時間を「我が身」に引き寄せる

今週の書物/
『時間の非実在性』
ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊

現在と「私」

時間の話を今週も続けよう。手にとるのは、引きつづき『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊)だ。先週は、本書の中核をなす著者自身の論文を読み込んだ(*1)。著者は、時間をA系列「過去・現在・未来」やB系列「より前・より後」などいくつかの側面に切り分け、論理を積みあげることで結論を引きだしている。時間は実在しないというのであるだ。

だが、読者の一人としては不満が残る。時間が実在しない? だからどうしたというのだ――そんな感じか。時間が在ろうがなかろうが、私たちはいつも時間を感じとっている。朝、目覚めれば、きょうも始まるんだ、と思う。湯を沸かそうと薬缶を火にかければ、いつ沸騰するかが気になる。駅に駆けつけて電車がすでに発車していれば、悔しがる。日常生活の場面場面に時間的な何かが入り込んでいる。私は、その正体を知りたいのだ。

実際、著者論文の魅力は「時間の非実在性」を証明することとは別のところにあるように思う。ひねくれた読み方かもしれないが、結論はひとまず措いて、それを導くために著者がどんな考察をしたかに注目すると、時間のさまざまな特質が浮かびあがってくる。

このときに助けとなるのが、本書後段に収められた訳者の「付論」だ。訳者は著者に敬意を払いながらも、それに全面同意しているわけではない。その距離感が絶妙。だから、今週は訳者「付論」に焦点を当て、著者マクタガートの時間論を私たちに引き寄せてみよう。

著者と訳者で見方に微妙な違いがあるのは、時間の系列分けだ。著者が提唱する「A系列」「B系列」の分類に対して、訳者はそれとはやや異なる見解を示している。

訳者によれば、著者が「A系列」と呼ぶものには「二義性」がある。一つは「いかなる時点も現に過去か現在か未来か(のどれか一つ)である」(太字部分は原文では傍点)という「端的なA事実」、もう一つは「いかなる時点も未来から現在へ、現在から過去へと変化する」という「本質的なA変化」。前者は静的、後者は動的だ。ここで訳者が主張するのが、A変化はむしろ、B系列の「より前・より後」になじむのではないか、ということだ。

訳者が用いる「端的」という言葉には、「絶対的」の意味合いがある。端的なA事実では、現在はこの現在しかない。ただ私たちは、現在ではない時点を「現在とみなす」ことができる。その結果、端的でないA事実もまた「相対的な概念」としてありうるのだ。

A変化も端的なA事実だけを考えれば、たった一つの現在に乗って起こるものだ。ところが私たちには、そうでないA変化もある。想念のなかで現在ではない時点を現在とみなしたとき、そこに「概念的」なA変化を思い描くことができる。A変化は、「端的」でなければ「概念的」に過去にも未来にも遍在するのだ。そこで示されるのが「A変化=B関係」という等式である。これによって、A系列の一角がB系列と重なることになる。

この「付論」は、A、B両系列の役割を見直している。「A系列の本質は、あくまでも『端的な一点による分割』である」とあるように、A系列の主な役割は、現在によって過去と未来を分けることだ。時点が動くことは、むしろB系列の寄与が大きいという。

マクタガートのA系列は、どんな時点もまず未来にあり、それが現在に来て、やがて過去になるというA変化を含んでいる。ただこれは、現在でない時点も現在とみなす立場でいえば、現在がB系列の「より前・より後」に沿って動いていくことにほかならない。両者の違いは視点の置き方による。時間の「動性」ということでいえば、本質的に同じことの二つの現れなのかもしれない。これはこれで、すっきりする話ではある。

「付論」が興味深いのは、A系列やB系列が意味するものを再整理した後、それを人間の考察につなげていることだ。それによると、「現在」は「私」に似ているらしい。

二人の人物が会話しているとしよう。一人が「私こそが(唯一の本当の)私だ」と主張すれば、もう一人は「あなたは私ではなくあなたである」と反論するだろう。この議論は決着がつかない。「二人とも対等に『私』」だからだ。「二種のリアリティ」が共存することになる。では、異なる時点の現在同士が語りあうとしたらどうなるか。どちらも自分こそが「現在」と言い張るから、同様に「二種のリアリティ」が出現することになるだろう。

時間は、「私」から類推できるのだ。ただ、時間論では忘れてならないことがある。「二種のリアリティ」が「変化」に欠かせない、ということだ。時間の本質である「変化」を思い描くとき、「複数の現在」を「対等」ととらえる見方と「一つの現在だけが現実の現在」という見方を併せもつ必要がある。前者は「変化」を俯瞰する「超越的見地」、後者は「現実」にこだわる「内在的見地」だ。矛盾含みでも両者を受け入れなくてはならない。

訳者は、ここで「端的な現在」――すなわち「一つの現在だけが現実の現在」として現れる現在――がいつなのか、という問いに答えることの難しさを語る。そこには、B系列の「より前・より後」の枠組みには収まり切らない「語りえぬもの」があるという。

さて、その「語りえぬもの」に迫るときに「私」との類推が役に立つのだ。「私」は、「その眼からしか世界は見えず」「その身体しか現実には動かせない」ので、「現実にはただ一人しか存在しえない」。だが、私たちはその制約を熟知したうえで、だれもが「私」であることを受け入れている。他者に「人格(person)」を付与するのだ。これは、「一時点」だけが現在なのに「どの時点」も現在になるという時間論の「矛盾」に通じている。

ここで強調すべきは、訳者はこの「矛盾」によって時間が存在しないとは言っていないことだ。むしろ、「時間の存在のためにはその矛盾が不可欠」という見方をする。

ここからは、訳者の見解を私なりの解釈で要約してみよう。私たちが、この今を「端的に現実の現在」と感じるとき、それは「端的に現実の現在」の「一例」とみているわけではない。それは、まぎれもなく唯一の「端的に現実の現在」なのだ。人はその内側にいて、それを「丸ごと」体験する。だがその一方、外側の視点で、同様の現在がほかの時点にもあることを知っていて、両者を見比べている――私たちが感じる時間はそのようなものだ。

これは「私」についても言える。「私」が自分は「端的な私」だと自覚するとき、それは唯一の「端的な私」だ。「私」は「端的な私」の内側にいる。ただ外側の視点で、同様の「私」が他者にも宿ることを知っている――「私」とはそういうものである。

マクタガートの時間論は、時間に内在する矛盾を明らかにしたことに意義がある。ただ、その結論として「時間の非実在性」を言われても、私たちの人生観にそれほど響いてこない。そうだとしても、時間はいつものように流れ、私たちが過去を悔やみ、未来に慄くことに変わりがないからだ。時間とは、たとえ幻影であっても、できすぎた仕掛けだ。訳者が着眼した「現在」と「私」の相似性も、その仕掛けに関与しているのだろうか。

訳者は本書の「はじめに」で、マクタガートの時間論をルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの独我論に引き寄せている。前者の「時間には矛盾がある」は後者の「独我論は語りえない」に対応し、「矛盾」や「語りえなさ」なしに世界は成り立たないと主張する。

考えてみれば、「現在」も「私」もとらえどころがない。「現在」はあるはずなのに、その瞬間を私たちは指し示すことができない。「私」は何かと問われれば、その答えに窮する。両者に「矛盾」や「語りえなさ」がまとわりついているのはもっともなことだ。

ただ、世の中には「矛盾」を放ったままにできない人たちがいる。たとえば、自然科学者がそうだ。今、物理学界にどんな時間論が現れているのか。次回は、そちらに踏み込む。
*1 当欄2023年4月21日付「時間がない哲学者は言った
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月28日公開、同日更新、通算676回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

2 Replies to “時間を「我が身」に引き寄せる”

  1. 尾関さん、

    John Ellis McTaggart が「The Unreality of Time」を書いてから115年。生活のなかの「Time」は、大きく変わってきました。1908年には、まだ腕時計は普及しておらず、分刻みの行動など思いもよらなかったはずです。2023年にはスマホで正確に時刻を知ることができ、分単位の行動があたりまえになっている。バスの運転手が時計を見て時刻きっかりにバスを発車させるなんていうことは、115年前には想像できなかったはずです。

    John Ellis McTaggart が、今とは違う時間感覚を持ち、時間を量で考えて、量が多いほど物事が遅く現れ、量が少ないほど早く現れるなんていうことを考えてみたり、いや、その逆じゃないかと考えてみたり、時間の長さは無限なのだろうか、それとも有限なのだろうかと考えてみたり、時間が姿をあらわすとしたら、どんな姿なのかなんて妄想してみたり。。。虫さんの奥様でなくても「時間のことを考えて、時間を無駄にしている」と言いたくなります。

    尾関さんご自身は「矛盾」や「語りえなさ」に居心地の悪さを感じますか? それとも「矛盾」や「語りえなさ」があっても平気なほうですか? 私は「矛盾」や「語りえなさ」を心地よく感じます。変ですか?

  2. 38さん
    《「矛盾」や「語りえなさ」があっても平気なほうですか?》
    平気なほうです。
    たぶん、「矛盾」や「語りえなさ」は、「38」時間論でいえば「過去nothing→現在something→未来nothing」の構図にあるのではないでしょうか。
    現在だけを実感していればよいはずなのに、nothingの過去や未来が気になってしようがない。
    これこそが「矛盾」であり、語りえないことなのだろうと思います。

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