今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

先週のまくらでも書いたように、日本の8月は鎮魂の空気に包まれる。6日、9日は原爆投下の日、15日は終戦の日。これらはいずれも1945年の出来事だった。すでに近現代史の1ページであり、だからこそ記憶の風化が懸念されている。これに対して、12日の日航ジャンボ機墜落事故は終戦の40年後、1985年に起こった。まだ、歴史ではないと思ってきたが、本当にそうか。今30代半ばより若い人は、すべて事故後に生まれている。(*1)
で、今週は1985年を歴史の軸に位置づけ、その視点であの事故をとらえ直してみよう。
1945年を起点に日本戦後史を復興期→高度成長期→バブル期→バブル崩壊期……と区分けしていくと、1985年は、高度成長期が1973年の石油ショックで終わり、しばらく緩やかな成長が続いた後、1980年代後半のバブル期に突入しようとしていたころだ。
私は30代半ば。新聞社に勤めて8年が過ぎたころだったが、給料は毎年、前年を上回っていたように思う。右肩上がりの時代だった。当時は大阪本社勤務で、夜も北新地界隈を飲み歩くことが多かった。近くの道路には酔客目当てのタクシーがぎっしり並んでいた。
当欄は今春、上岡龍太郎さんの死を悼む拙稿で、1980年代半ばに関西圏で放映されていた深夜番組「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)のことを書いた(*2)。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーは、終電の時間帯、駅頭で酔客らしい二人にジャンケンしてもらい、勝者には高級ハイヤーに乗って帰る権利を与えるという趣向だった。当時のサラリーマン生活では、会社の仕事と夜の飲み歩きが一体だったことがわかる。
そういえばあのころは、サラリーマンという言葉がふつうに使われていた。その裏返しで、女性事務員はOL(オフィスレディ)と呼ばれたものだ。1985年は男女雇用機会均等法が定められた年だが、職場の主戦力は男たちである、という固定観念が拭い難くあった。大手企業のほとんどは終身雇用制をとり、社内人事では年功序列が重視されていた。そこには、戦後昭和の枠組みがある。高度成長期をそのまま引きずっていたといってもよい。
ただ、変化もあった。たとえば、町にフランチャイズの店がふえたことだ。ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、百円均一の店、衣料量販店……。この大波にのまれるように商店街から個人商店が消えていき、町の風景はのっぺりしてしまった。ただ、フランチャイズ店の商いは概して価格帯が手ごろだ。皮肉なことに、そうした店がふえることでバブル崩壊後の暮らしの基盤が用意されていたともいえる。
1980年代は日本人が国際化した時代でもあった。今、JTB総合研究所のウェブサイトを開くと、日本人出国者数の推移がグラフ化されている。1980年代に急増、1986年に年間500万人に達して1990年には1000万人を突破した。高度成長期には考えられなかった規模感だ。戦後、為替レートは1ドル=360円の時代が続き、1ドル=308円の過渡期を経て1973年に変動相場制になった。日本人が大挙して海外に飛び出た背景には強い円があった。
国際化は外国旅行だけではない。経済もグローバル化した。資本や労働力の移動に対して国境の壁が低くなったのだ。1980年代は日本企業が海外へ進出することばかりが目立ったが、逆方向の流れが起こるリスクもあのころに抱え込んだように思う。
こうしてみると、1980年代半ばの日本社会は高度成長期を抜け出て、次の時代に入る移行期にあった。だが当時、私たちには見抜けなかったことがある。一つには、右肩上がりが突然途絶したことである。数年後、その見通しの甘さを痛いほど思い知らされる。
それだけではない。私たちは次の時代がどんなものになるかを思い描けなかった。1985年の時点で、10年後にインターネット元年が到来してネット社会が出現すると予言できた人がどれだけいただろう。四半世紀後に電車の乗客がそろってスマートフォンに指を走らせる光景を想像できた人がどれほどいただろう。今やモノのやりとりよりも情報のやりとりのほうが一大関心事となり、後者が新しい価値を次々に生みだしている。
1985年をひとことで表現すれば、私たちの先行世代が高度成長の時代を駆け抜けた後の踊り場ではなかったか。石油ショック後のなだらかな成長期でバブルの気配は漂っていたが、次の展開は1990年代まで見えてこなかった。バブル経済の崩壊しかり、ネット社会の幕開けしかり。私たちはそれを予感できず、高度成長の遺産がもたらす恩恵に浴して、のほほんとしていたのだ。そんなとき、あのジャンボ機の機影が消えた――。
で、今週も『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊)を読む。焦点を当てるのは先週同様、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。そこには、事故機の乗客509人の統計的な分析も詳細に書き込まれている。これは、毎日新聞(1985年9月12日朝刊)が、123便の乗客やその家族の全体像を記事にしたものを出典としている。そのデータからも、日本社会が1985年にどんな位相にあったかが浮かびあがってくる。
乗客の職業をみると、事故機が東京発大阪行きの夕方の便ということを反映して、日本経済の主力ともいえる人々が多数を占めていた。「企業経営者」31人、「会社役員」42人、「管理職もふくめた男女一般社員」219人、「自営業者」15人……企業のトップを含む経営陣が1割強を占めている。この客層は、著者が空港ロビーに見いだした「新しさのざわめき」や「陰影のない照明」が醸しだす高揚感と波長がぴったり合っている。
出張の行き帰りが多かった。単独で乗っていた「会社員」のうち、出張中は133人。内訳をいえば、関西方面へ向かう人が32人、東京方面から帰る人が101人だった。
興味深いのは、乗客たちが携わっていた仕事の領域だ。本書の文言を使えば「ビジネスマンたちの業種」だ。まだ、ビジネスパーソンという言葉は定着していなかった。著者が順不同で並べた「業種」は「ガラス、製麺、繊維、化粧品、食品、銀行、家具、精密機器、リース業、レジャー開発……」。すぐ気づくのは、今でいうIT関係がほとんどないこと。わずかに「コンピュータ」という項目があるくらいだ。まだ、情報よりモノの時代だった。
乗客には、夏休みということで観光客も101人いた。このうち76人は、東京ディズニーランド(浦安市)とつくば科学万博(つくば市)の両方、もしくは片方を楽しんで家路についていた人だった。こうしてみると、観光にもどこか高揚感があった。
本書は、墜落直前の機内を1985年の世相に照らしあわせている。著者は取材で、この便に客として乗っていた客室乗務員職の女性生存者から話を聞いていた(第2章「三十二分間の真実」)。その証言によれば、救命胴衣は非常口を出てから膨らますものなのに機内で膨らませてしまう乗客が何人かいたという。あわててしまったのだ。著者が座席番号から割りだすと、一流企業の「ビジネスマン」ばかりだった。企業戦士もまた人間だったのだ。
著者は人間に希望も見ている。たとえば、この女性生存者の隣席にいた男性Kさん。彼女とともに、救命胴衣を今は膨らまさないよう周りに呼びかけ、彼女が、もしものときは乗客避難に力を貸してほしいと頼むと「任せておいてください」と応じた。Kさんは40歳、東京に単身赴任中の建設会社員だった。著者は、そこに「冷静なだけではない品位」をみて「一人ひとりの実質がむきだしにされるときも、輝くものを失わない人がいる」と書く。
最後の32分間には乗客5人が遺書を残した。手帳に「どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい」、ノートに「しっかり生きろ」「立派になれ」、時刻表に「死にたくない」、紙袋に「子供よろしく」、社名入り封筒に「みんな元気でくらして下さい」……これら「ぎりぎりの言葉」や「愛と惜別の言葉」を読んでいて、著者は一つのことに気づく。「〈ビッグ・ビジネス・シャトル〉のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった」
今年も8月12日がめぐってくる。私たち戦後生まれは、この出来事を後続世代に語り継がなければならない。事故が、ふわふわした高揚感のある時代に起こったということ、その惨事にも、人間は捨てたものではないと思わせる事実が潜んでいたということを――。
*1 当欄2023年8月4日付「8・12に戦後史の位相を見る」
*2 当欄2023年6月9日付「上岡龍太郎の筋を通す美学」
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月11日公開、通算690回
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