今週の書物/
『時間の非実在性』
ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊
月旅行の話題を目にすることが多くなった。米国主導の国際宇宙計画「アルテミス」が進行中だからだ。すでに昨年、無人宇宙船が月の周りを回った。2025年には飛行士が月面に降りるという。人間が月面を踏むのは、1960~1970年代の米アポロ計画以来である。
それでふと思うのは、時間のとらえどころのなさだ。1969年にアポロ11号の飛行士が人類初の月面着陸を成し遂げたことは確かな記憶として残っている。月世界をぎこちなく歩く飛行士の姿、同時通訳が繰り返す「すべて順調」の声……。もう54年も前になるが、きのうのことのようだ。ところが、「アルテミス」の有人月面探査はたった2年先のことなのにぼんやりしている。過去は近くに感じるが、未来は縁遠い。
アルテミス計画には、火星への道をひらくという狙いもある。月の周回軌道に宇宙ステーションを造って、それを足がかりに有人初の火星探査に乗りだそうというのだ。目標は2030年代半ば。10年も先のこととなると、ますます縁遠く感じられる。
過去と未来は、現在を挟んで同じ一つの時間軸に載っているように思われる。だが、両者は対称ではない。過去はすべて確定しているが、未来はどれも未確定だからだ。もう一歩踏み込んで言えば、未来の未確定には、その未来が存在するかどうかもはっきりしないということが含まれる。私の場合、2025年の月面探査はともかく、2030年代半ばの火星探査に対しては、その思いを持たざるを得ない。年をとるとはそういうことなのだろう。
これは私的実感だが、人間70歳を超えると未来は二つに分かれる。一つは「ちょっと先か」「だいぶ先か」で測れる未来。もう一つは、自分が「居合わせるか」「居合わせないか」が問われる未来だ。2025年の月面探査は辛うじて「ちょっと先か」「だいぶ先か」の領域にあるが、2030年代の火星探査は「居合わせるか」「居合わせないか」を見定めないことには実感できない――そんなことに気づいて、時間論への関心がまた強まった。
私のブログも、かつて時間について考えた(*)。とりあげたのは『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)。読みどころの一つは、英国の哲学者ジョン・エリス・マクタガート(1866~1925)の時間論を解説していることにあった。
で、今回は、そのマクタガートに直接迫ろうと思う。『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊)。著者が1908年、英国の哲学論文誌“Mind”に発表した論文“The Unreality of Time”を書籍化したものだ。論文の邦訳を収めているだけではない。それに訳者が哲学者として「注解と論評」を付し、「付論」も併載している。訳者執筆部分の分量は、論文本体の5倍ほどに及ぶ。
当欄はまず、論文本体を読み解くことにするが、論理に論理を重ねる文章は難解を極める。とりあえずは、わかった部分を拾いあげる方式で書き進めてみよう。
論文冒頭の一節によれば、「時間は実在しない」とする説は「自然なものの見方」に反していても、古今東西の哲学や宗教に採り入れられてきた。著者も同意見だが、理由は先哲が説明してきたこととは異なるので、そのことを明らかにしたい、という。すなわち、論考の主題は「時間の非実在性」の証明にある。ただ、私が興味を覚えたのは証明そのものではない。私たちが「時間」と感じるものを、著者が“解体”していくところに醍醐味がある。
時間を考えるときに、著者がもちだすのが3種類の「系列」だ。最初に出てくるのが「A系列」と「B系列」。A系列は「過去・現在・未来の区別」に注目する。これに対してB系列では「より前・より後の区別」が問題となる。読み進むと、もう一つ、「C系列」が提案されている。「それには変化がなく、ただ順序があるだけ」だ。訳者「注解と論評」によれば、C系列は「時計の文字盤」にたとえられる。時刻の数字が並んでいるだけだ。
著者はこの論文で、時間はB系列の「より前・より後」だけで成立するかという問いを発して、それだけでは不十分だとしている。その論理はこうだ――。
まず、押さえておきたいのは、出来事が変化することだ。これは、歴史的な事件についてもいえる。英国アン女王の死去(1714年)を考えてみよう。この出来事が「英国女王の死」という事象であることは不変だ。ただ、一点だけ変わることがある。「初めは未来の出来事であった」のに「現在」を経て、「遠い過去になっていくであろう」ということだ。あらゆる出来事はA系列の未来→現在→過去の変化をくぐり抜けるのである。
出来事はA系列があるから変化する。変化がなければ時間もないから、A系列は時間にとって必須といえよう。ところでB系列の「より前・より後」は時間の存在を前提にしているので「A系列のないところにB系列はありえない」ことになる。
著者はA、B両系列を比べ、両者は「時間にとって等しく本質的」と言いつつ、A系列のほうが「究極的」と断じている。ここで展開される論理は、なるほどと思わせるものだ。B系列の「より前・より後」は、C系列の出来事群にA系列の「過去・現在・未来」を当てはめ、「変化と方向」を付与したときに生まれる。ところが、A系列の「過去・現在・未来」は定義できない。A系列は、数学の公理のようなものなのだ。
話は込み入ってくるので、わからないところは飛ばしていこう。著者は「A系列なしに時間はありえないことの証明には成功した」と宣言したうえでA系列が実在不能なことを示し、それを「時間は現実に存在することはできない」という結論につなげようとする。この証明のなかで「過去・現在・未来は、両立不可能な規定」という記述が出てくる。あらゆる出来事は、過去、現在、未来の「どれか一つ」でしかありえないということだ。
その一方で、すべての出来事は過去・現在・未来のどれにもなりうる。仮に一つの出来事をMと呼ぶことにしよう。もしMが過去なら、それはかつて未来か現在だった。Mが未来なら、それはこれから現在になって、過去にもなるだろう。Mが現在なら、それはかつて未来だったが、これからは過去になるだろう。著者は、この定めが過去・現在・未来の両立不可能性とは「不整合」な関係にあるとして、それを克服しようとする。
ここで出てくるのが、「過去・現在・未来という特性は同時的であるときにのみ両立不可能」という理屈だ。裏を返すと、未来・現在・過去が「継起的」なものならばそれらのすべてになってよい。ただ、ここにも、決定的な難点がある。A系列について語るときに「同時的」「継起的」という時間の概念が混ざり込んでしまうことだ。「時間を説明するために」「時間の存在を前提しなければならない」。これは「悪循環」にほかならない。
改めて、この論文の要点をすくいとれば、次のようになる――。時間の正体を突きとめようと理詰めで考え抜いたら、時間は時間の概念なしに語れないという壁にぶち当たった。著者はこの矛盾を踏まえて「時間の非実在性」という結論を導きだしている。
さて、マクタガートの時間論を読んでいて気になるのは、未来の出来事が現在となり、過去に変わっていくというとらえ方はニュートン力学の決定論に縛られていないかということだ。私はそこに、未来の出来事はあらかじめ決まっているとみる固定観念を感じてしまう。ところが本稿のまくらで書いたように、私にとって過去は確定しているが、未来は不確定だ。このことをA系列、B系列、C系列でうまく説明できるのだろうか。
もう一つの関心事は、マクタガートの時間論が人間の生とどう関係しているかだ。私たちは過去を思い返し、未来を予想するとき、悔いや不安を感じる。現在にただ一人いることには孤独感も覚える。マクタガート流の思考をすれば、この心模様を説明できるのか。
後者については、訳者が本書に収めた「付論」がヒントになる。マクタガートの時間論を糸口に人間のありように視野を広げ、持論を展開している。次回はその「付論」を読む。
* 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者」
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月21日公開、通算675回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
「だれもが時間の哲学者」ということなので、私も「哲学」させていただきたいと思います。わざわざここに書くようなことではないのですが。。。
時間は私にとってはとてもクリアーで、
「過去(nothing)、現在(something)、未来(nothing)」
です。McTaggart さんによれば、それは A series ということになるのでしょうか?
それとも McTaggart さん風に、
「遠い過去から近い過去まで(nothing)、近い過去から現在まで(something)、現在から近い未来まで(something)、近い未来から遠い未来まで(nothing)」
と書いたほうがいいのでしょうか?
いずれにしても、過去はなくて、今があって、未来はない。そんな感じです。でも、今は everything ではなくて something。「今がすべて」ではない。
私と同じように感じている人がどこかにいるとは思えませんが、それが私の感じ方です。
McTaggart さんは、シンプルなことを複雑にする、まるで官僚組織のような人ですから、あまり読みたくありません。ノートを横に置いてメモをしながらでないと読めない文章は、私には苦痛です。
過去は、記憶にせよ、記録にせよ、頼りになりませんし、未来も、予想にしても、予測にしても、外れます。過去のことに IF を持ち込んでも仕方がないし、今なにかしたからといって未来に影響するとも思えません。
そうじをしたり、食べたり飲んだり、読んだり書いたりして、今を気持ちよく過ごす。場所を変えることができても、時間は変えられない。時間には、赤塚不二夫の「これでいいのだ」が、いちばん合っていると思うのですが、どうでしょうか?
38さん
《「過去(nothing)、現在(something)、未来(nothing)」》
すばらしい。
これに「これでいいのだ」の絶対肯定が組み込まれると鉄壁です。
でも、私は悔やむ。
そして、悩む。
やはり、過去と未来を“nothing”と割り切れないんですね。
ということで、もう少し時間論の周辺を逍遥するつもり。
どうか、おつきあいを。
尾関さん
哲学の徒でもなければ物理学の徒でもない虫ですが、時間について。
私の時間理解は、「道具としての時間」はあるけれど「物質や私達を離れ、それ自体として存在する時間」はない、というものです。
私達が時間と呼ぶものは、物質や事象がある状態から別の状態に変化する変化の量を、これまた別の物質(例えば、時計の針)の変化量で測定したものと考えています。
なぜ別の物質を利用して測定するのかは、人間が群れをなして生活する、つまり社会生活をするから。「なになにがエントロピー第二法則に従ってAからBに変わったら新宿駅の西口で会いましょう」では生活が成り立たないし、各々が自分独自の物質の変化量を基準にしても社会生活は成り立たない。そこで地球の自転や公転を元にしてある変化量を共通の尺度として、例えば一時間とする。これが「道具としての時間」であり、物質(或いは事象)の物質による物質のための時間ということになります。
そしてこの「道具としての時間」を多用してきた中で、恰も時間が独立して存在しているかのように考えるようになったのではないでしょうか。
過去・現在・未来はどうなるか?
今、私は蔦の葉が風で揺れているのを眺めながらこのコメントを書いていますが、この「今」は主観的で曖昧です。
私の身体も蔦の葉も無秩序に向かっています。限りなくゼロに近い変化が無秩序に向かって私の身体にも蔦の葉にも次々と起きています。今とは、この変化の最先端にある一瞬で、この一瞬の背後には無数の「過去」がある。
過去にカッコをつけましたが、過去の有無を語る前に過去という言葉を使うことへのためらいゆえです。過去が存在するかと考える場合、1) 現在に関係なく過去がそれ自体として存在する場合と、2) 現在の中に過去が含まれて存在している場合、とがあると思いますが、何れも「否」だと思います。昨日の、ある状態であった私の身体(物質)はその状態としてもう存在しないし、現在も最早その状態で存在しません。未来も同様なので、あるのは瞬間的な今だけ、となります(過去: nothing, 現在: something, 未来: nothing とする38さんの考えに親しみ感じます)。
さて、書き始めた時には意識していませんでしたが、私は熱力学を基本に時間を考えているんですね。しかも、物質や事象の変化量で時間を語るから、何とも無味乾燥で味気ない。もっともです。私達の心の中には間違いなく「過去の思い出」や「将来への期待」などがありますからね。
心の中の時間とは?これは難題です。しばらく考えてまた投稿したいと思いますが、最後にオチを。
妻が「さっきから何を書いているの?」と聞いてきました。「時間について考えているんだよ」と私。すると妻は間髪を入れず「時間について考え過ぎて時間を無駄にすることもあるからね。この点も忘れないように」ときた。私は絶句。
虫さん
「変化」に注目する「道具としての時間」論、すばらしいですね。
これは、物事の「関係」を重んじる見方。
当欄はしばらく、時間の森を彷徨いますが、そこでは「関係」が重要な役まわりで顔を出します。
さて、お連れあいの「時間について考え過ぎて時間を無駄にすることもあるからね」は含蓄に富んでいますね。
「時間を無駄にする」は、日常よく使う言いまわしですが、時間を量的にとらえている。
ペットボトルの水のように。
ただ、現在だけが“something”であり、その前後は“nothing”なのだとしたら、私たちはどこに「量」を見いだせばよいのか?
これもまた難題ですね。