フィッツジェラルド、大恐慌のあとで

今週の書物/
『マイ・ロスト・シティー』
スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊

摩天楼

新型コロナウイルス感染禍は、しだいに経済危機の様相を帯びはじめている。感染予防の決め手が今のところ、人と人との間の距離を十分にとること、できるなら接触しないでいることにあるというのだから、金回りがよくなるはずはない。

先々週の当欄「コロナの時代に新聞は変わる」(2020年5月29日付)に書いた通り、フランスの歴史家エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事(朝日新聞2020年5月23日朝刊)からは、この感染禍によって新自由主義経済が退場を迫られているように思われる。それに伴って、経済のグローバル化という潮流も勢いを失うだろう。ただ、では次に何がやって来るのかと思いをめぐらせると、答えがない。ただ途方に暮れるばかりだ。

経済の危機らしきものは、これまでも幾度となくあった。私たちの世代にとって忘れがたいのは、石油ショック(1973)、バブル崩壊(1991)、リーマン・ショック(2008)の三つだ。このうち前者二つは、とくに強烈な印象がある。石油ショックでは、産業活動の右肩上がりにいきなりブレーキがかかった。バブル崩壊では、浮かれ調子だった世相に突然、暗雲が立ち込めた。皮膚感覚として、事前と事後の落差が大きかったのである。

たとえば、石油ショック後は一時期、繁華街の照明が落とされ、テレビは深夜番組をとりやめた。私たちは1960年代の高度成長期、街はどんどん明るくなるもの、夜はどんどん長くなるものと信じ込んでいたから、常識がひっくり返されたのだ。バブル崩壊後は、夜更けの街で流しのタクシーを拾いやすくなった。1980年代、バブル経済が踊っていたころは酔客の帰宅ラッシュで空車探しが大変だったから、需給の逆転に驚かされたものだ。

コロナ後にもきっと、今の私たちには思いもよらない生活風景が待ち受けていることだろう。その時点からコロナ以前を振り返れば、自分たちはなんとお気楽だったのか、と苦笑するに違いない。で、今週は過去の経済危機に思いを馳せて、書物を選んだ。

『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊)。単行本は、中央公論社が1981年に刊行した。著者(1896~1940)は、『グレート・ギャツビー』――私たちの世代には映画化された「華麗なるギャツビー」の題名が忘れがたいのだが――で知られる米国の小説家。この本では、表題作のエッセイを最後に置き、その前に五つの短編を収めている。所収作品を選んだ訳者は当時、新進作家だった。

訳者の著者に対する思い入れの強さは、巻頭にある「フィッツジェラルド体験」と題する一文からもわかる。「何年ものあいだ、スコット・フィッツジェラルドだけが僕の師であり、大学であり、文学仲間であった」という記述には、最大級の敬意が込められている。

絶賛するのは、20回は読んだという短編『バビロン再訪』(残念なことに、本書の収録作品ではない)の冒頭部。パリの有名ホテルで客がバーテンに、常連客らしい知人一人ひとりの消息を尋ねる場面だ。バーテンは、そのつど「スイスに行かれました」「アメリカにお帰りになりましてね」「先週お見受けしましたよ」と答えていく。この一節だけで、作品から匂い立つ雰囲気が感じとれるし、飾りを剥ぎ取った骨格も見えてくるという。

それを、訳者は「宇宙」と呼ぶ。「極めて小さな個人的な宇宙ではあるけれど、やはりそれは宇宙だ」。著者は一つの宇宙を分解せず、そっくり提示できる作家ということになる。

この巻頭文は、著者の略伝も記している。米国中西部セントポールの生まれ。父は教養人だったようだが、事業につまずいて家計は厳しかった。母の実家が裕福で、その支援を得て「なんとか中産階級としての体面を保っていた」のである。その結果、東部の名門プリンストン大学に進むことができた。こんな背景から「金持に対する憧れと憎悪、自己憐憫と自己客体視という彼の生涯のテーマともなる二面性が芽生えていたのだろう」と、訳者はみる。

訳者は、著者の作品の魅力に「相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていること」を挙げている。二面性を文学に昇華したのだ。逆向きのベクトルには「上昇志向」と「下降感覚」がある。中西部生まれの「素朴さ」とニューヨーク暮らしの「洗練」もある。

こうした二面性や相反感情が時代の空気と共振したのは間違いない。米国は1910年代末、第1次世界大戦(1914~1918)の戦勝気分に沸いていた。ところが20年代末に大恐慌に見舞われる。著者の作品には、20年代米国社会の「上昇」と「下降」が生々しく映しだされている。この本の6編をみても、大恐慌の前と後に書かれたものの間に断絶が見てとれる。そこには世相の暗転があり、それを目のあたりにして途方に暮れる人々がいる。

で、今回は、6編のうちで唯一のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」に話を絞ろう。これは大恐慌後に書かれたものだが、著者自身の少年期や青年期にさかのぼりながら、その折々に目の当たりにしたニューヨーク像を通して、この大都市の変転を跡づけている。

たとえば、1919年はこうだ。「ニューヨークの街はまるで世界の誕生を思わせるような虹色の輝きにむせていた。帰還した連隊は五番街を行進し、若い娘たちはまるでそれにひきよせられるように、東や北にその足を向けた」。大戦戦勝の高揚がそこにはある。

1920年には「突如『新しい世代(ヤンガー・ジェネレーション)』という観念が姿を現わし、ニューヨークの都市生活の様々な要素をひとつのつぼの中に溶け込ませてしまった」(「つぼ」に傍点)。それは、「明るさ」「華やかさ」「生命力」などが混ぜ合わさった「ひとつの空気」だった。もったいぶった晩餐会というより、ちょっと崩れた立食パーティーのような感じ。欧州知識人も一目おく小粋で若々しい文化の登場だった。

著者のデビューは、ちょうどこの年。「私は時代の代弁者(スポークスマン)というだけでなく、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった」。夜を徹して原稿を書きまくり、大枚をはたいて引っ越しを繰り返す日々。「暑い日曜日の夜に私はタクシーの屋根に乗って五番街を走り回った」との記述もある。だが、その一方で「自分たちはそんな華やかな社会とは本当は無縁な存在なんだと思い込んでいた」。ここにも二面性がある。

1927年は欄熟の日々か。そのころ、著者は数年の外国生活を終え、帰米していた。「一九二〇年のあの不安気な空気は確として金色に光り輝く絶え間のない歓声の中に没し去り、友人たちの多くは金持になっていた」。ショービジネスは「ますます大がかりに」、建物は「ますます高く」、道徳心は「ますますゆるめられ」、アルコールは「ますます安価に」――そう、20年から33年までは禁酒法の時代だが、街には酒があふれ返っていたらしい。

オフィス街が酒浸りになる様子はこう表現されている。1920年には「昼食前にひとつカクテルでも」などと言う人物は「ショッキングな存在」だったが、29年には「オフィスの半分には酒瓶が置かれ、大きなビルの半分にはもぐり酒場(スピーキージー)があった」。

まさにバブルの絶頂期。「私の行きつけの床屋は株に五十万ドルばかり投資して引退していた」とあるように、人々は労働よりも投機に走った。「もううんざりだ」――著者は再び国外へ出て、滞在先の北アフリカで「あの崩壊(ガラ)の音を聞いた」。大恐慌である。2年後、ニューヨークに帰ると、そこは「墓場」のようであり、「廃虚」のようでもあり、「遊びまわっていた」のは「無邪気な亡霊たち」だけだった。「床屋はまた店に戻った」のである。

印象深いのは、著者フィッツジェラルドがエンパイア・ステート・ビルの高みに立ったときの眺め。「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかった」。それは「四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿」だったのだ。果てしないのは「青や緑の大地」のほうであることに摩天楼で気づくという逆説。大事象の大波をかぶって途方に暮れたとき、人間は人間の限界を自覚するのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月12日公開、通算526回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

別役実、プチブル「善良」の脆さ

今週の書物/
『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』
別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊

マッチ

若かったころ、「プチブル」という言葉がよく飛び交った。プチブルジョワジー――日本語にすれば小市民、中産階級のことだが、そこにはどこか、「資本家階級のなりそこない」と蔑む響きがあった。デモに行かなければプチブル、授業を受けていたらプチブル……。革命の主力となる労働者階級に対して引け目があったからだろう。左翼運動に共感する青年たちは、そう後ろ指を指されないよう振る舞っていたように思う。

私自身は運動家ではなかったが、それでも「プチブル」と呼ばれたくはなかった。実家暮らしの身。アルバイトで小遣いは稼いだが、肉体を駆使して労働者を自覚することはほとんどなかった。「プチブル」そのものだったわけだが、それを認めたくなかったのだ。

「プチブル」でいいではないか――そう開き直ったのは1970年代半ば。山田太一のテレビドラマが話題を呼ぶようになったころだ。「それぞれの秋」(TBS系、1973年)が印象深い。東京郊外の私鉄沿線に住む中流家庭の物語。兄や妹や親があれやこれやの難題を抱え、次男坊が右往左往する。プチブルだって生きていくのは大変なのだ、と思わせる作品だった。それを見せつけられて、私は自分がプチブルであることを恥じなくなった。

だが、だが、である。「プチブル」は堂々たる存在なのかと問われれば、否と答えるしかない。生活水準で言えば、高くはないが低くもない状態にぽっかり浮かんでいて、低いほうに転落しないか、という脅えがいつも心の片隅にある。自分がいま立っている大地が一瞬のうちに瓦解するのではないか、という不安も強い。プチブルは、はかない。労働者階級とは異なる意味で、抑圧された存在と言ってよいだろう。

2020年の今、「プチブル」のはかなさは、いや増した。「それぞれの秋」の父は定年間近のサラリーマンで、当時の勤労者の平均像だったが、近年は、終身雇用制にのっとって一つの会社で最後まで勤めあげるという境遇にいられるのは恵まれた人に限られる。リストラがある。非正規・派遣で労働を切り売りする人もいる。今年は、それにコロナ禍が追い討ちをかけた。「プチブル」の名にふさわしい階層はどんどん薄くなっている。

で、今週は、『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』(別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊)から、戯曲「マッチ売りの少女」をとりあげる。今年3月に82歳で亡くなった劇作家の代表作の一つ。1966年に発表された。

登場人物は、「女」と「その弟」、「初老の男」と「その妻」の計4人。「初老の男」と「その妻」は、プチブルっぽい夫婦だ。その家庭の日常を、突然の訪問者「女」と「その弟」がかき乱し、波立たせる。

夫婦のプチブルぶりは、冒頭まもなく、二人が「夜のお茶の道具」を手に現れて、それをテーブルに置くときのト書きからもうかがわれる。「この家には、道具の並べ方について厳重な法則があるかのようである」。夫は「いいかね、食卓のつくり方と云うのは微妙でね」と言って、並べ方次第でレモンのツヤに違いが出る、などという自説を披露する。このあと夫婦は、「おむかい」の家が励行する並べ方を俎上に載せて、それを腐すのだ。

どうでもよいことに違いない。だが、このような些細なことにこだわっていられるのがプチブルの特権とは言えないか。

そんな夫婦の前に突然、一人の女が姿を現して「こんばんは」と声をかけてくる。見ず知らずの人物が自宅の一室に闖入してきたのだから、さっさと追い返してもよいはずだ。だが、夫は「どうでしょう、せっかくですから、ごいっしょに……?」と誘う。妻も「そうしなさい。お茶は夜に限らず、にぎやかな方が楽しいのよ」と歓迎する。疑うことをしない善良さ、あるいは善意の押し売り。これもまた、プチブルの特徴かもしれない。

こうして会話が始まる。おもしろいのは、夫が「どちらから」と問うたときの女の返事。「市役所から参りました」。夜の訪問なので、市役所職員が公務で訪れるわけがない。市役所経由でやって来たということなのだろう。このあとのやりとりが読みどころだ。

妻「で、市役所では何て云ってました、私達のことを……?」
女「別に……。」
夫「善良な市民だと……?」
女「ええ。」
妻「モハン的な……?」
女「ええ。」
夫「ムガイな……?」
女「ええ。」

これを受けて妻は、自分たちが「この上なく善良な、しかも模範的で無害な市民」と自負する。夫は、市内には「善良」「模範的」「無害」な市民が362人いると表明した市長の演説を引いて、自分たち夫婦はその端数の2人だと言う。

夫婦は、自分たちの「善良」ぶりも列挙する。「市民税は、沢山ではありませんけど、キチンキチンと納めておりますし、ゴミも沢山は出さない」(妻)、「私共はどちらかと云うと、進歩的保守派です。革新派の奴等は品が悪くてね」(夫)……。女が「ここは……あたたかいわ……」とほめると、妻は図に乗って、それだけでなく「上品です」と言ってのける。豊かではないが過度につましくもない、とも。まさに、プチブル宣言である。

で、夫婦は、市役所が女を自分たちのところへ「差し向けた」と勝手に解釈するが、女はこれをきっぱり否定する。自分は、市役所で「こちら」の様子について聞いただけであり、「こちら」へは「お訪ねしたくなって……お訪ねしたのです」と言い張る。

女は身の上話をこう語り始める――。自分は七歳のころ、マッチを売っていた。20年ほども前のことで自分でも「知らなかった」のだが、最近、ある小説を読んで、登場人物の「マッチ売りの少女」は「私だった」と気づいたという。不条理劇の作家らしい筋の展開だ。

マッチ売りの少女については、背後でナレーションが説明してくれる。「その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった」「その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである」――この作品が書かれたのは1960年代半ば、「その頃」は終戦直後に符合する。高度成長期のプチブル家庭に焼け野原の闇が闖入してきた感がある。

このあと、女はさらに驚くべきことを口にする。それについては、ネタばらしになるので引用を控えよう。一つだけ明かせば、「善良」「模範的」「無害」な夫婦がおぞましい小児虐待の告発を受けることになるのだ。女は自らのマッチ売り体験について、こう問いかける。「何故あんなことをしたのか。誰かが教えてくれたのだとすれば、それは誰なのか」。最後には、女の弟という男まで現れて、プチブルの家庭は大混乱に陥って……。

この作品を読んでいると、私たちの世代のかなりの人々が享受してきた生活の安定が、どれほど脆いものかが見えてくる。プチブルとして「善良」「模範的」「無害」な暮らしをしていても、それは、今のかりそめの姿に過ぎない。突然の訪問者から、振り込め詐欺もどきの嘘っぽい話を聞かされただけで、自らの実像が揺らぎ、自己同一性が危うくなる。コロナ禍で先行きが見通せない時代、その脆さがいっそう怖く感じられる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月5日公開、通算525回
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もうちょっとJ・Jにこだわりたい

今週の書物/
『植草甚一自伝』
著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊

自転車

おいおい、ひと月前の本と同じではないか、と叱られそうだ。先月のJ・Jに倣って気まぐれに書くだけでは語りたいことのすべてを語れなかった。本来なら2週続きがよいのだが、まずはコロナ禍に対する関心を優先させた。今週はまた、J・Jに戻りたい。

こだわりがあるのは、J・J、即ち植草甚一が赤の他人とは思えないからだ。先方は当方を知らないが、当方は先方を知っているというかたちでご縁があった。私の少年期から青春期にかけて、彼は同じ町内の住人だったのだ。東京・世田谷の地味な町、経堂である。遭遇は一度ではない。駅で会った、電車でも会った、地元の古書店でも……。彼は意識していないのだから「会った」は厳密には正しくない。だが、「見かけた」よりは強烈な体験だった。

視野に入った瞬間、すぐにその人とわかった。白髪交じりの長髪とひげ。ジャケットとも半コートとも見分けがつかない上着。たいていは肩からバッグを提げていたように思う。当時の風俗に照らせば、ヒッピー風のおじいさんということになろう。

J・Jは、同じ町内の別の住人にも鮮烈な印象を残した。小田急線経堂駅の近くには、かつて「ワンダーランド」というジャズバーがあって、私も常連だったのだが、その店主、健さんの脳裏にもJ・Jは生きていた。いつもの癖で肩を上げ下げしながら、「自転車屋の前でさ、他人(ひと)の自転車の修理をずっと見てるんだよね」と言ったものだ。健さんは5年前に亡くなり、「ワンダー…」は閉店した。だが、自転車屋の店先に立つJ・Jの姿は私の心に受け継がれた。

奇しくも、「ワンダー…」という店名はJ・Jが深くかかわった雑誌の誌名と同じだ。J・Jに因んで名づけたのか、と健さんに尋ねると、そうではないという答えが返ってきた。それを聞いて、私は不思議な思いにかられた。同じ町内という小宇宙に、二つのワンダーランド文化が同居していた。それは偶然の共存なのに、片やジャズ評論家、片やジャズバーということで響きあっている。

ということで、『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊)をもう一度とりあげるわけだが、今回はこの本に私の個人的な思いを重ねあわせてみよう。前回は読みどころを紹介するとき、植草さんを「著者」と呼んだ。今回は「J・J」にする。ご町内で見かける一風変わったおじいさんという感じを醸しだすには、そのほうがよいように思えるからだ。

まずは、1970年代半ばの首都圏電車事情にからむ話から。そのころ、J・Jは東京・青山にある雑誌『宝島』(『ワンダーランド』誌の後身)の編集室によく顔を出していたらしい。午後8時、退室して帰途につく。そこで、さてどう帰ろうかと思案する。「青山一丁目から地下鉄で表参道で乗り換え、ちょい歩いて千代田線で代々木公園まで乗ってから、こんどは小田急で経堂まで帰ったほうがいいな」

懐かしさを覚えるのは、「代々木公園まで乗って」の記述だ。地下鉄千代田線は今は代々木上原駅で小田急線に乗り入れているが、あのころはひと駅手前の代々木公園駅が終点で、小田急に乗り継ぐには代々木八幡駅まで歩かなくてはならなかった(余計な詮索だが、上記引用でJ・Jは「代々木公園まで乗ってからちょい歩いて」と書こうとして、「ちょい歩いて千代田線で」と筆を走らせてしまったのではないか)。

そう言えば、と思いだすことがある――。私は小田急電車の座席に腰掛けている。そこに乗り込んできたのがJ・J。前方の席の0.5人分ほどの隙間にお尻をぐいぐい食い込ませて、すわった。そしてすぐさま本を開き、読書に耽ったのだ。たぶんあれは、私が新宿から乗ってきた下り電車が代々木八幡駅に停まったときのことではなかったか。その、ほんの一瞬の出来事が、ほぼ半世紀の歳月を経て自伝を通じて蘇ったのである。

「ちょっとひと休みして、ぼくのアパートの二階にある本屋レイク・ヨシカワへ出かけたが、買おうと思った本が二冊ともない」。この一文も、私の記憶をくすぐる。1970年代初めのことだ。経堂駅北口に14階建ての「小田急経堂ビル」が姿を現した。J・Jは同じ町内の一戸建てから、その高層階へ引っ越してきた。低層階にはスーパーや飲食店、専門店が入り、床面積の大きな書店もあったから、階下に書庫をしつらえたような気分だったのだろう。

そのビルは取り壊され、今は4階建て、屋上庭園付きの瀟洒な商業施設「経堂コルティ」に生まれ変わった。J・Jが旧ビルの何階に住んでいたかは知らないが、いまコルティ正面の大階段を見あげると、上空にJ・Jの空間が浮かんでいるような錯覚に陥る。

この「ぼくのアパート」の話や、前回とりあげたニューヨークの地下鉄話は「『ムッシュー・ブルー』という喫茶店かバーをやると喜ぶだろうなあ」という一編に出てくる。ここで「ムッシュー・ブルー」とあるのは青野平義という俳優。その死を悼もうとして筆を執ったらしいのだ。それなのに、前段で地下鉄やら書店やらに雑談の輪を広げていく。これがJ・J流だ。そのあと、ようやく始まったムッシュー・ブルーとの交流談に私は引き込まれた。

青野平義(1912~1974)は戦前からの新劇人。文学座のメンバーで、後に劇団NLTを旗揚げした。1960年前後、テレビの子ども番組におじいさん役などで出演していたことを私はしっかり覚えている。というのも、一緒に観ていた祖父が「おっ、ヒラヨシが出ているぞ」と自慢げに話していたからだ。口伝えに聞いたので確証はないのだが、青野と私の祖父とは親戚づきあいの間柄にあった。私自身、幼いころに青野の実家に年始回りをした経験があるから、血はつながっていなくともなにがしかの縁があったのだ。

その青野とJ・Jとの関係は濃密だった。それは、J・Jが青野の葬儀で弔辞を読んだことからもわかる。この一編では、その弔辞をなぞるように思い出を綴っている。戦前から、二人には演劇仲間としてのつきあいがあったようだ。東京・東中野の喫茶店に6人ほどでたむろしては夜中まで語りあっていたという。「青ちゃんは、あの芝居を読んだけれど面白いよ。あれをやろうと言って筋を話しながら、みんなをたきつけるんです」

これに続く一文は、詩的ではあるが意味不明でもある。「真冬のことで雪がさかんに降っていましたが、そのとき青ちゃんは行きたくなったなあ、どうだいみんなと言って遠くのほうを見たのでした」。みんなでどこへ繰りだそうというのか。その答えは、後の段落で正直に種明かしされているのだが、良所であるはずがない。書きぶりからみると弔辞でも同じことを暴露したらしい。親戚づきあいをしていた立場からみれば、困ったものだ。

ただ、J・Jの喪失感は痛切だ。それは、青野の訃報に触れたときの描写から読みとれる。「うちの者が」とあるのは妻のことだろう。朝、彼女が新聞を手に部屋へ入ってきて「青野さんが……」と言ったきり、黙る。J・Jは、それですべてを察知した。「ちょっとばかり心配になっていたことが、ほんとうにそうなったんだ」「おまえみたいな呑気なやつはいないぞと自分にむかってつぶやきました」。年をとって友を失うとは、こういうことなのか。

青野の実家は、東京・六本木で今も続く和菓子の老舗だ。平義は長男だが店を継がなかった。J・Jはそんな家業の話にも触れながら、「ムッシュー・ブルー」という「青ずくめの喫茶店」がほしいとの願いを披歴する。「もし『ムッシュー・ブルー』ができたら青い服を着て出かけるとしよう」。私が知る限り、その夢は実現しなかった。ここでは、J・Jが商人の息子らしく、亡き友を「店」という形態で想起しようとしたことを記憶しておこう。

この本を読んで、私は不思議な感覚に襲われる。J・Jと私は同じ町の空気を吸っていたに過ぎない。青野平義と私は遠戚のような関係に過ぎない。どちらもかぼそい糸だが、その先にいる人物が大昔、同じ青春を謳歌していたのだ。世界はやはり狭いのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月22日公開、同月25日最終更新、通算523回
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ヒト以外と線を引く、という生き方

今週の書物/
句誌の掌編エッセイ
大上朝美著、「鏡」第31号、鏡発行所、2019年4月刊

線の引き方

新型コロナウイルス禍は、その発端をめぐって諸説が入り乱れている。ただ一つ、ほぼ間違いないと思われるのは、これが「人獣共通感染症」であろう、ということだ。ヒトが獣(この用語では、哺乳類に限らず広く脊椎動物を指している)からうつされる感染症である。今回の病原体は今のところ、コウモリを宿主としていたウイルスに由来するとみられている。それが21世紀の今、なぜヒトに乗り移ったのか?

先々週5月1日付の当欄(「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)でとりあげた『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、ジョルダーノはこう書いている。「今回のパンデミックのそもそもの原因」は「自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」と。コロナの疫病禍は、ヒトにヒト以外の生物種とのつきあい方を見直すよう迫っていると言えるだろう。

で、今週は、句誌「鏡」第31号(鏡発行所、2019年4月刊)にある掌編エッセイ(大上朝美著)。著者本人が、エッセイと標榜しているわけではない。題名もない。投句者として、自句掲載のページの余白に寄せた1000字に満たない文章だ。

著者は、朝日新聞文化くらし報道部(旧学芸部)で活躍した人。私にとっては新聞社の1年先輩にあたる。新聞記事らしからぬ機知に富んだ文章を書く記者として私は尊敬してきた。その人と退職後、とある句会で席を並べることになった。それが縁で「鏡」をいただいた。

「ふと窓を見ると、ベランダの柵に一羽の鳩が止まって、横顔をこちらに向け、じっと観察している風である」――掌編エッセイは、こんな一文で始まる。都会のマンション生活にありそうな情景を、過不足なく切りとった描写だ。それは、どうやらキジバトらしい。1羽ではなく、「夫婦」でいるようだ。窓を開けると、当然のことながら飛び去った。著者は「営巣の下見に来ていたらしい」とみてとる。

ここで著者は、過去の記憶を呼び起こしていく。数年前はドバトがやって来た。見ると、ベランダのコンクリートに松葉や枯れ葉が並べられていた。巣づくりは完工しなかったが、着工はされていたのだ。ずっと昔、大阪に住んでいたころには「スズメの家主」になったこともある。巣は、ベランダ外壁のエアコン用に開けられた穴のあたり。雨除けのためのパイプを巧妙に借用した下向きのつくりで、雨露をしのげるタイプだった――。

著者が問いかけるのは、鳥たちは「どうしてこんな無機的な場所に来ようとするのだろう」ということだ。今の住まいは、近くに樹木の緑がたくさんあり、鳥たちにとって営巣地に事欠かない。かつての大阪の住まいも、広大な緑地のそばにあったので同様だった。

……と、ここまで読んでくると、著者は動物を苦手とする人、もっと言えば、動物嫌いと早とちりする人が出てくるかもしれない。だが、それは大いなる誤解だ。ご一緒する句会で投句や選句の傾向を見ていると、彼女の鳥や虫に対する愛着はなまなかではない。

そして、読ませどころは最後の段落。ベランダで鳩が卵をかえしたことを喜ぶ人が自分の知人にもいることに触れた後、毅然として言う。「私は鳩には来てほしくない派だ。生き物の気配はうれしい。しかし一線は引きたい」――このひとことに、私はしびれる。

この句誌は、去年4月1日の発行となっている。平穏だったあのころは、都市の日常を描く身辺雑記として読まれたのだろうが、1年後の今になってみると、そこに深い意味が潜んでいることに気づかされる。ヒトとヒト以外の動物の間には一線を引き、一定のディスタンス(距離)を置くべきだったのだ。それを怠ったため、今の私たちはヒトとヒトの間にディスタンスをとるよう求められている。なんという皮肉だろうか。

ヒトという生物種は、森を切りひらき、ほかの生物種を追い払っただけではない。そこに、わけのわからない「第二の森」を築きあげて、ほかの生物種を呼び寄せてしまった。ベランダの風景は、そのことを如実に物語っている。

余談だが、この句誌では、ほかの投句者が書いた掌編エッセイも味わい深い。そのなかの一編は文字通り、都市生活での人と人との距離のとり方を話題にしていて秀逸だった。「鏡」第31号は、俳句好きの感性がとらえた「距離」論としても読めるのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月15日公開、通算522回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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「ペスト」考、拙稿再読で知る怖さ

今週の書物/
「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」
尾関章執筆、ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付

市門を閉じる

新型コロナウイルスの感染禍が、日本列島にも押し寄せたころからだろうか、アルベール・カミュの長編『ペスト』の書名をメディアで目にすることが多くなった。もっともな話だ。この小説を読んだことのある人は、今まさに進行中の出来事を見て既視感のような感覚に囚われたのではないか。だが、それは錯覚としての既視感ではない。この作品世界に入り込んだとき、コロナ状況と酷似した現実を仮想体験していたのである。

この小説は、ペストという今では抗菌薬で対抗できる感染禍を題材にしている。だから、私は新型コロナウイルス感染禍の当初、あえてとりあげようとは思わなかった。だが、この闘いが長期戦とわかった今、その作品世界を再訪することは大いに意味がある。

この小説のことは9年前、当欄の前身で書いている。それはブック・アサヒ・コム(現・好書好日)欄に残っていたのだが、残念なことに今は外されてしまった。それならば、と当時の拙稿を私のPCから掘りだして再読してみることにする。自分が書いた記事を話題にする、という行為には気おくれを感じる。だが、9年前の自分を赤の他人と思って突き放してみれば、そこに過去と現在の対話が生まれそうな気もする。

その拙稿は、「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」(ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付)。公開日は3・11――東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故――から間もない。私たちが津波被害の深刻さに呆然とし、放射能の脅威に慄いていたころだ。私は、そこに実存哲学の「限界状況」を感じとり、「カミュ的状況」と名づけた。カミュの文学は本人の意思とはかかわりなく、実存主義の文脈で語られることが多いからだ。

拙稿の中身に入るまえに、作品そのものについて――。私がこのときに再読したのは、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969年刊)だ。カミュ(1913~1960)が30代半ばだった1947年に発表した作品。フランスの植民地だったアルジェリアの港町オランで40年代にペストが蔓延する、という筋書きになっている。オランは実在の都市だが、ペスト禍はフィクション。それでも迫真なのは、著者の想像力が半端ではないからだろう。

私は拙稿で「カミュ的状況」をこう要約した。オランでは「この町から出てはいけないという強権」が行使され、市民たちは「ハイリスクの空間に閉じ込められる」――緊急事態宣言下で遠出の自粛を求められている今の私たちは、これに似た状況にある。

実際のところ、この小説の筋書きは驚くほど2020年の状況に重なる。類似点を挙げておこう。(以下、「」は拙稿からの引用、〈〉は『ペスト』本文からの引用、ルビは省く)

一つには、ペスト禍で「はじめは役所の発表も抑え気味」だったこと。オランの県当局は〈悪性の熱病〉について〈果して伝染性のものであるか否かはまだなんともいえない〉と即断を避け、〈若干例がオラン市区に発生した〉としか言っていない。これは、私たちがコロナ禍の始まりに経験したことに近い。なべて行政官には、大げさに騒いで混乱を増幅させたくないという心理が働くのか。カミュは、その落とし穴を見抜いている。

「そうこうするうちに、病院は満床になり、死者の数も日に日に増して」というペスト禍の展開もコロナ禍に似ている。そんな事態になって、市の閉鎖命令が出される。市門が閉ざされたのだ。〈この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となった〉。今回、日本政府も医療崩壊が懸念されるようになってから緊急事態宣言を出した。その結果、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められ、コロナが〈すべての者の事件〉となったのである。

私は改めて思う。感染症を封じる手だては、人と人とを隔てることよりほかにないのか――このことは先週紹介した『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、理系出身の作家ジョルダーノが指摘していたことでもある。有効な予防医療がなく、確実に治るという特効薬も見つからない未知の病原体に向きあうとなると、結局は人と人との接触を絶つことから始めなくてはならない。

近代以後の人類は生命科学の領域でいくつもの大発見を重ね、いくつもの画期的な技術を手に入れた。20世紀後半には、生物の仕様書がDNAという核酸分子に刻まれた暗号文であることを見いだした。21世紀に入ると、細胞を未分化の状態に戻して生体組織を再生する医療も夢ではなくなった。それなのに、ヒトが新顔のウイルスに乗っ取られると手も足も出ない。100年前と同じように、人は人から離れることを余儀なくされている。

もっとも、1940年代のペスト禍と2020年代のコロナ禍では違いもある。オランでは閉鎖命令を受けて、市域の内と外をつなぐ通信が制限されていく。手紙は菌を媒介するということでダメ。不急の電話も回線をパンクさせるからダメ。電報だけが頼りだった。

これに対して、私たちにはIT(情報技術)がある。あるときはメールで、あるときはソーシャルメディアで。そして、みんなでわいわいやりたければウェブ会議システムを介して仲間の顔を見ながら語りあうこともできる。その結果、市内と市外の間だけでなく、同じ市内にいる人々の間でも物理的な接触を減らせるようになった。私たちが、生存の枠組みである実空間をどこまでネット空間に置き換えられるかは心もとないが……。

ここで、私が9年前の拙稿には書かなかったことを追記しておこう。『ペスト』の主人公ベルナール・リウー医師が入居するアパートの門番、ミッシェルの死についてだ。階段で鼠の死骸が見つかっても〈この建物には鼠はいない〉と譲らない老人。住人にとっては身近な人物だった。その門番が体調を崩し、高熱を発して弱っていく。リウーは治療を施し、救急車に乗せて病院に向かうのだが、門番は〈鼠のやつ!〉とつぶやきながら息を引きとる。

そのあとの一文が、心に刺さるのだ。〈門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる〉

今回のコロナ禍で、私たちが〈恐怖〉を感じはじめたのは有名人の感染死が伝えられたころではなかったか。有名人は、メディアを通じてのことだが、門番同様に私たちが身近に感じる人物だ。人々は、有名人の死の向こうに市民社会の危機をのぞき見たのである。

9年前、私は〈門番の死〉のくだりを拾いだして拙稿に書き込んではいない。ところが今、もう一度『ペスト』のページをぱらぱらめくってみると、この一節に目がとまり、心に残った。それは、私たちが今まさに実空間の感染禍を体験しているからだろう。

この作品の登場人物の多くは、疫病禍の限界状況と対峙して「人としての生き方を変えていく」。私たちもコロナ後に生き延びているならば、今と異なる生き方をするに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月8日公開、同年6月1日最終更新、通算521回
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