追放、パージというイヤな言葉

今週の書物/
「追放とレッド・パージ」
『日本の黒い霧(下)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

追い出す

日本学術会議の人事紛糾で思ったのは、こんな話が今でもあるのだなあ、ということだった。最高権力者がもし「総合的、俯瞰的」に任命の権限をふるいたいのなら、もう少し洗練されたやり方があったのではないか。そんな皮肉のひとことも言いたくなる。

一部の人々をあからさまに排除する。これで連想されるのは「追放」「パージ」という言葉だ。パージは“purge”で、ふつうに訳せばこちらも「追放」。第2次大戦後、占領下の日本ではまず公職追放があり、次いでレッド・パージがあった。前者は軍国主義に手を貸した人々の公的活動を封じるものであり、後者は左派活動家の解雇というかたちをとった。権力者が不都合な人々を追い出したという一点は、どちらも同じだ。

と、えらそうに書いてはみたが、私自身は占領が終わる前年の1951年に生まれたから、追放やパージのニュースをリアルタイムで聞いた記憶がない。幼いころ、大人たちが世間話で触れることはあったので、「それ、何?」と訊いたりもしたが、説明されてもピンとこなかった。長じて後、現代史の知識としては学んだが、それがどのように断行されたのか、その空気感は今に至るまでつかめないでいる。これは、マズイ。

ということで、ここでは松本清張の力を借りる。「追放とレッド・パージ」(『日本の黒い霧(下)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『日本の黒い霧』に収められたノンフィクション各編は1960年に『文藝春秋』誌に掲載された作品だ。

本題に入る前に、この一編の冒頭に添えられた写真(毎日新聞社提供)についてひとこと。東京都墨田区内の小学校で撮影されたもので、写真説明に「教員のレッド・パージ、別れを惜しむ生徒たち」とある。野球帽をかぶった男の子やおかっぱ頭の女の子たちが先生を囲み、最前列の女子は涙を拭っている。私たちのちょっと上の世代。だから、この校内風景には共有感がある。私自身もパージと地続きのところにいたのだ、とつくづく思う。

清張はこの一編で、主に公開済みの資料を重ねあわせ、追放やレッド・パージの背後に働いていた力学を浮かびあがらせていく。焦点があてられるのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の部内事情である。清張にとっては生涯の関心事だったと言ってよい。

まず、GHQについて予備知識を仕入れておこう。GHQは「連合国軍」の看板を掲げてはいるものの、事実上、米国が仕切っていた。内部には、軍国主義を排して戦後社会を民主化させようというベクトルと東西冷戦の入り口で共産主義の台頭を抑えようとするベクトルが併存していた。前者の旗振り役が民政局(GS)、後者を代表するのが参謀第二部(G2)。占領初期はGSの力が強かったが、しだいにG2が優位に立つようになった。

この一編は「日本の政治、経済界の『追放』は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった」という一文で書きだされる。1945年11月に米政府からGHQに届いた「指令」では「一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」と、幅広の適用を促している。追放政策の推進にはGSが前向き、G2は批判的だったという。

足並みが揃わなかっただけではない。GHQ中枢は「誰を追放していいかよく分らなかった」。だから、日本政府に対して「各界の超国家主義指導者の名簿作成」を求めたという。日本側にも対象者は自分たちで決めたいとの思惑があって、3000人の名簿を手渡したりもしたらしい。ところが、GSを率いるコートニー・ホイットニー准将は、ドイツよりも2桁少ないことを理由に「それっぽっちか」と激怒したといわれている。

公職追放は、1946年1月のGHQ覚書に始まる。当初は官公職に限られていたが、この年11月には「公的活動」全般に広がった。著者は『朝日年鑑』(1949年版)を引いて、1948年5月1日時点の総数は19万3000人余にのぼったとしている。

ここで見逃せないのは、追放が当事者だけでなく、その周りにも及んだことである。一定の範囲の親族が「公職に就くこと」を禁じられた。著者が、こんなことは「極悪犯罪者にも適用されない」とあきれるように、凶悪犯の親族に対しても許されないはずだ。個人の自由を重んじ、基本的人権を尊重する国からやって来た人が、民主化の旗印の下で正当な理由なく職業選択の権利を侵害する――これは、大いなる矛盾であるとしか言いようがない。

追放は、このように網を広げたにもかかわらず抜け穴があった。それに手を貸したのがG2だった、と著者はみる。GHQが追放政策で最初に目をつけた標的は警察組織だったが、その結果、行き場を失った元特高警察官がG2系の仕事に就くこともあったというのだ。

この一編は、そのことを当時米国から日本に来ていたジャーナリストや学者の著作から裏づけていく。たとえば、東北地方で「日本人と米軍との連絡係」をしている「元の特高係長」を見かけた、という話。あるいは、地方駐在の米諜報部隊幹部が「最も『貴重』な部下」は「日本の秘密警察の元高級警察官」と打ち明けた話。これらの証言をもとに、著者は「特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織された」と見てとるのだ。

日本社会の側にもGSとG2の確執を利用しようという動きがあった。追放された政治家には「G2に気に入られること」で権益を守ろうとする人がいたという。米ソ対立が強まったのを見て「G2の線」こそ「本筋」と嗅ぎ分ける嗅覚があったらしい。追放政策は「追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅される」事態を招いたが、一方で「狡知にたけた大物を跳梁(ちょうりょう)させる結果になった」と、著者は断じている。

日本社会には、追放は「永久」に続くものとみる早とちりがあったらしい。それが、気に入らない人物をその境遇に陥れようとする「暗い闘争」も引き起こした、と著者は指摘する。だが現実には、当初の追放はすべて1952年の主権回復までに解除されたのである。

それと異なり長く禍根を残したのが、後発のレッド・パージだ。GHQ内部でGSに代わってG2の発言力が強まった後、民主化とは方向違いの政策の一つとして打ちだされた。いわゆる逆コースだ。企業が「占領軍の絶対命令」の下で、被雇用者のうち「指名リスト」に載った左派の活動家や労働組合員を解雇して職場から即時退去を求める、というものだった。新聞社や通信社、放送界では1950年、その嵐に見舞われている。

この「リスト」が曲者だった。著者によれば、その作成に使う資料の一つに日本政府の特別審査局(公安調査庁の前身)が用意した名簿があった。特審局は占領下に設けられ、「右の追放」を進める側にいたが、それが「左の追放」に寄与する役所に変身していたのだ。

レッド・パージの指名を受けると、その人は「有無を云わさず建物の外に追い出された」。裁判所や労働委員会の場で復職を求める動きも起こったが、その望みは絶たれることが多かったという。この人たちは、公職追放とは違って「永久」に追い出されたかたちだ。

では、どんな人が指名されたのか。著者が引用した読売新聞の「社長布告」を読むと、それがわかる。マッカーサーが1950年6~7月に発した指令や書簡は「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者」を「排除すること」が「自由にして民主主義的な新聞の義務」であると位置づけており、「わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇する」というのである。思想信条だけで職を奪ったような印象を受ける。

パージされた人の総数は、著者がこの一編に引いた労働省労政局の集計によると約1万1000人。メディア関係だけでなく、電気、石炭、化学、金属など多くの産業に及ぶ。

この一編は、その人たちのその後の人生にも言及している。悲惨なのは、再就職先にパージの履歴が知られてそこでも解雇され、自殺に追い込まれた人が、一人ならずいたことだ。NHKの技術者がラジオの修理人になったような例もあるが、手に職がなければ「翻訳、雑文書き、行商、焼きイモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた」と、著者は書く。私の少年時代、町で屋台を引いていた焼きイモ屋さんも、もしかしたらその一人だったのか。

個人の思想が統治者の意に沿わなければ、弁明の機会を与えることもなく排除する。当時は、日本国憲法があっても体制がそれを超越していたので、こんな無茶が通ったのだろう。だが、今の日本社会は違う。それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月4日公開、同月28日最終更新、通算551回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

3 Replies to “追放、パージというイヤな言葉”

  1. 尾関さん

    メディア情報以上のものを持ち合わせていませんが、私は学術会議の問題はやはり「パージ」の可能性が濃厚であると考えています。

    残念なのは、この出来事が「学問の自由」への脅威という狭い脈絡で語られがちなこと。つまり、学者さん達の問題と考えられてしまうこと。

    私は「学問の自由」の「自由」を、「自由に考える『自由』」の『自由』と置き換えて考えるようにしています。学者さん達に限らず誰もが保証されるべき自由です。「それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか」という今回の尾関さんブログの最後の言葉に共感しています。

    1. 虫さん
      私も、学術会議の問題が「狭い脈絡」で語られることに抵抗感があります。
      同様なことが日々、さまざまな場で起こっているのではないかと。
      メディアも例外ではないでしょう。
      事件であれ、事故であれ、スキャンダルであれ、なにごとにも批判はもっとあってよいのですが、批判がパージに化ける怖さが拭えません。
      最低限必要なのは……
      弁明を聴くこと。
      形式的に聞きおくのではなく、その中身を吟味すること。
      それが、疎かにされているような気がしてなりません。

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