編だった(当欄2020年12月4日付「追放、パージというイヤな言葉)。

「『もく星』号…」の一編は小説ではないので、記述は淡々としている。一つの答えに絞り込もうという強引さもさほど感じられない。だがだからこそ、事故の陰に隠された部分の大きさが読者の心に重くのしかかってくる。まさに「黒い霧」と呼ぶにふさわしい。

本文は冒頭、「昭和二十七年四月九日午前七時三十四分、日航機定期旅客便福岡板付行『もく星』号は羽田飛行場を出発した」と切りだされる。「密雲垂れこめ、風雨が頻り」という悪天候。機は20分後、千葉県の館山上空を通り過ぎてまもなく「消息を絶った」。

見つかったのは、まる1日たった翌朝だ。天気は回復している。日航の捜索機が、三原山の山腹に機体各部が散らばっているのを確認した。火口の東方、高さ2000フィート(約600m)のあたりというから、山頂(758m)に近い。破片の列は山頂方向へ帯状に連なっていた。機長が「突然、雲の間から現れた山を見て」「驚き、機種を上げようとした」と著者はみる。そうなら、「もく星」号は大島ルートを低すぎる高度で飛んでいたことになる。

このノンフィクションから見えてくる「もく星」号事故の謎は二つある。一つめは、墜落の原因。なぜそんなに低空飛行していたのか、という疑問だ。当時の羽田発日航便は西日本へ向かうとき、館山付近で針路を変え、そのあと高度を約3000フィートから6000フィートまで上げて大島上空を通り過ぎることになっていた。ところが、この日の「もく星」号は2000フィートで西進していたらしいのだ。いったい、何が起こったのか?

著者は、操縦室の機長が羽田出発前、地上の管制員とどんなやりとりを交わしたかを跡づけている。これを理解するには、予備知識が必要だ。事故発生時、日本はまだ連合国軍の占領下にあったということである。関東地方の航空管制は埼玉県所沢の米軍ジョンソン基地が司り、その指令を羽田にいる米軍所属の管制員が中継して機長に伝えていた。しかも、日航は運行業務をノースウエスト社に任せきりで、「もく星」号機長も米国人だった。

で、問題はこの日、何があったかだ。離陸前、「もく星」号の機長に届いた指令は、驚くべきことに「館山通過後十分までは高度二〇〇〇を維持して下さい」だった。館山から大島までは8分しかかからないから、これだと「衝突は必至」。機長はただちに「低すぎる」「何かの間違いではないか」と言い返している。機長は日本での飛行時間がまだ70時間だったというが、東京付近の空に不案内ではなかったことがわかる。

このときは、機長に呼応してノースウエストの羽田駐在員も抗議、それが管制塔経由でジョンソン基地に伝わり、基地は訂正の連絡をしてきたという。だから不思議なのは、2000フィートを「低すぎる」と強く認識していた機長がその高度で大島に向かったことだ。

もう一つの謎は、「もく星」号の消息が途絶えてからのドタバタだ。羽田離陸から半日ほど過ぎた午後3時、運輸省の外局である航空庁が、米軍横田基地から入手したとされる情報を発表した。それによると、日航機が静岡県舞阪沖で遭難、海上保安庁の船と米空軍機が現場へ急行したが、霧が立ち込めていてなにも見つかっていない、という。この情報はまもなく、「機体は海中に没し、尾部のみが見える」と更新された。

一方、3時15分には、これと食い違う話が伝わってくる。航空庁の板付分室が米軍から聞いたという情報だ。「もく星」号が静岡県浜名湖の南西16kmの海面で見つかり、乗客乗員全員が米軍の手で助けられたというのである。その25分後、国警静岡県本部も、同じ情報の詳細を発表する。機体を発見したのは「米第五空軍捜索機」であり、「米軍救助隊」が派遣されて乗員乗客をすべて救いあげたが、その船の入港先は不明とのことだった。

二つの情報を見比べると、遭難地点は概ね合致している。舞阪(現・浜松市)は浜名湖に面した町なので、ザクッと言えば現場は浜名湖に近い遠州灘ということだ。ただ、乗客乗員が無事なのかどうかは決定的に違う。現場は混乱した。海と空から捜索が続いたが、機体は見えない。米軍掃海艇2隻が全員の救助に成功したとの情報も浮上したが、夜になって当の2隻からそれを否定する連絡があり、「搭乗人員全員が絶望視されるに至った」という。

この混乱は、乗客家族の悲しみを倍加することになった。乗客の一人、大手製鉄会社の社長の場合はどうだったか。「全員救助」の知らせを受けると、息子と娘が製鉄会社関係の4人とともに車で静岡方面へ向かった。「フルスピードで走る車の中で六人の心は喜びにはずんでいた」と、著者は推察する。どの家族も当日は根拠のない情報に踊らされ、翌日、正反対の真実を突きつけられて目の前が真っ暗になったのだ。それは、罪深い虚報だった。

二つの虚報は、いずれも米軍から届いたとされる。だが、米軍が意図して嘘をついたようには見えない。遭難機発見という虚偽の事実を言いふらしても、機体はいずれどこかで見つかるだろうから嘘はすぐばれてしまうではないか――。私などはそう考えたが、著者の推理はちょっと違う。その答えは、ここでは明かさない。この虚報の謎と飛行高度の謎とを重ね合わせ、もしかしたらそうかもしれないという可能性を指摘したとだけ言っておく。

興味深いのは、著者がこの虚報を「謀略」とはみていないことだ。謀略なら、それは周到に練りあげられた攻めの情報操作だろう。ところが、世の中には不都合なことを取り繕うための守りの情報操作もある。近年は、後者のほうが多いように思える。この一編には「謀略が無かったから、本題の『日本の黒い霧』たり得ないか、というとそうではない」という言葉がある。著者清張は、フェイクニュースの時代を予感していたとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月25日公開、通算554回
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野に咲く花、あの社会党はどこへ

今週の書物/
『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』
保阪正康著、河出新書、2020年刊

「花はどこへ行った」はピート・シーガーのフォークソングだ。「野に咲く花はどこへ……」(日本語詞・おおたたかし)と唄いだされる。最近、日本の社会民主党が分裂して究極のミニ政党になるというニュースに触れ、その歌を小声で口ずさんでいる自分がいる。

社民党と言えば、やや失礼な言い回しをすれば野党界の老舗だ。前身の日本社会党は戦後、日本政界の一角を占め、とりわけ1955年から約40年間は与党自由民主党と対峙する野党第一党であり続けた。まさに「野に咲く花」だったのだ。ところが、その花の末裔が今、枯れ落ちる寸前のように見える。私はここで、一党派の盛衰について書くつもりはない。ただ、社会党的なるものに存在感があったという史実を心にとどめておきたいとは思う。

意外かもしれないが、社会党はおしゃれだった、という印象が私にはある。1970年前後、街角で見かけた政党ポスターがそうだ。それをおぼろげな記憶をもとに再現すれば、ガランとした電車の車内風景を写真に撮って全面に刷り込んでいた。アングルが斜めに傾いている。座席には終着駅まで乗り過ごしたらしいサラリーマンがいたような気もするが、はっきりしない。ただ、都市生活の人間疎外を感じさせる一瞬を巧く切りだしていた。

ひとことで言うと、都会的だったのだ。この印象を裏づけるように、当時、社会党のポスターづくりには大手広告代理店がかかわっていたという話を聞いたことがある。もしそうなら、もちろんビジネスとして請け負ったのだろう。だが、かかわったクリエイターやアーティストたちの内心には仕事の域を超えて、この政党に対する愛着があったのではないか。それほどにリキが入っていた。社会党は、カタカナ書きの職業を味方につけていた。

これは、テレビを見ていてもわかることだった。芸能人・タレントたちを政治の座標軸に位置づけてみると、ゴリゴリの左翼系ではなくても、自民党を嫌う一群が存在していた。そういう人たちが、それとなく社会党に好意的な発言をする場面がままあったように思う。

あのころは農村部では保守が優勢、都市部では革新が強いという色分けもあった。だから、社会党が都会的に見えたのは不思議ではない。問題は、高度成長期とその後のバブル期に農村地帯がどんどん都市化していったのに、なぜ、この党は大きくならなかったのかということだ。皮肉にも、列島改造政策などで都市化を推し進めたのは自民党政権だった。政敵がチャンスをくれたのに、それを生かせなかったのだとも言える。

で、今週の1冊は『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』(保阪正康著、河出新書、2020年刊)。著者は1939年生まれ、出版社の編集者出身の著述家。日本現代史、とりわけ昭和の戦前戦後史を学者とは異なる視点で読み解いてきた。あとがきによると、この本は「サンデー毎日」の連載「戦後革新の対立軸」をもとにしているというが、奇しくも社会党の後継政党に「消滅」の黄信号が灯る局面で世に出ることになった。

著者は、学者でないというだけではない。社会党関係者でもなかった。社会党嫌いであったわけでもない。序章では、自身が社会党の「熱烈とまでは言わないが、支持者であった」と打ち明け、「しかし次第にこの政党に関心を失った」と言い添える。この距離感がいい。

この立ち位置ゆえに、社会党のお家芸だった路線論争に深入りして、そこで唱えられたイデオロギーをマルクス主義の文献と突きあわせて吟味したりはしない。そうかと言って、社会党には追い風だった戦後民主主義まで否定したりもしない。むしろ、この政党が仲間うちの確執に明け暮れて、時代とともに移り変わってゆく人々の心模様を読みとることを怠り、世間の位相からどんどんずれていく様子を、これでもかこれでもかと指弾しているのだ。

序章は、「社会党に代表された戦後社会の姿あるいはイメージ」が私たちに残したものを辛辣な筆致で箇条書きにしている。「平和、自由、進歩といったプラスイメージの語彙を空虚にさせた」「生活の中の現実主義を糊塗するために空論を弄(ろう)することになった」……。現実を見て解決策を探らず、ただ立派なスローガンを掲げた。その結果、「空虚」な言葉の「空論」ばかりが飛び交うことになった。ずれていく、とはそういうことだ。

私は社会党のポスターを「都会的」と感じたが、著者は、1960年代から党の要職を務めた江田三郎に「都会的なスマートさ」を見ている。彼の存在は「党の人気を底上げする力」を秘めていたという。白髪のエネルギッシュな風貌で「テレビ映りも良い」と評しているが、「都会的」で「スマート」なのは外見のことではないだろう。思考の「柔軟性」がその印象を与えたのだ。それがかたちになったのが、構造改革論に根ざした江田ビジョン。

江田ビジョンでは、英国の議会政治、米国の豊かさ、ソ連の福祉、日本の平和憲法を理想像として提示している。この説明は、人々の胸にすとんと落ちた。ところが、これを「改良主義」と切り捨てる左派勢力が党内には強く、党の方針とはならなかったのだ。

江田は1977年、ついに社会党を離れる。このときの話が同じ著者の『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に出てくる。党は離党届を、本部のある社会文化会館では受けとろうとしなかった。党に近づくな、ということか。江田は会館建設の資金集めに貢献した人だ。著者は、党の仕打ちを「許せない」と断じている。(「本読み by chance」2015年4月10日付「『昭和』を聞きつづける人の本」)。同じ視点は、この『対立軸の…』にもある。

著者は、今回の本でも「昭和30年代、40年代の東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、戦前の陸軍の青年将校のようなタイプが多かったと思う」と述べている。振りかざす旗が「天皇絶対」から「社会主義絶対」に代わっただけで、「正義は我にあり」「自らに抗するものは非正義」とする点は共通だという。私も同感だ。社会党の社会主義者たちには、自分たちはなぜ社会主義をめざすのか、という自問がなかったように見える。

私がこの本でもっとも強く興味を覚えたのは、社会党の成長経済との向きあい方を振り返った箇所だ。「社会党は高度経済成長を受け入れていながら、そしてそれに見合う生活上の豊かな部分を満喫しているのに、体質は社会主義の路線や理論に甘えていた」という著者の指摘は図星だろう。あのころ、支持母体の労組は毎年の春闘で高度成長の分け前を手にしていた。その後ろ盾となるだけで義務を果たしている気になっていたのではないだろうか。

実際、高度成長の恩恵が相当なものであったことは、著者も認めている。「私自身、経済社会の豊かさの中で文筆業に入っただけに、当時の経済成長の一端に触れる実感があった」と打ち明け、「私のような実感を持っている者が、社会党の支持から離れ、いわゆる『支持政党なし』に変わっていったのであろう」と分析する。支持者たちが社会党の「古い体質」、すなわち「イデオロギーに固執している状態」を見限ったのである。

では社会党は、あの時代に存在理由を取り戻すことができたのか――それが私の関心事だ。この本は、その問いに真正面からは答えてくれない。ただ、高度成長期の社会を論述したくだりから、存在理由は失ってはおらず、見失っていただけらしいことがわかる。

著者は、1960年代後半から日本社会に「二つの特徴」が現れたという。一つは豊かさの不公平。ところが、個々人の所得増に惑わされて「分配が公平にいっているような錯覚」が生じた。もう一つは公害。それは「高度成長に伴う不可避的な問題」にほかならなかった。

この二つに、社会党はもっと目を向けるべきだったのだ。その後、分配の不公平は市場経済万能論や経済のグローバル化で深刻度を増し、格差社会を生みだしていく。公害は、住民対企業の構図に収まらないエコロジー思想を育て、地球環境に対する危機感が強まっていく。一つの左派政党が1960年代、この展開を予想できたとは思わない。だがせめて、その激流に取り残されないだけの思考の準備をしていてほしかった。そう思わざるを得ない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月18日公開、通算553回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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追放、パージというイヤな言葉

今週の書物/
「追放とレッド・パージ」
『日本の黒い霧(下)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

追い出す

日本学術会議の人事紛糾で思ったのは、こんな話が今でもあるのだなあ、ということだった。最高権力者がもし「総合的、俯瞰的」に任命の権限をふるいたいのなら、もう少し洗練されたやり方があったのではないか。そんな皮肉のひとことも言いたくなる。

一部の人々をあからさまに排除する。これで連想されるのは「追放」「パージ」という言葉だ。パージは“purge”で、ふつうに訳せばこちらも「追放」。第2次大戦後、占領下の日本ではまず公職追放があり、次いでレッド・パージがあった。前者は軍国主義に手を貸した人々の公的活動を封じるものであり、後者は左派活動家の解雇というかたちをとった。権力者が不都合な人々を追い出したという一点は、どちらも同じだ。

と、えらそうに書いてはみたが、私自身は占領が終わる前年の1951年に生まれたから、追放やパージのニュースをリアルタイムで聞いた記憶がない。幼いころ、大人たちが世間話で触れることはあったので、「それ、何?」と訊いたりもしたが、説明されてもピンとこなかった。長じて後、現代史の知識としては学んだが、それがどのように断行されたのか、その空気感は今に至るまでつかめないでいる。これは、マズイ。

ということで、ここでは松本清張の力を借りる。「追放とレッド・パージ」(『日本の黒い霧(下)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『日本の黒い霧』に収められたノンフィクション各編は1960年に『文藝春秋』誌に掲載された作品だ。

本題に入る前に、この一編の冒頭に添えられた写真(毎日新聞社提供)についてひとこと。東京都墨田区内の小学校で撮影されたもので、写真説明に「教員のレッド・パージ、別れを惜しむ生徒たち」とある。野球帽をかぶった男の子やおかっぱ頭の女の子たちが先生を囲み、最前列の女子は涙を拭っている。私たちのちょっと上の世代。だから、この校内風景には共有感がある。私自身もパージと地続きのところにいたのだ、とつくづく思う。

清張はこの一編で、主に公開済みの資料を重ねあわせ、追放やレッド・パージの背後に働いていた力学を浮かびあがらせていく。焦点があてられるのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の部内事情である。清張にとっては生涯の関心事だったと言ってよい。

まず、GHQについて予備知識を仕入れておこう。GHQは「連合国軍」の看板を掲げてはいるものの、事実上、米国が仕切っていた。内部には、軍国主義を排して戦後社会を民主化させようというベクトルと東西冷戦の入り口で共産主義の台頭を抑えようとするベクトルが併存していた。前者の旗振り役が民政局(GS)、後者を代表するのが参謀第二部(G2)。占領初期はGSの力が強かったが、しだいにG2が優位に立つようになった。

この一編は「日本の政治、経済界の『追放』は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった」という一文で書きだされる。1945年11月に米政府からGHQに届いた「指令」では「一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」と、幅広の適用を促している。追放政策の推進にはGSが前向き、G2は批判的だったという。

足並みが揃わなかっただけではない。GHQ中枢は「誰を追放していいかよく分らなかった」。だから、日本政府に対して「各界の超国家主義指導者の名簿作成」を求めたという。日本側にも対象者は自分たちで決めたいとの思惑があって、3000人の名簿を手渡したりもしたらしい。ところが、GSを率いるコートニー・ホイットニー准将は、ドイツよりも2桁少ないことを理由に「それっぽっちか」と激怒したといわれている。

公職追放は、1946年1月のGHQ覚書に始まる。当初は官公職に限られていたが、この年11月には「公的活動」全般に広がった。著者は『朝日年鑑』(1949年版)を引いて、1948年5月1日時点の総数は19万3000人余にのぼったとしている。

ここで見逃せないのは、追放が当事者だけでなく、その周りにも及んだことである。一定の範囲の親族が「公職に就くこと」を禁じられた。著者が、こんなことは「極悪犯罪者にも適用されない」とあきれるように、凶悪犯の親族に対しても許されないはずだ。個人の自由を重んじ、基本的人権を尊重する国からやって来た人が、民主化の旗印の下で正当な理由なく職業選択の権利を侵害する――これは、大いなる矛盾であるとしか言いようがない。

追放は、このように網を広げたにもかかわらず抜け穴があった。それに手を貸したのがG2だった、と著者はみる。GHQが追放政策で最初に目をつけた標的は警察組織だったが、その結果、行き場を失った元特高警察官がG2系の仕事に就くこともあったというのだ。

この一編は、そのことを当時米国から日本に来ていたジャーナリストや学者の著作から裏づけていく。たとえば、東北地方で「日本人と米軍との連絡係」をしている「元の特高係長」を見かけた、という話。あるいは、地方駐在の米諜報部隊幹部が「最も『貴重』な部下」は「日本の秘密警察の元高級警察官」と打ち明けた話。これらの証言をもとに、著者は「特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織された」と見てとるのだ。

日本社会の側にもGSとG2の確執を利用しようという動きがあった。追放された政治家には「G2に気に入られること」で権益を守ろうとする人がいたという。米ソ対立が強まったのを見て「G2の線」こそ「本筋」と嗅ぎ分ける嗅覚があったらしい。追放政策は「追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅される」事態を招いたが、一方で「狡知にたけた大物を跳梁(ちょうりょう)させる結果になった」と、著者は断じている。

日本社会には、追放は「永久」に続くものとみる早とちりがあったらしい。それが、気に入らない人物をその境遇に陥れようとする「暗い闘争」も引き起こした、と著者は指摘する。だが現実には、当初の追放はすべて1952年の主権回復までに解除されたのである。

それと異なり長く禍根を残したのが、後発のレッド・パージだ。GHQ内部でGSに代わってG2の発言力が強まった後、民主化とは方向違いの政策の一つとして打ちだされた。いわゆる逆コースだ。企業が「占領軍の絶対命令」の下で、被雇用者のうち「指名リスト」に載った左派の活動家や労働組合員を解雇して職場から即時退去を求める、というものだった。新聞社や通信社、放送界では1950年、その嵐に見舞われている。

この「リスト」が曲者だった。著者によれば、その作成に使う資料の一つに日本政府の特別審査局(公安調査庁の前身)が用意した名簿があった。特審局は占領下に設けられ、「右の追放」を進める側にいたが、それが「左の追放」に寄与する役所に変身していたのだ。

レッド・パージの指名を受けると、その人は「有無を云わさず建物の外に追い出された」。裁判所や労働委員会の場で復職を求める動きも起こったが、その望みは絶たれることが多かったという。この人たちは、公職追放とは違って「永久」に追い出されたかたちだ。

では、どんな人が指名されたのか。著者が引用した読売新聞の「社長布告」を読むと、それがわかる。マッカーサーが1950年6~7月に発した指令や書簡は「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者」を「排除すること」が「自由にして民主主義的な新聞の義務」であると位置づけており、「わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇する」というのである。思想信条だけで職を奪ったような印象を受ける。

パージされた人の総数は、著者がこの一編に引いた労働省労政局の集計によると約1万1000人。メディア関係だけでなく、電気、石炭、化学、金属など多くの産業に及ぶ。

この一編は、その人たちのその後の人生にも言及している。悲惨なのは、再就職先にパージの履歴が知られてそこでも解雇され、自殺に追い込まれた人が、一人ならずいたことだ。NHKの技術者がラジオの修理人になったような例もあるが、手に職がなければ「翻訳、雑文書き、行商、焼きイモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた」と、著者は書く。私の少年時代、町で屋台を引いていた焼きイモ屋さんも、もしかしたらその一人だったのか。

個人の思想が統治者の意に沿わなければ、弁明の機会を与えることもなく排除する。当時は、日本国憲法があっても体制がそれを超越していたので、こんな無茶が通ったのだろう。だが、今の日本社会は違う。それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月4日公開、同月28日最終更新、通算551回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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マケインの負け方のどこがいいか

今週の書物/
ジョン・マケイン氏の大統領選敗北演説
2008
年11月4日、米ニューヨーク・タイムズ紙ウェブサイトの翌日付記事より
演説本文はフェデラル・ニューズ・サービス(FNS)が配信

合衆国

気をもんだというのは、このことを言うのだろう。米国の大統領選挙である。接戦と言われてはいたが、ほんとに紙一重の争いになった。どちらを応援したかはあえて言うまい。だが、テレビで数千票単位の開票状況を見ながら一喜一憂したことは正直に告白しよう。

不思議だ。これは東京23区の区長選挙ではない。人口3億余の超大国トップを決める選挙である。その行方が、1州1地域の票の開き具合で決まってしまうとは……。怖いことではある。同じ米国の大統領選を振り返れば、同様に大接戦となった2000年の選挙結果は、21世紀初頭の世界情勢を左右したと言ってよい。有権者一人ひとりの心の揺らぎが、ときに歴史の流れを変える。民主主義とは、そういうものなのだろう。

それはともかく、いま11月13日現在、勝敗はほぼ定まった。人々の関心事となっているのは、敗者とされた人がいつ、どのようなかたちで負けを認めるかだ。その敗北宣言がなかなか出でこないので、世間はイライラしている。過去の敗者は違った、と。

なかでも見事だったと称賛されるのは、2008年の大統領選でバラク・オバマ上院議員(民主党)に敗れたジョン・マケイン上院議員(共和党)の敗北演説だ。その全文をニューヨーク・タイムズ紙のウェブサイトで読むことができたので、今回はそれをとりあげよう。

この演説は、投開票日の夜にマケイン氏の選挙区アリゾナ州フェニックスであった。

“Thank you for coming here on this beautiful Arizona evening.”
“My friends, we have―we have come to the end of a long journey.”
“American people have spoken, and they have spoken clearly.”
「アリゾナの美しい夕べに集まってくださって、ありがとう」「みなさん、長い旅は終わりを迎えました」「米国民は意思を表明した、はっきりと表明したのです」

そして、つい今しがた、オバマ氏に電話をかけて、彼の当選に祝意を伝えたことを打ち明け、その「能力と不屈の努力」を称賛する。礼節を弁えた演説と言えよう。

次いでマケイン氏は、この選挙を客観的に位置づける。

“This is an historic election, and I recognize the special significance it has for African-Americans and for the special pride that must be theirs tonight.”
「これは、歴史的な選挙です。それは、アフリカ系米国人にとって格別の意義がある、そして今夜、その人たちが胸中に抱いているに違いない誇らしい思いにとっても特別な意味合いがある、そう私は認識しています」

マケイン演説は、そこにとどまらない。もう一歩踏み込んで、対立候補と自分の見解の共通項を紡ぎだしていく。それは、差別問題をめぐる歴史観と現状認識だ。米国がすべての人々に機会を与える国であることをオバマ氏も自分も確信していると述べた後、こう言う。

“But we both recognize that though we have come a long way from the old injustices  that once stained our nation’s reputation and denied some Americans the full blessings  of American citizenship, the memory of them still had the power to wound.”
「しかし、私たちには次のような共通認識もあります。私たちは、かつて不公正な状態にあったことに比べれば――それは国の名誉を汚し、一部の米国人に対して市民権の制限を強いるものでしたが――ずっと良いところまで来ているものの、その記憶にはなお人々の心を傷つける力があった、ということです」

ここでマケイン氏は、セオドア・ルーズベルト大統領が、高名な教育者ブッカー・T・ワシントンをホワイトハウスに招いたとき、全国各地で怒りの声が噴出した、という話をもちだす。ワシントン氏の母は奴隷だった。この故事に続けて、こう力説する。

“America today is a world away from the cruel and prideful bigotry of that time. There is no better evidence of this than the election of an African American to the presidency of the United States.”
「今日の米国は、残酷で傲慢な偏見があった当時とは天と地ほどの差があります。その最良の証拠は、アフリカ系米国人を合衆国大統領に選出することにほかなりません」

自らが敗者となりながらも、相手候補が勝利したことの意義を公平に汲みとり、それを的確に言い表している。名演説として語り継がれるのもうなずけるではないか。

この演説でマケイン氏は、オバマ氏との間に政見の違いがあったことに触れている。その違いは今も残されたままだとしたうえで、自分はオバマ氏が指導者として多くの難題に立ち向かうのを手助けするつもりだと明言する。そして、米国民にこう呼びかけるのだ。

“I urge all Americans who supported me to join me in not just congratulating him, but offering our next president our good will and earnest effort to find ways to come together, to find the necessary compromises, to bridge our differences, and help restore our prosperity, defend our security in a dangerous world, and leave our children and grandchildren a stronger, better country than we inherited.”
「私を支持してくれたすべての米国民に求めたいことがあります。私とともに、次期大統領に祝意を表してほしいというだけではありません。善意をもって本気で彼に協力してほしいのです。みんなで集い、必要なら歩み寄って、意見の違いに橋を架ける努力をしようではありませんか。繁栄を取り戻すことに力を尽くし、私たちの安全を危険な国際情勢から守り、この国を今よりも強く、今よりも良くして子や孫の世代に引き継ごうというのです」

「必要なら歩み寄って、意見の違いに橋を架ける」――これは、民主主義にとって不可欠の手順だが、実行するのは難しい。この演説は、前段で対立候補との間に共通認識があることを強調しているので、それが決して絵空事ではないという気持ちにさせてくれる。

マケイン氏はこの演説で、オバマ氏側の副大統領候補だったジョー・バイデン氏に言及するとき、“my old friend Senator Joe Biden”という言い方をしている。党派は別だが、ともに長く議会人を務めてきた仲間だ。「わが古き友」という言葉に実感がこもる。

2020年の今、今度は次期大統領になろうとしているバイデン氏は、旧友マケイン氏の成り代わりのようにも思えてくる。彼には、良くも悪しくも「必要なら歩み寄って」の政治手法をとりそうな気配がある。それをもの足りないと感じる向きはあるだろうが……。

マケイン氏は2018年8月、脳腫瘍のために81歳で死去した。翌月の告別式に同じ共和党のドナルド・トランプ大統領は招かれなかったが、オバマ氏は参列して弔辞を捧げた。「勇ましく力強いふりをする政治は、実際は恐怖を生んでいる。ジョンはそれよりも大きなものとなるよう、我々に求めた」と述べている(朝日新聞2018年9月3日付朝刊)。今回の大統領選は、没後のマケイン氏にとっても気が気でなかったに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月13日公開、通算548回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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