3・11原発事故という進行形

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv?

3・11がまた巡ってくる。今年は特別な思いでその日を迎える。12年ひと回りが過ぎたことが感慨深いだけではない。先週の当欄にも書いたように、人の世の忘却の速さに驚かされているのだ。現政権が原発回帰策に舵を切っても世間は静かなままだ。(*)

12年前に時計の針を戻してみよう。東京電力福島第一原発の電源喪失を耳にしたのは、3月11日夕方のことだ。津波が東北地方太平洋岸を襲う様子をテレビ映像でリアルタイムで見て、途方に暮れていたときだった。追い討ちをかけるような原発の危機。発電所が電力を失うなんて悪い冗談ではないか、と一瞬思った。私は新聞社内で、同じ職場にいるベテラン原発記者から「大変なことになるよ」と聞いて事態の深刻さを知った。

その後の推移は同僚の予言通りだった。翌12日には1号機で水素爆発があった。14日には3号機でも同様の爆発が起こる。このころから、事故の本質が世間の人々にも見えてくる。原子炉は冷却水の循環が絶たれると、原子核の崩壊によって出る熱で水素が発生し、爆発に至ること、爆発で放射性物質が飛散すると福島県内のみならず、県境を越えて広域の大気や水を汚してしまうこと――そう知って不安感は恐怖感に変わった。

実際、私の周りにも首都圏を一時離れた人たちがいる。その時点で放射性物質は首都圏にも届いており、放射線のレベルがどれほど高くなるか見通しが立たなかった。メディアは事故炉へ注水を続ける現場の作業を報じ、私たちはその悪戦苦闘に気を揉んだ。

私は先週、「原子の火」と「ふつうの火」の混同に論及した(*)。福島第一原発の事故後、私たち科学記者が別部門の記者から「炉内はいつ鎮火するのか」と聞かれ、核崩壊は火事とは異なり、水をかけても止まらないことを説明した、という話である。原子核は物理法則に忠実であり、その理論が予測する時間幅で壊れていくのだ。たとえば、セシウム137では放射性物質の量が半分になる半減期が約30年――。これは水で速められない。

ここで私が思うのは、物理学の視点でみれば福島第一原発事故は終わっていないということだ。事故炉に放射性物質が残り、核崩壊を繰り返しているだけではない。外部に撒き散らされた放射性物質も崩壊を続けている(除染しても除染土のなかで続行する)。私たちは、事故で人間の時間尺度を超える原子核現象を抱え込んでしまった。しかも、その現象の一部は原発の管理された区域内ではなく、公共の空間でも進行中なのだ。

事故から12年しかたっていないのに、私たちの多くはあのときの危機感を忘れかけている。だが、忘れることのできない人々が大勢いるのも間違いない。その理由の一つも、事故原発周辺の生活圏に原子核物理の時間尺度が刻印されていることにあるのだろう。

で、今週は『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)帯の惹句に「オリンピックの忘れもの」とある。福島第一原発事故を過去の出来事にしようとする動きを戒める書だ。著者は出版社出身のフリーライターで、この事故で被害に遭った人々に取材を重ね、ノンフィクション作品を発表してきた。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店、2020年刊)は講談社本田靖春ノンフィクション賞を受けている。

本書を開いて著者のセンスの良さを感じたのは、「はじめに」に次の注書きを見つけたときだ。「空間放射線量を記した際は、原発事故前の何倍にあたる数値かを添えてある」――。事故前の空間線量率とされたのは、毎時0.04μSv(マイクロシーベルト)。福島県内で1990~1998年に実測された値の平均だ。或る地点がいま毎時0.7μSvであると記したくだりでは、それが事故前の約17倍に相当することをカッコ書きで明記している。

事故前に基準を置くという著者の視点に私は共鳴する。放射線被曝によって受ける健康面のリスクをめぐっては、住人が浴びる線量をどこまで抑えるべきかが論点となり、現時点の値がどのくらいかに関心が集まる。だが、それだけで十分だろうか。線量が事故前に比べてどれほど増えたかにも目を向けたほうがよいのではないか。集団の被曝線量が一気に底上げされるという現象は、リスク要因を分析するときに無視できないように思える。

政府は、福島第一原発周辺の汚染被害地域で避難指示解除の要件の一つに、放射線の年間積算線量が20mSv(ミリシーベルト)以下であることを挙げている。端的に言えば、住人に年間20mSvまでは我慢してほしいと求めたのである。そう言われてもピンとこないだろうが、本書で線量のカッコ書きを見ると愕然とするに違いない。年間線量が20mSv以下であっても、事故前と比べればはるかに高くなった場所がいっぱいあるからだ。

本書から離れるが、事故前に福島県内の年間積算線量がどうだったかを私自身で計算してみよう。毎時の線量率が本書の数値だとすれば、単純計算でこうなる。
毎時0.04μSv×24時間×365日=年間350μSv=年間0.35mSv
ここでは毎時の線量を屋内外で一律に見ているので、これはあくまでもザクっとした値だ。それでも、20mSvが事故前の水準に比べると桁違いに大きいことがわかる。

本書も、そのことをズバリ突いている。「公衆の被ばく線量限度」(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)はこれまで年間1mSvだったが、それが福島の事故対応では年間20mSvに「引き上げられ」、その限度内なら「安全」ということになった、というのだ。

私は40年余り前、原発が集中する福井県で記者になった。そのころ、原子力推進側がいつももちだす公衆の線量限度は年間100mrem(ミリレム)だった。今の単位では1mSvだ。当時もし、原発周辺で年間1mSv超が記録されれば大ニュースになっていただろう。

本書で印象に残るのは、福島第一原発事故で不安や苦難を強いられる人々がリスクコミュニケーションの風圧を受けている現実だ。リスクコミュニケーションとは、安全や健康を脅かす危険因子について当事者と関係機関が情報を共有することをいう。ところが、政府はこの言葉を「政府の考える『正解』をあの手この手で授け、納得させる」という意味で使っている、と著者は指摘する。政府主導の「不安の解消」策にほかならない、というのだ。

この施策の背後には、地元を苦しめる「風評被害」がある。福島産の農産物や水産品が不当に扱われることのないようにしたい、という動機は正しい。だが実際には、政府や学者の一部が「安全だ」と連呼したことで、「放射能汚染の事実」までが「『風評被害』と言われるようになった」と著者は批判する。「事実関係を丁寧に議論すべきこと」も「風評」扱いされるわけだから「これほど実害を隠す便利な言葉はない」と嘆いている。

著者は、この問題に「『被ばく防護』vs『風評対策』」「『健康・命』vs『経済・金』」の対立構図をみる。「健康」と「経済」は本来、前者を第一に考えながら後者も追い求めるべきものだが、それが「vs」の関係にされたところに福島の不幸があるように私は思う。

本書には、政府版「リスクコミュニケーション」の例がいくつか出てくる。一例は、政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」が2011年暮れに出した報告書。年間20mSvでがんになるリスクについて、喫煙や肥満、野菜不足などよりも低いとしている。著者は、年間10mSv未満の被曝でがんが増えるという論文も多いことから「この報告書が科学的に正しいと結論づけることはできない」と反駁する。

報告書の説明には別の問題もあるように、私には思える。それは、がんのリスクについて年間20mSvの被曝と喫煙とを比べていることだ。たばこががんの原因になることは明白であり、この報告書の記述が正しいとしても、年間20mSvでがんになる人の割合が喫煙のそれよりも小さいことを言っているに過ぎない。知りたいのは、年間20mSvの発がんリスクが事故前のそれ――自然界の放射線の発がんリスク――よりも高まったかどうかなのだ。

福島第一原発事故で地元の人々が背負い込んだ重荷の多くは、あのときを境に生活圏に飛び交う放射線が桁違いにふえたことに起因するのではないか。しかも、その線量は半減期に縛られてなおも減らない。原発事故は終わっていないのだ。次回も、本書を読む。
*当欄2023年3月3日付原子の火』1950年代の原子力観
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月10日公開、通算669回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「原子の火」1950年代の原子力観

今週の書物/
『原子力発電所――コールダーホール物語』
ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊

黒鉛を使う

12年という時間幅は忘却に十分なのか。日本の現政権は東京電力福島第一原発事故の傷が癒えず、事故炉の後始末も道半ばだというのに、原子力発電の推進路線に回帰した。懲りない面々だ。私はそこに、歴史に学ぼうとしない姿勢を見てしまう。

原子力発電の歴史でまず注目すべきは勃興期の1950年代だ。この時代に何があったのか、どんな議論があったのか――それは2020年代の今、原発にどう向きあうかという問題につながっている。そこで今週は、原子力の古文書ともいえる書物を読む。

『原子力発電所――コールダーホール物語』(ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊)。著者は、英国のハーウェル原子力研究所の研究者で、金属物理学が専門。原著は、コールダーホール原子力発電所が稼働を始めた1956年に出た。

中身に入る前に予備知識を仕入れておこう。コールダーホール原発(すでに運転停止)は、英国イングランド北西部カンブリア地方にある。1号機は、商用発電を実現した第1世代の原子炉といえる。発電方式は、私たちがいま原発と聞いてイメージする軽水炉とは大きく異なっている。まず、燃料は濃縮ウランでなく天然ウラン。冷却材に水を使わず、二酸化炭素ガスで冷やした。中性子の減速材も液体の水ではなく、固体の黒鉛だった。

この炉は1950年代後半、日本でも関心を集めた。日本初の商用炉をどうするか、という懸案があったからだ。政府の原子力委員会がめざしたのが、実用化を果たしたコールダーホール型原子炉の輸入だった。だが、それが論争を巻き起こす。問題視されたのは、炉内に黒鉛をレンガのように積みあげる構造だ。英国のように大地震が少ないところならばともかく、地震国日本では不安を拭えない。日本学術会議も批判的な立場をとった。(*1)

政府は結局、コールダーホール型を改良して使う方針で押し切った。これが、日本原子力発電東海発電所(16.6万kw、1966年営業運転開始、廃炉の工程が進行中)である。

本書の邦訳も、この経緯と無縁ではないだろう。刊行年の1957年は原子力委員会発足の翌年。翻訳陣をみると、伏見は執筆当時、大阪大学教授(素粒子論)で原子力委の参与でもあった。森はジャーナリスト出身で日本原子力産業会議に身を置いていた。末田も同会議のスタッフだ。伏見は学術会議でも発言力があったから、コールダーホール型炉の安全性にも関心が深かったと思われる。ただ本書の翻訳は、別の動機で手がけたらしい。

訳者あとがきによれば、本書は「原子力の基礎についての解説書」と「原子力発電所の実際の建設記録」との両面を併せもっている。いわば、原発の初等教科書といった感じだ。章立ては「解説書」→「建設記録」の順なので、当欄もその流れに従う。

私の目にまずとまったのは、「原子の火」という言葉だ。著者は、そこで「火」を二つに分けて論じている。「ふつうの火」と「原子の火」である。前者の燃料は、石炭、石油、ガス、木材などさまざまある。これに対して「原子の火をもえつづけさせることのできる天然の物質」は「ただ一つ」で、それがウランだという。原発が生みだすのは熱なのだから「火」にたとえたくなる気持ちはよくわかる。だが、この類推には無理がある。

著者も「素人からしばしばうける質問」をもちだす。「その原子の火をともすにはどうすればよいのか?」。これに対する答えは、こうだ。「原子の火は、連鎖反応を持続させるようなうまい条件で、じゅうぶんな量のウランが原子炉にあつめられたときにしかおこらない」。これでは「素人」も戸惑うだろう。油に火をつけるのに油がいっぱいなければない、ということはない。核分裂という原子核反応と酸化という化学反応は同列に語れない。

それなのに、原子力報道では「原子の火」などの言葉がしばしば用いられてきた。日本では1957年8月、茨城県東海村の実験用原子炉が核分裂の連鎖反応を続けること(臨界)に成功したとき、新聞各紙が「原子の火」(朝日)「第三の火」(毎日)「太陽の火」(読売)という大見出しを掲げている。このたとえには問題があるのではないか、と私はかねがね考えてきた。そのことは福島第一原発事故後、いっそう強く思うようになっている。

福島の事故直後、私たち科学記者のもとには社内の別部門から問い合わせが殺到した。その一つが「炉内はいつになったら鎮火するのか?」だ。炭火が燻っているなら水をかければ消える。だが、放射性物質の崩壊現象は一定の時間幅で続くので、炉内の発熱は放水では止まらない。科学記者は受け売りの知識でそう答えたが、なかなか納得してもらえなかった。「原子の火」は、どうしても「ふつうの火」の延長線上に置かれてしまうのだ。(*2)

今回、私は「原子の火」をめぐって二つのことに気づいた。一つは、原子力を「火」にたとえる論法が日本だけのものではないこと。もう一つは、本書の刊行が1957年4月なので、それが東海村「原子の火」報道に影響を与えたかもしれないということだ。

さて、話を「建設記録」に進めよう。ああ、そうだったのかと教えられたのは、コールダーホール型炉の主目的が発電ではなかったことだ。本書によれば、1950年前後、原子炉研究は軍事優先の状況にあった。「あたらしいアイディアがでてくると、それがプルトニウム生産という目的に貢献するかどうかをしらべ、これにプラスするかぎりでのみ受けいれられた」と著者は書く。プルトニウムには「原爆材料」としての用途があった。

研究拠点のハーウェル原子力研究所では、発電炉(愛称「ピッパ」)の設計が進行中だったが、そこに軍部の意向が届いた。「軍事用プルトニウムの生産を増強してほしい」というのだ。その結果、ピッパは「発電を主としあわせてプルトニウム生産をも行なうもの」から「プルトニウム生産設備であってあわせて発電もするもの」に性格を変えた。1953年、政府はピッパ型の原子炉の建設を決める。これがコールダーホール原発だった。

発電炉では、タービンの熱効率を高めるため、炉から高温で熱を取りだそうとする。ところがプルトニウム生産炉は、その生産量さえふえればよいので高温の必要はない。この折り合いをつけるために技術陣が悪戦苦闘したことが、この本には詳述されている。

こうみてくると、第2次大戦後に颯爽と登場した原子力平和利用の試みは戦中の核兵器開発とひとつながりだったことを改めて思い知らされる。軍民両用(デュアルユース)が露骨なかたちで姿を現しているのだ。1953年は、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が「平和のための原子力(atoms for peace)」を提唱した年である。麗句によって核保有国の既得権を守りつつ核拡散を牽制したわけだが、その空虚さを感じてしまう。

コールダーホール原発は湖水地方の一隅にある。この地方は「ピーターラビットの里」とも呼ばれ、観光客の人気を集めている。本書は、原発所在地の地誌にも触れている。それによると、近くにはコールダー川が流れ、原子炉は荘園領主の館コールダー・ホールの農場に建てられた。原発名に、立地場所の自然と歴史が刻まれたわけだ。このくだりを読んで、そうか、あのあたりも本来はイングランドの田園地帯だったのだなと思った。

私は1993年にこの地域を訪れている。稼働準備中の核燃料再処理施設ソープ(THORP)を取材するためだった。一帯には原子力施設が集まり、セラフィールドの名で呼ばれるようになっていた。だだっ広い平原にコンクリート建造物が点在する様子は寒々しかった。

私には、その風景が日本国内の原発密集地とだぶって見えた。1970年代、新人記者として北陸福井に赴任したころ、半島部には原子炉が建ち並び、さらに増設されようとしていた。原子力は過疎地を狙い撃ちする。これも洋の東西を問わない現実のようだ。

*1 言論サイト「論座」2021年6月21日付「学術会議史話――小沼通二さんに聞く(3)=尾関章構成」(一部有料)
*2 『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代選書)
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月3日公開、同年4月10日更新、通算668回
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百閒「ありえない世界」の現実味

今週の書物/
「東京日記」
=『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)所収

自動車

ありえないことがある――これは、年をとればとるほど痛感することである。東日本大震災のような天災に見舞われる、新型コロナウイルス感染症のような疫病がはやる、ウクライナ侵攻のような不条理に出遭う。これらはいずれも不意をつく出来事だったが、歴史を顧みれば似たような災厄はあった。ありえない、とは決して言えない。ところが、人生には本当にありえないことが起こる。それはむしろ、ありふれた風景のなかにある。

たとえば電車に乗っていて、前方の座席を見渡したとしよう。乗客6人のうち5人が片手に板切れをもち、もう一方の手でトントン叩いている――別段驚くこともないありふれた光景だ。だが、昔からありふれていたわけではない。こんなことはありえなかった。

20世紀末に情報技術(IT)が台頭したころから、世の中は大きく変わるという予感はあった。21世紀初めにかけて、世界はインターネットで結ばれ、私たちは携帯電話を手にするようになった。ネットとケータイがうまく組み合わされば、私たちの生活様式が激変するのは理の当然だ。ただ、人々が黙々と板切れを叩く姿が日常の風景に溶け込むとは、だれが予想しただろう。あのころ、それはほとんどありえないことだった。

その板切れ、即ちスマートフォンが開発され、消費者に受け入れられ、世の隅々にまで行き渡る道筋を私は検証したわけではない。だから直感で言うのだが、スマホ文明は必然だけで生まれたわけではないだろう。偶然が別の向きに働けば、端末のありようやネットとのつながり方が異なったものとなり、掌の板切れも指先のトントンも出現しなかったのではないか。私たちはIT進化の数多ある小枝の一つに紛れ込んだだけなのかもしれない。

そう考えてみると、私たちが今ありえないと思っていることを見くびってはいけない。ありえないようなことが、いずれ現実になることは大いにありうるのだ。で、今週は『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)の表題作を読む。「改造」誌1938年1月号に発表された作品だ。これは短編小説というよりも、23話から成る掌編連作とみたほうがよい。登場人物にとってありえないと思われる話が次々に出てくる。

作品に入るまえに、著者百閒(1889~1971)について予習しておこう。生家は岡山の造り酒屋。東京帝国大学でドイツ文学を学び、学生時代、夏目漱石門下に入った。卒業後は陸軍士官学校などで教職に就くかたわら、小説家や随筆家として文筆活動に勤しんだ。

本書の巻末解説(川村二郎執筆)によれば、百閒文学は「一貫して、日常の中に唐突に落ちこむ別世界の影に執着している」という。この「東京日記」もそうだ。私は漱石の「夢十夜」を連想した(*)。ドイツ文学でいえば、フランツ・カフカの作風に近い。

著者の人柄がしのばれる一文が本書巻末にある。著者に師事し、本書の出版にかかわった中村武志さんのことわり書きだ。それによると、著者は戦後も亡くなるまで「旧漢字、旧仮名づかいを厳として固守」した。時流に左右されない頑固な人だったのだろう。ただ、この文庫版では遺族の許可を得て、新漢字、新仮名づかいに改められている。そうしたのは、「できるだけ多く」の若者たちに百閒作品に触れてほしいとの一念からだという。

では、「東京日記」第1話に入ろう。ここでは「日常」と「別世界」の落差が巧みな筆づかいで描かれている。「日常」を実感させるのは東京に実在する地名だ。「三宅坂」「日比谷の交叉点」……東京人ならば、そう聞いて「ああ、あのあたりだな」とお濠端の風景が目に浮かぶに違いない。ところが、そのお濠から「牛の胴体よりもっと大きな鰻」が姿を現し、「ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝い出した」。これはまぎれもなく「別世界」だ。

この「別世界」には予兆があった。「私」は日比谷交叉点で、乗っていた路面電車を降ろされる。車掌は車両故障だという。雨降りだが、雨粒に「締まりがない」。風は止まり、生暖かい。夜でもないのに、ビルの窓々にあかりが見える。そのとき、お濠で異変が起こった。「白光りのする水が大きな一つの塊りになって、少しずつ、あっちこっちに揺れ出した」。こうして、大鰻が現れたのである――。不気味な気配の描き方が半端ではない。

さて、この作品でありえないことがあると痛感させられたのは第3話だ。冒頭に「永年三井の運転手をしていた男」が登場する。三井財閥のお抱え運転手だったということだろう。退職後に「食堂のおやじ」となり、彼と「私」とは店主と常連客の間柄にある。その男がある日、「老運転手」然とした制服姿で「私」の前に現れた。「古風な自動車」が外で待機している。「迎えに来てくれた」のだ。男は「私」を乗せて車を走らせた。

執筆は1930年代。すでに街に自動車が走っていた時代だが、クルマ社会の到来はまだ遠い先の話だった。その時点からみて「古風な自動車」というのだから、よほどクラシックな車種なのだろう。この一編は、そんなレトロな雰囲気で書きだされている。

では、ドライブはどんなものだったのか。車は街路を滑らかに走っていたが、四谷見附で信号が赤になり、停止した。隣には緑色のオープンカーが停まっている。ここで、不思議なことが起こる。「だれも人が乗っていなかった」はずなのに「信号が青になると同時に、私の車と並んで走り出した」のである。「前を行く自転車を避けたり」「先を横切っている荷車の為に速力をゆるめたり」もする。これはまさしく、現代の自動走行ではないか。

自動走行車を目の当たりにしても、歩行者は驚かない。警察官も同様だ。この街では、自動車に運転手がいないことが当たり前になっているようだ。「私」は、そういう人々の反応を含めて、ありえないと感じている。そこにあるのは「別世界」だった。

1930年代の視点に立つと、この「別世界」はお濠の鰻が市街を動きまわる「別世界」と等価だ。だが、視点を2023年に移せば話は違ってくる。車の自動走行は技術面では相当程度まで可能になっている。10年先を見越せば、制度面の体制も整ってくるだろう。たとえ道を行く車に人影がなくても、それは「別世界」とは言えない。そんな車を見て人々が無反応だったとしても、やはり「別世界」ではない。それは、ありうる世界なのだ。

これは、著者が考えもしなかったことだろう。この一編はレトロの雰囲気を調味料にしているくらいだから、未来物語ではない。ところが、作品発表から80年余が過ぎると、そのありえないことが近未来図に重なりあうのだ。世界は何が起こるかわからない。

この作品で私の心をもっともとらえたのは第4話。ある夜、東京駅で省線(現JR線)の上り最終電車を降り、駅前に出てみると夜空の様子がいつもと違う。「月の懸かっているのは、丸ビルの空なのだが、その丸ビルはなくなっている」。近づくと、敷地は原っぱでそこここに水たまりもあった。その夜は帰宅したが、翌朝用事があって現地を再訪すると丸ビルはやはりない。空き地は柵で囲まれていて、電話線や瓦斯管があった形跡もない――。

この一編の妙は、丸ビルがあった場所に「丸ビル前」のバス停があり、タクシーの運転手に行き先を「丸ビル」と告げればそこに連れていってくれることだ。だが、空き地のそばに佇む人に「丸ビルはどうしたのでしょう」と尋ねると、「丸ビルと云いますと」と要領を得ない。丸ビルは在ったのか、なかったのか、在るのか、ないのか……。話を最後まで読むと、ますますわからなくなってくる。この世界が「別世界」と交じりあうような作品だ。

考えてみれば、当時の丸ビルは今消え、新しい丸ビルが聳えている。街の建物が知らないうちに姿を消すのはよくあることだ。その意味では、これもありうる話なのか。

*当欄2023年1月13日付「初夢代わりに漱石の夢をのぞく
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月10日公開、通算665回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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エルノーの事件、男よ法よ倫理よ

今週の書物/
「事件」(アニー・エルノー著、菊地よしみ訳)
=『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫、2022年10月刊所収

中間選挙(*1)

米国上下両院の中間選挙では、与党民主党が事前の予想に反して善戦した。前共和党政権の人事で保守色を強めていた米連邦最高裁が今年6月、人工妊娠中絶を認めない判決を下したことに反発が広がり、中絶容認の立場をとる民主党候補に票が集まったらしい。

米国政治では、プロライフ対プロチョイスが対立軸になっている。前者は、生命の原点を受精卵とみて中絶を許さない。後者は、産むか産まないかの選択権はあくまで当事者にあると主張する。前者の背後には宗教右派が控え、後者はリベラル派が支えるという構図だ。

この構図には、類似版もある。忘れがたいのは、2004年の米大統領選挙だ。受精卵由来の胚性幹細胞(ES細胞)を使って人体の組織を再建する再生医療が争点になった。その研究は、共和党候補のジョージ・W・ブッシュ大統領が抑制していたが、民主党のジョン・ケリー候補は推進論を主張した。この論戦では、片方に受精卵を守ろうというプロライフ思想があり、もう一方に病苦を背負う人々を科学で支援しようとするリベラル思想があった。

当欄はここで、プロライフ対プロチョイスもしくはプロライフ対リベラルの論争で、どちらに分があるかということを書くつもりはない。ただ、こうした問題で議論が沸騰する米国社会には敬意を払いたい。私たちの日本社会には、その気配がない。

そんなことを思っていたとき、「事件」(アニー・エルノー著、菊地よしみ訳)を読んだ。当欄が先週とりあげた「嫉妬」とともに『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫所収)に収められている(*2)。この作品もまた、著者が主人公を自伝的に引き受ける「オートフィクション」の形式をとる。発表は2000年だが、作中で語られる「わたし」は1960年代の学生。うたかたの恋の末に妊娠する。

ただ、「わたし」を語る「わたし」の視点は2000年ごろにある。作品冒頭で今の「わたし」がパリの病院でエイズ検査を受けた――幸い結果は陰性だった――とき、同様の恐怖感のなかで「医師の診断を待っていた」過去の「わたし」が想起される。

その回顧の記述では、1963年10月にノルマンディー地方ルーアンの女子学生寮で「生理がやってくるのを一週間以上待っていた」日々が綴られる。下着の「染み」を待ち望む、手帳に毎夜「なし」と記す、深夜、目が覚めてそのことを再確認する……。11月に入り、街の診療所で受診した。妊娠だった。医師は「父親のいない子供のほうが、かわいいものですよ」などと言う。「わたし」は手帳に「身の毛がよだつ」と書いている。

妊娠の原因は、政治学を専攻する学生Pとの交際にあった。夏に知りあい、秋にPのいるボルドーを訪ねたのだ。「セックスの快楽のさなかに、男の肉体以外のものがわたしのなかに存在すると感じたことはなかった」。そのあとPとは「何となく別れて」いた。

妊娠証明書が医師から届く。そこには「分娩予定日」が1964年7月8日と記載されていた。「わたし」は「夏を、太陽を目に想い浮かべた」。そして、証明書を破って捨てたのだ。Pには手紙で妊娠を告げ、「このままの状態でいたくない」旨を書き添えた。「このまま」でいないとは、中絶することだ。妊娠の報せはPの心を動揺させるだろう。逆に「わたし」が「中絶する決心」をほのめかしたことはPに「深い安堵感」をもたらすだろう――。

1週間ほどして、米国でジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される。だが、「わたし」はそれに無関心だった。「わたし」は数カ月間、「ぼんやりした光」に浸っていた。あのころを思い返せば、「しょっちゅう街を歩いていた自分の姿」が浮かびあがってくる。

いや、数カ月にとどまらない。「何年ものあいだ、わたしは人生のその出来事のまわりをめぐっている」。たとえば、小説を読んでいて妊娠中絶の話題が出てくると、言葉が荒々しさを帯びるように感じられた。そんな「わたし」が今、中絶をめぐる自身の体験を語ろうとしているのだ。「何も書かずに死ぬこともできる」。だが「そうしてしまうのは、おそらくあやまちだろう」――オートフィクション作家の心の揺れが見てとれる。

この体験記を読み込む前に予備知識として知っておきたいのは、当時のフランスで妊娠中絶が禁じられていたことだ。巻末の「『事件』解説」(井上たか子執筆)によると、それは1970年代半ばに「女性の自由意思による妊娠中絶」が条件付きで合法化されるまで続いた。したがって、1960年代の「わたし」は非合法を選択したわけだ。今の「わたし」は、たとえ現行法が「公正」になっていても「過去の話」を埋もれさせてはいけない、と思う。

妊娠証明書を破り、中絶の決意を固めてから「わたし」の内面はどう変化したのか。本作は、その様子も克明に書き込んでいる。講義に出席しても、学生食堂にいても、「わたし」は「お腹に何も宿していない女子学生たち」とは別世界にいた。ただ、自分が置かれた状況を思いめぐらすとき、「妊娠」「身籠もる(グロセス)」「子供が生まれるのを待っている」という言葉は避けた。とくに「グロセス」は「グロテスク」を連想させるので封印した。

「妊娠」「身籠もる」は「未来を受け入れる」を含意していているが、「わたし」にはその意志がない。「消滅させる決心をしたものにわざわざ名前をつける必要もない」のだ。当時の手帳を見ると、「それ」とか「例のもの」といった表現に置き換えられていた。

では、「わたし」は非合法の妊娠中絶をどのように決行したのか? 学友の女子が私立病院で准看護師をしている年配女性の存在を教えてくれた。パリ在住のマダムP・Rだ。彼女は「子宮頸部にゾンデを挿入」して「流産するのを待つ」という方法で中絶の闇営業をしていた。1月にパリへ行き、マダムP・Rのアパルトマンの一室で処置を受ける。本作には、その前後の一部始終が記されているが、あまりに生々しいのでここでは触れない。

当欄では、本作を読んで私が考えさせられた三つのことを書いておこう。

一つには、男性はどこにいるのか、ということだ。Pとは手紙を出した後に再会したが、「彼は何の解決策も見つけていなかった」。妊娠の負担をすべて女性に押しつけてしまったのか。ほかの男たちも身勝手だ。「わたし」が妊娠の悩みを告白した男子学生の一人は、妻帯者でありながら言い寄ってきた。「わたし」は妊娠の事実によって「寝るのに応じるかどうかわからない娘」から「間違いなく寝たことのある娘」に変わったのだった。

二つめは、合法非合法をどうみるか、ということだ。私たちは今、なにかと言うとコンプライアンスという用語をもちだす。英語の“compliance”は「遵守(順守)」という意味だが、日本社会では守るべきものを法律と決めつけて「法令遵守」と訳すことが多い。だが、世の中には、法以外にも尊重すべきものがある。たとえば良心、そして人権。1960年代のフランスでは、自らの良心に従って法よりも自己決定権を尊ぶ人々がいた。

そして最後は、プロライフ対プロチョイスの問題だ。本作を読みとおすと、当時のフランスで女性たちが負わされてきた不条理の大きさを思い知らされる。だから私は、プロチョイス思想に共感する。ただ、「わたし」が胎内の存在を「消滅させる決心をしたもの」と位置づけ、「それ」「例のもの」と呼んでいたというくだりでは違和感も覚えた。プロチョイスの視点でみても、受精卵や胎児はただのモノとは言えないのではないか。

そんな感想を抱くのも、私が新聞記者時代、生命倫理を取材してきたからだ。1980年代以降、生殖補助医療などの分野で生殖細胞や受精卵に手を加える技術が次々に現われた。一つ言えるのは、積極論者も慎重論者もこれらを生命の人為操作と見て議論していたことだ。考えてみれば、妊娠中絶も同様にとらえられる。プロライフであれ、プロチョイスであれ、中絶は生命倫理の論題なのである。この認識が1960年代には乏しかったのではないか。

米国の状況などをみると、妊娠中絶は2020年代もなお「事件」であり続ける。ただしその議論では、今日的な生命操作が提起した倫理問題も参照すべきなのだろう。

*1 新聞の見出しは、朝日新聞2022年11月10日朝刊(東京本社最終版)より
*2 当欄2022年11月25日付「ノーベル賞作家、事実と虚構の間で
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月2日公開、同日更新、通算655回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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