今年は、なんでも覚悟する

今週の書物/
スベトラーナ・アレクシエービッチさんにインタビュー
朝日新聞2023年1月1日朝刊

新春(*1)

1年前は的外れだった。2022年年頭の当欄には、国政が改憲に向かって動くとの見立てがあった(2022年1月7日付「社説にみる改憲機運の落とし穴)。ところが、現実はそれをスキップした。私たちの眼前には、もうすでにキナ臭い世界がある。

ロシアによるウクライナ侵攻が2月に勃発した。大国の軍隊が隣国にずかずかと入り込んで武力を行使する――その「軍事行動」にはいろいろな理由づけがなされたが、説得力はない。今日の国際社会の常識に照らせば、暴挙というほかなかった。

予想外の事態が突然出現したため、日本国内の世論も一気に防衛力増強へ傾いた。その風向きに便乗するかのように、政府は現行憲法の生命線である専守防衛の原則を拡大解釈して、敵基地攻撃能力を備えることにした。事実上の改憲といえるのではないか。

ウクライナ侵攻が日本社会に拙速な変更をもたらしたのは、それだけではない。原子力政策がそうだ。ロシアは石油や天然ガスの輸出大国なので、侵攻に対する西側諸国の経済制裁はエネルギー需給を逼迫させた。その一方で、国際社会の課題として地球温暖化を抑えるための脱炭素化がある。これで息を吹き返したのが、原発活用論だ。その追い風を受けて、日本政府は原発の新規建造や60年間超の運転を認める政策に舵を切った。

見通しの悪さをいえば、コロナ禍に対しても見方が甘かった。1年前の冬、日本では感染の第6波が立ちあがっていたが、それも春夏には収まるだろう、という希望的予感があった。だが、実際はどうか。6波のあとも7波、8波に見舞われている。

コロナ禍では、私たちの意識も変わった。政府はこの1年で行動規制を緩めた。社会を動かさなければ経済は回らない。人々の我慢も限界に達している。そんな事情があって、オミクロン株は従来株と比べて感染力は高いが重症化リスクが低い、というデータに飛びついたのだ。とはいえ緩和策で感染者がふえれば、それに引きずられて重症者も増加する。コロナ禍の実害をやむなく受け入れる感覚が、世の中に居座った感がある。

ウクライナ侵攻の突発、いつまでも終わらないコロナ禍――予想外のことがもとで心はぐらつき、世の中も変容した。私たちは引きつづき、そんな事象に取り囲まれている。2023年も何が起こるかわからない。相当の覚悟を決めなくてはなるまい。

で今週の書物は、私の古巣朝日新聞の元日紙面。ぱらぱらめくっていくと、オピニオン欄の表題に「『覚悟』の時代に」とあった。今年のキーワードは、やはり「覚悟」なのか。

とりあげたい記事はたくさんあるが、今回はベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)へのインタビューに焦点を当てる。第1面から2面にかけて展開された大型記事だ。1面トップに据えられた前文によれば、取材陣(文・根本晃記者、写真・関田航記者)は11月下旬、彼女が今住んでいるベルリンの自宅を訪れたという。先週の当欄に書いたように、秋口から準備を進めてきた新年企画なのだろう(*2)。

インタビューの主題はロシアのウクライナ侵攻だ。1面トップを飾ったアレクシエービッチさんの横顔は憂いをたたえている。おそらくは、ウクライナの苛酷な現実に思いをめぐらせてのことだろう。その表情を写真に収めた関田記者が大みそか、滞在先のキーウでロシアのミサイルによると思われる攻撃に遭い、足にけがをしたという記事が同じ朝刊の別のページに載っている。現地の緊迫感が伝わってくるようなめぐりあわせだ。

アレクシエービッチさんは、どんな人か。前文にはこう要約されている。旧ソ連ウクライナ生まれ。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。執筆に用いてきた言語はロシア語。旧ソ連のアフガン侵攻やチェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故に目を向け、「社会や時代の犠牲となった『小さき人々』の声につぶさに耳を傾けてきた」。当欄の前身「本読み by chance」も、彼女がノーベル文学賞を受けた2015年、その著作を紹介している(*3)。

ではさっそく、インタビュー本文に入ろう。アレクシエービッチさんはウクライナ侵攻の第一報に触れたとき、「ただただ涙がこぼれました」と打ち明ける。ロシア文化になじみ、ロシアが「大好き」な人間なので「戦争が始まるなんて到底信じられなかった」。

その一方で彼女は、「戦争は美しい」と主張する男性に取材した経験を語る。「夜の野原で砲弾が飛んでいる姿はとても美しい」「美しい瞬間があるんだ」――そんな悪魔的な言葉を引いて、彼女は戦争には「人間の心を支配してしまうようなものがある」と指摘する。

「ウクライナ侵攻では人間から獣がはい出しています」。インタビューでは、そんな衝撃的な言葉もとび出す。作家は「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に仕事をしているというのが、彼女の持論だ。「文学は人間を育み、人々の心を強くしなければなりません」。名前が挙がるのはロシアの文豪たち。「ドストエフスキーやトルストイは、人間がなぜ獣に変貌(へんぼう)するのか理解しようとしてきました」という。

聞き手の記者が、ウクライナ侵攻ではロシア軍の占拠地域で「残虐な行為」が相次いだことに水を向けると、彼女も「なぜ、こうもすぐに人間の文化的な部分が失われてしまうのでしょうか」と慨嘆している。では、何が原因でロシア社会に「獣」性が現れたのか。

その答えをアレクシエービッチさんは用意していた。「ロシア人を獣にしたのはテレビ」と言い切るのだ。ロシアのテレビメディアが数年前から、プーチン政権の意向に沿ってウクライナを敵視する報道をしてきたことにロシア人の多くが影響された、という。

一例は、ウクライナで捕虜になったロシア兵と郷里の母親との電話のやりとりだ。兵士が「ここにはナチはいない」と言うと、母は「誰に吹き込まれたの」と突っぱねた。反論の論拠にしたのは、ロシアのテレビ報道だったという。電話はウクライナ側が「実情を伝えれば解放してやる」と促したものだそうだから、兵士の言葉にも吟味は必要だろう。ただ、ロシアでテレビが伝えるウクライナ像の多くが歪んでいることは間違いなさそうだ。

率直に言えば、この説明には若干の違和感がある。今の時代、テレビにそれほどまでの影響力があるのか、と思われるからだ。ロシアの人々も、高齢世代を除けばSNSに馴染んでいるだろう。だから、テレビ報道が政府寄りに偏っても、偏りはすぐばれるのではないか。SNSにも規制がかかっているらしいが、SNSの不自由さは目に見えるかたちで現れるので、メディア統制の意図をかえって見抜かれてしまうのではないか――。

とはいえ、「人間から獣が」出てきたようなウクライナの現実に、一方的な情報が関与しているのは確かだ。その意味で、アレクシエービッチさんの言葉は、私たちへの警告となる。日本社会に、あからさまなメディア統制はない。SNSは、ほとんど言いたい放題だ。だが、それがかえって付和雷同のうねりを生みだすことがある。政府は、その波に乗っかって権力を行使しようとする。私たちは、情報社会の高度な不気味さに包まれている。

私たちが今年、最悪の事態として覚悟しなければならないのは、武力行使やコロナ禍が延々と続くことだけではない。一方的な情報の波に対しても身構えなければならないだろう。なぜならその波にのまれることが、事態をいっそう悪い方向へ動かしてしまうからだ。

アレクシエービッチさんは、絶望に直面する人の「よりどころ」は「日常そのもの」であり、それは「朝のコーヒーの一杯でもよい」と言う。そういえば、けさのコーヒーは苦いけれど心をほっとさせてくれた。2023年が、そんなコーヒーのようであればよいと思う。

*1 新聞は、朝日新聞2023年1月1日朝刊(東京本社最終版)
*2 当欄2022年12月30日付「大晦日、人はなぜ区切るのか
*3 「本読み by chance」2015年10月16日付「ベラルーシ作家にノーベル賞の意味
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月6日公開、通算660回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

5 Replies to “今年は、なんでも覚悟する”

  1. 尾関さん、

    私も「絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒーの1杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです」というところにグッときました。

    『戦争は女の顔をしていない』で描かれた独ソ戦にしても、今のウクライナでの戦争にしても、男も、女も、ロシア人だろうと、ウクライナ人だろうと、ベラルーシ人だろうと、誰もが国家や制度の犠牲になっていってしまう。勝つ側にいようが、負ける側にいようが、情報にそしてプロパガンダに翻弄され、権力に利用され、理不尽なことのなかで、誰もが心に傷を負う。そういうことを書いてきたアレクシエービッチさんが、模索の果てに、反ルカシェンコ・反プーチンという立場に立つということは、想像するよりはるかに大変なことなのでしょう。

    「人間らしい日常に救われる」ということは、裏を返せば「人間らしくない非日常(獣のような戦闘の日々)には救いがない」ということで、とてもつらいということに何の出口も見つからないという絶望なのでしょう。

    幸い私たちはウクライナの戦争の外にいます。でもいつまた戦争の当事者になるか、わかりません。知らず知らずのうちに、戦争の当事者になってしまう。そんなシナリオだって考えておかなければならないのでしょう。

    絶望の淵に立ってしまってから朝のコーヒーをよりどころにしてももう遅い。絶望の淵に立たされないよう、努力しなければ、老齢ながら行動しなければと、思ってしまいます。それは、政治的かどうかというよりも、戦争を起こすペテン師たちへの怒りなのかもしれません。

    それにしても、心をほっとさせてくれるコーヒーって、何にも代えがたいですね。いいですね。朝の一杯だけでなく、1日が終わった後に飲む一杯もまた格別です。

    「今年は、なんでも覚悟する」というタイトルが杞憂で終わりますように! そう、今年一年、心がほっとした感じであり続けますように!!

  2. 38さん
    《「今年は、なんでも覚悟する」というタイトルが杞憂で終わりますように!》
    おっしゃる通り。
    覚悟しながらも、そう願っています。

  3. 尾関さん

    「『覚悟』の時代に」は私も読みました、が、既に2ヶ月近く前になりますので、記憶はおぼろ。オピニオン欄に書いて無かったことも混じってしまうかも知れませんが、以下ランダムに。

    ・「『覚悟』の時代に」を目にした私の反射的反応は「ブルータス、お前もか」。
    ロシアのウクライナ侵攻が始まるや、国内の好戦的な人々は「ホレ見ろ」とばかりに次は東アジアだ!この空気感を待ってましたとばかりに政府は武力の大幅増強の決定、国民は『戦時下気分』に。
    しかし、私達がいま見ているのは一旦始めた戦争の終結がいかに難しいか、です。この状況はC国のTへの武力侵攻を躊躇わせるかも知れない。シナリオはいくらでもあり得ます。
    確かに状況は厳しいかも知れません。しかし、それゆえに小さな武力的諍いを大きなものにしてしまう可能性のある『戦時下気分』の醸成は大変危ないと感じます。 
    だから『覚悟』という言葉は避けたいと思うのです。

    ・アレクシエービッチさんは「ドストエフスキーやトルストイは、人間がなぜ獣に変貌(へんぼう)するのか理解しようとしてきました」、或いは「なぜ、こうもすぐに人間の文化的な部分が失われてしまうのでしょうか」と語っています。
    しかし、私がドストエフスキーから受けてきた印象は真逆です。ドストエフスキーのテーマは『人間はなぜ獣以上に獣なのか』であったと感じています。
    獣は生存のために他の動物を殺します。しかし、人間は数十年も前の屈辱を動機として人を殺すことさえします。どちらがより獣的であるかと問えば、答えは『人間』でしょう。
    心、精神、思想などを根拠に幾多の戦争が行われて来ました。アレクシエービッチさんの言う『人間の文化的な部分』こそが人間に獣以上の『獣性』を与えていると思います。大ロシア主義を根底に抱いてウクライナに残虐な戦争を仕掛けたプーチンの戦争は文化的なものなのです。
    昔から『人間的な』或いは『ヒューマニスティックな』といった言葉が肯定的に語られることに違和感を抱いてきました。
    アレクシエービッチさんの人間理解は少々楽天的に過ぎないかという感想を持ちました。

    ・『覚悟』を必要としていることがあるとすれば、『議員内閣制』の都合のよい解釈が広がっている状況にどう対処するかという問題だと思います。この10年間ほどの間に重要な問題を『閣議決定』で決めてしまうことが当たり前のようになってしまいました。
    安倍元首相の国葬の是非をめぐる国民の分断は激しいものであり、SNSなどを舞台にした論争(実際は罵り合い)には驚かされました。
    その中で大変気になったのは、意図的か認識不足かは分かりませんが、公然と議員内閣制を都合良く解釈する意見の多さです。
    閣議決定でなされた国葬を正当とする根拠が、国会議員は国民の代表であり、その代表達が選んだ総理大臣とその政府が諸問題の最終決定するのが当たり前だとする主張です。
    そこには行政府としての政府理解も立法府としての国会理解も無く、国会は総理大臣を機械的に決めるためだけに集められた形式的集団だとする理解しかありません。
    弱い野党と与党の関係、機能不全に近い、つまり、意味ある議論のない国会を長い間見てきた私達には当たり前になってしまった感覚かも知れません。
    しかし、昨年の参院選で自民党が獲得した票数は投票率の低さもあってか全有権者の20%を割っています(比例も同様。衆院選での絶対得票率は25%程度)。
    せいぜい25%程度の絶対得票率を背景として国民生活の行く末を決定できるという状況はどう考えても異常です。
    イギリスなどから学んだ制度が明文化されているのなら厳正に守るべきであり、制度と国民性に抜き難い齟齬があるのなら制度を変えれば良い。これ以上国民性に固有な決め方と制度が食い違った二重構造を放置するのはやばいのでは?
    どうも欧米先進国の仲間入りを目指した明治の元勲とやらの決定の成れの果てに生きているのでは、といった思いが頭を離れない気分です。
    久々の投稿故か長くなってしまいました。

  4. 虫さん
    《確かに状況は厳しいかも知れません。しかし、それゆえに小さな武力的諍いを大きなものにしてしまう可能性のある『戦時下気分』の醸成は大変危ないと感じます》《だから『覚悟』という言葉は避けたいと思うのです》
    今週とりあげた2・26事件の本などを読んでいると、「覚悟」→「戦時下」という連想はたしかにありえますね。
    ただ、私が年頭に「覚悟」したのは、私たちの社会は不確実の位相にある、ということでした。
    何があっても驚かない――そんな心構え。
    決して好戦的なものではありません。
    ここ数年(ということはコロナ禍以降)の内外の情勢を振り返ると、そう感じざるを得ません。
    1~2月のニュースをみても、その思いは強まるばかりです。

  5. 尾関さん

    位相の不確かさに焦点を当てた尾関さんブログの内容は十分に理解したつもりですので、貴ブログが好戦的であるなどとはゆめゆめ考えておりません。
    むしろ、ご指摘のように位相が不確かであるからこそ、特定の言葉が位相を大きく変える力になり得るとの懸念を感じた次第です。
    端的に言えば、昨今の社会の気分を考えた時、有力なメディアが『覚悟』と言うのはまずいのではないか、好戦的とは反対の立場を貫いてきたメディアでさえそう言っているではないかと、自分の考えに引き寄せて解釈、利用されはしまいかと懸念したわけです……たとえオピニオン欄にそんな意図はなくとも。
    ところがその有力なメディアが尾関さんの古巣なんですね。ゆえに古巣に疑問を呈するのは尾関さんに失礼ではないか、モゴモゴ、と心の中で葛藤し、結局、誰に向けて語っているのか分からないような曖昧な発言をしてしまった、というのが偽らざる実情なんです。
    誤解を与えてしまったのなら大変申し訳なく思います(この場合はこの表現はゆるされるでしょう。世の中は誤解のしようのない発言を誤解を招いたとして平然としている人々で溢れていますが)。

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