エコと成長は並び立たないのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

定常

話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊)を今回も。先週は本書から、現代の資本主義が無限を求めるという習性ゆえに有限な地球を食い尽しつつある現実を切りだした。では今、どうすればよいのか、を今週は考える。

この問題で著者はまず、「気候ケインズ主義」の幻想を打ち砕く。その筋書きでは「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資」が「安定した高賃金の雇用」を生みだし、需要を呼び起こして景気の好循環につながるだろうと見込むが、そうは問屋が卸さないというのだ。いま世界では経済成長と環境保護の両立をめざすグリーンエコノミーの論調が全盛だが、それに対する異論が全展開される。

ここでもちだされるのが、英国の経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが19世紀半ばに見いだした逆説だ。石炭を高効率で使える技術が登場しても、それは期待に反して石炭資源の節約に結びつかない。石炭が安くなって用途が広がり、消費はかえってふえるというのである。「ジェヴォンズのパラドックス」と呼ばれる。著者は、これをグリーン技術と環境負荷の関係に当てはめて、グリーンエコノミーの罠をあぶり出す。

電気自動車が広まった社会を考えてみる。その生産工程で化石燃料を燃やせば、そこで二酸化炭素(CO₂)が出る。充電用の電力を得るときも同様だ。発電に再生可能エネルギーを使うとしても、太陽光パネルや風力発電機をつくる段階でCO₂が吐き出される。著者はここで、電気自動車の台数が2040年までに今より2桁ふえてもCO₂の総排出量はほとんど減らないという国際エネルギー機関(IEA)の試算を突きつけている。

電気自動車については、耳に痛い話がもう一つある。リチウムイオン電池のリチウムは、主要産地が南米チリの山岳部にあり、そこで大量に汲みあげた地下水から採りだしているという。自然環境に影響がないわけがない。「石油の代わりに別の限りある資源が、グローバル・サウスでより一層激しく採掘・収奪されるようになっている」。これも、当欄が前回論じた外部化の例だ。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」)

それ以外のグリーン技術も批判の的になる。たとえば、バイオマス。植物由来の有機物を燃料に使えば、その植物が光合成で取り込んだCO₂を再び吐き出すだけで済む。ただ、その植物を栽培するために熱帯雨林が切り払われたらどうか。森林が光合成で吸収するCO₂は莫大だから、排出量抑制の効果は薄れてしまう。さらには、森の生態系が失われることも無視できないだろう。一つの環境負荷を抑えても別の負荷が頭をもたげるのだ。

著者は、IT(情報技術)をグリーンととらえる見方にも異を唱える。現代は「脱物質化した経済システム」が生まれつつあるように見えるが、そうではないと言う。「コンピューターやサーバーの製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費される」からだ。

これだけ気候ケインズ主義がボコボコにされれば、資本主義を続けながら気候変動に立ち向かうのは難しそうだ、と思えてくる。では、資本主義をやめればそれでよいのかと言えば、そういうわけでもないらしい。著者が問題視するのは、欧米に台頭してきた「左派加速主義」だ。マルクス前期の生産力至上主義にこだわり、「資本主義の技術革新の先にあるコミュニズム」ならば「完全に持続可能な経済成長が可能」とみる立場だという。

この本が左派加速主義の代表例としてとりあげるのは、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニが唱える「完全にオートメーション化された豪奢(ごうしゃ)なコミュニズム」だ。畜産に広大な放牧地が必要なら、人工肉を工場で量産すればよい。人類の敵である病に対しては、遺伝子工学で立ち向かえばよい。リチウムなどレアメタルが文字通りに希少なら、宇宙開発を進めて小惑星で採掘すればよい……そんな具合に技術至上論の趣がある。

左派加速主義に関心が集まる背景には、太陽光など再生可能エネルギーへの期待が高まったこともあるだろう。それは「無償のエネルギー源」なので、コミュニズム向きだ。地表を太陽光パネルで埋め尽すことが地球環境を損なうというなら、宇宙空間で太陽光を集めればよいのかも……こう考えると、旧ソ連とは異なる流儀で経済成長を伴うコミュニズム(共産主義)をめざすことは、時宜に適っているようにも思えてくる。

だが、著者は舌鋒鋭く、左派加速主義を弾劾する。経済の規模が膨らめば「結局は、より多くの資源採掘が必要となる」。エネルギー需要の高まりは再生可能エネルギーをふやしても追いつかず、CO₂濃度の上昇は避けられない。ここにも「ジェヴォンズのパラドックス」がある、と論じている。これについて、私は半信半疑だ。ちゃんとした試算をみてから判定しよう。ただ、生き方論で言えば、左派加速主義に同調する気にはなれない。

これは、私たちの世代の偽らざる実感ではないか。電気冷蔵庫だ、クーラーだ……と家電の登場に喜んでいるうちに電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ。その結果、未曽有の大事故である。ITもそうだ。電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……つぶやきも動画も瞬時にやりとりできるようになったが、自分がいつも監視されているような気がする。技術は過信できない。技術に浸るのは怖い。そんな思いがある。

では、私たちの世界が気候変動の危機を回避して生き延びる処方箋は何か。「脱成長コミュニズム」だ、と著者は言う。本書によれば、それはマルクスが最後にたどり着いた思想と同じものだ。共同体が「同じような生産を伝統に基づいて繰り返している」とき、そこには「経済成長をしない循環型の定常型経済」(太字は本文では傍点)がある。マルクスは晩年になって、そのことに気づいた。著者は、それを知って現代に生かそうと考える。

文字通り、処方箋のように「脱成長コミュニズムの柱」が箇条書きされたくだりが、この本にはある。筆頭に挙げられているのが「使用価値経済への転換」だ。「使用価値」という言葉がキーワードなので、これを軸に今風のコミュニズムを読み解いていこう。

「使用価値」とは、言葉を換えれば「有用性」だ。この本によれば、それをマルクスは商品の「価値」と切り分けて考えていた。資本主義は商品としての価値を重んじるので、「売れればなんだってかまわない」「一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」と思いがちな側面がある。「使用価値」とは関係のないところで商品の「価値」が高まる例として、「ブランド化」やそれがもたらす「相対的希少性」が挙げられている。

「使用価値」の高いものとしては、コロナ禍で品不足になった物品が例示されている。マスク、消毒液、人工呼吸器だ。「先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかった」のはなぜか? それはコスト高となる国内生産を嫌い、海外生産に依存したからだ、と著者はみる。「資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした」――これこそは、私たちが1年前に痛い目に遭った現代資本主義の現実である。

脱成長コミュニズムでは「エッセンシャル・ワークの重視」も「柱」の一つだという。「エッセンシャル・ワーク」という用語は、今回のコロナ禍でにわかに知れ渡った。医療、介護、配送、清掃……。巣ごもりが奨励されるときでも働かざるを得ない人々が世の中にいることを思い知らされたのだ。これは、「使用価値」の労働版にほかならない。保健所の激減がコロナ対策を滞らせていることは、この柱が必須であることを物語っている。

このあたりを読むと、当欄がとりあげたスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの論考「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号、青土社)を思いだす。そこでジジェクは、コロナ禍では医療資源の配分をめぐって、「適者生存」に対抗する思想として「再発明されたコミュニズム」がありうることを論じていた。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た

だが、「使用価値」優先にも問題はある、と私は思う。Aの危機ではX、Bの危機ではYというように必要なものは危機によって違う。XもYも……となにもかもは用意できまい。そもそも「脱成長」だって心配だ。高齢化などで高度の社会保障が求められる今、私たちは成長なしでほんとにやっていけるのか? ブランドの幻想にだまされない、シェア経済で無駄な消費をしない、というように工夫はいろいろあろうが、それだけで間に合うのか。

脱成長コミュニズムは未完成のように私には思える。ただ、人類がいつの日かコロナ禍を乗り越え、社会を再設計しようとするとき、この思想にいくつかヒントを見いだせるのは確かだろう。保守派を任ずる人も、コミュニズムと聞いただけで顔をしかめないほうがよい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月14日公開、同月17日最終更新、通算574回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

いまなぜ、資本主義にノーなのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

成長

のっぺりした街になってしまったなあ、と思う。私が住んでいる辺りのどの通りがどうというわけではないのだが、なべて商店街はのっぺりしてしまった。

のっぺりとは、平らなさまを言う。ただ私はここで、荷風やタモリ、あるいは『武蔵野夫人』の大岡昇平のように地形の起伏にこだわっているわけではない(「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」、当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」、当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学」)。そうではなくて、沿道が単調になったことを嘆いているのだ。

数十年も続いた老舗の和菓子屋、ひと癖ありそうな店主のいる古書店などが次々と消えていく。代わって現れるのは、たいていがフランチャイズか、それに似た店々。いつのまにか、コンビニ→ファストフード→スマホショップのような並びができあがっている。

コンビニ→ファストフード……のような配列が目立つのは、一つや二つの街に限った話ではない。いまや、どこの街にもある定番の風景になっている。だから、のっぺりは一つの商店街を形容する言葉にとどまらない。日本社会そのものがのっぺりしてきたのだ。

科学用語では、こうした変化をエントロピーが増大するという。熱い湯1瓶と冷たい水1瓶を混ぜると2瓶分のぬるま湯ができる、というような法則だ。熱湯と冷水が1瓶ずつという状態には、瓶1本ずつの個性がある。ところがぬるま湯2瓶分となれば個性がない。のっぺりしているわけだ。Aという町の酒屋もBという町の乾物屋もCという流通大資本のコンビニ店になる。無個性の増大、これはエントロピーの増大にほかならない。

ここで思いだすのが、子どものころに社会科で教わった社会主義国の政治経済体制だ。福祉の水準は高いが、都市も農村も国営企業や集団農場でひと色に染まっているという。私たちの世代は社会主義に憧れつつも、その単色の世界にはついていけないと思ったものだ。大きなエントロピーに対する嫌悪である。資本主義はイヤだが、それが保証する自由は失いたくない――そう思う若者が多かった。かく言う私も、その一人だった。

ところがどうだろう。今は、資本主義こそが世界をひと色に染めているではないか。大きな資本が小さな資本を吸い込み、国境を越えて人々を同じ市場に囲い込む。これではまるで、エントロピー増大の牽引車だ。これまで私たちは、資本主義は人々の個性を重んじる、と信じてきた。新自由主義が民間活力に期待を寄せたのも、この通念があったからだ。だがそれは、どうも嘘っぽい。もう一度、資本主義を問い直したほうがよい。

で、今週は『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年9月刊)。「新書大賞2021」に選ばれるなど、話題の本である。著者は1987年生まれ、ベルリンのフンボルト大学などで哲学を学び、今は大阪市立大学大学院で准教授を務めている。専門は経済思想、社会思想。前著『大洪水の前に』(邦題、堀之内出版、2019年刊)はカール・マルクス(1818~1883)の「エコ社会主義」を論じた本で、数カ国で出版されている。

書名にある「人新世」は、近年よく耳にする新語だ。地質学の用語に倣って「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(本書「はじめに」から)を指している。このことからもわかるように、著者は、気候変動という今日的な切り口で資本主義の矛盾をあばき、マルクスの文献を精読して、そこに解決の糸口を見いだしている。さらに言えば、本書の刊行直前に勃発したコロナ禍も、この文脈のなかで論じている。

著者は本書で、マルクス自身の思想を3段階に分けている。①「生産力至上主義」(1840~1850年代)→②「エコ社会主義」(1860年代)→③「脱成長コミュニズム」(1870~1880年代)という進化があったとみているのだ。持続可能性の重視は①にないが、②③にはある。経済成長の追求は①②にあるが、③にはない。代表的な著作をこの区分に当てはめると、『共産党宣言』は①期に、『資本論第1巻』は②期にそれぞれ刊行されている。

著者によれば、マルクスは②期の『資本論』第1巻で、人は「自然に働きかけ、さまざまなものを摂取し、排出するという絶えざる循環の過程」を生きている、という人間観を提示した。そこには「人間と自然の物質代謝」がある。この代謝は、資本主義によって価値の増殖を最大化するように変えられてしまう。「資本主義は物質代謝に『修復不可能な亀裂』を生み出すことになる」――『資本論』は、そんな警鐘を鳴らしているのだという。

だが、この主張は従来のマルクス主義解釈では脇役だった。それは、自然環境の破壊が旧社会主義国で顕著だったことを見ればわかる。たとえば、旧ソ連は5カ年計画を掲げて経済成長をめざした。成長の原動力を市場ではなく、計画経済に求めようとしたところだけが資本主義国と異なる。だから、その生産活動の一部は資本主義国と同様に公害をまき散らしたのである。ただそれでも、②期のエコロジーは知る人ぞ知る話ではあった。

本書が光を当てるのは、これまで知られていなかった③期の思想だ。著者によると、いま世界のマルクス学究の間では『マルクス・エンゲルス全集』の新版刊行を企てるMEGA計画(MEGAは「マルクス」「エンゲルス」「全集」を独語表記したときの頭文字)が進行中で、著者もそれに参加している。新版に収められる草稿、ノート類に「今まで埋もれていた晩期マルクスのエコロジカルな資本主義批判」があった、という。

MEGA研究によって明らかになったマルクス晩年のエコロジー探究には目を見張る。なによりも驚かされるのは、自然科学が視野のど真ん中にあることだ。「地質学、植物学、化学、鉱物学などについての膨大な研究ノートが残っている」という。「過剰な森林伐採」による気候変化や、石炭などの埋蔵資源を乏しくする「化石燃料の乱費」、開発行為が生物を脅かす「種の絶滅」などについて書物を読み漁り、理解を深めていたらしい。

マルクスは、そこから「脱成長コミュニズム」と呼べる思想を構築していくのだが、その中身に入る前に、いま2020年代の世界がどんな状況にあるかをみておこう。本書も、現代の資本主義が地球の生態系(エコシステム)をどのように乱しているかを詳述している。

最初のキーワードは「グローバル・サウス」だ。その意味は南北問題の南、即ち途上国とほぼ重なるが、もう少し幅広くとらえて「グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民」のことをいう。逆を言えば、私たちはグローバル・ノースに属する。著者は「グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会」が「グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに…(中略)…不可能」であることを指摘する。

具体例が挙げられている。たとえば、ファストファッションの衣料品だ。原料の綿花栽培を担うのは「インドの貧しい農民」だ。「四〇℃の酷暑のなかで作業を行う」だけでなく、1年ごとに「遺伝子組み換え品種の種子と化学肥料、除草剤」を買わされるという負担もある。工程の川下には「劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者たち」もいる。2013年には、複数の縫製工場が同居するビルが崩壊して千を超える人命が奪われる事故があった。

グローバル・サウスが収奪される自然資源には「環境」も含まれる。この本には、加工食品やファストフードに多用されるパーム油の話が出てくる。アブラヤシの実から採れる油である。産地のインドネシアやマレーシアでは、アブラヤシの農園づくりのために熱帯雨林が伐採された結果、生態系が壊され、土壌が削られ、川も農薬などに汚染されて魚が減っているという。地産地消の暮らしが壊滅状態に陥ってしまったのだ。

このくだりには、もう一つ「外部化」というキーワードもある。グローバル・ノースが「豊かさ」の「代償」をグローバル・サウスに「転嫁」してしまうことだ。「外部化」には怖い一面がある。ノースの人々は「代償」をサウスへ追いやることで、その現実を見ないで済む。「代償」の「不可視化」である。こうしたノースのありようを、ドイツの社会学者シュテファン・レーセニッヒは「外部化社会」と名づけ、批判的に論じているという。

人新世とは、その転嫁が極まって「外部が消尽した時代」というのが、この本の見方だ。「資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限」である。だから、「外部を使いつくすと」「危機が始まる」。それがもっとも極端に表れたのが気候変動だ、というのだ。

これには、補足が必要だろう。二酸化炭素(CO₂)の温室効果による地球温暖化では、グローバル・ノースが化石燃料を燃やしてCO₂を吐きだすことが即、グローバル・サウスからの収奪とは言えない。なぜなら、温暖化は地球全域に及ぶからだ。ただ私なりに考察すれば、こうは言える。ノースの人々は化石燃料の燃焼によって恩恵も受けている。これに対して、サウスの人々は温暖化の負荷ばかりを押しつけられる。だから、転嫁なのだ。

ところが最近は、グローバル・ノースの人々にも気候変動の被害が「可視化」されてきた。著者が言うようにスーパー台風などが気候変動の表れだとすれば、ノースにも「代償」が見えてきたのだ。「外部化」という現代資本主義の仕掛けが行き詰まったと言ってよい。

このくだりは、この本の最大の読みどころだ。今風の資本主義批判の核心と言ってよい。理系の目で見れば「地球は有限」は自明のことだ。ところが資本主義は、そこに「運用ごとに生まれる貨幣は多くなり……」(ベンジャミン・フランクリン、当欄2021年4月9日付「ヴェーバー資本主義の精神はどこへ」)という無限増殖を期待した。私たちは「外部化」の破綻で起こる災厄の予感のなかで、有限に無限を求めることの愚にようやく気づいたのだ。

「脱成長コミュニズム」に立ち入る前に紙幅が尽きた。来週も引きつづき、本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月7日公開、同月11日更新、通算573回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

武蔵野夫人というハケの心理学

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

深い思い入れがある東京西郊、国分寺崖線の話を1回で終わりにする手はない。ということで、今回も引きつづき『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)をとりあげる。(当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」)

先週は、主人公道子の倫理的とも言える婚外恋愛――これも不倫と呼ぶのだろうか――の感情が崖線の自然のなかで自覚される様子を作品から切りとってみた。そこには、「はけ」の地形から湧き出る水の湿潤があった。斜面を覆う樹林が生み出す陰翳もあった。

前回、私が焦点を当てたのは、道子が父方の従弟、勉とともに崖線沿いを流れる野川の水源を探し求める探索行だ。少年少女の小さな冒険のような趣がある。だが、二人の内面をのぞくと、そうとばかりは言えない。崖線を歩いていても成人男女の心の綾がある。というのも、この物語は二組の夫婦と一人の青年の5人によって織りなされる群像劇であり、そこにドロドロした5元連立方程式が潜んでいるからだ。だが当欄は、その筋に踏み込まない。

今回は、筋立てからは完全に離れて、「はけ」の地形や生態系、そこに漂う空気感を浮かびあがらせようと思う。なぜなら、この作品では、著者がそれらの細部をさながら科学者のような目で描きだしているからだ。自然が登場人物の心理と響きあっているように見える。

まずは、地形学。道子が夫の忠雄と住む「はけ」の家はどんなところに位置しているのか。勉が戦地から帰還後、この家を再訪するときの描写が手がかりになる。中央線の駅――たぶん、国分寺か武蔵小金井だろう――を降りて、武蔵野の風景の只中を歩いていく。「茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畠中の道に倦きたころ、『はけ』の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た」。高台の突端に豊かな緑があるのだ。

著者の記述によれば、「はけ」の家の敷地は、この斜面の上から下まですべてに及んでいるらしい。「上道」と「下道」の両方に接しているということだ。近隣の家々は、北側の上道に門を構えていたが、道子の家は違った。道子の父、故宮地信三郎が「ここはもともと南の多摩川の方から開けた土地」と主張して譲らなかったからだ。上道にも木戸だけはあったが、宮地老人は生前、そこからは客が入り込めないようにしていた。

勉は、それを知っているがゆえに、木戸の脇から手を突っ込み、掛け金をはずして中へ入った。小道は草が茂り、段状にうねりながら下っていく。下方に「はけ」の家が姿を現す。「見馴れぬ裏屋根の形は不思議な厳しさをもって、土地の傾斜を支えるように、下に立ちふさがっていた」。道なりに歩いていくと、ついには「『はけ』の泉を蔽う崖の上」に出る。家のヴェランダが見え、道子が母方の従兄の妻、富子とおしゃべりしている――。

この一節は、恋物語の導入部として絶妙だ。青年は駅前の喧騒を背に田園を抜け、崖線に至る。禁断の裏門から忍び込んで、草を分け入り、坂道を下りていくと、そこには密やかな泉の湧き口があり、これから青年の心を揺り動かす女たちがいる。

次は、物理学。勉には「物の働きに注意する癖」があった。だから、「はけ」の家に住み込むようになってからは湧き水の「観察」に余念がない。「水は底の小砂利を少しずつ転ばしていた」「一つの小砂利が、二つ三つ転がって止まり、少し身動きし、また大きく五、六寸転がり、そうしてだんだん下へ運ばれて行く」。関心は定量的となり、小砂利が10分でどれほど進むかを測ったりもする。無機物からも生気を感じているかのようだ。

生物学もある。道子と勉が7月の日差しを浴び、ヴェランダで腰掛けていたときのことだ。一羽の小鳥が「上の林から降りて来て、珊瑚樹の葉簇(はむら)を揺がせて去った」。ここで読み手は、鳥の動線にハッとさせられる。崖だからこそ、こんな急降下をするのだ。「はけ」の水が池に流れ、池の水がさらに下方へ流れ落ちるように、崖は自然界に垂直方向の動きを促す。生きものも例外ではない。3次元の世界を軽やかに行き来する。

このとき、二人の前には一対のアゲハ蝶が現れる。一羽の翅は黒っぽい。もう一羽は淡い褐色。二羽は雌雄のようで、一羽はもう一羽に近づいては離れ、また近づこうとしている。道子も勉も、その揺れ動きをじっと見つめ、そこに自分自身の心模様を重ねている。

著者によれば、「はけ」の一帯は鳥や蝶の「通い道」になっている。鳥は窪地の低い木々を好んだ。蝶は水辺の花で翅を休めた。こうした生物群が二人の眼前にふいに現れ、恋心を揺るがしていく。この作品は、生態系の妙までもすくいとろうとしているのだ。

そして、気象学。勉が夜更け、崖下の野川沿いを歩いているときのことだ。川面からは水蒸気が立ち昇り、それが靄となって遠方の明かりがかすんでいる。樹林からは、梟の声が聞こえてくる。ああ、道子はあの木立に隠れた家で、夫といっしょにいるに違いない――。「俺は一体こんなところでいつまで希望のない恋にかまけていていいのだろうか」。夜の「はけ」は闇の底で静かに息づいて、昼間にはない内省を青年の心に呼び起こす。

つまるところ、これは心理学の書物か。「はけ」だからこその人の動きがある、ものや生きものの動きがある。日差しもあれば、闇もある……。自然が魔力のように登場人物の心を震わせる様子が克明に描かれている。『武蔵野夫人』は、ただの恋愛小説ではない。
*引用では、本文にあるルビを原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月30日公開、通算572回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

武蔵野夫人、崖線という危うさ

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

自然に心地よさを感じるようになったのは、いつごろからか。たぶん、小学校にあがるより前だったと思う。母の実家に預けられた日、祖母に連れられてよく散歩に出た。住宅街の家並みは崖のところで果て、そこから坂道を下りると、斜面は樹林に覆われている。その繁みに入り込むと、湧き水らしきものが流れ出ていた。「イズミ」という言葉を、そのときに教わったように思う。これが私にとって自然の原風景だった。

もう一つ、忘れがたい記憶がある。中学生のときだ。どんな行き掛かりでそうなったかが思いだせないのだが、学校の英語教師と友人と私の3人で郊外へサイクリングに出た。行き着いた先は崖の下。そこにも湧き水があって、男性教師は上半身裸になって水を浴びた。大のおとなが子どものようにはしゃぐ。学校の日常からはかけ離れた光景だった。自然が秘める魔力のようなものを感じとった瞬間でもあった。

祖母の崖と教師の崖は、ひと続きのものだった。それは東京西郊を流れる多摩川左岸の河岸段丘がつくりだした段差であり、国分寺崖線と名づけられていることをやがて知る。そして、崖に湧き水の水源が隠されていて、その地形が「はけ」と呼ばれていることも。

青春期に入ると、この崖線は特別な意味を帯びてくる。学校には、列島各地から同世代の若者が集まって来た。彼ら彼女らには、それぞれの郷里があった。では、私自身の原風景は何か。そう自問したとき、真っ先に思い浮かんだのがあの崖だ。それは、私にとっては母なる大河、多摩川が生みだした起伏にほかならない。崖線への愛着はいっそう増した。(「本読み by chance」2019年8月23日付「夏休みだから絵本で川下りしてみた」)

学生時代、国分寺崖線の自然を守ろうという市民グループの見学会に参加したことがある。グループは現地の立ち入り許可を得ていたようで、私たちは崖道を分け入り、湧き水の源にたどり着いた。子どものころよりも宅地化は進んでいたが、それでも泉は健在だった。

20代半ば、就職して東京を離れた。このとき望郷の向かう先には、いつも崖線があった。関西方面を転々としたので、植生の違いが気になった。西日本は照葉樹林帯にあるせいか、林地に常緑樹が目立つ。一方、東京近郊の雑木林は二次林ではあるが、落葉樹が多い。透明感のある葉が秋には色づき、冬に落ちる。崖線の懐かしさは、その季節感とともにあった。(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の「動」、ロンドンの青春」参照)

私の崖線体験で思うのは、都会人にとって斜面がどれほど貴重なものか、ということだ。大都市の緑は、どんどん追いやられていく。唯一の例外が崖だ。宅地は傾斜地にも迫るが、急峻なら手が出せない。東京では、そこに異空間が残された。それが、情感のある物語の場となっている。(当欄2020年6月26日付「渋谷という摩訶不思議な街」、「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」)

で、今週の1冊は『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)。著者(1909~1988)は東京生まれで、京都帝国大学に進み、フランス文学を学んだ作家。卒業後は会社勤めのかたわら、スタンダールの翻訳なども手がけた。戦時には召集を受けて戦地へ。フィリピンで米軍の捕虜となり、収容所生活を体験した。復員後の1949年、『俘虜記』で横光利一賞を受賞。『武蔵野…』は翌50年に発表された恋愛小説である。

私は若いころにも、この作品を読みかじったことがある。崖線の「はけ」が出てくるから飛びついたのだ。だが、読み切ってはいない。途中で投げ出した。「はけ」の描き方に不満があったわけではない。物語そのものについていけなくなったのだ。登場人物の心理が細やかに記述されているのだが、その綾をたどることが面倒になった。たぶん、私が若すぎたからだろう。今読み直してみると、大人たちの心模様はそれなりに納得がいく。

この物語は、「はけ」の一つを舞台にしている。それは、中央線国分寺・武蔵小金井間の中ほど、線路の南数百メートルの崖線にある。崖は「古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡」であり、崖下を流れる野川という小川は古代多摩川の「名残川」だという。

その核心部に湧水がある。「水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖となって尽きるところから湧いている」。そのあたりでは武蔵野台地表層の赤土、すなわち関東ローム層のすぐ下にある砂礫層が露わになり、地中から濁りのない水が湧きだしている。

物語の主人公は、秋山道子29歳。彼女が夫の大学教師忠雄(41)と住む家は、はけの一帯に建っている。敷地は、道子の亡父宮地信三郎が30年前に地主農家からただ同然で買い入れたもので、約1000坪もある。宮地は当時、鉄道省の官僚であり、武蔵小金井駅が開業するのを事前に知っていて購入したのだが、それは金銭欲のためだけではなかった。ここから南西を望めば、丹沢方面に富士が見える。その眺めが気に入ったのだ。

物語には、もう一組の夫婦とその娘、そして青年が一人登場する。夫婦は、道子にとって母方の従兄である石鹸製造業の大野英治(40)と妻富子(30)。娘は九歳で雪子という。青年は、道子の父方の従弟にあたる勉(24)。学徒召集でビルマの戦地へ送られ、帰還したばかりだ。勉は雪子の家庭教師を引き受け、道子の家に寄寓する……こうして終戦3年目の初夏、夫婦二組と青年一人の間に恋愛力学が生まれる。軸は、道子と勉の相思相愛だ。

例によって、筋書きは書かない。ただ一つ言っておきたいのは、道子と勉は一線を越えそうで越えないことだ。それは、道子の強い意志によるものだった。旧体制が崩壊して旧道徳が否定されたころではある。仏文が専門の忠雄もスタンダールにかぶれ、姦通に憧れて、左翼の文献を都合よく解釈した挙句、一夫一婦制を批判したりしている。だが道子は、そんな時代の空気や夫の言動も知らぬげに、自分が信じる倫理にこだわった。

道子が課したそんな条件が、勉のふつうとは異なる恋愛感情に火をつけたと言ってもよい。その導火線となるのが国分寺崖線だ。この一点に、この作品の独自性がある。

たとえば、勉の心理を描いたくだりには「彼は自分の『はけ』の自然に対する愛を道子と頒ちたいと思った」という一文がある。勉は、それを実現すべく道子を散歩に連れまわしては、武蔵野の地理や歴史を語ってみせる。知識は大抵、信三郎が書庫に遺した蔵書から仕入れたものだったが、本の受け売りだけでは終わらせなかった。忠雄の帰宅が遅いとわかっている日、二人は崖線沿いに野川の「水源の探索」に出かけるのだ――。

崖線は、欅や樫の木々が斜面を覆っていた。その下の道を歩いていくと、時折、静寂を破る音がする。「斜面の不明の源泉から来る水は激しい音を立てて落ちかかり、道をくぐって、野川の方へ流れ去った」。豊かな湧き水は二人の思いの通奏低音だったのかもしれない。この探索行でも勉は語りつづけ、道子はそれを「音楽でも聞くように聞いていた」。話の中身はどうでもよかった。「彼の心に関係があることは何でも聞くのが快かった」のだ。

そして二人はついに、水源らしい地点に行き着く。それは、線路の土手沿いにある池だった。近くには水田があり、農作業をしている人がいる。「ここはなんてところですか」と勉が尋ねると、「恋ヶ窪さ」という答えが返ってきた。そのひとことに、道子は衝撃を受ける。「『恋』こそ今まで彼女の避けていた言葉であった」。ところが二人がめざしてきた場所は……。道子は胸の内の「感情」が「恋」にほかならないことを強く自覚する。

私はこの一編を読んで、道子と勉が並んで歩くのがのっぺりした平地だったなら、恋心はこんなにも切実にならなかっただろう、と思う。斜面には樹木の葉陰がある。湧水の水音がある。それが私たちの心に陰翳と湿潤を与えてくれる。恋に崖は欠かせない。
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月23日公開、同月27日更新、通算571回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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コロナ時代の嘘をあばく本の質感

今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊

付箋

驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。

封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。

前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。

 文字には色が必要だったのだ
 僕に君が必要なように

書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。

ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)

で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。

いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。

著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。

49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。

著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。

ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」

108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。

213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。

249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。

このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。

ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。

著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。

最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。