今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊
「主義」が輝いていた時代があった。私が学生だったころがそうだ。自己紹介で「僕はナニ主義者」と名乗るべきか、そのナニを何にしようか、といつも考えていた。
1970年代初め、よその大学で開かれる自主ゼミに通ったことがある。それを「自主ゼミ」と呼ぶのが正しいかどうかは、定義にもよるだろう。主宰者の男性若手教員は工学系だったが、テーマは彼の専門領域に限定されなかった。灯ともしごろの研究室に週1回、学内外の若者が勝手に集まり、なんでもよいからしゃべりたいことをしゃべり合うという感じ。その議論でも、「主義」という言葉には隠然とした重みがあった。
ただ興味深いのは、このときすでに社会主義の輝きが薄れかけていたことだ。主宰者の教員は新左翼への共感を明言したものだが、だからといってマルクス主義を説くことはなかった。連合赤軍事件が発覚するより前のことだが、新左翼運動はすでに衰退していた。
そのゼミで私が忘れられないのは、ある晩、初参加の青年が持論を延々と展開したことだ。芸術系の学生だったと思う。言葉の端々から、古今東西の書物を読み漁っていることがわかった。そこで飛びだした用語が「構造主義」である。私には、青年がこう言っているように聞こえた。マルクス主義は古い、実存主義も古い、今は構造主義だ――。さらに「ポスト構造主義」にも言及していたかもしれないが、そこまでの記憶はない。
そのころ、私も「構造主義」という言葉は知っていた。新書版の解説書はすでに読んでいたと思う。ただ、ピンとこなかった。その意図がつかみ切れなかったのだ。ところが、くだんの青年は弁舌さわやかに、それを思想史の時間軸に位置づけている!
私が構造主義に惹き込まれなかった理由は明らかだ。それは、新鮮ではある。「意味するもの」「意味されるもの」といった耳慣れない用語を駆使して、物事の本質を読み解いてくれる。だが、そこにとどまっていないか? 少なくとも私には、そう思えた。構造主義は、世界のしくみを理解するための方法論に過ぎない。自分がどう生きてどう行動するかという問いには、なにも指針を与えてくれない――そんな不満を拭えなかった。
だから、マルクス主義や実存主義は古い、構造主義は新しいという仕分けには納得できない面があった。これらは同列の品目ではないので、新旧を比べるのは適当でないように思えたのだ。私は青年の話ぶりに気おされながらも、心の片隅に違和感を宿しつづけた。
で、今週は『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)。フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)はスイスの言語学者。その研究は構造主義の原点に位置づけられている。著者は1944年生まれ、米国出身の近代語、比較文学の研究者。本書の原著が刊行された1976年時点では、英国の大学で教職に就いていた。邦訳の単行本は1978年、岩波書店が出している。
当欄は先週、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する新言語「ニュースピーク」を素描した(*1)。痛感したのは、言語と思考が密接不可分なことだ。この機会に言語のしくみそのものも考察したい。そう思ったのも、本書を選んだ理由である。
本書によると、ソシュールは自身の研究の全体像について、ほとんどなにも書き残さなかった。このため、ジュネーブ大学での講義録『一般言語学講義』がよく読まれる。学生のノートなど複数の筆記記録をもとに関係者がまとめたものだ。著者は、これをノート原本と突きあわせると、ソシュール本人の真意を伝えていない面があることを指摘する。本書は随所で『講義』を参照しつつ、一方で著者なりのソシュール思想「再構築」をめざしている。
中身に入ろう。第Ⅱ章「ソシュールの言語理論」を開くと、さっそく「言語は記号の体系である」という一文に出あう。「音」はふつうにはただの音だが、それが「観念を表現ないし伝達するのに役立つ」場合にだけ、「言語」の価値を帯びる。では、どんなときに音は観念を伝えられるのか。音が「慣習の体系の一部」「記号の体系の一部」であるときだという。この「体系の一部」という表現に、私は構造主義の空気を感じとった。
ここで「記号」とは何だろうか。それは、「記号表示する形式」と「記号表示される観念」の「合一」だという。ソシュールの用語に従えば、前者はsignifiant(能記)、後者はsignifié(所記)。片仮名書きすると、シニフィアンとシニフィエになる。懐かしい響きだ。これらこそが〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉だった。音がなにものかを意味し、なにものかがそれによって意味されるとき、言語という記号が成立するのである。
次いで本書は「言語記号は恣意的である」と書く。「能記と所記との特殊な結合」は気まぐれというのだ。所記として哺乳類の一種(日本語圏で「犬」と呼ばれるもの)を思い浮かべよう。英語圏の人は、これに対する能記にdogをあてがうが、それはlodやtetであっても一向にかまわない。いくつもある能記候補のうちの一つが最適という「内在的理由」はないのだ。これが、ソシュール言語学が言語記号に見いだした基本原理だという。
ただ、この恣意性は一筋縄ではいかない。本書がまず指摘するのは、言語によって所記が異なるということだ。フランス語にaimerという動詞がある。これを英訳するときは、like(好き)かlove(愛する)のどちらかを選ぶことになる。フランス語では「好き」と「愛する」が一つの概念をかたちづくり、一つの所記となっている。ところが、英語では別々の概念であり、所記なのだ。世界の「分節」の仕方が言語次第で多様なことがわかる。
所記が「可変的・偶発的な概念」であることも具体的に語られている。例示される言葉は形容詞のsillyだ。もとは「幸いな」「恵まれた」「信仰深い」だったが、「無垢な」「力のない」などに変わり、今では「愚か」を意味するに至った。「能記sillyに付着された概念が継続的に境界を移し変え」「世界を一時代から次の時代へと異った仕方で分節した」わけだ。この間に能記も変化して、片仮名で表記すればセリーがシリーになったという。
著者によれば、ソシュールが恣意的とみてとったのは能記と所記の関係にとどまらない。所記が恣意的であり、能記も恣意的なのだ。「能記も所記もともに、純粋に関係的ないしは差異的な存在体である」――これがどうやら、ソシュール言語学の核心であるらしい。
本書では、いくつかの具体例が挙がっている。色名語、すなわち色の名前がその一つだ。brown(褐色)がどんな色であるかを学ぶときのことを考えよう。生徒は、brownという色がred(赤)やtan(黄褐色)、grey(灰色)、yellow(黄)、black(黒)と「区別」されることを教わるまでは「brownの意味を知るに至らない」。brownを「独立の概念」とみてはいけない。それは「色名語の体系中の一辞項」ととらえるべきなのだ。
「重要なのは区別」であることを実感する例には列車の呼び方もある。8時25分ジュネーブ発パリ行き急行とは何か? この列車は連日運行されるが、日によって車両も乗務員も入れ代わる。発車時刻がダイヤの乱れで8時25分より遅れる日もある。だが私たちは、それを同じ8時25分ジュネーブ発パリ行き急行と呼ぶのだ。理由は、この列車が10時25分ジュネーブ発パリ行き急行などとは別の列車であるからにほかならない。
本書には「言語学における説明は構造的」という記述がある。ソシュールが切りひらいた近代言語学は「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系」を提示して、そこにある「諸形式」と「結合法則」を説明づけようとしているという。難しい! これを私なりに意訳すれば、言語学は能記や所記の差異に目を向け、その関係図を描きだすことで言語の形式と法則を突きとめる試みである、ということか。
構造主義がようやく目に見えてきた。ソシュールはAやBを語るとき、A、BそのものよりもAとBの差異や関係から成る「構造」に注目したのだ。これは私たちの生き方に直接はかかわらないが、世界の見方に影響を与える。来週もソシュール思想を追いかける。
*1 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月8日公開、通算634回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
「なぜオーウェルの後にソシュールなのか」と思いましたが、ニュースピークから言語学へ。自然な繋がりなのですね。
言語の話なので、言語の話を書きます。部首-sign-を含むすべてのフランス語の単語は、ラテン語のsignumから派生しているそうです。並べてみると、たくさんあって、signal、signalement、signaler、signalétique、signalisation、signataire、signature、signe、signer、signet、significatif、assigner、consigne、consigner、désigner、insigne、insignifiant、résignation、soussigné とよく使う言葉ばかりで、そのなかに signifier という動詞があります。
でもって signifier の participe présent が signifiant、signifier の participe passé が signifié なのですが、ソシュールはこれらを「le signifiant」と「le signifié」という名詞にしてしまう。名詞にしても signifiant のほうにはなんとなく能動的な感じが、signifié のほうには受け身の感じが残っているように思えます。
なぜそんなことをしたか? ソシュールは「パロール」(日常で使われる言語)と「ラング」(抽象的な事のための言語)とを明確に区別したかったようで、それぞれに「シニフィアン」(視たり聴いたり触ったりというように知覚できるもの)と「シニフィエ」(抽象的な概念またはアイデア)と名づけ、考えを進めていったようです。
尾関さんが『一九八四年』に関連して「言葉が痩せていく」ことを危惧していたのは、「パロール」ではなく「ラング」のほう(「シニフィアン」ではなく「シニフィエ」のほう)ですよね。ところが(それなのに)、ニュースピークにはたくさんの「シニフィアン」が含まれている。抽象的なことだけを痩せさせるのではなく、日常的なことまで痩せさせようとする。オーウェルが設定したニュースピークの恐ろしさは、日常的なことまで痩せさせてしまうことにあるのだと思います。
どうでもいいことですが、スイスのジュネーブ大学の先生だったソシュールが、フランスについてどう思っていたのかが、とても気になります(フランスのことが嫌いだったのではないかと想像しています)。「Structuralisme」なんていう言葉が自分の言語学に使われることになるなんて思いもよらなかったでしょうし、もしそれを知ったら嫌がっただろうと思うと、死んだあとの自分のことはどうにもできないということに思い至ります。
それにしても言葉というものは不思議ですね。「signe」「signifiant」「signifié」と似た感じの言葉が、「記号」「能記」「所記」という無関係な言葉になってしまう。ん? どれにも「記」がついていて似ているって? ううう。
「signe」を「記号」でなく「サイン」とか「印」とか、「符号」というように訳してもいいのに、なぜ「記号」なのか。「Signifiant」は「能指符号施指」で「Signifié」は「所指符号受指」などと言われても困るけど。
それにしても(それにしてもが続きますが。。。)それにしても尾関さん、「構造主義」なんて言っていると、寅さんに「おっ、てめえ、さしずめインテリだな」って言われてしまいますよ!!
38さん
さすが、です。
地元の事情に通じていらっしゃるので、圧倒されます。
《部首-sign-を含むすべてのフランス語の単語は、ラテン語のsignumから派生しているそうです。並べてみると、たくさんあって》
なるほど、こんなにあるんですね。
英語のsignificantも、同じところから派生した言葉なのでしょう。
さて、この形容詞、日本人には結構難しい。
「重要な」「有意義な」「有意な」……と、いろいろな日本語に対応するからです。
このあたりの概念に対しては「分節」の仕方が日英で違うんですね。
それで、英語で「重要な」と言うとき、ついつい機械的にimportantを使ってしまう。
学校英語の名残かもしれません。
どんなときがimportantで、どんなときがsignificantなのか、ピンとこない。
ごく自然にsignificantと言えるようになりたい、といつも思います。
主題からそれてしまいましたが、言葉の話はおもしろいですね。