今週の書物/
『砂戦争――知られざる資源争奪戦』
石弘之著、角川新書、2020年刊
古巣のことを言うのはちょっと心苦しいが、私がいた新聞社の私がいた部署にもスター記者が何人かいた。石弘之さんもその一人だ。テレビに頻繁に出て、一世を風靡するというのとはちょっと違う。独自の取材領域を切り開いて名声を得たジャーナリストだ。
環境記者の先駆けである。1970年代から地球環境のことを考えていた。ということは、世の中よりも数歩先を行っていたことになる。環境ジャーナリズムの先駆者であるばかりでなく、環境問題にかかわる人々の先頭集団にいた、と言ってよい。
だから、いろいろなところから声がかかる。在社中に国連環境計画(UNEP)で上級顧問を務めた。退社後は複数の国立大学で教授職に就き、駐ザンビアの大使にもなった。著書は数えきれないほどある。なかでも『地球環境報告』(岩波新書)は有名だ。
私も、石さんが率いる取材班に入ったことがある。1984年、「新食糧革命」〈注〉という連載企画のチームに加わったのだ。私にとっては初めての海外取材の機会となった。石さんからは、日程の組み方から領収書の整理法まで外国出張のイロハを教えてもらった。そう言えばあのころから、石さんはエレベーターのボタンをグータッチで押していた。当時すでに手指による接触感染のリスクを知っていて、私たちにさりげなく注意を促したのだ。
「新食糧革命」は、遺伝子組み換えや細胞融合などのバイオ技術を農業にも生かそうという機運を科学記者が世界各地で取材して報告する企画だった。下手をすれば、科学技術礼讃になりかねない。だが、取材を進めていくうちに、農業バイオ技術が生産性だけを追い求めれば地球の遺伝子資源の多様性が損なわれることに気づかされた。記事では、この懸念も強調した。これは、石さんの薫陶を受けたからにほかならない。
で、今週の1冊は『砂戦争――知られざる資源争奪戦』(石弘之著、角川新書、2020年刊)。書店で背表紙に懐かしい名を見つけ、思わず手にとった。著者は1940年生まれ。現時点80代なのに現役感のある本だ。なによりも驚いたのは、書名の「砂戦争」である。
科学記者の間には――私の古巣だけの話かもしれないが――カタもの、ヤワラカものという業界用語がある。ザクッと言えば、前者は無機系で、物理学や天文学、情報科学などの領域を言う。後者は有機系で、医学や生物学などを指す。著者は自分の姓とは裏腹に、有機系の動植物が好きな人。環境問題の記事で原子力のようなカタモノ領域に踏み込むことはあっても、関心事はもっぱらヤワラカものと思っていた。それがなんと「砂」である。
本文に入ろう。冒頭でまず、UNEPの「砂資源は想像以上に希少化している」とする報告書が引かれている。2014年に公表されたものだ。それによると、世界の砂の採掘量は年間470億~590億トン。大半がコンクリートの骨材になるので、砂と混ぜ合わされるセメントの生産流通状況から推計された。この採掘総量は毎年、世界各地の川の流れが供給する土砂総量の約2倍。2060年には年間820億トンになると予想されている。
この本には、砂の500億トンは「体積にすれば東京ドーム2万杯」という表現がある。砂資源の商取引が世界全体で約700億ドルの市場をかたちづくっており、それは「産業ロボットの市場と同規模」との記述もある。この箇所で私は、石流の筆法は健在だな、と思った。国際機関の資料を漁って問題解読に役立つ数字を見つけてくる。その数字がどれほどのものか実感できるよう工夫する。統計に血を通わせることを忘れないのだ。
比喩や比較を多用するだけではない。体積を「東京ドーム」で数えるようなことは、気の利いた記者ならだれでも思いつく。著者は、そこにとどまらない。豊かな取材歴や読書歴で蓄積された知識を引っぱり出して、数字の背後に隠れた意味を読みとっていく。
この「砂資源」の「希少化」についても、そうした知的な肉づけがある。そのくだりは、米科学誌『サイエンス』が2017年に載せたA・トレスらの論文「迫り来る砂のコモンズの悲劇」の話から切りだされる。表題にある「コモンズの悲劇」は、米国の生態学者ギャレット・ハーディン(故人)が1968年に提起した概念だという。ここでコモンズとは、封建時代、領主のもとで村人が自分の家畜を自由に放牧できた共有地のことを指している。
その「悲劇」とは、こういうことだ。村人が、個々の利益を最大にしようとコモンズへの放牧をひたすら拡大していくと、家畜によって「草が食べ尽くされて」しまい、飼育が不可能となる。「コモンズの自由は破滅をもたらすので、管理が必要」というのが、ハーディンの結論だった。著者の石さんは1968年当時、「駆け出しの科学記者」だったが、人間活動の「性急」さに地球は耐えるかという問題意識に「共感を覚えた」という。
放牧地の問題は、人類が無限の経済成長を追い求めても資源は有限である、という地球の縮図だ。今では「大気」であれ、「水資源」であれ、「森林」であれ、ありとあらゆる環境問題が「コモンズの悲劇」の文脈で語られる。2017年のサイエンス論文は、それがついに「砂」にも及びつつあることを指摘するものだった。これを受けて、本書『砂戦争』は砂資源の現状を地球規模の大局観、歴史観のなかでとらえようとしているのである。
ひとこと付けくわえれば、この視点は、当欄が先々週と先週話題にした「外部化社会」批判にも通じていると言えるだろう。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」、当欄2021年5月14日付「エコと成長は並び立たないのか」)
実際、この本ではローカルな話題からグローバルな問題が見えてくる。中国のくだりでは「上海中心部に壁のように立ち塞がる高層ビル群を眺めていると、これら建造物が呑み込んだ砂は、いったいどこから運ばれてきたのだろうか、という疑問に囚われる」と切りだし、経済成長を支える砂供給に目を向ける。採掘先は、もともと長江だったが、その影響もあってか洪水が頻発した。2000年代になると、中流域江西省の鄱陽湖へ移ったという。
この話も定量研究で裏打ちされている。紹介されるのは、中国や米国の研究者が衛星画像を解析した結果だ。砂の搬出体積を、湖から出ていく運搬船の隻数から推し量ると2005~2006年には年間「東京ドーム約200杯分」だった。前述した2010年代半ばの世界の採掘量「東京ドーム2万杯」の1%に当たるが、2000年代には総量がそこまで多くなかったはずだ。たぶん、世界の砂採掘の1%以上が一つの湖に集中していたのだろう。
鄱陽湖は渡り鳥の越冬地だ。湿地の保護をめざすラムサール条約の登録地でもある。ところが地元の研究者によると、砂の採掘量が川から流れ込む量の30倍もあるので、湖の生態系は激変したという。とくに心配なのは、絶滅危惧種のソデグロヅルだ。浅瀬の草や魚を餌にするので、採掘で水深が変わることが致命的な打撃となる。砂という無機物のありようが乱されれば、草や魚や鳥から成る生態系も攪乱される――そのことを物語る事例である。
アラブ首長国連邦ドバイの話もすごい。人工島が300余もあり、そこに大量の砂が使われている。海底にまず石材を投じ、それを基礎にして砂を盛っていくのだという。その砂も海底から吸引して調達するというのだから、地産地消ならぬ海産海消か。地形の改変であることには違いない。もう一つ言えば、この大事業は石油採掘がもたらす富によって実現したものだ。人間がとことん地球の表面を引っかきまわしている現実が見えてくる。
インドネシアでは、ジャカルタなどの開発で、沖合の島々が砂の供給源となり、水没の危機に直面した。シンガポールは、「国土拡張」の埋め立て工事で砂を周辺国から大量輸入して国際摩擦を引き起こした。砂を吸い込むブラックホールは枚挙にいとまがない。
ここで著者は、富裕国が貧困国から砂を買いまくって国土を広げたり、高層ビルを建てたりするのは社会正義にもとる、というカナダ・オタワ大学の研究者ローラ・シェーンバーガーの指摘を引く。彼女は「砂は人間のタイムスケール内では再生可能な資源ではないから」と理由づけているという。砂資源は、太陽光のようにずっと降り注いではくれない。いったん収奪されれば、人間社会が想定する近未来には復元されないのである。
最後に、私がこの本でもっとも心動かされた著者自身の言葉を引用しよう。「最近、私はこう考えることがよくある。地球をスイカにたとえるならば、甘い赤い身を食い尽くして、今や周辺の白い部分をかじりはじめたのではないだろうか」。水産品で言えば、深海魚まで食べるようになった。化石資源で言えば、オイルシェールにまで手を出すようになった。獲り尽くす、採り尽くすという行動様式は、足もとの砂にも及んでいる。怖い話だ。
〈注〉『新食糧革命――バイオ技術と植物資源』(朝日新聞科学部、朝日新聞社刊)
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月21日公開、通算575回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
石さんが砂について語るとは愉快なり、と思いながら読み進めたのですが、砂資源の希少化の問題は深刻ですね。
石さんのように地球全体を俯瞰した客観的な砂資源問題の指摘ではありませんが、建築、建設業の世界では既に1970年台、特に高度成長期に砂資源の調達は既に実務上の問題となっておりました。
ここで言う砂とは「山砂」のことです。「とにかく速く」が至上命題の時代でしたから、土木でも建築でもコンクリートの骨材としての砂の争奪戦があり(砂は細骨材)、ついには海砂にまで手を出したわけです。
無論、海砂でも十分に塩化物を洗い流し取り除けば問題は無いのですが、それを適正に行わずに使ってしまったため、鉄筋が錆びたり、コンクリートそのもののPH値のバランスが崩れたりで、当時造られたインフラがいま深刻な問題となっているのは周知の通りです。
30年ほど前にアメリカのニューイングランド地方に住んでいた頃、車で橋に差し掛かると、「自分の責任で渡ってください」という看板があり面白い国だと思いましたが、まさか日本でも同じような状況が起こるとは当時は思ってもみませんでしたね。
「とにかく速く」はもうひとつの問題を生みました。例えば柱は四つの型枠で囲まれ、その中に幾つもの鉄筋が入っているわけですが、ここにコンクリートを打設(流し込み)するわけです。本来ならばコンクリート強度を確保するために適正な水とコンクリートの比率があるわけですが、「とにかく速く」は水の比率を大きくする誘惑として働き、その結果、当時の建物には十分な強度を確保していないものがかなりあるでしょう。
余談ですが、私の友人の建築家でこの水増しコンクリートの犠牲になった人物がいます。と言っても、犠牲になったのは命ではなく財布。現場好きの彼は施工者と一緒になってコンクリートの打設などをしていたわけですが、彼によれば、たまたまけっこうな札束が入っていた財布がポケットとから落ち、あっという間に目の前で柱の型枠の中に流れこんでいってしまったとのこと。「あの建物に行くたびに、ああ、この柱の中に俺の財布があるんだよなあ」と思うんだよと、よく愚痴を言っていました。
さて、長々と書いてきましたが、「とにかく速く」の性急さが、我々をスイカの皮の部分までをかじらざるを得なくしている大きな要因だと考えたからです。
人間のタイムスケールと自然のタイムスケール。そもそも違うタイムスケールに加えて、「とにかく速く」という人間の性急さが砂資源のみならず地球環境の問題など、多くの、また、大きな問題の根底にあると言う事実が、石さんの著作を紹介された今回の尾関さんブログで十分に理解できました。
また蛇足になりますが、聖書はトマスアキナスとアウグスチヌスによってそれぞれ体系化されてヨーロッパに広められました。この際、この二人は別個にではありますがギリシャの論理学によって聖書を解釈しています。加えて、土着の宗教と混ざり合っていますから、いわゆるキリスト教と聖書そのものを比べてみると、なかなか興味ある違いに気がつくことがあります。
例えば日本人の好きな「キリスト教を土台にしたヨーロッパが自然を征服するのに対して、日本人は自然と一体化する」という言説。実際はエデンの園でアダムとエバが神に指示されているのは、この園(自然)を「管理しなさい」なんですね。つまり、適正に維持せよという話であって、いわば、最初のサステナビリティの勧めとの解釈が可能です。
そして面白いのはバベルの塔の物語。人々が天にまで届く塔を建てて神と並び立とうとした行為が神の怒りをかい、塔は崩され、言語がひとつであることに問題の一端があると見た神に、人々は散らされ互いに言葉が通じないものとされるという有名な物語です。
この物語を注意深く読むと、人々は「石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルト」を得て、塔を建てたとあります。
私は中国やメソポタミアの古典に通じておりませんから断定的なことは言えませんが、極めて素朴な表現ではありますが、「石→煉瓦、漆喰→アスファルト」は、私の知る限り最も古い「科学技術の進歩」を語ったものと理解しています。
科学技術の進歩が人間を驕らせ、民族の分裂を招いた。そして「より高く、より速く」。石さんのご指摘とどこかで通底する興味ある文明批評ではないかと思います。
虫さん
《「とにかく速く」の性急さが、我々をスイカの皮の部分までをかじらざるを得なくしている大きな要因》
同感です。
「とにかく広く」「とにかく高く」……ということもありました。
なによりも先に「とにかく持続可能で」が肝心なのに。
持続可能であることを確認したうえで「速く」「広く」「高く」……となるのが筋だと思います。