今週の書物/
句誌の掌編エッセイ
大上朝美著、「鏡」第31号、鏡発行所、2019年4月刊
新型コロナウイルス禍は、その発端をめぐって諸説が入り乱れている。ただ一つ、ほぼ間違いないと思われるのは、これが「人獣共通感染症」であろう、ということだ。ヒトが獣(この用語では、哺乳類に限らず広く脊椎動物を指している)からうつされる感染症である。今回の病原体は今のところ、コウモリを宿主としていたウイルスに由来するとみられている。それが21世紀の今、なぜヒトに乗り移ったのか?
先々週5月1日付の当欄(「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)でとりあげた『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、ジョルダーノはこう書いている。「今回のパンデミックのそもそもの原因」は「自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」と。コロナの疫病禍は、ヒトにヒト以外の生物種とのつきあい方を見直すよう迫っていると言えるだろう。
で、今週は、句誌「鏡」第31号(鏡発行所、2019年4月刊)にある掌編エッセイ(大上朝美著)。著者本人が、エッセイと標榜しているわけではない。題名もない。投句者として、自句掲載のページの余白に寄せた1000字に満たない文章だ。
著者は、朝日新聞文化くらし報道部(旧学芸部)で活躍した人。私にとっては新聞社の1年先輩にあたる。新聞記事らしからぬ機知に富んだ文章を書く記者として私は尊敬してきた。その人と退職後、とある句会で席を並べることになった。それが縁で「鏡」をいただいた。
「ふと窓を見ると、ベランダの柵に一羽の鳩が止まって、横顔をこちらに向け、じっと観察している風である」――掌編エッセイは、こんな一文で始まる。都会のマンション生活にありそうな情景を、過不足なく切りとった描写だ。それは、どうやらキジバトらしい。1羽ではなく、「夫婦」でいるようだ。窓を開けると、当然のことながら飛び去った。著者は「営巣の下見に来ていたらしい」とみてとる。
ここで著者は、過去の記憶を呼び起こしていく。数年前はドバトがやって来た。見ると、ベランダのコンクリートに松葉や枯れ葉が並べられていた。巣づくりは完工しなかったが、着工はされていたのだ。ずっと昔、大阪に住んでいたころには「スズメの家主」になったこともある。巣は、ベランダ外壁のエアコン用に開けられた穴のあたり。雨除けのためのパイプを巧妙に借用した下向きのつくりで、雨露をしのげるタイプだった――。
著者が問いかけるのは、鳥たちは「どうしてこんな無機的な場所に来ようとするのだろう」ということだ。今の住まいは、近くに樹木の緑がたくさんあり、鳥たちにとって営巣地に事欠かない。かつての大阪の住まいも、広大な緑地のそばにあったので同様だった。
……と、ここまで読んでくると、著者は動物を苦手とする人、もっと言えば、動物嫌いと早とちりする人が出てくるかもしれない。だが、それは大いなる誤解だ。ご一緒する句会で投句や選句の傾向を見ていると、彼女の鳥や虫に対する愛着はなまなかではない。
そして、読ませどころは最後の段落。ベランダで鳩が卵をかえしたことを喜ぶ人が自分の知人にもいることに触れた後、毅然として言う。「私は鳩には来てほしくない派だ。生き物の気配はうれしい。しかし一線は引きたい」――このひとことに、私はしびれる。
この句誌は、去年4月1日の発行となっている。平穏だったあのころは、都市の日常を描く身辺雑記として読まれたのだろうが、1年後の今になってみると、そこに深い意味が潜んでいることに気づかされる。ヒトとヒト以外の動物の間には一線を引き、一定のディスタンス(距離)を置くべきだったのだ。それを怠ったため、今の私たちはヒトとヒトの間にディスタンスをとるよう求められている。なんという皮肉だろうか。
ヒトという生物種は、森を切りひらき、ほかの生物種を追い払っただけではない。そこに、わけのわからない「第二の森」を築きあげて、ほかの生物種を呼び寄せてしまった。ベランダの風景は、そのことを如実に物語っている。
余談だが、この句誌では、ほかの投句者が書いた掌編エッセイも味わい深い。そのなかの一編は文字通り、都市生活での人と人との距離のとり方を話題にしていて秀逸だった。「鏡」第31号は、俳句好きの感性がとらえた「距離」論としても読めるのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月15日公開、通算522回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
「『今回のパンデミックのそもそもの原因』は『自然と環境に対する危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある』ー ジョルダーノ
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賛同しかねますね。些か強引に『環境問題』に結びつけているきらいあり。
・中国の広州でお施主さんから歓待を受けました。『食在広州』の通り、大変なご馳走。メインは真っ白い皿に載ったモスグリーンの蛇。
・何故かハノイでは猫を見かけない。現地の人に聞くと、猫を不用意に外に出すと捕獲され、猫を喰わせるレストランに売り飛ばされる。なるほど道端でなく、2階や3階のバルコニーを見ると、いましたよ。世界の食習慣は多様です。
旧約聖書の律法には食に関する部分があります、それも、かなり長い記述です。清いものと汚れたものとして食べて良い物といけない物とが示されているんですが、詳細に見ると、これがなかなか食の安全という視点で理にかなっているんですね。
長い歴史の中で試行錯誤があったからこそ食に関する安全が律法という形で体系化されたのでしょう。
現在のようにモビリティが高くなかった時代、今回のコロナのような出来事は、小さなパンデミックとして歴史の中で数多く起きていたものと思います。そして、その経験は部族の知見として留まったのでしょう。
大航海時代は確かに異大陸からの細菌やウイルスに耐性を持たない人々が多く死にました。しかし、今回のコロナパンデミックを生み出した1番の理由は、世界をこれ以上ないほどに結びつけているモビリティの高さだと思います(モビリティの高さを生み出したのは、欲に基づいた人々の消費行動だと言われてしまえばそれまでですが)。
虫さん
《現在のようにモビリティが高くなかった時代、今回のコロナのような出来事は、小さなパンデミックとして歴史の中で数多く起きていたものと思います》
人獣共通感染症は時を選ばないので、これはまったく、そうであったろうと思われます。
《長い歴史の中で試行錯誤があったからこそ食に関する安全が律法という形で体系化されたのでしょう》
なるほど。
たぶん、こうした知の蓄積こそが、それぞれの食文化ごとの「線の引き方」だったのですね。
それがあっても時折起こる不慮の疫病禍が、近現代のモビリティ、とりわけ航空機交通の発達によって増幅された――そう考えると納得がいきます。