今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊
先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。
著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」
その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。
著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。
で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。
最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。
この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。
この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。
ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?
この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。
その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。
余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。
数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。
ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。
量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。
近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。
で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。
最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。
ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
・今日、小田急沿線に住むAさんは、友人と高田馬場でビリヤードを楽しむために新宿駅を通る。
・今日、千駄ヶ谷に住むBさんは、下北沢にある小劇場で芝居を楽しむために新宿駅を通る。
・旧知の仲であるAさんとBさんは新宿駅で遭遇し「いやあ、奇遇だなあ」とひとしきり会話を交わす。
この場合、2人の行動は以前から決まっていた「必然」であり、「必然の交差が偶然を生んでいる」。
ニュートンの世界までしか理解できない人間の、如何にも稚拙な例えですが、現在の量子論が「偶然」とする位相のさらに奥の位相に、「偶然」を生む「必然」が潜んでいるということはあり得ないのでしょうか?
虫さん
量子力学の非決定論的な性格に我慢がならない人たちがもちだしたものとして「隠れた変数」の理論がありますね。
目に見えてこない変数が量子世界をも決定論的に支配している、という考え方。
アルバート・アインシュタインも、その立場でした。
ところがこれに対しても、それを打ち砕く理論と実験が出てきた。
やっぱり、偶然は凄いんです。
尾関さん
なるほど。ありがとうございます。
原因と結果という因果律の成り立たない「国会」のようなもの、と理解しておきます。