フィッツジェラルド、大恐慌のあとで

今週の書物/
『マイ・ロスト・シティー』
スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊

摩天楼

新型コロナウイルス感染禍は、しだいに経済危機の様相を帯びはじめている。感染予防の決め手が今のところ、人と人との間の距離を十分にとること、できるなら接触しないでいることにあるというのだから、金回りがよくなるはずはない。

先々週の当欄「コロナの時代に新聞は変わる」(2020年5月29日付)に書いた通り、フランスの歴史家エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事(朝日新聞2020年5月23日朝刊)からは、この感染禍によって新自由主義経済が退場を迫られているように思われる。それに伴って、経済のグローバル化という潮流も勢いを失うだろう。ただ、では次に何がやって来るのかと思いをめぐらせると、答えがない。ただ途方に暮れるばかりだ。

経済の危機らしきものは、これまでも幾度となくあった。私たちの世代にとって忘れがたいのは、石油ショック(1973)、バブル崩壊(1991)、リーマン・ショック(2008)の三つだ。このうち前者二つは、とくに強烈な印象がある。石油ショックでは、産業活動の右肩上がりにいきなりブレーキがかかった。バブル崩壊では、浮かれ調子だった世相に突然、暗雲が立ち込めた。皮膚感覚として、事前と事後の落差が大きかったのである。

たとえば、石油ショック後は一時期、繁華街の照明が落とされ、テレビは深夜番組をとりやめた。私たちは1960年代の高度成長期、街はどんどん明るくなるもの、夜はどんどん長くなるものと信じ込んでいたから、常識がひっくり返されたのだ。バブル崩壊後は、夜更けの街で流しのタクシーを拾いやすくなった。1980年代、バブル経済が踊っていたころは酔客の帰宅ラッシュで空車探しが大変だったから、需給の逆転に驚かされたものだ。

コロナ後にもきっと、今の私たちには思いもよらない生活風景が待ち受けていることだろう。その時点からコロナ以前を振り返れば、自分たちはなんとお気楽だったのか、と苦笑するに違いない。で、今週は過去の経済危機に思いを馳せて、書物を選んだ。

『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊)。単行本は、中央公論社が1981年に刊行した。著者(1896~1940)は、『グレート・ギャツビー』――私たちの世代には映画化された「華麗なるギャツビー」の題名が忘れがたいのだが――で知られる米国の小説家。この本では、表題作のエッセイを最後に置き、その前に五つの短編を収めている。所収作品を選んだ訳者は当時、新進作家だった。

訳者の著者に対する思い入れの強さは、巻頭にある「フィッツジェラルド体験」と題する一文からもわかる。「何年ものあいだ、スコット・フィッツジェラルドだけが僕の師であり、大学であり、文学仲間であった」という記述には、最大級の敬意が込められている。

絶賛するのは、20回は読んだという短編『バビロン再訪』(残念なことに、本書の収録作品ではない)の冒頭部。パリの有名ホテルで客がバーテンに、常連客らしい知人一人ひとりの消息を尋ねる場面だ。バーテンは、そのつど「スイスに行かれました」「アメリカにお帰りになりましてね」「先週お見受けしましたよ」と答えていく。この一節だけで、作品から匂い立つ雰囲気が感じとれるし、飾りを剥ぎ取った骨格も見えてくるという。

それを、訳者は「宇宙」と呼ぶ。「極めて小さな個人的な宇宙ではあるけれど、やはりそれは宇宙だ」。著者は一つの宇宙を分解せず、そっくり提示できる作家ということになる。

この巻頭文は、著者の略伝も記している。米国中西部セントポールの生まれ。父は教養人だったようだが、事業につまずいて家計は厳しかった。母の実家が裕福で、その支援を得て「なんとか中産階級としての体面を保っていた」のである。その結果、東部の名門プリンストン大学に進むことができた。こんな背景から「金持に対する憧れと憎悪、自己憐憫と自己客体視という彼の生涯のテーマともなる二面性が芽生えていたのだろう」と、訳者はみる。

訳者は、著者の作品の魅力に「相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていること」を挙げている。二面性を文学に昇華したのだ。逆向きのベクトルには「上昇志向」と「下降感覚」がある。中西部生まれの「素朴さ」とニューヨーク暮らしの「洗練」もある。

こうした二面性や相反感情が時代の空気と共振したのは間違いない。米国は1910年代末、第1次世界大戦(1914~1918)の戦勝気分に沸いていた。ところが20年代末に大恐慌に見舞われる。著者の作品には、20年代米国社会の「上昇」と「下降」が生々しく映しだされている。この本の6編をみても、大恐慌の前と後に書かれたものの間に断絶が見てとれる。そこには世相の暗転があり、それを目のあたりにして途方に暮れる人々がいる。

で、今回は、6編のうちで唯一のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」に話を絞ろう。これは大恐慌後に書かれたものだが、著者自身の少年期や青年期にさかのぼりながら、その折々に目の当たりにしたニューヨーク像を通して、この大都市の変転を跡づけている。

たとえば、1919年はこうだ。「ニューヨークの街はまるで世界の誕生を思わせるような虹色の輝きにむせていた。帰還した連隊は五番街を行進し、若い娘たちはまるでそれにひきよせられるように、東や北にその足を向けた」。大戦戦勝の高揚がそこにはある。

1920年には「突如『新しい世代(ヤンガー・ジェネレーション)』という観念が姿を現わし、ニューヨークの都市生活の様々な要素をひとつのつぼの中に溶け込ませてしまった」(「つぼ」に傍点)。それは、「明るさ」「華やかさ」「生命力」などが混ぜ合わさった「ひとつの空気」だった。もったいぶった晩餐会というより、ちょっと崩れた立食パーティーのような感じ。欧州知識人も一目おく小粋で若々しい文化の登場だった。

著者のデビューは、ちょうどこの年。「私は時代の代弁者(スポークスマン)というだけでなく、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった」。夜を徹して原稿を書きまくり、大枚をはたいて引っ越しを繰り返す日々。「暑い日曜日の夜に私はタクシーの屋根に乗って五番街を走り回った」との記述もある。だが、その一方で「自分たちはそんな華やかな社会とは本当は無縁な存在なんだと思い込んでいた」。ここにも二面性がある。

1927年は欄熟の日々か。そのころ、著者は数年の外国生活を終え、帰米していた。「一九二〇年のあの不安気な空気は確として金色に光り輝く絶え間のない歓声の中に没し去り、友人たちの多くは金持になっていた」。ショービジネスは「ますます大がかりに」、建物は「ますます高く」、道徳心は「ますますゆるめられ」、アルコールは「ますます安価に」――そう、20年から33年までは禁酒法の時代だが、街には酒があふれ返っていたらしい。

オフィス街が酒浸りになる様子はこう表現されている。1920年には「昼食前にひとつカクテルでも」などと言う人物は「ショッキングな存在」だったが、29年には「オフィスの半分には酒瓶が置かれ、大きなビルの半分にはもぐり酒場(スピーキージー)があった」。

まさにバブルの絶頂期。「私の行きつけの床屋は株に五十万ドルばかり投資して引退していた」とあるように、人々は労働よりも投機に走った。「もううんざりだ」――著者は再び国外へ出て、滞在先の北アフリカで「あの崩壊(ガラ)の音を聞いた」。大恐慌である。2年後、ニューヨークに帰ると、そこは「墓場」のようであり、「廃虚」のようでもあり、「遊びまわっていた」のは「無邪気な亡霊たち」だけだった。「床屋はまた店に戻った」のである。

印象深いのは、著者フィッツジェラルドがエンパイア・ステート・ビルの高みに立ったときの眺め。「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかった」。それは「四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿」だったのだ。果てしないのは「青や緑の大地」のほうであることに摩天楼で気づくという逆説。大事象の大波をかぶって途方に暮れたとき、人間は人間の限界を自覚するのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月12日公開、通算526回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

別役実、プチブル「善良」の脆さ

今週の書物/
『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』
別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊

マッチ

若かったころ、「プチブル」という言葉がよく飛び交った。プチブルジョワジー――日本語にすれば小市民、中産階級のことだが、そこにはどこか、「資本家階級のなりそこない」と蔑む響きがあった。デモに行かなければプチブル、授業を受けていたらプチブル……。革命の主力となる労働者階級に対して引け目があったからだろう。左翼運動に共感する青年たちは、そう後ろ指を指されないよう振る舞っていたように思う。

私自身は運動家ではなかったが、それでも「プチブル」と呼ばれたくはなかった。実家暮らしの身。アルバイトで小遣いは稼いだが、肉体を駆使して労働者を自覚することはほとんどなかった。「プチブル」そのものだったわけだが、それを認めたくなかったのだ。

「プチブル」でいいではないか――そう開き直ったのは1970年代半ば。山田太一のテレビドラマが話題を呼ぶようになったころだ。「それぞれの秋」(TBS系、1973年)が印象深い。東京郊外の私鉄沿線に住む中流家庭の物語。兄や妹や親があれやこれやの難題を抱え、次男坊が右往左往する。プチブルだって生きていくのは大変なのだ、と思わせる作品だった。それを見せつけられて、私は自分がプチブルであることを恥じなくなった。

だが、だが、である。「プチブル」は堂々たる存在なのかと問われれば、否と答えるしかない。生活水準で言えば、高くはないが低くもない状態にぽっかり浮かんでいて、低いほうに転落しないか、という脅えがいつも心の片隅にある。自分がいま立っている大地が一瞬のうちに瓦解するのではないか、という不安も強い。プチブルは、はかない。労働者階級とは異なる意味で、抑圧された存在と言ってよいだろう。

2020年の今、「プチブル」のはかなさは、いや増した。「それぞれの秋」の父は定年間近のサラリーマンで、当時の勤労者の平均像だったが、近年は、終身雇用制にのっとって一つの会社で最後まで勤めあげるという境遇にいられるのは恵まれた人に限られる。リストラがある。非正規・派遣で労働を切り売りする人もいる。今年は、それにコロナ禍が追い討ちをかけた。「プチブル」の名にふさわしい階層はどんどん薄くなっている。

で、今週は、『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』(別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊)から、戯曲「マッチ売りの少女」をとりあげる。今年3月に82歳で亡くなった劇作家の代表作の一つ。1966年に発表された。

登場人物は、「女」と「その弟」、「初老の男」と「その妻」の計4人。「初老の男」と「その妻」は、プチブルっぽい夫婦だ。その家庭の日常を、突然の訪問者「女」と「その弟」がかき乱し、波立たせる。

夫婦のプチブルぶりは、冒頭まもなく、二人が「夜のお茶の道具」を手に現れて、それをテーブルに置くときのト書きからもうかがわれる。「この家には、道具の並べ方について厳重な法則があるかのようである」。夫は「いいかね、食卓のつくり方と云うのは微妙でね」と言って、並べ方次第でレモンのツヤに違いが出る、などという自説を披露する。このあと夫婦は、「おむかい」の家が励行する並べ方を俎上に載せて、それを腐すのだ。

どうでもよいことに違いない。だが、このような些細なことにこだわっていられるのがプチブルの特権とは言えないか。

そんな夫婦の前に突然、一人の女が姿を現して「こんばんは」と声をかけてくる。見ず知らずの人物が自宅の一室に闖入してきたのだから、さっさと追い返してもよいはずだ。だが、夫は「どうでしょう、せっかくですから、ごいっしょに……?」と誘う。妻も「そうしなさい。お茶は夜に限らず、にぎやかな方が楽しいのよ」と歓迎する。疑うことをしない善良さ、あるいは善意の押し売り。これもまた、プチブルの特徴かもしれない。

こうして会話が始まる。おもしろいのは、夫が「どちらから」と問うたときの女の返事。「市役所から参りました」。夜の訪問なので、市役所職員が公務で訪れるわけがない。市役所経由でやって来たということなのだろう。このあとのやりとりが読みどころだ。

妻「で、市役所では何て云ってました、私達のことを……?」
女「別に……。」
夫「善良な市民だと……?」
女「ええ。」
妻「モハン的な……?」
女「ええ。」
夫「ムガイな……?」
女「ええ。」

これを受けて妻は、自分たちが「この上なく善良な、しかも模範的で無害な市民」と自負する。夫は、市内には「善良」「模範的」「無害」な市民が362人いると表明した市長の演説を引いて、自分たち夫婦はその端数の2人だと言う。

夫婦は、自分たちの「善良」ぶりも列挙する。「市民税は、沢山ではありませんけど、キチンキチンと納めておりますし、ゴミも沢山は出さない」(妻)、「私共はどちらかと云うと、進歩的保守派です。革新派の奴等は品が悪くてね」(夫)……。女が「ここは……あたたかいわ……」とほめると、妻は図に乗って、それだけでなく「上品です」と言ってのける。豊かではないが過度につましくもない、とも。まさに、プチブル宣言である。

で、夫婦は、市役所が女を自分たちのところへ「差し向けた」と勝手に解釈するが、女はこれをきっぱり否定する。自分は、市役所で「こちら」の様子について聞いただけであり、「こちら」へは「お訪ねしたくなって……お訪ねしたのです」と言い張る。

女は身の上話をこう語り始める――。自分は七歳のころ、マッチを売っていた。20年ほども前のことで自分でも「知らなかった」のだが、最近、ある小説を読んで、登場人物の「マッチ売りの少女」は「私だった」と気づいたという。不条理劇の作家らしい筋の展開だ。

マッチ売りの少女については、背後でナレーションが説明してくれる。「その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった」「その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである」――この作品が書かれたのは1960年代半ば、「その頃」は終戦直後に符合する。高度成長期のプチブル家庭に焼け野原の闇が闖入してきた感がある。

このあと、女はさらに驚くべきことを口にする。それについては、ネタばらしになるので引用を控えよう。一つだけ明かせば、「善良」「模範的」「無害」な夫婦がおぞましい小児虐待の告発を受けることになるのだ。女は自らのマッチ売り体験について、こう問いかける。「何故あんなことをしたのか。誰かが教えてくれたのだとすれば、それは誰なのか」。最後には、女の弟という男まで現れて、プチブルの家庭は大混乱に陥って……。

この作品を読んでいると、私たちの世代のかなりの人々が享受してきた生活の安定が、どれほど脆いものかが見えてくる。プチブルとして「善良」「模範的」「無害」な暮らしをしていても、それは、今のかりそめの姿に過ぎない。突然の訪問者から、振り込め詐欺もどきの嘘っぽい話を聞かされただけで、自らの実像が揺らぎ、自己同一性が危うくなる。コロナ禍で先行きが見通せない時代、その脆さがいっそう怖く感じられる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月5日公開、通算525回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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ヒト以外と線を引く、という生き方

今週の書物/
句誌の掌編エッセイ
大上朝美著、「鏡」第31号、鏡発行所、2019年4月刊

線の引き方

新型コロナウイルス禍は、その発端をめぐって諸説が入り乱れている。ただ一つ、ほぼ間違いないと思われるのは、これが「人獣共通感染症」であろう、ということだ。ヒトが獣(この用語では、哺乳類に限らず広く脊椎動物を指している)からうつされる感染症である。今回の病原体は今のところ、コウモリを宿主としていたウイルスに由来するとみられている。それが21世紀の今、なぜヒトに乗り移ったのか?

先々週5月1日付の当欄(「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)でとりあげた『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、ジョルダーノはこう書いている。「今回のパンデミックのそもそもの原因」は「自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」と。コロナの疫病禍は、ヒトにヒト以外の生物種とのつきあい方を見直すよう迫っていると言えるだろう。

で、今週は、句誌「鏡」第31号(鏡発行所、2019年4月刊)にある掌編エッセイ(大上朝美著)。著者本人が、エッセイと標榜しているわけではない。題名もない。投句者として、自句掲載のページの余白に寄せた1000字に満たない文章だ。

著者は、朝日新聞文化くらし報道部(旧学芸部)で活躍した人。私にとっては新聞社の1年先輩にあたる。新聞記事らしからぬ機知に富んだ文章を書く記者として私は尊敬してきた。その人と退職後、とある句会で席を並べることになった。それが縁で「鏡」をいただいた。

「ふと窓を見ると、ベランダの柵に一羽の鳩が止まって、横顔をこちらに向け、じっと観察している風である」――掌編エッセイは、こんな一文で始まる。都会のマンション生活にありそうな情景を、過不足なく切りとった描写だ。それは、どうやらキジバトらしい。1羽ではなく、「夫婦」でいるようだ。窓を開けると、当然のことながら飛び去った。著者は「営巣の下見に来ていたらしい」とみてとる。

ここで著者は、過去の記憶を呼び起こしていく。数年前はドバトがやって来た。見ると、ベランダのコンクリートに松葉や枯れ葉が並べられていた。巣づくりは完工しなかったが、着工はされていたのだ。ずっと昔、大阪に住んでいたころには「スズメの家主」になったこともある。巣は、ベランダ外壁のエアコン用に開けられた穴のあたり。雨除けのためのパイプを巧妙に借用した下向きのつくりで、雨露をしのげるタイプだった――。

著者が問いかけるのは、鳥たちは「どうしてこんな無機的な場所に来ようとするのだろう」ということだ。今の住まいは、近くに樹木の緑がたくさんあり、鳥たちにとって営巣地に事欠かない。かつての大阪の住まいも、広大な緑地のそばにあったので同様だった。

……と、ここまで読んでくると、著者は動物を苦手とする人、もっと言えば、動物嫌いと早とちりする人が出てくるかもしれない。だが、それは大いなる誤解だ。ご一緒する句会で投句や選句の傾向を見ていると、彼女の鳥や虫に対する愛着はなまなかではない。

そして、読ませどころは最後の段落。ベランダで鳩が卵をかえしたことを喜ぶ人が自分の知人にもいることに触れた後、毅然として言う。「私は鳩には来てほしくない派だ。生き物の気配はうれしい。しかし一線は引きたい」――このひとことに、私はしびれる。

この句誌は、去年4月1日の発行となっている。平穏だったあのころは、都市の日常を描く身辺雑記として読まれたのだろうが、1年後の今になってみると、そこに深い意味が潜んでいることに気づかされる。ヒトとヒト以外の動物の間には一線を引き、一定のディスタンス(距離)を置くべきだったのだ。それを怠ったため、今の私たちはヒトとヒトの間にディスタンスをとるよう求められている。なんという皮肉だろうか。

ヒトという生物種は、森を切りひらき、ほかの生物種を追い払っただけではない。そこに、わけのわからない「第二の森」を築きあげて、ほかの生物種を呼び寄せてしまった。ベランダの風景は、そのことを如実に物語っている。

余談だが、この句誌では、ほかの投句者が書いた掌編エッセイも味わい深い。そのなかの一編は文字通り、都市生活での人と人との距離のとり方を話題にしていて秀逸だった。「鏡」第31号は、俳句好きの感性がとらえた「距離」論としても読めるのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月15日公開、通算522回
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「ペスト」考、拙稿再読で知る怖さ

今週の書物/
「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」
尾関章執筆、ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付

市門を閉じる

新型コロナウイルスの感染禍が、日本列島にも押し寄せたころからだろうか、アルベール・カミュの長編『ペスト』の書名をメディアで目にすることが多くなった。もっともな話だ。この小説を読んだことのある人は、今まさに進行中の出来事を見て既視感のような感覚に囚われたのではないか。だが、それは錯覚としての既視感ではない。この作品世界に入り込んだとき、コロナ状況と酷似した現実を仮想体験していたのである。

この小説は、ペストという今では抗菌薬で対抗できる感染禍を題材にしている。だから、私は新型コロナウイルス感染禍の当初、あえてとりあげようとは思わなかった。だが、この闘いが長期戦とわかった今、その作品世界を再訪することは大いに意味がある。

この小説のことは9年前、当欄の前身で書いている。それはブック・アサヒ・コム(現・好書好日)欄に残っていたのだが、残念なことに今は外されてしまった。それならば、と当時の拙稿を私のPCから掘りだして再読してみることにする。自分が書いた記事を話題にする、という行為には気おくれを感じる。だが、9年前の自分を赤の他人と思って突き放してみれば、そこに過去と現在の対話が生まれそうな気もする。

その拙稿は、「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」(ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付)。公開日は3・11――東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故――から間もない。私たちが津波被害の深刻さに呆然とし、放射能の脅威に慄いていたころだ。私は、そこに実存哲学の「限界状況」を感じとり、「カミュ的状況」と名づけた。カミュの文学は本人の意思とはかかわりなく、実存主義の文脈で語られることが多いからだ。

拙稿の中身に入るまえに、作品そのものについて――。私がこのときに再読したのは、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969年刊)だ。カミュ(1913~1960)が30代半ばだった1947年に発表した作品。フランスの植民地だったアルジェリアの港町オランで40年代にペストが蔓延する、という筋書きになっている。オランは実在の都市だが、ペスト禍はフィクション。それでも迫真なのは、著者の想像力が半端ではないからだろう。

私は拙稿で「カミュ的状況」をこう要約した。オランでは「この町から出てはいけないという強権」が行使され、市民たちは「ハイリスクの空間に閉じ込められる」――緊急事態宣言下で遠出の自粛を求められている今の私たちは、これに似た状況にある。

実際のところ、この小説の筋書きは驚くほど2020年の状況に重なる。類似点を挙げておこう。(以下、「」は拙稿からの引用、〈〉は『ペスト』本文からの引用、ルビは省く)

一つには、ペスト禍で「はじめは役所の発表も抑え気味」だったこと。オランの県当局は〈悪性の熱病〉について〈果して伝染性のものであるか否かはまだなんともいえない〉と即断を避け、〈若干例がオラン市区に発生した〉としか言っていない。これは、私たちがコロナ禍の始まりに経験したことに近い。なべて行政官には、大げさに騒いで混乱を増幅させたくないという心理が働くのか。カミュは、その落とし穴を見抜いている。

「そうこうするうちに、病院は満床になり、死者の数も日に日に増して」というペスト禍の展開もコロナ禍に似ている。そんな事態になって、市の閉鎖命令が出される。市門が閉ざされたのだ。〈この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となった〉。今回、日本政府も医療崩壊が懸念されるようになってから緊急事態宣言を出した。その結果、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められ、コロナが〈すべての者の事件〉となったのである。

私は改めて思う。感染症を封じる手だては、人と人とを隔てることよりほかにないのか――このことは先週紹介した『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、理系出身の作家ジョルダーノが指摘していたことでもある。有効な予防医療がなく、確実に治るという特効薬も見つからない未知の病原体に向きあうとなると、結局は人と人との接触を絶つことから始めなくてはならない。

近代以後の人類は生命科学の領域でいくつもの大発見を重ね、いくつもの画期的な技術を手に入れた。20世紀後半には、生物の仕様書がDNAという核酸分子に刻まれた暗号文であることを見いだした。21世紀に入ると、細胞を未分化の状態に戻して生体組織を再生する医療も夢ではなくなった。それなのに、ヒトが新顔のウイルスに乗っ取られると手も足も出ない。100年前と同じように、人は人から離れることを余儀なくされている。

もっとも、1940年代のペスト禍と2020年代のコロナ禍では違いもある。オランでは閉鎖命令を受けて、市域の内と外をつなぐ通信が制限されていく。手紙は菌を媒介するということでダメ。不急の電話も回線をパンクさせるからダメ。電報だけが頼りだった。

これに対して、私たちにはIT(情報技術)がある。あるときはメールで、あるときはソーシャルメディアで。そして、みんなでわいわいやりたければウェブ会議システムを介して仲間の顔を見ながら語りあうこともできる。その結果、市内と市外の間だけでなく、同じ市内にいる人々の間でも物理的な接触を減らせるようになった。私たちが、生存の枠組みである実空間をどこまでネット空間に置き換えられるかは心もとないが……。

ここで、私が9年前の拙稿には書かなかったことを追記しておこう。『ペスト』の主人公ベルナール・リウー医師が入居するアパートの門番、ミッシェルの死についてだ。階段で鼠の死骸が見つかっても〈この建物には鼠はいない〉と譲らない老人。住人にとっては身近な人物だった。その門番が体調を崩し、高熱を発して弱っていく。リウーは治療を施し、救急車に乗せて病院に向かうのだが、門番は〈鼠のやつ!〉とつぶやきながら息を引きとる。

そのあとの一文が、心に刺さるのだ。〈門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる〉

今回のコロナ禍で、私たちが〈恐怖〉を感じはじめたのは有名人の感染死が伝えられたころではなかったか。有名人は、メディアを通じてのことだが、門番同様に私たちが身近に感じる人物だ。人々は、有名人の死の向こうに市民社会の危機をのぞき見たのである。

9年前、私は〈門番の死〉のくだりを拾いだして拙稿に書き込んではいない。ところが今、もう一度『ペスト』のページをぱらぱらめくってみると、この一節に目がとまり、心に残った。それは、私たちが今まさに実空間の感染禍を体験しているからだろう。

この作品の登場人物の多くは、疫病禍の限界状況と対峙して「人としての生き方を変えていく」。私たちもコロナ後に生き延びているならば、今と異なる生き方をするに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月8日公開、同年6月1日最終更新、通算521回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

物理系作家リアルタイムのコロナ考

今週の書物/
『コロナの時代の僕ら』
パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊

距離をとる

コロナ禍の巣ごもりで、ネット通販サイトに入り、読みたい本を漁っていたら、「コロナの時代……」という字面が目に飛び込んできた。「コロナ」とは、もともと光の環。太陽の周りの輝きだ。悪い意味はない。クルマの名前になった。ビールの銘柄にもなっている。旧刊本が書名に比喩として用いているのだろうと思った。ところが刊行日を見て、クラクラとなった。つい、先日ではないか。「コロナの時代」とは、まさに今のことだった。

驚くのは、それがハードカバーの単行本であること。大事件を受けて手っ取り早くまとめあげた緊急出版、という感じがまったくない。しかも、翻訳本だ。著者が執筆して訳者が翻訳し、それを校正して……そんな工程を思い描き、あまりの早業に圧倒された。

著者名を見て、もう一度驚かされる。パオロ・ジョルダーノ……どこかで見た名前ではないか。そう、かつて私が新聞の読書面で書評した小説の作者だった。イタリア・トリノ大学の大学院で素粒子物理を専攻した理系出身の作家である。その小説は『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房)。拙稿は「理系男は、どうしてこうも不器用なのか」(朝日新聞2009年8月2日付朝刊)という一文で始まっている――。

孤独な人間が心を通わせることを、素数同士の関係のありようになぞらえた作品だった。素数を2、3、5、7、11、13、17……と順に並べていくと、2と3を例外として決して隣りあうことがないのである。

あの小説の書き手が、このコロナ禍をリアルタイムで語っているとは! それは、私の心を強くとらえた。著者の早書きに倣って、私も早く読み込みたい。で、今週は『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊)。

この本はエッセイ27編から成るが、邦訳版には新聞への寄稿1本も加わっている。訳者あとがきによると、エッセイは今年2月29日から3月4日までに集中執筆されたという。イタリアで新型コロナウイルス感染症の累積感染者数が1000人余から3000人余に急増したころだ。寄稿記事は有力紙「コリエーレ・デッラ・セーラ」(2020年3月20日付)に掲載されたもの。すでに感染者が累積4万7000人に達し、死者も4000人を超えていた。

この経緯からわかるように、エッセイと寄稿記事は雰囲気がガラッと変わっている。前者は、不安を打ち明けながらも事態を冷静に読み解いている。ところが後者は、論理を踏まえながらも自らの主張を叫びのような痛切さをもって訴えかけているのだ。

ここでは、前者を中心に読みどころを拾いあげていくことにしよう。なぜなら前者からは、感染拡大が身辺に押し寄せようとしていたころ、著者が事象の本質を見抜いていたことがうかがえるからだ。

「感染症の数学」という一編で、著者はこう書く。「ウイルスの前では人類全体がたった三つのグループに分類される」。3群は「まだこれから感染させることのできる人々」「すでに感染した感染者たち」「もう感染させることのできない人々」。著者が注意を促すのは、一つめの群が圧倒的に多いことだ。執筆時点で新型コロナウイルスに感染可能な人々は「七五億人近く」――ほぼ、全人類ではないか。(*この本は、三つめの群を「犠牲者」と「回復者」としているが、再感染があるとすればそう言い切れなくなる)

次の一編は「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」の一文で書きだされる。球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き……という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる」というのである。

この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖によるふえ方を数値化したもので、前述ビリヤードの例では再生産数=2。著者は、今回の感染禍の3月時点の再生産数も書いているが、それは確定値ではないので引用は控えよう。

ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播(でんぱ)は自ら止まり、病気は一時(いっとき)の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。

今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」――

これこそが今、緊急事態宣言下で私たちが心がけている行動変容なのだろう。旅行や外出を控える、パーティーや飲み会を取りやめる、密を避けて対人距離を大きくとる――大変ではあるが、単純なことでもある。新型コロナウイルスの感染症はワクチンのような予防策がなく、死と隣りあわせの病であることが歴然としているのだから、再生産数が1を超えるとわかった時点で「我慢」を徹底させるべきだったのだ――読んでいて、そう悔いる一節だ。

話を横道にそらすと、このあたりの考察はさすが物理系の人だな、と思わせる。感染が再生産されるしくみは、粒子の動きを記述する物理学に一脈通じる。ただ、粒子の現象は理論を逸脱しないが、感染の様相は人間の意志で変わる。著者は、この一点を押さえている。

この本には、人々が陥りやすい心理の落とし穴を理系の視点から指摘したエッセイもある。私たちは毎日、テレビのニュースで感染者数のグラフを見せられ、その増減に一喜一憂している。きのうが10人、きょうが20人だとすると、あすは30人と思いがちだが、そこに罠があるというのだ。「自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている」

感染禍について言えば、再生産数は人間によって変えられるが、感染の連鎖そのものは自然界の摂理から逃れられない。足し算ではなく掛け算の効果が卓越するのだ。

一人ひとりの心がまえに踏み込んだ一編もある。たとえば、友人の誕生パーティーをめぐる思考実験。出るか出ないかで迷うとき、頭の片隅で悪魔がささやくこともあろう。招待客の多くが欠席すれば、混雑しないから出席しても大丈夫――だが、みんなが同じようにそう考えたらどうなるか。最良の選択とは「自分の損得勘定だけにもとづいた選択」ではなく、「僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたもの」でなければならない、という。

別の一編では、米国の物理学者の名言「多は異(い)なり」(More Is Different)を引いている。その人は、フィリップ・ウォーレン・アンダーソン。残念なことに、著者がこのエッセイ集を書き切ってまもなく、3月29日に96歳で死去した。物性物理学の研究者で、著者とは専門が異なる。「多は異なり」の文言は、米科学誌「サイエンス」1972年8月4日号に発表した論文の題名である。

これは、物理世界は個々の粒子を知るだけでは理解できないことを指摘した警句だが、著者はその趣旨を今の私たちに移しかえる。「ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物」。まさに至言と言えよう。

私たちは今、家にとどまるだけで感染の再生産数を低下させ、世の中に寄与している。人はみな、個人であると同時に公人なのだ。コロナの春、巣ごもりしながらそう思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月1日公開、同日更新、通算520回
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