今週の書物/
ノーベル平和賞2021年報道資料
https://www.nobelprize.org/
当欄は今年、ノーベル平和賞の報道資料はパスしようと思っていた。だが、そうもいかなくなった。異例なことに、ジャーナリストが受賞者に選ばれたからだ。最近、ジャーナリストはめったに褒められない。テレビドラマでは「元新聞記者のフリージャーナリスト」(私と同じ境遇ではないか!)が一つの定番キャラクターになっていて、ゆすりめいた悪行に手を染めたりする。そんな時代、ジャーナリストにどんな褒め方があるのか?
中身に入るまえに、私がなぜ、平和賞の話題に及び腰だったかを打ち明けておこう。当欄の前身は2019年、平和賞発表の報道資料をとりあげている。このときの受賞者は、エチオピアの現役首相アビー・アハメド・アリ氏。隣国との紛争を和平合意に導いたことが称えられた。ところが今、その評価はガタ落ちだ。国内で少数民族抑圧の政策をとっているらしい。平和賞は真に受けないほうがよい。これが、私には小さなトラウマとなった。
その拙稿をもう一度開いた(「本読み by chance」2019年10月18日付「平和賞があえて政治家を選んだわけ」)。私はそこで、ノルウェー・ノーベル委員会の発表文(announcement)から興味深い記述を引いている。委員会は「今年の授賞は早すぎると考える人々もいることだろう」と拙速感が否めないことを堂々と認め、そのうえで、アビー氏の選考時点での努力は「激励を必要としている」と強調していたのである。
まことに平和賞の選考は難しい。政治家は権力を手にしているので、世界を大きく動かせる。動かす方向が平和を指しているなら、平和賞の受賞者になりやすい。ところが、受賞後に権力を逆方向に使ったとたん、人々の間には落胆が広がり、ノーベル賞そのものに対しても不信感が生まれる。そういう事例はこれまでにもあった。それがもう一つ、2019年に加わったのだ。ノーベル委員会はきっと、政治家への授賞に慎重になっているのだろう。
で、今年はジャーナリストである。皮肉な言い方をすれば、これならノーベル委員会にとっても比較的安全だ。記者や言論人一人ひとりの手中には、世界を大きく動かす権力などない。自分の力だけでは平和を実現できない半面、戦争に導く心配もない。
ジャーナリストにできることは、平和とは逆方向の動きに抵抗することだ。今年の平和賞も、そんな言論活動を拾いあげた。ノーベル委員会が受賞者に選んだのは、フィリピンのネットメディア「ラップラー」代表マリア・レッサさんと、ロシアの独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」編集長ドミトリー・ムラトフさんの二人だ。「民主主義と恒久平和の前提条件である表現の自由を守り抜こうとする奮闘」を授賞理由に挙げている。
それぞれの奮闘ぶりを、今回の発表文から要約してみよう。まずはレッサさんから。「『ラップラー』は、物議を醸すほど残忍なドゥテルテ政権の麻薬撲滅作戦に批判の目を向けた」とある。取り締まりによる死者数があまりにも多いので、その作戦は政権が「自国民に対して仕掛けた戦争のような様相を呈した」という。この着眼に私は目を見張った。ジャーナリストは、こういう報道に対してこそ称えられるべきではないか。
それは、こういうことだ。一般論で言えば、麻薬規制には正当性がある。麻薬は常習者の心身を蝕む一方、密売などによって犯罪をはびこらせるからだ。だから政権の取り締まりは、善が悪を退治する構図としてとらえられる。世の中には受け入れられやすいのだ。
これを、今のメディア状況に結びつけてみよう。ソーシャルメディアでは物事の善悪をスパッと割り切る話が拡散しやすい。善は善、悪は悪、善が悪をやっつけているときにうるさいことを言うな――そんな政権の言い分がまかり通ることになる。だが、取り締まりの名のもとに人命が紙くず同然に打ち捨てられてよいわけはない。レッサさんは毅然として、その圧政に抗したのである。これぞ、ジャーナリズムを職業とする記者の役目ではないか。
記者は、ソーシャルメディアとも対峙しているのだ。発表文は、レッサさんと「ラップラー」のもう一つの功績も忘れていない。「ソーシャルメディアがフェイクニュースの拡散や対抗勢力に対する嫌がらせ、世論操作にどう使われているかについても報道してきた」
一方、ムラトフさんの業績はこう書かれている。「『ノーバヤ・ガゼータ』は1993年の創刊以来、批判的な記事を出しつづけてきた。そのテーマは政治腐敗、警察暴力、不法逮捕、選挙不正、“フェイクニュース発信”から、ロシア軍の国内外での武力行使にまで及ぶ」
発表文によれば、「ノーバヤ・ガゼータ」紙は嫌がらせや脅し、暴力にさらされ、これまでに6人の記者が殺害されている。にもかかわらず、ムラトフさんは新聞の独立性を放棄しなかった。死守してきたのは、ジャーナリストに与えられた「書きたいことなら、なにについても、どんなことでも書くことができる」という権利だ。もちろんそれは、「ジャーナリズムの職業的、倫理的な基準に従う限り」という条件付きではあるのだが。
裏を返せば、こうも言えるだろう。ジャーナリストは厳しい自己規制の基準に縛られるのと引き換えに、法律であっても批判できる立場にあるということだ。コンプライスの時代に、ただ「法令遵守」を唱えていればよいわけではない。
今年の平和賞は、世論がわかりやすい話に流れがちな世界の現況を鋭く見抜いた。一応は民主的に選ばれた政権がソーシャルメディアの拡散力に乗ってわかりやすい構図をつくり、強権を振るっている。それに対するジャーナリズムの抵抗が十分に成功しているとまでは言えない。だが、この発表文で、ジャーナリズムの存在理由が高まっているという気はしてきた。職業人としての自信を喪失気味の元新聞記者は今、幾分心を癒されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月15日公開、同日更新、通算596回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
それにしても今年のノーベル平和賞は意外性がありましたね。しかしながらとても分かりやすくもありました。
圧政下であす殺されるかも知れない二人のジャーナリストへの「救命保証書」の授与といった趣きです。
言論の自由のために命をかけている二人に光をあてることで言論の自由の大切さを改めて浮き彫りにし、同時に、世界がいま如何に危うい状態であるかについて警鐘を鳴らそうという意図が明らかです。
しかし、正直なところ、二人に焦点をあてたことに若干の違和感も感じます。
ひとつは「命をかけること」が真のジャーナリストであることの必要条件とされかねないこと。
もうひとつはこれと裏腹に、言論の自由のために圧政の芽を強い意思で摘んでいる無名のジャーナリストが沢山いるに違いないこと。
この無名のジャーナリスト達もまた英雄的な人々であり、彼らには私からこの投稿によって賞を授与することと致します。
虫さん
《しかしながらとても分かりやすくもありました》
たしかに、そういう印象はありますね。
強権政治対メディアの構図が、はっきりしているからでしょう。
ただ今回の平和賞には、ソーシャルメディア対既存メディア(デジタル媒体を含む)の構図もあり、既存メディアには〈フェイク×ソーシャルメディア〉批判の役割もあることを示唆しているように思えるのですが、どうでしょうか?
尾関さん
同感です。レッサさんの受賞理由についてフェイクニュースの拡散やソーシャルメディアの悪用を批判的に報道してきたことも明確に語られていますよね。
ソーシャルメディアの功罪について、その「罪の潜在的パワー」が「功」を凌ぐと感じてきた虫としては、既存メディアに軍配をあげた発表文に我が意をえたりという気分です。
卑近というか少し内輪の経験をお話ししましょう。虫の米国の親戚の間でコロナウイルスのワクチンを巡って深刻な対立が起こっています。
Aはワクチンは有用であるという立場で、実際に接種しています。
一方のBはワクチンを巡る陰謀論を固く信じています。
その陰謀論とは、気候変動の脅威に対する解決策には「地球上の人間を減らすしかない」とするビル・ゲイツらの闇の政府が接種後2〜3年で死亡するワクチンを開発させたという構図です。
看護師であり強硬な反ワクチン派のBは無論接種はせず、2〜3年後に起こるはずの大量死から接種者を救済する使命に燃えているわけです。Bは同好の士と定期的に会合を開き互いの信念を強固にしあっているわけですが、その情報源はソーシャルメディアなわけです。
トランプの大統領就任式に集まった群衆の寡多が問題になり、コンウェイ上級顧問がマイクを向けられた時に発した”Alternative Fact”には無邪気に笑ったものですが、その時は「フェイク」がこれほど大きな問題になるとは思ってもみませんでした。