今ここの宇宙論という哲学

今週の書物/
『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』
伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊

無限?

今風の起業で財を成した富豪が自腹を切って地球を飛びだす。そんなニュースが去年相次いだ。一般人が宇宙を旅する時代はもうすぐ、というとりあげ方が目立つ。

だが、待てよ、である。あの人たちが体験したのは本当に宇宙なのか? 宇宙は広大だ。地球は太陽系の一部であり、太陽系は我が銀河、即ち銀河系の一角にあって、銀河系は無数に散らばる銀河の一つだ。富豪たちが出かけたのは地球の庭先にほかならない。

逆に言えば、あの人たちは――ということは私たち一般人も――この世に生まれ落ちた瞬間から宇宙に存在しているのではないか。銀河系は宇宙の一要素であり、太陽系は銀河系の一かけらであり、地球は太陽系の一員だからだ。こんなことを言うと、へそ曲がりの小理屈だな、と揶揄されそうではある。でも私は、科学記者に珍しく、本気でそう考えてきた。宇宙開発を「夢だ、ロマンだ」ともてはやすことには違和感がある。

私たち人間は、だれもがみな、自分は今、ここにいると感じている。その〈今、ここ〉はどれも、宇宙の時間と空間のなかにある。宇宙は私たちの存在の土台なのだ。それが何かは、人間にとって切実な問題といえる。夢やロマンのようにふわふわしていない。

言葉を換えれば、宇宙は哲学のテーマである。実際、ギリシャ以来いつの時代も、哲学はときどきの宇宙観を人々に提供してきた。近世以降は自然哲学者や科学者によって提示される宇宙観が数式で理論づけられ、観測で裏打ちされるようになった。ただ、そんなこともあってか、宇宙の探究が私たちの〈今、ここ〉と切り離されてしまった感がある。そうならば残念なことだ。現代の宇宙観もまた、〈今、ここ〉と無縁ではありえない。

で、今週は『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊)。著者は1949年生まれの哲学者で、京都大学名誉教授。京都の風土に根ざして研究を重ねたせいだろうか、著書では、文理の垣根を超えて宇宙論も扱ってきた。

本書は、三つの章で組み立てられている。時代区分で言えば「古代」「近代」「現代」。第1章はギリシャ(本書の表記では「ギリシア」)哲学の宇宙観を振り返り、とりわけプラトンの天文思想に光を当てている。第2章の主役は、ドイツの哲学者イマヌエル・カント。近世に一新された宇宙観を近代の哲学者がどう受けとめたかを解説している。第3章では、ビッグバン宇宙論などの20世紀科学が哲学に与えた影響を浮かびあがらせている。

プラトンについては、その著『ティマイオス』の宇宙論が素描されている。それによると、デミウルゴスという神が「設計者」となった宇宙は「調和の世界(コスモス)」をめざしていたという。だが、現実の宇宙は究極のコスモスを実現しているわけではない。

恒星が散在する天空、即ち「恒星天」は「完全な球体」であり、星々も「最高度に完全な運動である円運動」をしているので、コスモスそのものだ。ところが、太陽や月、惑星の世界はこの球体に乗っていない。とはいえ、私たちが太陽や月を見て「季節」「日時」を認識していることでわかるように、これらにも「時間という秩序」のもとになる「数学的な比例構造」が組み込まれている。だから、宇宙は全体として調和している、とみる。

本書は、これをプラトン哲学のキーワード「イデア」に対応させる。イデアとは、現実の事物の「原型」であり「模範」でもある「完全な存在」だ。恒星天はイデアの「完全」を具現しているが、太陽や月、惑星はその「似像(にすがた)」や「影」の水準にあるという。

ギリシャの哲人は、宇宙にイデアを追い求めながらもその完全版は手に入れられず、一部は「似像」や「影」で満足しなければならなかった。これは、当時の宇宙観が天動説から脱け出せなかったからにほかならない。太陽系天体の扱いに手を焼いたということだ。

ところが近世になると地動説が強まり、天動説にとって代わった。本書によれば、カントがニュートン力学を哲学の側面から支える『純粋理性批判』(1781年)を執筆したころ、天文学は地球だけでなく、太陽系そのものも宇宙の中心から外して考えるようになっていたという。これは人間観も激変させた。人間は「宇宙の片隅のそのまた片隅の、非常に辺鄙(へんぴ)なところに生存する生物」とみなさざるを得なくなったのだ。

こうしたなかで、カントは「認識論的反省」を試みる。宇宙が「とてつもなく広い世界」であるならば「全体の大きさ」はどうなのか、宇宙が無限か有限かという難題に私たちは答えを見いだせるのか――こう問うた末にたどり着いた結論は「人間は、その理性の使用によっては、宇宙の無限・有限の問題に決着をつけることができない」というものだった。人間の「認識能力」に「制約」がつきまとうことを潔く認めたのである。

宇宙の時間について考えてみよう。著者の解説によれば、有限説の根拠はこうだ。もし宇宙に始まりの一瞬がなければ、それは物事の継起が無限に続くことを意味する。継起は「完結」しないということだ。そうなると、継起の完結時点である「現在」が成り立たない。

無限説はこうなる。もし宇宙に始まりの一瞬があるなら、宇宙は宇宙が存在しない「空虚な時間」に生まれたことになる。空虚が宇宙誕生の契機を宿すとは考えられない――。こうして、宇宙の時間をめぐる問いは二律背反(アンチノミー)に直面して頓挫する。

カントによれば、私たち人間にとっての「経験的世界」は「世界の事実の実相に迫った姿ではない」。それは「現象」であって「本物」ではないのだ。私たちにできるのは「世界の事物について時間的、空間的にその位置を特定し、その事物がどのように移動したり変化したりするかを因果法則という形式で表現する」ことである。人間は「時空の枠組み」と「因果性の概念」という「認識能力」をメガネにして世界を見ているに過ぎない。

興味深いのは、このカントの洞察が現代の宇宙論に思わぬかたちで示唆を与えていることだ。まずは、ビッグバン宇宙論に触れておこう。宇宙は大爆発(ビッグバン)で始まったという見方だ(*)。1960年代、その名残が宇宙背景放射として観測されたことで今や定説になった。宇宙には始まりがあったという宇宙観だ。カントの「認識論的反省」によれば答えを出せないはずの問題に、現代科学が正解らしきものを突きつけたのである。

ところが、話は一筋縄ではいかない。宇宙初期にはビッグバンに先だつ急膨張(インフレーション)があったとする理論が現れ、そこから、宇宙は一つではないという仮説が派生したのだ。本書は、インフレーション理論そのものには踏み込んでいない。ただ、宇宙が単一でなく、別の宇宙が「並行して存在」する可能性には触れていて、そのなかには私たちの宇宙より「時間的に先行」するものがあるかもしれない、と論じている。

これは、宇宙の始まりよりも前に宇宙があるという話だ。ビッグバン宇宙論によって、宇宙の時間の有限説が力を得たかと思いきや、次いで登場したインフレーション理論で無限説が巻き返した――。カントの洞察通り、人間はやはりこの問いに答えられないのか。

本書は終盤で、地球外生命探しの話題をとりあげている。そのくだりで著者は「人類の知性が生み出した科学や技術は、宇宙の中でどの程度まで普遍的で一般的なのでしょうか」と問いかけている。これは、人間観にかかわる哲学者の問題意識だろう。天文学では20世紀末以降、太陽系のほかにいくつもの惑星系が見つかり、地球外生命の現実感が高まっている。宇宙人探しは、もはや宇宙に夢とロマンを求める人たちだけのものではない。

この本を読むと、哲学者は物事を考えるとき、どこから先は知ることができないのかという視点も持ちあわせていることがわかる。ひたすら知ろうとする科学者との違いだ。私たちが科学本と併せて哲学本を読むことの意義は、そのあたりにあるのかもしれない。
*当欄2021年12月31日付「宇宙の最期か自分の最期か」参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月11日公開、通算613回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です