ヒト以外と線を引く、という生き方

今週の書物/
句誌の掌編エッセイ
大上朝美著、「鏡」第31号、鏡発行所、2019年4月刊

線の引き方

新型コロナウイルス禍は、その発端をめぐって諸説が入り乱れている。ただ一つ、ほぼ間違いないと思われるのは、これが「人獣共通感染症」であろう、ということだ。ヒトが獣(この用語では、哺乳類に限らず広く脊椎動物を指している)からうつされる感染症である。今回の病原体は今のところ、コウモリを宿主としていたウイルスに由来するとみられている。それが21世紀の今、なぜヒトに乗り移ったのか?

先々週5月1日付の当欄(「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)でとりあげた『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、ジョルダーノはこう書いている。「今回のパンデミックのそもそもの原因」は「自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」と。コロナの疫病禍は、ヒトにヒト以外の生物種とのつきあい方を見直すよう迫っていると言えるだろう。

で、今週は、句誌「鏡」第31号(鏡発行所、2019年4月刊)にある掌編エッセイ(大上朝美著)。著者本人が、エッセイと標榜しているわけではない。題名もない。投句者として、自句掲載のページの余白に寄せた1000字に満たない文章だ。

著者は、朝日新聞文化くらし報道部(旧学芸部)で活躍した人。私にとっては新聞社の1年先輩にあたる。新聞記事らしからぬ機知に富んだ文章を書く記者として私は尊敬してきた。その人と退職後、とある句会で席を並べることになった。それが縁で「鏡」をいただいた。

「ふと窓を見ると、ベランダの柵に一羽の鳩が止まって、横顔をこちらに向け、じっと観察している風である」――掌編エッセイは、こんな一文で始まる。都会のマンション生活にありそうな情景を、過不足なく切りとった描写だ。それは、どうやらキジバトらしい。1羽ではなく、「夫婦」でいるようだ。窓を開けると、当然のことながら飛び去った。著者は「営巣の下見に来ていたらしい」とみてとる。

ここで著者は、過去の記憶を呼び起こしていく。数年前はドバトがやって来た。見ると、ベランダのコンクリートに松葉や枯れ葉が並べられていた。巣づくりは完工しなかったが、着工はされていたのだ。ずっと昔、大阪に住んでいたころには「スズメの家主」になったこともある。巣は、ベランダ外壁のエアコン用に開けられた穴のあたり。雨除けのためのパイプを巧妙に借用した下向きのつくりで、雨露をしのげるタイプだった――。

著者が問いかけるのは、鳥たちは「どうしてこんな無機的な場所に来ようとするのだろう」ということだ。今の住まいは、近くに樹木の緑がたくさんあり、鳥たちにとって営巣地に事欠かない。かつての大阪の住まいも、広大な緑地のそばにあったので同様だった。

……と、ここまで読んでくると、著者は動物を苦手とする人、もっと言えば、動物嫌いと早とちりする人が出てくるかもしれない。だが、それは大いなる誤解だ。ご一緒する句会で投句や選句の傾向を見ていると、彼女の鳥や虫に対する愛着はなまなかではない。

そして、読ませどころは最後の段落。ベランダで鳩が卵をかえしたことを喜ぶ人が自分の知人にもいることに触れた後、毅然として言う。「私は鳩には来てほしくない派だ。生き物の気配はうれしい。しかし一線は引きたい」――このひとことに、私はしびれる。

この句誌は、去年4月1日の発行となっている。平穏だったあのころは、都市の日常を描く身辺雑記として読まれたのだろうが、1年後の今になってみると、そこに深い意味が潜んでいることに気づかされる。ヒトとヒト以外の動物の間には一線を引き、一定のディスタンス(距離)を置くべきだったのだ。それを怠ったため、今の私たちはヒトとヒトの間にディスタンスをとるよう求められている。なんという皮肉だろうか。

ヒトという生物種は、森を切りひらき、ほかの生物種を追い払っただけではない。そこに、わけのわからない「第二の森」を築きあげて、ほかの生物種を呼び寄せてしまった。ベランダの風景は、そのことを如実に物語っている。

余談だが、この句誌では、ほかの投句者が書いた掌編エッセイも味わい深い。そのなかの一編は文字通り、都市生活での人と人との距離のとり方を話題にしていて秀逸だった。「鏡」第31号は、俳句好きの感性がとらえた「距離」論としても読めるのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月15日公開、通算522回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「ペスト」考、拙稿再読で知る怖さ

今週の書物/
「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」
尾関章執筆、ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付

市門を閉じる

新型コロナウイルスの感染禍が、日本列島にも押し寄せたころからだろうか、アルベール・カミュの長編『ペスト』の書名をメディアで目にすることが多くなった。もっともな話だ。この小説を読んだことのある人は、今まさに進行中の出来事を見て既視感のような感覚に囚われたのではないか。だが、それは錯覚としての既視感ではない。この作品世界に入り込んだとき、コロナ状況と酷似した現実を仮想体験していたのである。

この小説は、ペストという今では抗菌薬で対抗できる感染禍を題材にしている。だから、私は新型コロナウイルス感染禍の当初、あえてとりあげようとは思わなかった。だが、この闘いが長期戦とわかった今、その作品世界を再訪することは大いに意味がある。

この小説のことは9年前、当欄の前身で書いている。それはブック・アサヒ・コム(現・好書好日)欄に残っていたのだが、残念なことに今は外されてしまった。それならば、と当時の拙稿を私のPCから掘りだして再読してみることにする。自分が書いた記事を話題にする、という行為には気おくれを感じる。だが、9年前の自分を赤の他人と思って突き放してみれば、そこに過去と現在の対話が生まれそうな気もする。

その拙稿は、「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」(ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付)。公開日は3・11――東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故――から間もない。私たちが津波被害の深刻さに呆然とし、放射能の脅威に慄いていたころだ。私は、そこに実存哲学の「限界状況」を感じとり、「カミュ的状況」と名づけた。カミュの文学は本人の意思とはかかわりなく、実存主義の文脈で語られることが多いからだ。

拙稿の中身に入るまえに、作品そのものについて――。私がこのときに再読したのは、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969年刊)だ。カミュ(1913~1960)が30代半ばだった1947年に発表した作品。フランスの植民地だったアルジェリアの港町オランで40年代にペストが蔓延する、という筋書きになっている。オランは実在の都市だが、ペスト禍はフィクション。それでも迫真なのは、著者の想像力が半端ではないからだろう。

私は拙稿で「カミュ的状況」をこう要約した。オランでは「この町から出てはいけないという強権」が行使され、市民たちは「ハイリスクの空間に閉じ込められる」――緊急事態宣言下で遠出の自粛を求められている今の私たちは、これに似た状況にある。

実際のところ、この小説の筋書きは驚くほど2020年の状況に重なる。類似点を挙げておこう。(以下、「」は拙稿からの引用、〈〉は『ペスト』本文からの引用、ルビは省く)

一つには、ペスト禍で「はじめは役所の発表も抑え気味」だったこと。オランの県当局は〈悪性の熱病〉について〈果して伝染性のものであるか否かはまだなんともいえない〉と即断を避け、〈若干例がオラン市区に発生した〉としか言っていない。これは、私たちがコロナ禍の始まりに経験したことに近い。なべて行政官には、大げさに騒いで混乱を増幅させたくないという心理が働くのか。カミュは、その落とし穴を見抜いている。

「そうこうするうちに、病院は満床になり、死者の数も日に日に増して」というペスト禍の展開もコロナ禍に似ている。そんな事態になって、市の閉鎖命令が出される。市門が閉ざされたのだ。〈この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となった〉。今回、日本政府も医療崩壊が懸念されるようになってから緊急事態宣言を出した。その結果、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められ、コロナが〈すべての者の事件〉となったのである。

私は改めて思う。感染症を封じる手だては、人と人とを隔てることよりほかにないのか――このことは先週紹介した『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、理系出身の作家ジョルダーノが指摘していたことでもある。有効な予防医療がなく、確実に治るという特効薬も見つからない未知の病原体に向きあうとなると、結局は人と人との接触を絶つことから始めなくてはならない。

近代以後の人類は生命科学の領域でいくつもの大発見を重ね、いくつもの画期的な技術を手に入れた。20世紀後半には、生物の仕様書がDNAという核酸分子に刻まれた暗号文であることを見いだした。21世紀に入ると、細胞を未分化の状態に戻して生体組織を再生する医療も夢ではなくなった。それなのに、ヒトが新顔のウイルスに乗っ取られると手も足も出ない。100年前と同じように、人は人から離れることを余儀なくされている。

もっとも、1940年代のペスト禍と2020年代のコロナ禍では違いもある。オランでは閉鎖命令を受けて、市域の内と外をつなぐ通信が制限されていく。手紙は菌を媒介するということでダメ。不急の電話も回線をパンクさせるからダメ。電報だけが頼りだった。

これに対して、私たちにはIT(情報技術)がある。あるときはメールで、あるときはソーシャルメディアで。そして、みんなでわいわいやりたければウェブ会議システムを介して仲間の顔を見ながら語りあうこともできる。その結果、市内と市外の間だけでなく、同じ市内にいる人々の間でも物理的な接触を減らせるようになった。私たちが、生存の枠組みである実空間をどこまでネット空間に置き換えられるかは心もとないが……。

ここで、私が9年前の拙稿には書かなかったことを追記しておこう。『ペスト』の主人公ベルナール・リウー医師が入居するアパートの門番、ミッシェルの死についてだ。階段で鼠の死骸が見つかっても〈この建物には鼠はいない〉と譲らない老人。住人にとっては身近な人物だった。その門番が体調を崩し、高熱を発して弱っていく。リウーは治療を施し、救急車に乗せて病院に向かうのだが、門番は〈鼠のやつ!〉とつぶやきながら息を引きとる。

そのあとの一文が、心に刺さるのだ。〈門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる〉

今回のコロナ禍で、私たちが〈恐怖〉を感じはじめたのは有名人の感染死が伝えられたころではなかったか。有名人は、メディアを通じてのことだが、門番同様に私たちが身近に感じる人物だ。人々は、有名人の死の向こうに市民社会の危機をのぞき見たのである。

9年前、私は〈門番の死〉のくだりを拾いだして拙稿に書き込んではいない。ところが今、もう一度『ペスト』のページをぱらぱらめくってみると、この一節に目がとまり、心に残った。それは、私たちが今まさに実空間の感染禍を体験しているからだろう。

この作品の登場人物の多くは、疫病禍の限界状況と対峙して「人としての生き方を変えていく」。私たちもコロナ後に生き延びているならば、今と異なる生き方をするに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月8日公開、同年6月1日最終更新、通算521回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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物理系作家リアルタイムのコロナ考

今週の書物/
『コロナの時代の僕ら』
パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊

距離をとる

コロナ禍の巣ごもりで、ネット通販サイトに入り、読みたい本を漁っていたら、「コロナの時代……」という字面が目に飛び込んできた。「コロナ」とは、もともと光の環。太陽の周りの輝きだ。悪い意味はない。クルマの名前になった。ビールの銘柄にもなっている。旧刊本が書名に比喩として用いているのだろうと思った。ところが刊行日を見て、クラクラとなった。つい、先日ではないか。「コロナの時代」とは、まさに今のことだった。

驚くのは、それがハードカバーの単行本であること。大事件を受けて手っ取り早くまとめあげた緊急出版、という感じがまったくない。しかも、翻訳本だ。著者が執筆して訳者が翻訳し、それを校正して……そんな工程を思い描き、あまりの早業に圧倒された。

著者名を見て、もう一度驚かされる。パオロ・ジョルダーノ……どこかで見た名前ではないか。そう、かつて私が新聞の読書面で書評した小説の作者だった。イタリア・トリノ大学の大学院で素粒子物理を専攻した理系出身の作家である。その小説は『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房)。拙稿は「理系男は、どうしてこうも不器用なのか」(朝日新聞2009年8月2日付朝刊)という一文で始まっている――。

孤独な人間が心を通わせることを、素数同士の関係のありようになぞらえた作品だった。素数を2、3、5、7、11、13、17……と順に並べていくと、2と3を例外として決して隣りあうことがないのである。

あの小説の書き手が、このコロナ禍をリアルタイムで語っているとは! それは、私の心を強くとらえた。著者の早書きに倣って、私も早く読み込みたい。で、今週は『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊)。

この本はエッセイ27編から成るが、邦訳版には新聞への寄稿1本も加わっている。訳者あとがきによると、エッセイは今年2月29日から3月4日までに集中執筆されたという。イタリアで新型コロナウイルス感染症の累積感染者数が1000人余から3000人余に急増したころだ。寄稿記事は有力紙「コリエーレ・デッラ・セーラ」(2020年3月20日付)に掲載されたもの。すでに感染者が累積4万7000人に達し、死者も4000人を超えていた。

この経緯からわかるように、エッセイと寄稿記事は雰囲気がガラッと変わっている。前者は、不安を打ち明けながらも事態を冷静に読み解いている。ところが後者は、論理を踏まえながらも自らの主張を叫びのような痛切さをもって訴えかけているのだ。

ここでは、前者を中心に読みどころを拾いあげていくことにしよう。なぜなら前者からは、感染拡大が身辺に押し寄せようとしていたころ、著者が事象の本質を見抜いていたことがうかがえるからだ。

「感染症の数学」という一編で、著者はこう書く。「ウイルスの前では人類全体がたった三つのグループに分類される」。3群は「まだこれから感染させることのできる人々」「すでに感染した感染者たち」「もう感染させることのできない人々」。著者が注意を促すのは、一つめの群が圧倒的に多いことだ。執筆時点で新型コロナウイルスに感染可能な人々は「七五億人近く」――ほぼ、全人類ではないか。(*この本は、三つめの群を「犠牲者」と「回復者」としているが、再感染があるとすればそう言い切れなくなる)

次の一編は「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」の一文で書きだされる。球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き……という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる」というのである。

この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖によるふえ方を数値化したもので、前述ビリヤードの例では再生産数=2。著者は、今回の感染禍の3月時点の再生産数も書いているが、それは確定値ではないので引用は控えよう。

ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播(でんぱ)は自ら止まり、病気は一時(いっとき)の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。

今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」――

これこそが今、緊急事態宣言下で私たちが心がけている行動変容なのだろう。旅行や外出を控える、パーティーや飲み会を取りやめる、密を避けて対人距離を大きくとる――大変ではあるが、単純なことでもある。新型コロナウイルスの感染症はワクチンのような予防策がなく、死と隣りあわせの病であることが歴然としているのだから、再生産数が1を超えるとわかった時点で「我慢」を徹底させるべきだったのだ――読んでいて、そう悔いる一節だ。

話を横道にそらすと、このあたりの考察はさすが物理系の人だな、と思わせる。感染が再生産されるしくみは、粒子の動きを記述する物理学に一脈通じる。ただ、粒子の現象は理論を逸脱しないが、感染の様相は人間の意志で変わる。著者は、この一点を押さえている。

この本には、人々が陥りやすい心理の落とし穴を理系の視点から指摘したエッセイもある。私たちは毎日、テレビのニュースで感染者数のグラフを見せられ、その増減に一喜一憂している。きのうが10人、きょうが20人だとすると、あすは30人と思いがちだが、そこに罠があるというのだ。「自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている」

感染禍について言えば、再生産数は人間によって変えられるが、感染の連鎖そのものは自然界の摂理から逃れられない。足し算ではなく掛け算の効果が卓越するのだ。

一人ひとりの心がまえに踏み込んだ一編もある。たとえば、友人の誕生パーティーをめぐる思考実験。出るか出ないかで迷うとき、頭の片隅で悪魔がささやくこともあろう。招待客の多くが欠席すれば、混雑しないから出席しても大丈夫――だが、みんなが同じようにそう考えたらどうなるか。最良の選択とは「自分の損得勘定だけにもとづいた選択」ではなく、「僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたもの」でなければならない、という。

別の一編では、米国の物理学者の名言「多は異(い)なり」(More Is Different)を引いている。その人は、フィリップ・ウォーレン・アンダーソン。残念なことに、著者がこのエッセイ集を書き切ってまもなく、3月29日に96歳で死去した。物性物理学の研究者で、著者とは専門が異なる。「多は異なり」の文言は、米科学誌「サイエンス」1972年8月4日号に発表した論文の題名である。

これは、物理世界は個々の粒子を知るだけでは理解できないことを指摘した警句だが、著者はその趣旨を今の私たちに移しかえる。「ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物」。まさに至言と言えよう。

私たちは今、家にとどまるだけで感染の再生産数を低下させ、世の中に寄与している。人はみな、個人であると同時に公人なのだ。コロナの春、巣ごもりしながらそう思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月1日公開、同日更新、通算520回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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J・Jに倣って気まぐれに書く

今週の書物/
『植草甚一自伝』(植草甚一スクラップ・ブック40)
著者代表・植草甚一、晶文社、新装版2005年刊

ジグザグ

当欄の源流「本読みナビ」初回では、植草甚一本をとりあげた。植草本と言っても、ご本人の著作ではない。『したくないことはしない――植草甚一の青春』(津野海太郎著、新潮社)。身近にいて、彼の人となりを知る出版人が書いた伝記風の読み物だった。

植草甚一(1908~1979)、愛称J・Jと言えば、私たちの世代にとっては敬慕の的の著述家だった。興味の向かう先はジャズ、映画、小説……それも純文学ではなく、中間小説と呼ばれる半娯楽領域を語るのが得意だった。『したくない…』では、J・J青年が戦争末期、空襲で一度ならず蔵書を焼かれても古本屋漁りをつづけていたことが書かれていた。「したくないことはしない」は「したいことをする」の裏返しにほかならない。

私は、あの初回ブログで「スローで好奇心盛んな植草イズム」を見習う旨、宣言した。書評となると「要所要所に付せんを挟み込み、幾度も読み返す」という精読方式になりがちだが、当欄は、それにこだわらず「むかし読んで記憶の片隅に残る本や、拾い読みをした本のことなども、散歩がてらの立ち読み情報をやりとりするように話題にしていきたい」と心に決めたのである。

だが10年が過ぎてみると、自分は結局、「要所要所に付せんを挟み込み、幾度も読み返す」ことばかりだったなあ、と反省する。「書評」と呼ぶほどの論考は書いていないのだが、肩に力が入ってしまったことは間違いない。これを機に、ちょっと脱力したい……。

で、今週の1冊は『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、晶文社「植草甚一スクラップ・ブック40」、新装版2005年刊)。「自伝」と言っても、1973~77年に『ワンダーランド』『宝島』両誌や読売新聞に載った13編を集めたものだ。このつくりそのものが、雑文の達人にふさわしい。本書初版は79年刊。奥付はJ・Jを「著者代表」としているが、巻末解説を除けば本人執筆のものと読めるので、当欄では「著者」と呼ぶことにする。

冒頭の1編は、著者が東京下町の小網町界隈(現・東京都中央区)で育った体験談。意表を突くのは、それを京都の話から切りだしていることだ。書きだしは「こないだ京都へ出かけて銀閣寺のそばにある親せきの家に一晩泊った」。その親類宅の書棚に英文の観光ガイドを見つける。「銀閣寺案内でも読もうと思ってめくると二条城案内のページが出てきた」。そして、「二条城の平面図を見た瞬間」に「軽い興奮をかんじた」という。

たとえて言えば、銀閣寺へ行こうとぶらぶら歩きを始めたら、方角違いの二条城に出くわしてしまった――そんな感じか。そこでたまたま目に飛び込んできたなにかに心動かされる。その緩さこそが、植草イズムの真髄のように思われる。

本文には、その二条城の平面図らしきものが添えられている。雁行型の建物を真上から見たかたちなので、四角のタイルをジグザグに並べたような輪郭をしている。著者が興奮したのは、「ぼくが少年時代に毎日のように歩いていた人形町とその付近が、だいたいこんな格好だった」からだという。

小網町の子が、なぜ人形町なのか。後段の一編を読むと、それもわかる。前者は平日の放課後「鬼ごっこや石蹴りやベエゴマなどをする裏町」だったが、後者は日曜日に買いものに歩きまわる町で、商店の一つひとつを「軒なみに知っていた」のである。

著者は別のページで当時の人形町界隈を俯瞰する略図も示していて、自分が行き来した街路を太線でなぞっている。たしかに、二条城に似ていると言えないこともない。そこにあるのは、世界地図でオーストラリアを眺めて日本地図の四国を連想するような遊び心だ。

著者は、小さな発見を楽しむ人なのだろう。そう痛感するのは、友人の死去を惜しむ一編になぜか差し挟まれた地下鉄話。東京では「発着前後に、からだが前後に揺れないことはない」が、ニューヨークでは「揺れた経験がなかった」。この実感をもとに、米国のスリラー小説『サブウェイ・パニック』(ジョン・ゴーディ著)にかみつく。J・Jの感覚では、作中で発車時の揺れが描かれていることが気になってしょうがないのだ。

この難くせの当否はわからない。私自身のニューヨーク旅行を思い返しても、地下鉄が揺れなかったという印象はない。ただ一つはっきり見てとれるのは、著者の繊細さだ。街に出れば、見るもの聞くものに感覚を研ぎ澄ますだけではない。体の揺れにも鋭い感度がある。

著者の気まぐれぶりが全展開されるのは、「大火事とボヤと友だちと遊ばなくなった中学生のころ」という一編。冒頭いきなり、「きょうは面白くもない話になりそうだけれど」と切りだしているところがおもしろい。続いて少年時代、左右の隣家が石油問屋と荒物問屋だったことを記憶から紡ぎだす。ここには書かれていないが、著者の実家は木綿問屋。要は、下町の問屋街のご近所話をしようというのだ。

石油問屋の話は、1923年にあった関東大震災の被災譚。富裕な一家だったので、家族は貴重品を運びだして自家用の伝馬船3艘に分乗、隅田川へ逃げようとした。ところが川面は同じような伝馬船であふれ返っていて、船火事が広がる。その結果、婿養子一人を除いてみな亡くなった。火に包まれた後に溺れたのだから、身元が判明しにくい。その家族は、両手の指に指輪をつけた人ばかりだったから確認できたという。乱歩風の凄みがあって怖い。

この一編では、ここで話が横道にそれる。さあ、次の話題、荒物問屋のボヤ騒ぎにとりかかろうかと思っていたら、そばにあったフランス小説に手が延びてプロローグを訳してみたくなった、と著者は打ち明ける。「そのとき『どうだい、おまえの話のつながりになりそうだな』とそのページが言っているような気がした」というのだが、なんとも都合のよい理屈ではないか。で、1ページ余を割いて、その訳文があたかも地の文のように綴られる。

さすがJ・Jと思うのは、この小説がロベール・サバチエという作家の『三本のハッカのおしゃぶり』という作品で、登場人物が重なる『スウェーデンのマッチ』の続編であることを解説している点だ。まさか、マッチつながりだから、というわけではなかろうが、このあとようやく話はボヤ騒ぎに移る。

火は、荒物問屋の倉庫から出た。これに著者の実家の番頭が気づき、一家総出のバケツリレーで鎮火した。で、話題はまた、その荒物問屋の息子「豊ちゃん」の近況に飛ぶ。「二年ほど前に電話が掛ってきて、そのときぼくは留守だったけれど、あとで豊ちゃんが二年間ニューヨークで高島屋の支店長をしていたと知った」というのである。東京・下町の問屋街で隣同士だった少年二人が後年、「ニューヨーク好き」と「ニューヨーク勤務」でつながるというのは愉快だ。

意外なのは、その豊ちゃんが電話で著者の家族に漏らしたという思い出話。著者が旧制中学に入ったころらしいが、「甚ちゃんと遊びたくなっても、勉強でいそがしいと言って遊んでくれないんで、いつも妹さんと遊んでいたんですよ」。著者は「遊び」という言葉がこれほど似あう人はいないと思えるほどの粋人だが、少年期はガリ勉でもあった。そのことを有名百貨店の要職にも就いた隣家の子が証言しているという構図がほほえましい。

この一編の流れをさらに追いかけよう。著者は豊ちゃんの回顧談を否定しない。「そう言えばねえ、学校から帰るなり二階の部屋で机にしがみつきどおしだったなあ」。授業を復習して丸暗記、参考書を手に就寝。「カミサマ」に「一番にしてください」と頼んでいたという。

そして実際、1番になる。3年生に進級するときは、親からの褒美でドイツ製のカメラを手に入れた。メーカー名は「エメルカ社」。同じころ、国内では「エメルカ映画」の名を冠した作品も上映されていたという。たとえば、「悪魔の満潮時」という「不思議な表現派映画」がそうだ。著者がこの作品を東京・万世橋の映画館で観たとき、弁士は徳川夢声。登壇しての第一声は「三人しかお客がいないな。やめてしまおうか」だった。

「悪魔の満潮時」の上映は、3日ほどで打ち切られたのではないか。著者は、そう推理してこう結ぶ。「そんなことを調べるには、やっぱり『キネマ旬報』だけしかないだろう」

元に戻って話題をもう一度たどれば、関東大震災→フランス小説→ボヤ騒ぎ→隣家の息子→ガリ勉→舶来カメラ→表現派映画→夢声→キネ旬。なんというジグザグ。まるで、人形町の街路か。これぞ、J・Jの気まぐれ世界ということだろう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年4月24日公開、同月25日更新、通算519回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新装開店、初回は「型破り」宣言

みずみずしい緑

さて、いよいよ、ブログの新装開店。新型コロナ禍で、ひたすら巣ごもりの日々がつづいているが、この間、ものを読んでなにかを書く、という日課を中断して没頭したのは、「店舗」の大改装だった。事前のお知らせに書いた通り、ブログの自前度を高めたのである。

「工事」の模様は、開店前から公開してきた。前身のブログ「本読み by chance」を踏襲して、改行箇所の行頭にアキを入れるか、字体を明朝風にするか、悩みはいろいろあった。試作吟味して行き着いた結論は、ご覧の通り。今風のIT作法に譲歩するかたちになった。

新しい革袋には新しい……ということで、今回、もう一つ高めようと思ったのが、ブログの自由度だ。読書ブログを10年間、500回余もつづけていると、いつのまにか型ができあがり、それに縛られている自分に気づくからだ。型とは、どんなものか?

・草稿はA4判3枚(1枚は40字×36行)
・1枚目には話の「まくら」を書く
・2~3枚目は書誌から入り、つづいて読みどころを拾う
・書物本文の「これは」という表現は、短く引用する
・1段落は、1行40字の設定で3行もしくは5行とする
・結びの段落は1~2行で締める
・一人称は「僕」とする

だいたい、こんなところか。型はしょせん型であって、できあがりが「型破り」ということもしばしばあったのだが、製作過程では自分に課する原則になっていた。経験の積み重ねから醸成されたものなので、それはそれで、一つの財産になったとは思う。

ただ、弊害もある。

「A4判3枚」については、長すぎる、というご批判を聞いた。「まくら」については、自分のことばかりダラダラ書くな、というお叱りも受けた。「一人称は『僕』」は、ときに気恥しくもあった。それだけ年をとった、ということなのだろう。

で今回、心に誓ったのは、上述の7原則をいったん取っ払ってみようということだ。

すべてを捨てるわけではない。「まくら」は手放さない。「3行もしくは5行」も、そのリズム感は大事にする。「僕」は、これからも適宜使うことがあるだろう。要は、原則に気をとられるのはやめよう、ということだ。「読む」と「考える」の遭遇を記述することに専念するために――。

では来週から再び、書物とのめぐりあいをゆっくり楽しむことにしよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年4月17日公開、通算518回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。