雨降りなのに限りなく透明な6月

今週の書物/
「天声人語」
無署名、朝日新聞2020年6月13日朝刊

白十字

6月は不思議な月だ。空を見あげれば雨、雨、曇り、雨……。なのに、どこか明るい。たぶん、景色が水彩で描かれたように透明だからだろう。たとえば、アジサイの淡い色調がそうであるように▼「アジサイ、クチナシ、柿の花……。どれも夏の湿潤な季節に咲く花である」。先日、朝日新聞の看板コラム「天声人語」(2020年6月13日付)も、こんなふうに書き出されていた▼天声人語(略称・天人)は、ふだんは国際情勢から街の流行まで世相のあれこれを話題にしているが、ときに花鳥風月に目を向けることもある。これが、なかなかいい▼今回の天人では冒頭の一文に続けて、これらの花は「声高にではなく」「抑え気味に」咲くという増田れい子さん(故人、毎日新聞記者、随筆家)の所見が引かれている。ただ、天人の筆者がこの日、主役に選んだのはアジサイやクチナシではない。雑草扱いされることも多いドクダミだった。季節の花としては脇役に過ぎない▼「日陰でも、いや日陰だからこそ映えるドクダミの真っ白な花。それをきれいだと思ったのは、実は今年が初めてである」――そうか、筆者が天人に託した思いはこの「今年が初めて」に凝縮されているのだ。いつもと違う初夏。だからこそ、いつもと違う花に目を奪われる、ということか▼話の腰を折って恐縮だが、この記述には少々難がある。「真っ白な花」とあることだ。純白の十字形は花びらではなく包葉であって、花はその真ん中に伸びる黄色の穂にいくつも咲いている。白いのは厳密には花ではない、と指摘してきた読者もいるかもしれない。だが、ここは大らかにとらえてよいのではないか。人は美しい包葉を含めて花を愛でているのだ、と▼ドクダミは、名前こそ毒々しいが、本当は人間にやさしい。この天人によれば「毒を矯(た)める、止める」の意から名づけられたらしい。実際、私が薬草園のデータベースを調べたら「日本の三大民間薬の一つ」とあった(熊本大学薬学部のウェブサイト)▼たぶん、今回の新型コロナウイルス禍には出番がないだろう。ただ、「真っ白な花」には別の薬効がある。「見ていると落ち着くその姿が、心の薬にもなってくれれば」。筆者は、そう結んでいる▼最後にこの一編に織り込まれた一句。〈どくだみや真昼の闇に白十字〉(川端茅舎=ぼうしゃ)。今年の6月は、透明感はあっでも、いつもより暗く感じられる。だからいっそう、白の十字が目に染みる。
――今回の当欄は、天声人語方式で、ぎっしり、短めに書いてみた。「ぎっしり」は達成したが、「短め」は目標に届かず。分量は6割方多めになった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月19日公開、通算527回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

フィッツジェラルド、大恐慌のあとで

今週の書物/
『マイ・ロスト・シティー』
スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊

摩天楼

新型コロナウイルス感染禍は、しだいに経済危機の様相を帯びはじめている。感染予防の決め手が今のところ、人と人との間の距離を十分にとること、できるなら接触しないでいることにあるというのだから、金回りがよくなるはずはない。

先々週の当欄「コロナの時代に新聞は変わる」(2020年5月29日付)に書いた通り、フランスの歴史家エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事(朝日新聞2020年5月23日朝刊)からは、この感染禍によって新自由主義経済が退場を迫られているように思われる。それに伴って、経済のグローバル化という潮流も勢いを失うだろう。ただ、では次に何がやって来るのかと思いをめぐらせると、答えがない。ただ途方に暮れるばかりだ。

経済の危機らしきものは、これまでも幾度となくあった。私たちの世代にとって忘れがたいのは、石油ショック(1973)、バブル崩壊(1991)、リーマン・ショック(2008)の三つだ。このうち前者二つは、とくに強烈な印象がある。石油ショックでは、産業活動の右肩上がりにいきなりブレーキがかかった。バブル崩壊では、浮かれ調子だった世相に突然、暗雲が立ち込めた。皮膚感覚として、事前と事後の落差が大きかったのである。

たとえば、石油ショック後は一時期、繁華街の照明が落とされ、テレビは深夜番組をとりやめた。私たちは1960年代の高度成長期、街はどんどん明るくなるもの、夜はどんどん長くなるものと信じ込んでいたから、常識がひっくり返されたのだ。バブル崩壊後は、夜更けの街で流しのタクシーを拾いやすくなった。1980年代、バブル経済が踊っていたころは酔客の帰宅ラッシュで空車探しが大変だったから、需給の逆転に驚かされたものだ。

コロナ後にもきっと、今の私たちには思いもよらない生活風景が待ち受けていることだろう。その時点からコロナ以前を振り返れば、自分たちはなんとお気楽だったのか、と苦笑するに違いない。で、今週は過去の経済危機に思いを馳せて、書物を選んだ。

『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊)。単行本は、中央公論社が1981年に刊行した。著者(1896~1940)は、『グレート・ギャツビー』――私たちの世代には映画化された「華麗なるギャツビー」の題名が忘れがたいのだが――で知られる米国の小説家。この本では、表題作のエッセイを最後に置き、その前に五つの短編を収めている。所収作品を選んだ訳者は当時、新進作家だった。

訳者の著者に対する思い入れの強さは、巻頭にある「フィッツジェラルド体験」と題する一文からもわかる。「何年ものあいだ、スコット・フィッツジェラルドだけが僕の師であり、大学であり、文学仲間であった」という記述には、最大級の敬意が込められている。

絶賛するのは、20回は読んだという短編『バビロン再訪』(残念なことに、本書の収録作品ではない)の冒頭部。パリの有名ホテルで客がバーテンに、常連客らしい知人一人ひとりの消息を尋ねる場面だ。バーテンは、そのつど「スイスに行かれました」「アメリカにお帰りになりましてね」「先週お見受けしましたよ」と答えていく。この一節だけで、作品から匂い立つ雰囲気が感じとれるし、飾りを剥ぎ取った骨格も見えてくるという。

それを、訳者は「宇宙」と呼ぶ。「極めて小さな個人的な宇宙ではあるけれど、やはりそれは宇宙だ」。著者は一つの宇宙を分解せず、そっくり提示できる作家ということになる。

この巻頭文は、著者の略伝も記している。米国中西部セントポールの生まれ。父は教養人だったようだが、事業につまずいて家計は厳しかった。母の実家が裕福で、その支援を得て「なんとか中産階級としての体面を保っていた」のである。その結果、東部の名門プリンストン大学に進むことができた。こんな背景から「金持に対する憧れと憎悪、自己憐憫と自己客体視という彼の生涯のテーマともなる二面性が芽生えていたのだろう」と、訳者はみる。

訳者は、著者の作品の魅力に「相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていること」を挙げている。二面性を文学に昇華したのだ。逆向きのベクトルには「上昇志向」と「下降感覚」がある。中西部生まれの「素朴さ」とニューヨーク暮らしの「洗練」もある。

こうした二面性や相反感情が時代の空気と共振したのは間違いない。米国は1910年代末、第1次世界大戦(1914~1918)の戦勝気分に沸いていた。ところが20年代末に大恐慌に見舞われる。著者の作品には、20年代米国社会の「上昇」と「下降」が生々しく映しだされている。この本の6編をみても、大恐慌の前と後に書かれたものの間に断絶が見てとれる。そこには世相の暗転があり、それを目のあたりにして途方に暮れる人々がいる。

で、今回は、6編のうちで唯一のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」に話を絞ろう。これは大恐慌後に書かれたものだが、著者自身の少年期や青年期にさかのぼりながら、その折々に目の当たりにしたニューヨーク像を通して、この大都市の変転を跡づけている。

たとえば、1919年はこうだ。「ニューヨークの街はまるで世界の誕生を思わせるような虹色の輝きにむせていた。帰還した連隊は五番街を行進し、若い娘たちはまるでそれにひきよせられるように、東や北にその足を向けた」。大戦戦勝の高揚がそこにはある。

1920年には「突如『新しい世代(ヤンガー・ジェネレーション)』という観念が姿を現わし、ニューヨークの都市生活の様々な要素をひとつのつぼの中に溶け込ませてしまった」(「つぼ」に傍点)。それは、「明るさ」「華やかさ」「生命力」などが混ぜ合わさった「ひとつの空気」だった。もったいぶった晩餐会というより、ちょっと崩れた立食パーティーのような感じ。欧州知識人も一目おく小粋で若々しい文化の登場だった。

著者のデビューは、ちょうどこの年。「私は時代の代弁者(スポークスマン)というだけでなく、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった」。夜を徹して原稿を書きまくり、大枚をはたいて引っ越しを繰り返す日々。「暑い日曜日の夜に私はタクシーの屋根に乗って五番街を走り回った」との記述もある。だが、その一方で「自分たちはそんな華やかな社会とは本当は無縁な存在なんだと思い込んでいた」。ここにも二面性がある。

1927年は欄熟の日々か。そのころ、著者は数年の外国生活を終え、帰米していた。「一九二〇年のあの不安気な空気は確として金色に光り輝く絶え間のない歓声の中に没し去り、友人たちの多くは金持になっていた」。ショービジネスは「ますます大がかりに」、建物は「ますます高く」、道徳心は「ますますゆるめられ」、アルコールは「ますます安価に」――そう、20年から33年までは禁酒法の時代だが、街には酒があふれ返っていたらしい。

オフィス街が酒浸りになる様子はこう表現されている。1920年には「昼食前にひとつカクテルでも」などと言う人物は「ショッキングな存在」だったが、29年には「オフィスの半分には酒瓶が置かれ、大きなビルの半分にはもぐり酒場(スピーキージー)があった」。

まさにバブルの絶頂期。「私の行きつけの床屋は株に五十万ドルばかり投資して引退していた」とあるように、人々は労働よりも投機に走った。「もううんざりだ」――著者は再び国外へ出て、滞在先の北アフリカで「あの崩壊(ガラ)の音を聞いた」。大恐慌である。2年後、ニューヨークに帰ると、そこは「墓場」のようであり、「廃虚」のようでもあり、「遊びまわっていた」のは「無邪気な亡霊たち」だけだった。「床屋はまた店に戻った」のである。

印象深いのは、著者フィッツジェラルドがエンパイア・ステート・ビルの高みに立ったときの眺め。「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかった」。それは「四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿」だったのだ。果てしないのは「青や緑の大地」のほうであることに摩天楼で気づくという逆説。大事象の大波をかぶって途方に暮れたとき、人間は人間の限界を自覚するのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月12日公開、通算526回
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別役実、プチブル「善良」の脆さ

今週の書物/
『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』
別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊

マッチ

若かったころ、「プチブル」という言葉がよく飛び交った。プチブルジョワジー――日本語にすれば小市民、中産階級のことだが、そこにはどこか、「資本家階級のなりそこない」と蔑む響きがあった。デモに行かなければプチブル、授業を受けていたらプチブル……。革命の主力となる労働者階級に対して引け目があったからだろう。左翼運動に共感する青年たちは、そう後ろ指を指されないよう振る舞っていたように思う。

私自身は運動家ではなかったが、それでも「プチブル」と呼ばれたくはなかった。実家暮らしの身。アルバイトで小遣いは稼いだが、肉体を駆使して労働者を自覚することはほとんどなかった。「プチブル」そのものだったわけだが、それを認めたくなかったのだ。

「プチブル」でいいではないか――そう開き直ったのは1970年代半ば。山田太一のテレビドラマが話題を呼ぶようになったころだ。「それぞれの秋」(TBS系、1973年)が印象深い。東京郊外の私鉄沿線に住む中流家庭の物語。兄や妹や親があれやこれやの難題を抱え、次男坊が右往左往する。プチブルだって生きていくのは大変なのだ、と思わせる作品だった。それを見せつけられて、私は自分がプチブルであることを恥じなくなった。

だが、だが、である。「プチブル」は堂々たる存在なのかと問われれば、否と答えるしかない。生活水準で言えば、高くはないが低くもない状態にぽっかり浮かんでいて、低いほうに転落しないか、という脅えがいつも心の片隅にある。自分がいま立っている大地が一瞬のうちに瓦解するのではないか、という不安も強い。プチブルは、はかない。労働者階級とは異なる意味で、抑圧された存在と言ってよいだろう。

2020年の今、「プチブル」のはかなさは、いや増した。「それぞれの秋」の父は定年間近のサラリーマンで、当時の勤労者の平均像だったが、近年は、終身雇用制にのっとって一つの会社で最後まで勤めあげるという境遇にいられるのは恵まれた人に限られる。リストラがある。非正規・派遣で労働を切り売りする人もいる。今年は、それにコロナ禍が追い討ちをかけた。「プチブル」の名にふさわしい階層はどんどん薄くなっている。

で、今週は、『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』(別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊)から、戯曲「マッチ売りの少女」をとりあげる。今年3月に82歳で亡くなった劇作家の代表作の一つ。1966年に発表された。

登場人物は、「女」と「その弟」、「初老の男」と「その妻」の計4人。「初老の男」と「その妻」は、プチブルっぽい夫婦だ。その家庭の日常を、突然の訪問者「女」と「その弟」がかき乱し、波立たせる。

夫婦のプチブルぶりは、冒頭まもなく、二人が「夜のお茶の道具」を手に現れて、それをテーブルに置くときのト書きからもうかがわれる。「この家には、道具の並べ方について厳重な法則があるかのようである」。夫は「いいかね、食卓のつくり方と云うのは微妙でね」と言って、並べ方次第でレモンのツヤに違いが出る、などという自説を披露する。このあと夫婦は、「おむかい」の家が励行する並べ方を俎上に載せて、それを腐すのだ。

どうでもよいことに違いない。だが、このような些細なことにこだわっていられるのがプチブルの特権とは言えないか。

そんな夫婦の前に突然、一人の女が姿を現して「こんばんは」と声をかけてくる。見ず知らずの人物が自宅の一室に闖入してきたのだから、さっさと追い返してもよいはずだ。だが、夫は「どうでしょう、せっかくですから、ごいっしょに……?」と誘う。妻も「そうしなさい。お茶は夜に限らず、にぎやかな方が楽しいのよ」と歓迎する。疑うことをしない善良さ、あるいは善意の押し売り。これもまた、プチブルの特徴かもしれない。

こうして会話が始まる。おもしろいのは、夫が「どちらから」と問うたときの女の返事。「市役所から参りました」。夜の訪問なので、市役所職員が公務で訪れるわけがない。市役所経由でやって来たということなのだろう。このあとのやりとりが読みどころだ。

妻「で、市役所では何て云ってました、私達のことを……?」
女「別に……。」
夫「善良な市民だと……?」
女「ええ。」
妻「モハン的な……?」
女「ええ。」
夫「ムガイな……?」
女「ええ。」

これを受けて妻は、自分たちが「この上なく善良な、しかも模範的で無害な市民」と自負する。夫は、市内には「善良」「模範的」「無害」な市民が362人いると表明した市長の演説を引いて、自分たち夫婦はその端数の2人だと言う。

夫婦は、自分たちの「善良」ぶりも列挙する。「市民税は、沢山ではありませんけど、キチンキチンと納めておりますし、ゴミも沢山は出さない」(妻)、「私共はどちらかと云うと、進歩的保守派です。革新派の奴等は品が悪くてね」(夫)……。女が「ここは……あたたかいわ……」とほめると、妻は図に乗って、それだけでなく「上品です」と言ってのける。豊かではないが過度につましくもない、とも。まさに、プチブル宣言である。

で、夫婦は、市役所が女を自分たちのところへ「差し向けた」と勝手に解釈するが、女はこれをきっぱり否定する。自分は、市役所で「こちら」の様子について聞いただけであり、「こちら」へは「お訪ねしたくなって……お訪ねしたのです」と言い張る。

女は身の上話をこう語り始める――。自分は七歳のころ、マッチを売っていた。20年ほども前のことで自分でも「知らなかった」のだが、最近、ある小説を読んで、登場人物の「マッチ売りの少女」は「私だった」と気づいたという。不条理劇の作家らしい筋の展開だ。

マッチ売りの少女については、背後でナレーションが説明してくれる。「その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった」「その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである」――この作品が書かれたのは1960年代半ば、「その頃」は終戦直後に符合する。高度成長期のプチブル家庭に焼け野原の闇が闖入してきた感がある。

このあと、女はさらに驚くべきことを口にする。それについては、ネタばらしになるので引用を控えよう。一つだけ明かせば、「善良」「模範的」「無害」な夫婦がおぞましい小児虐待の告発を受けることになるのだ。女は自らのマッチ売り体験について、こう問いかける。「何故あんなことをしたのか。誰かが教えてくれたのだとすれば、それは誰なのか」。最後には、女の弟という男まで現れて、プチブルの家庭は大混乱に陥って……。

この作品を読んでいると、私たちの世代のかなりの人々が享受してきた生活の安定が、どれほど脆いものかが見えてくる。プチブルとして「善良」「模範的」「無害」な暮らしをしていても、それは、今のかりそめの姿に過ぎない。突然の訪問者から、振り込め詐欺もどきの嘘っぽい話を聞かされただけで、自らの実像が揺らぎ、自己同一性が危うくなる。コロナ禍で先行きが見通せない時代、その脆さがいっそう怖く感じられる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月5日公開、通算525回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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コロナの時代に新聞は変わる

今週の書物/
新聞オピニオン面の「新型コロナ」インタビュー

エマニュエル・トッド氏(聞き手・高久潤記者)、朝日新聞2020年5月23日朝刊

時差

最近の新聞は、世の論客に大舞台を提供するようになった。私の古巣、朝日新聞について言えば、オピニオン面の大型インタビューがこれに当たる。1ページの2/3ほどを費やして、思いのたけを語ってもらうのだから、読みごたえはある。

新型コロナウイルス感染禍をめぐっても、このインタビュー欄に内外の論客が次々登場している。すぐに気づくのは、聞き手がビデオ電話、テレビ会議システムなどを通して遠くから問いかける例が目立っていることだ。在社の後輩から漏れ伝わる話によると、コロナ禍が広まってからは日常の取材でも直接の面談を避け、遠隔対話方式をとることがふえているという。オピニオン面が、それに同調するのも当然だろう。

皮肉なのは、それが日本の新聞の国際化を後押ししていることだ。Aという国にXという識者がいたとしよう。これまでなら担当記者は、まずX氏から取材予約をとり、海外出張を申請してA国へ飛ぶことになろう。新聞には電話やメールによる一問一答の記事がないわけではないが、大型インタビューとなれば昔ながらの「足で稼げ」型の取材手法が当然視されたに違いない。ところが、今回は防疫の観点から、それができなくなった。

それが、興味深い効果をもたらした。遠隔対話方式ならば、相手が海外にいようと国内にいようと大差ない。言語の壁さえ乗り越えることができれば、地球の反対側にいる人でも目の前にいて話しかけられているように感じられる。日本の新聞記者にとって、世界は内と外に二分された取材対象ではなくなったのだ。コロナ後の日本社会を見通すとき、新聞のつくり方も記者の世界観も大きく変わっていくだろうと思われる。

で、今週の「書物」は、朝日新聞2020年5月23日朝刊に載ったオピニオン面「新型コロナ」インタビュー。フランスの論客エマニュエル・トッド氏の見解を高久潤記者が聞いている。トッド氏は1951年生まれ、歴史家であり、人口学者でもある。(以下、敬称略)

このインタビュー記事の最上段に掲げられた見出しは「『戦争』でなく『失敗』」。トッドは、自国のマクロン大統領が今回の感染禍を「戦争」にたとえたことを批判して、こう言う。「フランスで起きたことのかなりの部分は、この30年にわたる政策の帰結です」。人工呼吸器の不足などを例に挙げ、医療に充てるべき人材や資金を削り込んで「新自由主義的な経済へ対応させていく」路線をとったことが「致命的な失敗」だったと主張する。

「私たちは、医療システムをはじめとした社会保障や公衆衛生を自らの選択によって脆弱(ぜいじゃく)にしてきた結果、感染者を隔離し、人々を自宅に封じ込めるしか方策がなくなってしまった」――この見方は、「失敗」の核心を突いている。

私なりに、それを思考実験で裏づけてみよう。たとえば、感染禍の初期からあまねく公衆がPCR検査を受けられ、陽性となった人に療養・治療の場が用意されていたとする。その場合でも感染者の隔離は欠かせないが、すべての人々を「自宅に封じ込める」必要は薄れる。理屈のうえでは、陽性者に活動を控えてもらい、陰性者が社会生活を営むことで経済を回すことができただろうからだ。だが実際は、そうならなかった。

このあとトッドは、こう切り込む。「人々の移動を止めざるを得なくなったことで、世界経済はまひした。このことは新自由主義的なグローバル化への反発も高めるでしょう」。新自由主義は社会保障や公衆衛生を蔑ろにした結果、自滅寸前の状態に陥ったのである。

トッドによれば、「新自由主義的な経済政策が、人間の生命は守らないし、いざとなれば結局その経済自体をストップすることでしか対応できないこと」がはっきりした。その先を見通すとき、復権しそうなのが国ごとに生活必需品を自給する経済だという。

以上が、このトッド・インタビューを貫く主題だが、このほかにもコロナ禍を考える際の論点がいくつかある。

一つは、戦争とコロナ禍の違いを人口学者の目でとらえた箇所。戦争は、大勢の若者の生命を奪うので「社会の人口構成を変える」。ところが、今回の感染禍は、高齢者が犠牲になることが多いので「人口動態に新しい変化をもたらすものではありません」。なるほど、そんな見方もあるのか。ただ、そうであっても今の社会は、なべて高齢者など高リスク群の救命第一で動いている。これは、私のような高齢者にとっては、ただただありがたいことだ。

世界中に人道精神の発露がある――この一点こそ、今回のコロナ禍を「戦争」にたとえることが適切でない最大の理由ではないか。私には、そう思えてならない。

もう一つ興味を覚えるのは、人々と政治家の関係を語った部分。トッドによれば、英仏では政府が有効な施策を打ちだせず、政治家はただ「ひとまず家にいてください」と言うばかりだった。「でも市民は、それなりに秩序立った社会を維持した」。その結果、「エリートが機能しなくても社会の統制はとれる」と人々が実感した意味は大きい、という。日本社会でも私たちは、緊急事態宣言下の「自粛」で同様の体験をしたと言ってよいだろう。

いったいどうして、私たちは自律的に「秩序」を保てたのか。人々が知的に進化してリスクに敏感になったのか。規制に盾つく気骨を失い、従順になったからか。それとも、ネット社会が同調効果を強めたのか――この謎は、ぜひとも解き明かしてみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月29日公開、通算524回
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もうちょっとJ・Jにこだわりたい

今週の書物/
『植草甚一自伝』
著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊

自転車

おいおい、ひと月前の本と同じではないか、と叱られそうだ。先月のJ・Jに倣って気まぐれに書くだけでは語りたいことのすべてを語れなかった。本来なら2週続きがよいのだが、まずはコロナ禍に対する関心を優先させた。今週はまた、J・Jに戻りたい。

こだわりがあるのは、J・J、即ち植草甚一が赤の他人とは思えないからだ。先方は当方を知らないが、当方は先方を知っているというかたちでご縁があった。私の少年期から青春期にかけて、彼は同じ町内の住人だったのだ。東京・世田谷の地味な町、経堂である。遭遇は一度ではない。駅で会った、電車でも会った、地元の古書店でも……。彼は意識していないのだから「会った」は厳密には正しくない。だが、「見かけた」よりは強烈な体験だった。

視野に入った瞬間、すぐにその人とわかった。白髪交じりの長髪とひげ。ジャケットとも半コートとも見分けがつかない上着。たいていは肩からバッグを提げていたように思う。当時の風俗に照らせば、ヒッピー風のおじいさんということになろう。

J・Jは、同じ町内の別の住人にも鮮烈な印象を残した。小田急線経堂駅の近くには、かつて「ワンダーランド」というジャズバーがあって、私も常連だったのだが、その店主、健さんの脳裏にもJ・Jは生きていた。いつもの癖で肩を上げ下げしながら、「自転車屋の前でさ、他人(ひと)の自転車の修理をずっと見てるんだよね」と言ったものだ。健さんは5年前に亡くなり、「ワンダー…」は閉店した。だが、自転車屋の店先に立つJ・Jの姿は私の心に受け継がれた。

奇しくも、「ワンダー…」という店名はJ・Jが深くかかわった雑誌の誌名と同じだ。J・Jに因んで名づけたのか、と健さんに尋ねると、そうではないという答えが返ってきた。それを聞いて、私は不思議な思いにかられた。同じ町内という小宇宙に、二つのワンダーランド文化が同居していた。それは偶然の共存なのに、片やジャズ評論家、片やジャズバーということで響きあっている。

ということで、『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊)をもう一度とりあげるわけだが、今回はこの本に私の個人的な思いを重ねあわせてみよう。前回は読みどころを紹介するとき、植草さんを「著者」と呼んだ。今回は「J・J」にする。ご町内で見かける一風変わったおじいさんという感じを醸しだすには、そのほうがよいように思えるからだ。

まずは、1970年代半ばの首都圏電車事情にからむ話から。そのころ、J・Jは東京・青山にある雑誌『宝島』(『ワンダーランド』誌の後身)の編集室によく顔を出していたらしい。午後8時、退室して帰途につく。そこで、さてどう帰ろうかと思案する。「青山一丁目から地下鉄で表参道で乗り換え、ちょい歩いて千代田線で代々木公園まで乗ってから、こんどは小田急で経堂まで帰ったほうがいいな」

懐かしさを覚えるのは、「代々木公園まで乗って」の記述だ。地下鉄千代田線は今は代々木上原駅で小田急線に乗り入れているが、あのころはひと駅手前の代々木公園駅が終点で、小田急に乗り継ぐには代々木八幡駅まで歩かなくてはならなかった(余計な詮索だが、上記引用でJ・Jは「代々木公園まで乗ってからちょい歩いて」と書こうとして、「ちょい歩いて千代田線で」と筆を走らせてしまったのではないか)。

そう言えば、と思いだすことがある――。私は小田急電車の座席に腰掛けている。そこに乗り込んできたのがJ・J。前方の席の0.5人分ほどの隙間にお尻をぐいぐい食い込ませて、すわった。そしてすぐさま本を開き、読書に耽ったのだ。たぶんあれは、私が新宿から乗ってきた下り電車が代々木八幡駅に停まったときのことではなかったか。その、ほんの一瞬の出来事が、ほぼ半世紀の歳月を経て自伝を通じて蘇ったのである。

「ちょっとひと休みして、ぼくのアパートの二階にある本屋レイク・ヨシカワへ出かけたが、買おうと思った本が二冊ともない」。この一文も、私の記憶をくすぐる。1970年代初めのことだ。経堂駅北口に14階建ての「小田急経堂ビル」が姿を現した。J・Jは同じ町内の一戸建てから、その高層階へ引っ越してきた。低層階にはスーパーや飲食店、専門店が入り、床面積の大きな書店もあったから、階下に書庫をしつらえたような気分だったのだろう。

そのビルは取り壊され、今は4階建て、屋上庭園付きの瀟洒な商業施設「経堂コルティ」に生まれ変わった。J・Jが旧ビルの何階に住んでいたかは知らないが、いまコルティ正面の大階段を見あげると、上空にJ・Jの空間が浮かんでいるような錯覚に陥る。

この「ぼくのアパート」の話や、前回とりあげたニューヨークの地下鉄話は「『ムッシュー・ブルー』という喫茶店かバーをやると喜ぶだろうなあ」という一編に出てくる。ここで「ムッシュー・ブルー」とあるのは青野平義という俳優。その死を悼もうとして筆を執ったらしいのだ。それなのに、前段で地下鉄やら書店やらに雑談の輪を広げていく。これがJ・J流だ。そのあと、ようやく始まったムッシュー・ブルーとの交流談に私は引き込まれた。

青野平義(1912~1974)は戦前からの新劇人。文学座のメンバーで、後に劇団NLTを旗揚げした。1960年前後、テレビの子ども番組におじいさん役などで出演していたことを私はしっかり覚えている。というのも、一緒に観ていた祖父が「おっ、ヒラヨシが出ているぞ」と自慢げに話していたからだ。口伝えに聞いたので確証はないのだが、青野と私の祖父とは親戚づきあいの間柄にあった。私自身、幼いころに青野の実家に年始回りをした経験があるから、血はつながっていなくともなにがしかの縁があったのだ。

その青野とJ・Jとの関係は濃密だった。それは、J・Jが青野の葬儀で弔辞を読んだことからもわかる。この一編では、その弔辞をなぞるように思い出を綴っている。戦前から、二人には演劇仲間としてのつきあいがあったようだ。東京・東中野の喫茶店に6人ほどでたむろしては夜中まで語りあっていたという。「青ちゃんは、あの芝居を読んだけれど面白いよ。あれをやろうと言って筋を話しながら、みんなをたきつけるんです」

これに続く一文は、詩的ではあるが意味不明でもある。「真冬のことで雪がさかんに降っていましたが、そのとき青ちゃんは行きたくなったなあ、どうだいみんなと言って遠くのほうを見たのでした」。みんなでどこへ繰りだそうというのか。その答えは、後の段落で正直に種明かしされているのだが、良所であるはずがない。書きぶりからみると弔辞でも同じことを暴露したらしい。親戚づきあいをしていた立場からみれば、困ったものだ。

ただ、J・Jの喪失感は痛切だ。それは、青野の訃報に触れたときの描写から読みとれる。「うちの者が」とあるのは妻のことだろう。朝、彼女が新聞を手に部屋へ入ってきて「青野さんが……」と言ったきり、黙る。J・Jは、それですべてを察知した。「ちょっとばかり心配になっていたことが、ほんとうにそうなったんだ」「おまえみたいな呑気なやつはいないぞと自分にむかってつぶやきました」。年をとって友を失うとは、こういうことなのか。

青野の実家は、東京・六本木で今も続く和菓子の老舗だ。平義は長男だが店を継がなかった。J・Jはそんな家業の話にも触れながら、「ムッシュー・ブルー」という「青ずくめの喫茶店」がほしいとの願いを披歴する。「もし『ムッシュー・ブルー』ができたら青い服を着て出かけるとしよう」。私が知る限り、その夢は実現しなかった。ここでは、J・Jが商人の息子らしく、亡き友を「店」という形態で想起しようとしたことを記憶しておこう。

この本を読んで、私は不思議な感覚に襲われる。J・Jと私は同じ町の空気を吸っていたに過ぎない。青野平義と私は遠戚のような関係に過ぎない。どちらもかぼそい糸だが、その先にいる人物が大昔、同じ青春を謳歌していたのだ。世界はやはり狭いのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月22日公開、同月25日最終更新、通算523回
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