今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊
言葉の形骸化は目を覆うばかりだ。形骸化とは、中身を失って殻だけ残ったような状態をいう。たとえば、政治家の常套句――「重く受けとめる」「注視していく」。急場をしのぐために使っているうち、そこに詰まっていたはずの意味が薄められてしまった。
政治家だけではない。世の中全体が言葉の形骸化という病に侵されてはいないか。たとえば、芸能界で不祥事があったとき、当事者が公表するコメントにも同様の傾向がある。「皆様には多大なご心配とご迷惑をおかけして、申し訳なく感じております」「ご批判を真摯に受けとめ、コンプライアンスの徹底に努めてまいる所存です」――形骸化がいつのまにか定型化して、読まされるほうはもはや読もうという気持ちにすらならない。
ここで私が言いたいのは、当事者の発言やコメントに誠意がないということではない。たしかに、これらの多くからは誠意を感じとりにくいが、その一方で、いまどき誠意を示そうとしても定型化した文言よりほかに表現が見つからない、ということがあるだろう。
むしろ私にとって気がかりなのは、私たちの思考がこれからどうなっていくのか、ということだ。悩みごとを抱えたときのことを思いだそう。解決法の選択肢が脳内に浮かんでは消えていくものだが、それらを固定化して整理してくれるのが言語だ。もし、それが定型の常套句ばかりとなり、中身が抜け落ちていたらどうだろう。形骸化は私たちの思考回路にも感染して、思考そのものをスカスカにしてしまうのではないか。
この懸念は、生成AI(人工知能)の登場によって増幅される。政治家の発言やタレントのコメントは、実際は事務方や広報担当者が執筆しているのだとしても、チャットGPTの文面と大差ないように思う。生成AIは、その局面で無難な言葉をビッグデータの貯水池から釣りあげて文章にしていく。そこに見てとれるのは、思考の不在だ。むやみに生成AIをもてはやすのは、言語の形骸化を受け入れるのと同じことだろう。
翻ってひと昔前はどうだったか。私は文学者でないので確たることは言えないが、言葉には意味が横溢していたように思う。言葉という言葉に既成の価値観が詰め込まれていた。だから、それを解体して無効化しようという知的作業が流行ったのだ。この解体願望はとりわけ、フランス文学界で顕著だった。1950年代に現れたアンチ・ロマン(反小説)はその運動の典型だ。それは小説の領域に限られない。同様の動きは演劇にもあった。
で今週は、戯曲『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊)を読む。作者(1906~1989)はアイルランド生まれだが、フランスで活躍した作家。1952年に本作を発表、「アンチ・テアトルの旗手」(本書略歴欄)として脚光を浴びた。1969年にノーベル文学賞を受けている。本書は、白水社が1990年に『ベスト・オブ・ベケット』の1冊として出版したものを「uブックス」化した。
ではさっそく、本を開こう。まずは登場人物一覧。エストラゴン(ゴゴ)、ヴラジーミル(ディディ)、ラッキー、ポッツォ、男の子の5人だ。カッコ書きされたのは愛称。人名はロシア的だったり、イタリア的だったり、英語風だったりして無国籍の空気が漂う。
第一幕の冒頭では、情景が素描される。「田舎道」「一本の木」「夕暮れ」とある。幕が開いたとき、舞台にいるのはエストラゴン。靴が脱げなくて悪戦苦闘している。道端に腰を下ろし、両手を使い、足から引き抜こうとするのだが、うまくいかない。そこに現れるのが、ヴラジーミル。考えごとに夢中の様子で、なにかぶつぶつつぶやいているが、エストラゴンの姿に気づいて呼びかける。「やあ、おまえ、またいるな、そこに」
こうして二人のおしゃべりが始まるのだが、文脈がなかなかつかみきれない。なんとなくわかるのは、二人はホームレス仲間らしいということだ。エストラゴンは、会話が一段落したところで言う。「さあ、もう行こう」。だが、ヴラジーミルは同調しない。以下、二人のやりとり。ヴ「だめだよ」 エ「なぜさ?」 ヴ「ゴドーを待つんだ」 エ「ああそうか。(間)確かにここなんだろうな?」 ヴ「何が?」 エ「待ち合わせさ」……。
これが、ゴドーという人物の名が出てくる最初の場面だ。ここから推し量れることがある。ヴラジーミルに「ゴドーを待つ」という強い意志があること、エストラゴンにもヴラジーミルが「待つ」なら自分もつきあうという消極的同意があることだ。ゴドーとの関係性はヴラジーミルのほうが強いようだが、エストラゴンも「ああそうか」という口ぶりからするとまったくの無縁というわけではなさそうだ。ゴドーは公的な存在なのかもしれない。
そこで思いつくのが、ゴドーはゴッド(God=神)のもじりではないかということだ。巻末の注(高橋康也執筆)にも「英語のGodにフランス語の愛称的縮小辞-otをつけたもの」とする見方が「やはり有力」とある。ただ注は、フランスの人名にGodeau(ゴドー)があるとして、「当時有名だった競輪選手」や「バルザックの作中人物」から引いてきたとの見方も紹介している。作者が謎めいた命名をしたことは間違いない。
実際、ゴドーそのものが謎めいている。ヴラジーミルによれば、ゴドーは「確かに来ると言ったわけじゃない」。だから、きょう来なければあしたも、あした来なければあさっても待つことになる。土曜に来ると言っていた気もするが、そもそもきょうが何曜日かがはっきりしない。二人は、自分たちがきのうゴドーを待っていたかどうかさえ確信がもてないでいる。もしかしてゴドーはきのう来ていて、もう「きょうは来ない」かもしれないのだ。
こんな場面がある。エストラゴンが唐突に「首をつってみようか?」と言いだすのだ。二人は立木の枝に近づき、どちらが先にやるかで順番を譲りあう。そして結局、ヴ「なんていうか聞いてからにするか」 エ「誰に?」 ヴ「ゴドーさ」 エ「ああ、そうか」
どうやら、ゴドーは二人にとって頼りになる存在らしい。ただ、このあとヴラジーミルが口にする台詞を聞くと、崇拝しているとは到底思えない。「やっこさんがなんて言うか、ちょいとおもしろい。聞くだけなら、こっちは、どうってこともないからな」
その「やっこさん」のことで、エストラゴンはヴラジーミルにこう尋ねる。「つまるところ、何を頼んだんだい?」。その場には自分も居合わせていたが、聞き漏らしたので改めて教えてほしいというのだ。ヴ「別に、はっきりしたことじゃない」 エ「まあ一つの希望とでもいった」 ヴ「そうだ」 エ「漠然とした嘆願のような」 ヴ「そうも言える」――このやりとりからも、ヴラジーミルのゴドーに頼ろうとする姿勢が見てとれる。
では、ゴドーはヴラジーミルの「嘆願」にどう応じたか。「今はなにも約束はできない」と即答を避け、じっくり考えて家族や友人と話しあい、「支配人」や「取引先」の意向も聴き、「会計」や「銀行預金」を精査してから答える――そんな趣旨のことを言ったという。
二人の会話から推察するに、ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある。
まずは、神らしさについて。ヴラジーミルがゴドーに「希望」めいたものを「嘆願」したのは、人間に頼んでもダメだからだ。「希望」のように漠としたものがほしければ、神仏にすがるしかない。たぶん、ゴドーには人間を超えた存在を思わせるなにかがあるのだろう。
だが、ゴドーには神らしくない一面もある。ヴラジーミルの嘆願への対応も、神ならば絶対の決定権があるはずだが、周りの意見や諸事情を勘案して決めるという。よく言えば民主的、別の言い方では世俗的。「やっこさん」と呼ばれるにふさわしい軽さがある。
ことわっておくと、この戯曲にはゴドーがゴッド(神)かどうかをめぐって議論があるわけではない。たぶん、作者はその問いに重きを置いていないのだろう。ただ、エストラゴンとヴラジーミルの会話を深読みすると、人間は心のどこかで絶対的な存在を欲しているらしいという気になってくる。現代では絶対的な存在の存在を確信できなくなっているにもかかわらず、である。だから、人間にできるのはその存在を待っていることしかない。
この作品では登場人物が意味不明な台詞を口にすることで、言語が意味から切り離されていく。そのこともまた、絶対的な存在の存在を懐疑させる。ただ、ひとこと言い添えたいのは、無意味な言葉があふれ返っていても、それらは力をもっていることだ。言葉の背後に作者の思考が仄見えている。昨今のメディアを賑わす発言やコメントのほうが、よほど空疎。アンチ・ロマンやアンチ・テアトル以上にアンチではないか。
さて、ゴドーは現れるのか。来週も不条理劇の不条理をもう少したどってみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月14日公開、同月15日最終更新、通算686回
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