今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊
話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊)を今回も。先週は本書から、現代の資本主義が無限を求めるという習性ゆえに有限な地球を食い尽しつつある現実を切りだした。では今、どうすればよいのか、を今週は考える。
この問題で著者はまず、「気候ケインズ主義」の幻想を打ち砕く。その筋書きでは「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資」が「安定した高賃金の雇用」を生みだし、需要を呼び起こして景気の好循環につながるだろうと見込むが、そうは問屋が卸さないというのだ。いま世界では経済成長と環境保護の両立をめざすグリーンエコノミーの論調が全盛だが、それに対する異論が全展開される。
ここでもちだされるのが、英国の経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが19世紀半ばに見いだした逆説だ。石炭を高効率で使える技術が登場しても、それは期待に反して石炭資源の節約に結びつかない。石炭が安くなって用途が広がり、消費はかえってふえるというのである。「ジェヴォンズのパラドックス」と呼ばれる。著者は、これをグリーン技術と環境負荷の関係に当てはめて、グリーンエコノミーの罠をあぶり出す。
電気自動車が広まった社会を考えてみる。その生産工程で化石燃料を燃やせば、そこで二酸化炭素(CO₂)が出る。充電用の電力を得るときも同様だ。発電に再生可能エネルギーを使うとしても、太陽光パネルや風力発電機をつくる段階でCO₂が吐き出される。著者はここで、電気自動車の台数が2040年までに今より2桁ふえてもCO₂の総排出量はほとんど減らないという国際エネルギー機関(IEA)の試算を突きつけている。
電気自動車については、耳に痛い話がもう一つある。リチウムイオン電池のリチウムは、主要産地が南米チリの山岳部にあり、そこで大量に汲みあげた地下水から採りだしているという。自然環境に影響がないわけがない。「石油の代わりに別の限りある資源が、グローバル・サウスでより一層激しく採掘・収奪されるようになっている」。これも、当欄が前回論じた外部化の例だ。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」)
それ以外のグリーン技術も批判の的になる。たとえば、バイオマス。植物由来の有機物を燃料に使えば、その植物が光合成で取り込んだCO₂を再び吐き出すだけで済む。ただ、その植物を栽培するために熱帯雨林が切り払われたらどうか。森林が光合成で吸収するCO₂は莫大だから、排出量抑制の効果は薄れてしまう。さらには、森の生態系が失われることも無視できないだろう。一つの環境負荷を抑えても別の負荷が頭をもたげるのだ。
著者は、IT(情報技術)をグリーンととらえる見方にも異を唱える。現代は「脱物質化した経済システム」が生まれつつあるように見えるが、そうではないと言う。「コンピューターやサーバーの製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費される」からだ。
これだけ気候ケインズ主義がボコボコにされれば、資本主義を続けながら気候変動に立ち向かうのは難しそうだ、と思えてくる。では、資本主義をやめればそれでよいのかと言えば、そういうわけでもないらしい。著者が問題視するのは、欧米に台頭してきた「左派加速主義」だ。マルクス前期の生産力至上主義にこだわり、「資本主義の技術革新の先にあるコミュニズム」ならば「完全に持続可能な経済成長が可能」とみる立場だという。
この本が左派加速主義の代表例としてとりあげるのは、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニが唱える「完全にオートメーション化された豪奢(ごうしゃ)なコミュニズム」だ。畜産に広大な放牧地が必要なら、人工肉を工場で量産すればよい。人類の敵である病に対しては、遺伝子工学で立ち向かえばよい。リチウムなどレアメタルが文字通りに希少なら、宇宙開発を進めて小惑星で採掘すればよい……そんな具合に技術至上論の趣がある。
左派加速主義に関心が集まる背景には、太陽光など再生可能エネルギーへの期待が高まったこともあるだろう。それは「無償のエネルギー源」なので、コミュニズム向きだ。地表を太陽光パネルで埋め尽すことが地球環境を損なうというなら、宇宙空間で太陽光を集めればよいのかも……こう考えると、旧ソ連とは異なる流儀で経済成長を伴うコミュニズム(共産主義)をめざすことは、時宜に適っているようにも思えてくる。
だが、著者は舌鋒鋭く、左派加速主義を弾劾する。経済の規模が膨らめば「結局は、より多くの資源採掘が必要となる」。エネルギー需要の高まりは再生可能エネルギーをふやしても追いつかず、CO₂濃度の上昇は避けられない。ここにも「ジェヴォンズのパラドックス」がある、と論じている。これについて、私は半信半疑だ。ちゃんとした試算をみてから判定しよう。ただ、生き方論で言えば、左派加速主義に同調する気にはなれない。
これは、私たちの世代の偽らざる実感ではないか。電気冷蔵庫だ、クーラーだ……と家電の登場に喜んでいるうちに電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ。その結果、未曽有の大事故である。ITもそうだ。電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……つぶやきも動画も瞬時にやりとりできるようになったが、自分がいつも監視されているような気がする。技術は過信できない。技術に浸るのは怖い。そんな思いがある。
では、私たちの世界が気候変動の危機を回避して生き延びる処方箋は何か。「脱成長コミュニズム」だ、と著者は言う。本書によれば、それはマルクスが最後にたどり着いた思想と同じものだ。共同体が「同じような生産を伝統に基づいて繰り返している」とき、そこには「経済成長をしない循環型の定常型経済」(太字は本文では傍点)がある。マルクスは晩年になって、そのことに気づいた。著者は、それを知って現代に生かそうと考える。
文字通り、処方箋のように「脱成長コミュニズムの柱」が箇条書きされたくだりが、この本にはある。筆頭に挙げられているのが「使用価値経済への転換」だ。「使用価値」という言葉がキーワードなので、これを軸に今風のコミュニズムを読み解いていこう。
「使用価値」とは、言葉を換えれば「有用性」だ。この本によれば、それをマルクスは商品の「価値」と切り分けて考えていた。資本主義は商品としての価値を重んじるので、「売れればなんだってかまわない」「一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」と思いがちな側面がある。「使用価値」とは関係のないところで商品の「価値」が高まる例として、「ブランド化」やそれがもたらす「相対的希少性」が挙げられている。
「使用価値」の高いものとしては、コロナ禍で品不足になった物品が例示されている。マスク、消毒液、人工呼吸器だ。「先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかった」のはなぜか? それはコスト高となる国内生産を嫌い、海外生産に依存したからだ、と著者はみる。「資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした」――これこそは、私たちが1年前に痛い目に遭った現代資本主義の現実である。
脱成長コミュニズムでは「エッセンシャル・ワークの重視」も「柱」の一つだという。「エッセンシャル・ワーク」という用語は、今回のコロナ禍でにわかに知れ渡った。医療、介護、配送、清掃……。巣ごもりが奨励されるときでも働かざるを得ない人々が世の中にいることを思い知らされたのだ。これは、「使用価値」の労働版にほかならない。保健所の激減がコロナ対策を滞らせていることは、この柱が必須であることを物語っている。
このあたりを読むと、当欄がとりあげたスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの論考「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号、青土社)を思いだす。そこでジジェクは、コロナ禍では医療資源の配分をめぐって、「適者生存」に対抗する思想として「再発明されたコミュニズム」がありうることを論じていた。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)
だが、「使用価値」優先にも問題はある、と私は思う。Aの危機ではX、Bの危機ではYというように必要なものは危機によって違う。XもYも……となにもかもは用意できまい。そもそも「脱成長」だって心配だ。高齢化などで高度の社会保障が求められる今、私たちは成長なしでほんとにやっていけるのか? ブランドの幻想にだまされない、シェア経済で無駄な消費をしない、というように工夫はいろいろあろうが、それだけで間に合うのか。
脱成長コミュニズムは未完成のように私には思える。ただ、人類がいつの日かコロナ禍を乗り越え、社会を再設計しようとするとき、この思想にいくつかヒントを見いだせるのは確かだろう。保守派を任ずる人も、コミュニズムと聞いただけで顔をしかめないほうがよい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月14日公開、同月17日最終更新、通算574回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
「電気冷蔵庫だ、クーラーだ……で、電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ」「電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……で、自分がいつも監視されているような気がする社会ができあがった」「技術は過信できない」「技術に浸るのは怖い」。。。そんな思いは私も同じです。
この本を読んで感じた違和感が、尾関さんの書評に書かれているように思えて、なんとなくホッとしました。この本の不思議なところは(どんな話題についても)「まずつかみの部分で私を惹きつけ、次に違和感を感じさせ、最後には突き放す」の繰り返しだったことです。
例えば(尾崎さんの言い方をお借りして)「処方箋のような『脱成長コミュニズムの柱』の箇条書き(① 使用価値経済への転換、② 労働時間の短縮、③ 画一的な分業の廃止、④ 生産過程の民主化、⑤ エッセンシャル・ワークの重視)」ですが、まず「ふむふむ」と引き込まれて読み、次に「これって、ディジタルトランスフォーメーション(DX)の結果起きることのリストと同じじゃないか」と考え、最後に「なぜこれが『脱成長コミュニズムの柱』なのか」という反感で終わってしまう。
それぞれの話題について、見事なまでに「なんだかなあ」と感じさせる。時代を見る目が素晴らしく、話題の選び方も読者をひきつける能力も抜群なのに、その先が少し幼稚に思えたのは、私だけでしょうか。この著者が年を重ね、企業で働くなり国際NGOで働くなりすれば、(それぞれの話題について)少しは説得力のある結論が出せるようになるのではないか。こんなことを書くのは、私が年を取ったせいなのでしょうが。なんでもかんでも「脱成長コミュニズム」に持って行ってしまうのは、あまりにあまりだと思いました。
ドイツと日本という敗戦国同士の組み合わせは、時に非現実的な空論を生み出します。ただ、今、起きている変化は、そんな空論が通じるほど単純ではない。若い学者がこんな(老人が書くような、20世紀的な)机上の空論で時間を浪費しているのを見ると(そしてその空論が好意的に受け止められているのを見ると)、日本は世界から取り残されてしまうんだなあという感じが強くなります。そんな危機感を感じさせる一冊ではありました。
この本のおかげで(というか、尾関さんのおかげで)、外部化社会のこと、エッセンシャル‣ワーカーのこと、パノプティコンやシノプティコンのことなどなど、あまり考えていなかったことを考えることができました。ありがとうございました。
余計なことを書きますが。。。正直なところ「豊かさをもたらすのは資本主義なのか コミュニズムなのか」なんていう二択には、えっ?(いったい何十年前に生きてるの?)という感じを持ちましたし、「社会における生産活動の水平的共同管理」なんていう文には嫌悪感を抱きました。生きていくのに必要とされる様々な生産‣消費活動を行う領域「必然の国」も、芸術 文化 友情 スポーツ等の人間らしい活動を行う領域「自由の国」も、嫌です(飲み屋ばかりの「赤羽の国」や 風俗店が並ぶ「西川口の国」のような猥雑で垢ぬけていない感じのほうが、ずっといい)。正しいことしかしないなんていう人がいないように、悪いことしかしないなんていう人は(たぶん あまり)いない。ひとりひとりが正しさと悪さを身に纏い、立派な人生と サエない人生を 同時に送る。「必然の国」や「自由の国」ではなくて、悩んで生きる普通の人がいる普通の国がいい。人が生きている社会は キャピタリズムでもコミュニズムでもないのだと、声高に言いたくなりました。
38さん
今回、拙稿後編を書いてもなお残るモヤモヤを言語化してくださったようで、感謝です。
《芸術 文化 友情 スポーツ等の人間らしい活動を行う領域「自由の国」も、嫌です》
なぜか私たちの世代には、38さん同様、こうした感情を拭えない人が私を含めて多くいるのですね。
芸術もいい。
文化もいい。
友情もいい。
スポーツもいい。
だが、それらを人生の目的のようなものとして押しつけられるのが、どうも気に入らない。
この感覚を後続世代にも伝えたいが、そのコトバが見つからないのです。