今週の書物/
『植草甚一自伝』
著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊
おいおい、ひと月前の本と同じではないか、と叱られそうだ。先月の「J・Jに倣って気まぐれに書く」だけでは語りたいことのすべてを語れなかった。本来なら2週続きがよいのだが、まずはコロナ禍に対する関心を優先させた。今週はまた、J・Jに戻りたい。
こだわりがあるのは、J・J、即ち植草甚一が赤の他人とは思えないからだ。先方は当方を知らないが、当方は先方を知っているというかたちでご縁があった。私の少年期から青春期にかけて、彼は同じ町内の住人だったのだ。東京・世田谷の地味な町、経堂である。遭遇は一度ではない。駅で会った、電車でも会った、地元の古書店でも……。彼は意識していないのだから「会った」は厳密には正しくない。だが、「見かけた」よりは強烈な体験だった。
視野に入った瞬間、すぐにその人とわかった。白髪交じりの長髪とひげ。ジャケットとも半コートとも見分けがつかない上着。たいていは肩からバッグを提げていたように思う。当時の風俗に照らせば、ヒッピー風のおじいさんということになろう。
J・Jは、同じ町内の別の住人にも鮮烈な印象を残した。小田急線経堂駅の近くには、かつて「ワンダーランド」というジャズバーがあって、私も常連だったのだが、その店主、健さんの脳裏にもJ・Jは生きていた。いつもの癖で肩を上げ下げしながら、「自転車屋の前でさ、他人(ひと)の自転車の修理をずっと見てるんだよね」と言ったものだ。健さんは5年前に亡くなり、「ワンダー…」は閉店した。だが、自転車屋の店先に立つJ・Jの姿は私の心に受け継がれた。
奇しくも、「ワンダー…」という店名はJ・Jが深くかかわった雑誌の誌名と同じだ。J・Jに因んで名づけたのか、と健さんに尋ねると、そうではないという答えが返ってきた。それを聞いて、私は不思議な思いにかられた。同じ町内という小宇宙に、二つのワンダーランド文化が同居していた。それは偶然の共存なのに、片やジャズ評論家、片やジャズバーということで響きあっている。
ということで、『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊)をもう一度とりあげるわけだが、今回はこの本に私の個人的な思いを重ねあわせてみよう。前回は読みどころを紹介するとき、植草さんを「著者」と呼んだ。今回は「J・J」にする。ご町内で見かける一風変わったおじいさんという感じを醸しだすには、そのほうがよいように思えるからだ。
まずは、1970年代半ばの首都圏電車事情にからむ話から。そのころ、J・Jは東京・青山にある雑誌『宝島』(『ワンダーランド』誌の後身)の編集室によく顔を出していたらしい。午後8時、退室して帰途につく。そこで、さてどう帰ろうかと思案する。「青山一丁目から地下鉄で表参道で乗り換え、ちょい歩いて千代田線で代々木公園まで乗ってから、こんどは小田急で経堂まで帰ったほうがいいな」
懐かしさを覚えるのは、「代々木公園まで乗って」の記述だ。地下鉄千代田線は今は代々木上原駅で小田急線に乗り入れているが、あのころはひと駅手前の代々木公園駅が終点で、小田急に乗り継ぐには代々木八幡駅まで歩かなくてはならなかった(余計な詮索だが、上記引用でJ・Jは「代々木公園まで乗ってからちょい歩いて」と書こうとして、「ちょい歩いて千代田線で」と筆を走らせてしまったのではないか)。
そう言えば、と思いだすことがある――。私は小田急電車の座席に腰掛けている。そこに乗り込んできたのがJ・J。前方の席の0.5人分ほどの隙間にお尻をぐいぐい食い込ませて、すわった。そしてすぐさま本を開き、読書に耽ったのだ。たぶんあれは、私が新宿から乗ってきた下り電車が代々木八幡駅に停まったときのことではなかったか。その、ほんの一瞬の出来事が、ほぼ半世紀の歳月を経て自伝を通じて蘇ったのである。
「ちょっとひと休みして、ぼくのアパートの二階にある本屋レイク・ヨシカワへ出かけたが、買おうと思った本が二冊ともない」。この一文も、私の記憶をくすぐる。1970年代初めのことだ。経堂駅北口に14階建ての「小田急経堂ビル」が姿を現した。J・Jは同じ町内の一戸建てから、その高層階へ引っ越してきた。低層階にはスーパーや飲食店、専門店が入り、床面積の大きな書店もあったから、階下に書庫をしつらえたような気分だったのだろう。
そのビルは取り壊され、今は4階建て、屋上庭園付きの瀟洒な商業施設「経堂コルティ」に生まれ変わった。J・Jが旧ビルの何階に住んでいたかは知らないが、いまコルティ正面の大階段を見あげると、上空にJ・Jの空間が浮かんでいるような錯覚に陥る。
この「ぼくのアパート」の話や、前回とりあげたニューヨークの地下鉄話は「『ムッシュー・ブルー』という喫茶店かバーをやると喜ぶだろうなあ」という一編に出てくる。ここで「ムッシュー・ブルー」とあるのは青野平義という俳優。その死を悼もうとして筆を執ったらしいのだ。それなのに、前段で地下鉄やら書店やらに雑談の輪を広げていく。これがJ・J流だ。そのあと、ようやく始まったムッシュー・ブルーとの交流談に私は引き込まれた。
青野平義(1912~1974)は戦前からの新劇人。文学座のメンバーで、後に劇団NLTを旗揚げした。1960年前後、テレビの子ども番組におじいさん役などで出演していたことを私はしっかり覚えている。というのも、一緒に観ていた祖父が「おっ、ヒラヨシが出ているぞ」と自慢げに話していたからだ。口伝えに聞いたので確証はないのだが、青野と私の祖父とは親戚づきあいの間柄にあった。私自身、幼いころに青野の実家に年始回りをした経験があるから、血はつながっていなくともなにがしかの縁があったのだ。
その青野とJ・Jとの関係は濃密だった。それは、J・Jが青野の葬儀で弔辞を読んだことからもわかる。この一編では、その弔辞をなぞるように思い出を綴っている。戦前から、二人には演劇仲間としてのつきあいがあったようだ。東京・東中野の喫茶店に6人ほどでたむろしては夜中まで語りあっていたという。「青ちゃんは、あの芝居を読んだけれど面白いよ。あれをやろうと言って筋を話しながら、みんなをたきつけるんです」
これに続く一文は、詩的ではあるが意味不明でもある。「真冬のことで雪がさかんに降っていましたが、そのとき青ちゃんは行きたくなったなあ、どうだいみんなと言って遠くのほうを見たのでした」。みんなでどこへ繰りだそうというのか。その答えは、後の段落で正直に種明かしされているのだが、良所であるはずがない。書きぶりからみると弔辞でも同じことを暴露したらしい。親戚づきあいをしていた立場からみれば、困ったものだ。
ただ、J・Jの喪失感は痛切だ。それは、青野の訃報に触れたときの描写から読みとれる。「うちの者が」とあるのは妻のことだろう。朝、彼女が新聞を手に部屋へ入ってきて「青野さんが……」と言ったきり、黙る。J・Jは、それですべてを察知した。「ちょっとばかり心配になっていたことが、ほんとうにそうなったんだ」「おまえみたいな呑気なやつはいないぞと自分にむかってつぶやきました」。年をとって友を失うとは、こういうことなのか。
青野の実家は、東京・六本木で今も続く和菓子の老舗だ。平義は長男だが店を継がなかった。J・Jはそんな家業の話にも触れながら、「ムッシュー・ブルー」という「青ずくめの喫茶店」がほしいとの願いを披歴する。「もし『ムッシュー・ブルー』ができたら青い服を着て出かけるとしよう」。私が知る限り、その夢は実現しなかった。ここでは、J・Jが商人の息子らしく、亡き友を「店」という形態で想起しようとしたことを記憶しておこう。
この本を読んで、私は不思議な感覚に襲われる。J・Jと私は同じ町の空気を吸っていたに過ぎない。青野平義と私は遠戚のような関係に過ぎない。どちらもかぼそい糸だが、その先にいる人物が大昔、同じ青春を謳歌していたのだ。世界はやはり狭いのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月22日公開、同月25日最終更新、通算523回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
アタマのなかが異常に若かった植草甚一さんを今でも好きだってことは、尾関さんのアタマのなかもそうとう若いのでしょう。羨ましいかぎりです。私の決して若くないアタマのなかには、「タモリが植草甚一さんの4000枚のレコードをぜんぶ持っている」とか「同年代とは話が合わなくなり、若い人としか話が通じなくなった」とか「流行に先行する流行にしか興味がない」とかの断片的なことしか残っていないので、同じ町内の住人であり、何度も遭遇していて、書いてあることがわかってしまうなんて、羨ましい限りです。それと、尾関さんの愛みたいなものも感じます。いいですね。
38さん
《尾関さんのアタマのなかもそうとう若いのでしょう》
いやいや、そんなことはないと思います。
今春、この「めぐりあう…」を始めてから、「本読み…」時代の一人称「僕」をやめて「私」に切り換えたのだけれど、それがしっくりくる。
「僕」には無理がありました。
それなのに、J・Jはいくつになっても「ぼく」が似合う。
文体が、そして、その背後にある思考様式が、無理なく若いんだと思います。