社説にみる改憲機運の落とし穴

今週の書物/
社説「憲法75年の年明けに/データの大海で人権を守る」
朝日新聞2022年1月1日朝刊

憲法(三省堂刊『小六法』)

当欄の新年初回はきょう1月7日付になった。あすは松の内も明ける。去年は元日付だったので、私の古巣、朝日新聞の年頭社説について書いたが、今年はそうはいくまいと思っていた。だが、紙面を見て気が変わった。6日遅れでも元旦社説をとりあげる。

今年の朝日新聞1月1日付社説は、まず「憲法75年の年明けに」のカット見出しを掲げ、続く主見出しで「データの大海で人権を守る」とうたっている。改憲の流れが強まる今、朝日新聞社の立場を鮮明にしておこうという趣旨か、と一瞬思った。だが読んでみると、憲法の話はなかなか出てこない。巨大IT企業が個々人の情報をネット経由でかき集め、人々の意思決定にも影響を与える現状を重くみて、それに警告を発したという色彩が強い。

私は、このチグハグ感に朝日新聞の苦悩を見る。社説の執筆を担う論説委員室には、リベラル派のメディアとして巨大IT企業の情報支配を護憲の立場から論じるべきだとする委員が一定数いるのだろう。だが一方で、この問題は現行憲法の枠組みを超えているとみる委員もいるのではないか。さらに言えば、委員めいめいの内面に両論の葛藤があったようにも思う。そう推察して、共感とも同情ともつかない気持ちになったのである。

朝日新聞の論説委員室は護憲派の巣窟のように思われがちだが、それはちょっと違う。私自身が在籍した十余年前を振り返ってみよう。たしかに、改憲を公然と口にする同僚はいなかった。大勢は現行憲法に好感を抱いていたとも思う。だが、護憲を声高に叫ぶ人も見かけなかった。あえて言えば、右寄りの政治勢力が憲法をタカ派的なものに変えようとする動きに神経をとがらせていた。護憲派というよりも改憲警戒派という言葉がぴったりくる。

改憲警戒派は、現行憲法を平和憲法ととらえて議論の焦点を第9条に絞り込めた時代にはわかりやすい存在だった。さまざまな案件が政治的左右の座標軸に還元された時代には、改憲=保守派、護憲=リベラル派という単純な色分けができたのだ。逆に言えば、リベラル派はごく自然に改憲勢力を警戒することになり、護憲勢力を支持することに違和感を覚えなかった――朝日新聞は今も、その構図から脱け出していない感じがする。

現実には、今やいくつもの難題が政治的左右とは別次元で噴き出している。気候変動しかり、新型感染症しかり、そして、この社説のテーマ、巨大IT企業の情報支配も同様だ。これらの問題は、政治的な左右だけでは論じきれない。実際、今の政界ではリベラル系の野党にも改憲論議に前向きな人々がふえた。憲法も時代に合わせて改めるべきではないか、という立場だ。改憲警戒派は守旧派のレッテルを貼られそうな気配がある。

今回の社説は、そんな空気感のなかで書かれた。見出しに憲法の2文字を含めながら憲法論で押し切れない。そこに私は、今の朝日新聞が直面する現実を見てしまう。

中身を見てみよう。冒頭に登場するのは、米国の巨大IT企業4社。それらが、ネット空間に「検索や商品の売買、SNSなどの場」を提供する「プラットフォーマー」として、主権国家に比肩する「新たな統治者」ともみられていることから説きおこす。

具体例として出てくるのは、巨大IT企業の一つ、メタ(旧フェイスブック)社がいま大展開しようとしている「メタバース」事業だ。人々がネットの仮想空間に「自分の分身である『アバター』」を送り込み、「会話をしたり、買い物したりする」という。これは、私のようにSNS活動度の低い者にはピンとこない。遊び心の世界だろうから、目くじらを立てるまでもないのではないか――一瞬そう感じたのだが、思い直した。

というのも、同じ朝日新聞紙面に前日の大みそか、「仮想キャラに中傷『現実の自分傷ついた』」(2021年12月31日朝刊社会面)という裁判記事が載っていたからだ。それによると、動画のネット投稿を繰り返していた人が「自分の分身」である仮想のキャラクターを投稿サイトに登場させていたら、キャラに対する中傷のメッセージが殺到、その口火を切った人物の個人情報開示をプラットフォーマーに求める訴訟を起こした、という話である。

この記事から見えてくるのは、デジタル世代にとっては「仮想空間」が実空間と同様に生活の場となり、「アバター」や「仮想キャラ」が実在の自分並みに自己同一性を具えはじめたらしい、ということだ。この二重性が健全かどうかはわからない。ただ、自分のほかに分身も保有する生き方が珍しくない世界が到来しようとしているのは事実だ。その分身部分が巨大IT企業という「統治者」によって仕切られている、ということなのだろう。

この社説は「メタバース」について、憲法学が専門の山本龍彦・慶応義塾大学教授から話を聞いている。「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る」。私たちは「民主的手続きを経ていない『法』」に支配されるという。

では、「民間」企業がどうしてここまで大きな「権力」を手にしたのか。社説は「力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報」と断じている。情報にものを言わせるからくりとして挙げるのは、個人の好みに合わせた「ターゲティング広告」や個々人に対する「『信用力』による格付け」だ。これらが市場経済を動かして世界そのものも変えていく。その威力は、各国政府などの公権力をしのぐほどなのだ。

この「権力」の制御手段として社説が手本にするのが、欧州連合(EU)の「一般データ保護規則」(2018年施行)だ。自分の個人情報の何が企業の手にあるかを知る権利や、企業保有の個人情報の扱いに本人が関与できる諸権利を定めている。情報をもとに「自動処理で人物像を予測する」こと、即ち「プロファイリング」に異議を申し立てる権利や、情報をネットから削除するよう求める権利などだ。後者は「忘れられる権利」と呼ばれている。

人権を重んじると言うなら、こうした法制は欠かせない。ところが日本国内では、それが整えられていない。この不備をなんとかしようというのが、この社説のメッセージだ。

ただ、その法整備をどう実現するのか、ということになると社説の歯切れは悪くなる。一方では、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は現行憲法第13条の「個人の尊重」から導けるとして、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明記するという案を例示する。だが他方では、衆議院憲法審査会の議論で「データに関する基本原則を憲法にうたうべし」という意見もあったことを、論評を控えたまま紹介している。

実は、この二者のうちどちらを選ぶかが肝心なのだ。2022年、メディアはそこに踏み込むべきだ。私自身の考えを言えば、ここまで改憲論が強まってきても、安易に「憲法にうたうべし」論に乗っかってはいけないように思う。そこには、落とし穴があるからだ。

それは、社説最後の数段落に書き込まれたことに関係する。一つには、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は人々の「知る権利」とバランスをとりながら尊重しなくてはならないということだ。そうでなければ、私たちは社会の真相から遠ざけられてしまう。もう一つは、巨大IT企業の情報支配にとらわれて国家の情報支配を許してはならないということだ。憲法を変えるならば、これら要件を十分に満たさなくてはならない。

2022年は、改憲論議が具体論の域に入りそうだ。このときに戒めるべきは、9条の改定ばかりに目を奪われることだ。「憲法にうたうべし」の声が出てきそうな新しい懸案、即ち気候変動や新型感染症、個人情報保護などの問題でも論点を見逃してはならない。大切なのは、憲法は人々の諸権利を国家の権力から守るためにある、という基本思想だ。この視点から憲法を組み立て直そうという強い決意がないなら、その改憲論に同調すべきではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月7日公開、通算608回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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3 Replies to “社説にみる改憲機運の落とし穴”

  1. 尾関さん

    「個人情報」そしてその土台としての「人権」の定義を質問された場合、市井の人々は答えられるでしょうか?大方の人々は口籠るだろうと想像します。
    この様な状態で「個人情報」などに関する条項を憲法に加えるのは大きな間違いの元であると思いますね。

    「個人情報保護」についての私の個人的経験は、「保護」を盾にこちらの知る権利が侵害されたものばかりです。
    組織が面倒な状況に巻き込まれまいとして使う印籠であり、自己保身のための便利なツールです。そこには個人の情報に関する真剣な省察の痕跡は感じられません。

    「人権」はどうでしょう?憲法は「居住や移転の自由」や「職業選択の自由」を保証しています。「人権」そのものというよりも、「人権」から派生する自由でしょう。

    しかし、この自由は実際に保証されているでしょうか?
    例えば私が過去に犯罪を犯し、服役を終えて出所し、住む場所や仕事を探している過程で私の過去が明らかになれば、私は目的を達することは出来ないでしょう。

    法に則って罪を償った私を、私の過去は規定できないはずです。憲法が自由を保証する時、このようなケースを含んだうえでの自由であるはずです。
    憲法の謳っている内容と、実際の社会を動かしている私達の意識、価値観、あるいは感性の間に大きな乖離があるわけです。

    「個人情報」や「人権」に関わる保証は憲法にではなく、一般の法律、あるいは政令や省令でまず拘束力を持つべきであると私は考えています。
    つまり、日々の日常の中で諸権利が侵害されたら訴訟を起こしたり議論を行う。身近な生活の中で具体的な体験を積み重ねる中で、「個人情報」や「人権」に対する理解を深める必要があると思います。
    十分な理解を国民が持たぬままに「個人情報」や「人権」に関する条項が憲法に加えられれば、それこそ解釈改憲や閣議決定で時の政権に弄ばれるでしょう。

    もうひとつ加えれば、尾関さんが使われた「空気感」の問題があります。
    一連の流れを振り返れば「悪夢のような民主党政権」を連呼した改憲派の政権は「野党は批判ばかり」との印象操作も巧みに行ない、憲法についても何か提案性のある政策を野党が出さなければ「批判政党」の烙印が押されてしまう「空気感」を醸成しました。憲法論議を行い始めた政党やメディアは、まんまとこの流れに乗せられているように見えます。

    じっくりと構えれば良いと思います。
    喫緊の課題である気候変動や新型感染症、あるいは巨大IT企業の問題は、そもそもひとつの国では解決出来ないところにその大きな本質があります。その問題をなぜひとつの国の国境を越えたら効力を発揮出来ない憲法で扱おうとするのか?私には理解出来ません。
    むしろ、気候変動におけるCOPのように、国境越えの課題については各国が協調して問題を解決するプラットフォームの形成に尽力すべきでしょう。

  2. 虫さん
    個人情報保護についての
    《組織が面倒な状況に巻き込まれまいとして使う印籠であり、自己保身のための便利なツールです。そこには個人の情報に関する真剣な省察の痕跡は感じられません》
    というご指摘、まったく同感です。
    テレビが「街の声」を聴くとき、顔を出さず、首から下を撮ることが標準形になってしまった現実。
    不気味といえば不気味です。
    個人情報保護は、社会事象の公共性というもう一つの観点と併せて考察すべきものだろうと思います。

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