科学のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

斜面

若かったころの私的な思い出を一つ打ち明けると、大学の卒論研究はニュートンだった。私がいた学部学科に科学史の研究室はなかったが、それでも物理学の歴史に関心があった。定年間近の老教授が好きな卒論テーマを選んでよいというので、その言葉に甘えたのだ。

手にとったのは、アイザック・ニュートン著『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)の英語版。もともとラテン語で書かれた本だから、原著ではない。これを図書館で閲覧して――借りたような気もするが――要所を複写した。どこに的を絞ったかと言えば、ニュートンが万有引力を遠隔作用ととらえた点だ。力は媒質によって伝わる近接作用だとする従来の見方を塗りかえるものだった。そこに至る思考の足跡をたどろうとしたのである。

学部学生が古典の大著をかじっただけでまとめた考察だから高が知れている。ただ私自身にとっては、ニュートンが近接作用論に執拗な反駁を加えていることが大きな発見だった。当時は近接作用を前提とする宇宙観が広まっていたが、それにノーを突きつけたのだ。

遠隔作用論と近接作用論の確執はその後も続く。18~19世紀はニュートン力学が地歩を固め、前者優勢の様相があったが、20世紀に入ると相対性理論も量子力学も「場」という概念を取り込んで後者の立場をとるようになった。

科学とは、ものの見方を変えていく営みなのだ、とつくづく思う。で今週は、科学史のダイナミズムを見せつけてくれる1冊を紹介する。

『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)。著者は1954年、米国シカゴ生まれ。量子力学の理論を専門とする物理学者でありながら、テレビドラマの脚本家でもある人だ。略歴欄にはドラマの代表作として「新スタートレック」「冒険野郎マクガイバー」の名が挙がっている。本書は原著出版が2015年。邦訳の単行本は翌16年、河出書房新社から出ている。

この1冊を私が手にとったのは、この著者の本なら期待を裏切らない、という確信があったからだ。かつて新聞の読書面で、同じ著者の『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)という本を書評した(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そのときに印象に残ったのは、著者が現代科学で重みが増した「偶然」について物理学者として語りながら、それに自分自身の家族史を重ねあわせていたことだ。

著者のウェブサイトに入ると、その家族史がわかる。父も母も、ナチスによるユダヤ人迫害で収容所に送られながら、大虐殺は免れた。とくに父は、ユダヤ人地下活動の指導者の一人だったという。二人は、いくつもの偶然のおかげで生き延び、出会い、そして著者が生まれたのだ。私は『たまたま』の書評で「歴史の大波と偶発事の小波が重なって人々の生をもてあそんだ現実が、この本の偶然観に深みを与えている」と書いた。

今回の『…400万年史』にも、父の話がしばしば出てくる。いや、著者が心のなかで父と対話を重ねながらまとめたのがこの本だ、と言ってもよいだろう。「知りたいという欲求」と題された第1章も、父から聞いたという収容所のエピソードから書きだされる。

父は円周率πも知らないような人だったが、ある日、収容所仲間の一人から数学のパズルを出題される。何日も頭をしぼったが解けない。聞いても答えを教えてくれないので、とうとう別の仲間にパンを譲り分けて、正解を手に入れたというのだ。支給されるパンが命綱だったころの話だ。「知りたいという欲求」はそんなに強いのか。著者は、自身の「この世界を理解したいという情熱」も結局は「父と同じ衝動に突き動かされている」と思い至る。

著者が理系に進んでからのことだ。父は、科学の話題になると「その理論がどうしてできたのか」「なぜそれを美しいと感じるのか」「我々人間にとってどういう意味があるのか」と質問攻めにしてきたという。専門知識よりも「おおもとの意味」に興味津々だったらしい。

ここからわかるのは、著者の内面には父親譲りの知的探究心が息づいていることだ。だから、この本が描いているのは、ものの見方としての科学の歴史であり、実益本位のそれではない。原題は“The Upright Thinkers: The Human Journey from Living in Trees to Understanding the Cosmos”。ちょっと強引に訳せば「直立〈考〉人――樹上生活者が宇宙を理解するまでの人類の長い旅」ということになろうか。〈考〉が大事なのだ。

では、この本が人類のものの見方の移ろいをどう描いているのか、大筋を見ていこう。著者は近代科学の原点を、古代ギリシャのアリストテレスの世界観を吹っ切るところに見いだしている。アリストテレスは、宇宙を「生態系のようなもの」ととらえた。「目的」の重視だ。雨降りは植物が育つため、植物の生長は動物の食べものになるため……。動物の動きも「ウマは荷馬車を走らせるため」「ヤギは餌を探すため」という具合だった。

近代科学はこうした目的論を否定する。この本によれば、兆しは中世の14世紀、英オックスフォード大学の数学者が見つけた「史上初の定量的な運動の法則」にある。カレッジ名から「マートン則」と呼ばれる。今風に言えば「自動車を速さゼロから時速一〇〇キロまで一定の割合で加速させると、ずっと時速五〇キロで走っていたのと同じ距離だけ進む」ということだ。この法則はすべての物質の運動に遍く適用できるので、目的論になじまない。

中世が過ぎると、反アリストテレスの流れは強まる。16世紀半ばに生を受けたガリレオ・ガリレイは、アリストテレスの理論が「観察」から導きだされていることが不満だった。裏返せば「実験」を重んじたのだ。そこには、受け身ではない探究の姿勢がある。

たとえば、落下運動。アリストテレスの見方では、物体はその重さに比例して決まる一定の速さで落ちていく。これは「石は葉っぱよりも速く落ちる」という観察結果にも合っている。一方で、私たちは直観で「物体は落下するにつれて速さが増す」と感じている。この相反する2説を吟味するのに、ガリレオは実験という手法を選んだ。その結果、落下の速さは重さによらず、どの物体も一定の加速度で落ちていくことがわかったのだ。

ガリレオの実験は、重さの異なる金属球を真下に落とすものではなかった。斜面に転がしたのだ。これなら「運動をゆっくりにして」測れる。摩擦という「基本法則の単純さを見えにくくするもの」も小さくできる。さらに見事なのは、斜面の実験を垂直方向の落下の検証につなげる論理だ。「傾斜をどんどん急にしていっても同じ性質が成り立つ」ことを見てとって、斜面を90度に直立させたときも同様だろうと見極めている。

ガリレオは、法則が見えやすい物理系を自ら設計した。それを調べることで、生態系のように複雑なアリストテレス的世界に潜む単純明快なしくみを突きとめたのだ。そのしくみを理論体系にまとめたのがアイザック・ニュートンだ。著者は、ガリレオとニュートンが「現実世界に存在する無数の複雑な要因を見抜いてそれらを削ぎ落とし、もっと基本的なレベルで作用する簡潔な法則を白日のもとにさらした」と称賛している。

以上の流れを追うと、近代科学はギリシャ哲学に反旗を翻したようにも見える。だが、そうではない。著者は、ギリシャの先哲のうちタレスやピタゴラスにも言及している。前者は「自然は秩序立った法則に従う」と述べ、後者は「自然は数学的法則に従う」(「数学的」に傍点)と断じた。これは、理系ギリシャ哲学のもう一つの柱と言えよう。マートン則の定量志向はガリレオやニュートンに受け継がれたが、その水源はここにあったとも言える。

欧州史は、古代ギリシャ・ローマ時代から中世を経て、ルネサンスによって古代の良さを再発見するという道筋で概観されることが多い。この見方は、絵画や彫刻、建築には通用するだろう。だが、科学史はもうちょっと複雑だ。近代科学はギリシャの叡智に導かれつつも、その呪縛を振りほどこうとして産声をあげたのである。今回は、この大著をひとかじりしただけで字数が尽きた。次回は同じ本を別の視点から読み込んでみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月20日公開、通算549回
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