友の句集、鳥が運ぶ回想の種子

今週の書物/
『句集 鳥の緯度』
土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊

椅子の脚

古くからの友人が句集を出した。友と私は小学校以来、すべて同じ学校を出た。職場は違ったが、どちらもメディア界だった。ふつう以上には濃厚な関係だ。俳句という、読みようでどのようにも読める作品群を私が読むことは、それなりに意味があるだろう。

友人は俳句の素人ではない。プロというわけではないが、有名な句会に出たり、結社に加わったりして修業を積んできた。いくつかの賞も受けている。だから、句集の掲載句はすべて水準以上だ。当欄でその一部を紹介する意味は小さくないように思われる。

で、今週は『句集 鳥の緯度』(土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊)。著者、即ちわが友は1951年生まれ、山河俳句会の同人であり、現代俳句協会会員でもある。

本の帯に「北から南から鳥は日本に渡ってくる/赤い実を食べた鳥が私の荒地に種を落とした/…(中略)…/俳句の交わりから、詩のミューズから/到来した種が育って荒地は草原になった」とある。「あとがき」によれば、著者は散歩していて空き地にムラサキシキブを見つけ、鳥の落とし種が実を結んだのだろう、と推察した。「鳥の作った庭、私の句もそれに似ている」と思ったという。さっそく、その庭をのぞいてみよう――。

まず、私が世代的共感を抱いた句から。
舐めて貼る八十二円レノンの忌
封書が82円だったのは、2014年~2019年。一方、ジョン・レノンがニューヨークで暴漢に射殺されたのは1980年12月8日。切手貼りなどの些細な動作で、ふと昔の出来事が思い浮かぶことはよくある。私たちの年齢では、その時間幅が数十年に及ぶ。

「レノン撃たる」の一報を、私は初任地北陸の小都市で聞いた。場所は、県庁の記者クラブ。通信社の記者が東京本社から聞きつけたのだ。一瞬、茫然とした。あの日、窓の外は雪模様の曇天で……。作者にもきっと、同じような体験があるのだろう。この句には、郵便料金82円が時間軸の基点になるという妙がある。それにしてもコロナ禍の今、切手ペロリはたしなめられそうだ。古い手紙の82円切手は「舐めて貼る」時代の証言者か。

冬木立どの木も過去に遇ったひと
落葉樹の魅力は、初夏の新緑や晩秋の色づきだけではない。裸木(はだかぎ)と呼ばれる冬木立の姿もいい。枝分かれの細部が露わになり、木々の個性が見えてくる。「あの枝ぶりは毅然としていて、どこかあの人に似ている」「あの枝のあの曲がり方は、あいつの心の屈折そっくりだ」――並木道を歩きながら、樹木1本ずつを「過去に遇ったひと」に見立て、甘口辛口の思いを巡らせる。リタイア世代、冬の散歩道ならではの愉悦か。

風景句で気に入った2句。
菜畑の奥に廃業ラブホテル
菜畑という言葉で目に浮かんだのは、ドイツの風景だ。その春、私はミュンヘン郊外の量子光学研究所を訪れていた。荷電粒子を宙に浮かせ、光を当てる実験について取材しながら、窓外に広がる菜畑に目を奪われた。物理は無機の極みだが、菜の花はムッとするほど有機的。その対比が際立った。この句にもそれがある。ラブホは有機的なはずだが、ここでは看板の文字が欠け、窓の鎧戸も破れて無機の気配が漂う。「廃業」の一語が絶妙。

赤とんぼ物流倉庫という荒野
春の句「菜畑…ラブホ」の秋版。こちらの句では「赤とんぼ」が有機的、一方、「物流倉庫」はただでさえ無機的だが、その印象が「荒野」のひとことでいっそう強まった。川べりの敷地にはコンテナが野積みされている。庫内はロボットがいるだけか。

次に、静物句をいくつか。
じゃが芋が鈍器のように置かれあり
私の記者経験では、警察は窃盗事件の発生を発表するとき、「ドアをバール様のものでこじ開け」という表現を多用した。バールは鉄梃(かなてこ)。窃盗犯は、鉄梃かどうかわからないが、鉄梃状のモノを使ったということだ。モノから道具としての属性を差し引く「様のもの」。この句の「鈍器のよう」にも同様の作用がある。じゃが芋から、ポテサラやおでんの材料という性格が引きはがされている。芋を実存にしてしまった句。

寒晴の肉感的な椅子の脚
過去のあるビロードの椅子青嵐
作者は、椅子という家具に強いこだわりがあるようだ。前者は、冬の陽光が差し込む部屋にいて、無人の椅子に目をとめた句だろう。太陽が低いから、日差しは斜め。脚部にも光が届くのだ。「肉感的」とあることで、この椅子はかつてそこに座った人の分身となる。作者は、その人との交流を追憶しているのかもしれない。後者は、椅子が呼び起こす回想性をより直截的に詠んだ句。「ビロード」の質感が体温の名残のように思えてくる。

ここで打ち明け話をすると、私は作者が発起人である句会に参加している。指導役の宗匠を歌壇俳壇から招いて開かれる。メンバーにも句歴豊かな人が多いが、私のような純然アマチュアもいる。定例の句会では、メンバーが匿名で投句した作品から秀句を互選する。この句集には、作者がその句会に出したものも含まれている。そのなかには、私が会では選ばなかったが今回選びたくなった作品もある。そんな句を二つ挙げよう。

木守柿通勤準急加速する
木守柿は、収穫後の木にあえて残した柿の実を言う。翌年の結実を願う風習らしい。この常識を知らなかったために私は選句しなかった。反省。梢に一つ二つ残る鮮烈な柿色。それが車窓に見えたなら絶対に目で追うだろう。動体視力を振り切る通勤準急が憎い。

叡山をむこうにまわし赤蛙
この句を選ばなかったのは、無知ゆえではない。京都に単身で住んだとき、鴨川沿いに寓居を借りた。対岸に五山送り火の大文字が見え、彼方には叡山も望めた。私は、赤蛙に自分の京都を奪われた気がしたのだ。選句には、ときにそんな嫉妬心が作用する。

次いで、社会派風ともとれる2句。
アロハ着てパチンコ打ちにいく自由
これも句会に出され、私は1票を投じた。「アロハ」を唐突に感じる向きもあろうが、句会の兼題(課題のようなもの)が「アロハシャツ」だったのだ。「アロハ」の軽装感と「パチンコ」の騒然感を「自由」という高邁な概念に結びつけた。散文風なのがいい。

電気ケトルの先に原子炉すべりひゆ
湯はガスで沸かすもの、というのは過去の話、うちはオール電化です、と悦に入っていたら、電気湯沸かしの大もとに原発という核分裂の湯沸かしがあることに気づいた――そんな感じか。私は一瞬、下の句「すべりひゆ」を古めかしい動詞かと思った。調べてみると、雑草の一種ではないか。ここでも、自らの無知に赤面。作者は植物に詳しいので、この草を夏の季語として下の句に置いたのだろう。だがなぜ、スベリヒユなのか?

電力と雑草という異世界のアイテムを出会わせる。俳句の極意はそこにあるのだから、理由を詮索するのは無粋だ。でも、どこかで異世界同士が通じあっていないか。そう思ってスベリヒユの画像をネット検索すると、茎が地を這うように枝分かれしていた。送電網(グリッド)の図面に見えなくもない。作者にはこのイメージがあって、そこに電力を重ねあわせたのか、それとも意図はないのに偶然、ぴったり重なりあったのか。

蛇足を言い添えれば、スベリヒユはトウモロコシなどと同様、光合成を高能率にこなす植物(C4植物)だという。光合成→二酸化炭素固定→脱炭素社会と、この一面もエネルギー・環境問題につながる。こうみてくると、スベリヒユは下の句に適任だったのか。

最後に、この句集でもっとも危うい句。
古本のような女をめくり遅日
「古本のような女」と読んで、ギクッとする。ふつうなら言ってはいけない言葉だ。「古本」と言えば、ネット通販の注意書きにある「一部にヤケ、表紙にスレ」を連想してしまう。だが裏を返せば、その本はたくさんの旅をして、多くの人に出会ってきたのかもしれない。動詞「めくり」もきわどいが、この句の主人公は本の頁を繰るように「女」の話を聴いているのだ、と解釈しよう。早春の午後遅く、傾く陽射しを受けながら……。

締めは、友人に敬意と謝意を込めて拙句を。
友の句を巡りたずねて暦果つ(寛太無)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月17日公開、通算605回
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「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
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グレコの時代、実存の左派批判

今週の書物/
「汚れた手」
ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳
サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂

枯葉、というより落ち葉

語りかけられているようだ。なんと心地よいことだろう。私は今、そんな歌声を聞いている。「枯葉」「詩人の魂」……。スピーカーの向こうで歌っているのは、ジュリエット・グレコ。去年9月、93歳で逝った――。シャンソンは、私たちの世代にとって格別の音楽ジャンルだ。ジャズやロックと違って、どこか文学の香りがする。こんなことをフランス語がわからない私が言うのも滑稽だが、言葉なしにシャンソンはありえない。

1970年前後、私はブンガク青年だった。文才があったわけではない。読書量が多かったとも言えない。ただ、ブンガクっぽい雰囲気に触れると、コロッと参ってしまうきらいがあったのだ。だから、音楽の嗜好のなかでジャズやカントリー&ウェスタンの比重が高まっても、シャンソンはずっと憧れの的だった。渋谷駅近くにシャンソンのレコードだけを回している喫茶店があったので、ときどきそこを訪れては時間をつぶしていた。

シャンソン歌手のなかでもグレコは特別な存在だった。歌の向こうにセーヌ左岸、サン・ジェルマン・デ・プレの空気が感じとれたからだ。地下酒場に実存主義哲学者ジャン-ポール・サルトルらがたむろして知的な会話を交わしている――あの低音の歌声を聞いていると、そんな情景が思い浮かんだ。来日時のテレビ出演でも、黒っぽいドレスをまとって表情たっぷりに歌う姿が現代フランスの知性を象徴しているように見えたのである。

実際にグレコは第2次大戦後まもなく、セーヌ左岸で喝采を浴びた人だった。酒場の客たちから「実存主義のミューズ」と呼ばれたという。彼女が、あの時代に人心をつかんだのはなぜか。それは、個人史が同時代史に重なり、人々の共感を呼んだからだろう。グレコの母や姉は戦時中、対独レジスタンス運動にかかわり、ナチスによって収容所に送られていた。そんな事情で彼女自身も少女時代から自立を余儀なくされ、歌手になったという。

ここで押さえておきたいのは、セーヌ左岸の戦後史だ。パリがナチス・ドイツの占領から解放されて20年ほどが過ぎたころ、左岸の主役は代替わりした。1968年、若者たちが立ちあがって五月革命が起こると、左岸の大学街が主舞台となる。私がグレコに魅せられたのは、その余韻が残る1970年前後。私のグレコに対する憧憬には周回遅れの時間差があった。(「本読み by chance」2016年5月13日付「五月革命、禁止が禁止された日々」)

で、今週は、戯曲「汚れた手」(ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳、サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂)。本を開くと「1948年4月2日、パリ、アントワーヌ劇場にて初演」とある。まさに、グレコが一世を風靡していたころの作品だ。当時のフランス知識人が何を考えていたかを知る助けになる。ただ、そこに描かれているのは、イリリという架空の国で戦時下に起こった出来事なのだが……。

第一場第一景では、街道筋の民家に青年が訪ねてくる。居住人の女性、オルガは警戒心から拳銃を隠しもって扉を開ける。そこには旧知のユゴーがいた。「刑期は五年だったんじゃないの?」。刑期半ばで仮釈放されたという。どうやらここは、左翼党派の拠点らしい。

ユゴーは23歳。読み進んでわかるのは、政治弾圧で服役したのではないらしいことだ。党の実力者エドレルを射殺したかどで罰せられていた。本人によれば、凶行は別の党幹部の命令による。ところが、刑務所に差し入れられた菓子には毒物が含まれていた。今は、党に対する不信感が拭えない。オルガに向かって「命令なんてものは影も形もなくなるんだ」「命令はうしろにとり残され、僕はたったひとりで前進した」と言い募る。

実際、党の追っ手が押しかけてくる。オルガはユゴーを寝室にかくまい、彼を引き渡そうとはしない。そして、党幹部のルイを呼んで、追っ手を送り込んだことに抗議する。自分は党を思っている、それでなくともドイツのイリリ侵攻後、党は人材を失うばかりだ――「あの子が回収可能かどうか調べもしないで、粛清していいとは思えないわ」。ここで、「回収」を「粛清」の対義語にしているところに党派というものの怖さが見てとれる。

ルイはオルガの説得を受け入れ、戸外に見張り役を置いただけで、とりあえずは引き揚げる。家のなかには再び、ユゴーとオルガだけが残る。そこで彼は2年前、1943年3月に遡って自らの体験を振り返る。その回想が、第二場から第六場までの物語である。

第二場の冒頭は、この家でユゴーがタイプライターのキーをひたすら叩いている場面。入党後1年が過ぎたころで、党の機関紙づくりに追われているらしい。このとき、彼には焦りがあった。オルガにも「仲間が殺されているのに、安閑としてタイプを打っているのがいやになった」と訴え、自分が「直接行動」に打って出られるようルイに頼んでほしい、と懇願する。そして、その意思はルイに伝わる。これが、すべての始まりだった。

ユゴーの回想は、戯曲としておもしろい。だから、ここで筋書きをなぞれば、興ざめになってしまう。そこで当欄は別の角度から、この本を読む。焦点を当てるのは、近過去に左翼党派がどんな苦悩を抱え、どんな落とし穴に直面していたか、ということだ。

戦時、イリリ国の政治状況はルイの台詞から読みとれる。政権を担うのは、ファシズム勢力の摂政派で、枢軸国に近い立場をとっている。対抗するのはルイがいる党、すなわち労働党だ。「デモクラシーのため、自由のため、階級なき社会のため」を旗印にしている。もう一つ、ブルジョワジーを代表するパンタゴン党が中間に位置している。自由主義者から国家主義者まで、その支持層は広い。政界は三つ巴の力学で動いているわけだ。

労働党も一枚岩ではない。もとをたどれば、多数派の民主社会党と少数派の農民党が合流した党だからだ。エドレルは前者の側にいる。ルイはもともと後者の代表だった。

この作品では、エドレルが摂政派やパンタゴン党と手を結ぼうとする。挙国一致体制をめざすというのだ。交渉に訪れた両派代表に対して、執行委員会の椅子の半数を労働党によこせ、と強気に出る。背景には、枢軸国ドイツの敗色が濃くなり、イリリに対するソ連の影響力が強まるという目算があった。自党のみが戦時下でもソ連と接触してきたと自負して、こう言う。「ソ連がここにやってきたら、彼らはわれわれの眼で万事を眺めるでしょう」

ユゴーはエドレルに面と向かって、党には社会主義経済という目標と階級闘争という手段があるのに「資本主義経済の枠内で、各階級の協力政策を実現するため、党を利用しようとしている」と非難する。だが、エドレルは動じない。社会主義軍が自国を占領しそうな情勢を好機とみて、それに便乗しない手はないというのだ。「われわれは自力で革命を遂行するほど強力ではない」。労働者の国際連帯が素朴に信奉されていたころの論理である。

この戯曲は、左翼党派が陥りがちな落とし穴も浮かびあがらせる。裕福な家庭に育った知識人党員への妬みが仲間うちに燻ることだ。社会主義の主役は労働者ということになっている。ところが現実には、知識人の指導力も欠かせない。そこに軋轢のタネがある。

これは第一場で、ルイがオルガに向けて言い放ったユゴー評にも見てとれる。「あいつは規律のないアナーキスト、ポーズをとることしか考えないインテリ」――。ユゴーは、父が燃料会社の副社長で自身も博士号を得ている。「僕は家を、そして階級を棄てた」と言い張るが、その入党も労働者出身の党員からは「この人はいわば道楽から入った」と侮蔑されている。道楽ではないことを見せたくて「直接行動」に走ったと言えなくもない。

エドレルは生前、党が摂政派と取引して対ソ停戦に成功すれば多くの人命を救うことになると主張して、ユゴーを「君は人間を愛していない」「君は原則しか愛していない」と批判している。「君は自分を憎んでいるから、人間を憎んでいる」とも言い添えている。知識人の独りよがりの自己否定は理念一本やりの教条主義を生み、回りまわって人間否定につながるということか。たしかに、そういう光景を私たちは見てきたような気がする。

この戯曲は、日本の左派が1970年代に迷い込んだ袋小路も暗示している。サルトルは大戦直後、自身が左派でありながら、その弱点を実存主義者の目で見抜いていた。実存主義からの左派批判がもっと深まっていれば、その後の政治風景は変わっていたかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月3日公開、通算603回
*当欄は今年、「実存」の話題を継続的にとりあげています。
漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日)
実存の年頃にサルトルを再訪する」(2021年1月29日)
サルトル的実存の科学観(2021年2月5日)
新実存をもういっぺん吟味する(2021年2月19日)
量子力学のリョ、実存に出会う(2021年6月4日)
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優生学の優しい罠

今週の書物/
『「現代優生学」の脅威』
池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021

DNAの二重らせん

コロナ禍のニュースを聞いていて、ギクッとする瞬間があった。「命の選択」という言葉を耳にしたときだ。病床が足らず、入院させる人、治療する人を選ばなくてはならない――そんな状況が国内でも現出した。その結果、「自宅療養」を強いられた人が在宅で落命する悲劇も相次いだ。医療資源が限られているという現実があらわになり、この人には薬を提供するが、あの人には我慢してもらう、という選別がなされたのである。

「命の選択」という言葉は、科学記者にとって耳慣れないものではない。科学報道の一領域に生命倫理があり、案件の一つに出生前診断があった。30年ほど前には、受精卵にさかのぼって遺伝子のDNAや染色体を調べ、遺伝病の有無などを突きとめる着床前診断も登場した。これらは、現実には赤ちゃんを産むかどうかという問題につながってくる。そこで記者たちは、この診断技術をとりあげるとき、「命の選択」という表現を用いたのである。

実は、その着床前診断をめぐって今夏、見落とせないニュースがあった。日本産科婦人科学会が、診断対象となる遺伝性の病気の範囲を広げる方針を決めたというのだ。これまでは「成人に達する以前に」生き続けられないおそれがある重い遺伝病などに限っていた。だが、今後は「原則、成人に達する以前に」という文言に改め、大人になってから発症するものも条件付きで認めようというのだ(朝日新聞2021年6月27日朝刊)。

新たに加わる診断対象としては、現時点で有効な治療法が望めない病気などを挙げている。不気味なのは、範囲がどこまで広がるかわからないことだ。最近では多くの病気に遺伝要因が見つかり、遺伝性とされる病気が旧来の遺伝病の枠に収まらないからである。

これは、生命倫理の大事件と言ってよい。ところが世間では、それほど騒ぎにならなかった。考えてみれば、私たちは今、自分がコロナ禍で「選択」の対象になりかねない状況にある。自身の危機感が先に立って、人類の倫理を考える余裕がなくなっているのか。

で、今週は、こうした生命倫理の問題に今日的な角度から迫ってみる。手にとったのは『「現代優生学」の脅威』(池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021年刊)。集英社の『kotoba』誌に2020年に連載された論考をもとにしている。著者は1947年生まれの生物学者、評論家。生物学を構造主義の視点から論じ、進化論など生物学のテーマに限らず、科学論や社会問題など幅広い分野で著作がある。

本書「まえがき」によれば、「優生学」とは「優れた者たちによる高度な社会」を目標とする研究をいう。そのためには「優れた者たち」の血筋だけを後続世代に残し、「劣った者たち」のそれは絶やすか、あるいは「改良」すればよい、という発想をする。

この発想を現実社会で具現化したのが、ナチス・ドイツによる「優生政策」だ。それは、「障害者の『断種』とユダヤ人の大量殺戮という人類史上最悪の災厄」を引き起こしてしまった。この経緯もあって、優生学の主張は第2次世界大戦後の先進諸国で「タブー」となった。だが、著者が「その後も国家施策などに小さくない影響を与えました」と指摘している通り、「いわゆる優生思想」はさまざまなかたちで生き延びてきたのである。

日本の国家施策はどうか。第四章「日本人と優生学」を見てみよう。1948年、戦時中の「国民優生法」を受け継いで「優生保護法」が定められ、第一条で「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」とうたわれた。今からみれば不適切極まりない表現だ。これによって、ハンセン病患者の断種手術も正当化された。この法律が、こうした優生学的な条項を除いて「母体保護法」に代わったのは1996年。「優生」は戦後半世紀も生き延びていた。

では、国内の優生思想は1996年で息絶えたのか。いやいや、それはしぶとく生きている、と見抜いたのが本書だ。書名に「現代優生学」とあるのは、この理由からだろう。ここで「現代」とは、21世紀の今を指している。著者は「まえがき」で、出生前診断による妊娠中絶や、知的障害者施設を標的にした多人数殺傷事件などを例に挙げ、「戦後、一度は封印されたはずの優生学が、奇妙な新しさをまとって再浮上している」と書いている。

出生前診断について言えば、診断結果を受けて中絶するかどうかを決断するのは胎児や受精卵の親御さんだ。この立場に身を置いて考えれば、迷いがいかほどのものかが想像できる。片方には、わが子に苦難を背負うことなく育ってほしいという願望がある。他方には、授かった生命に対する敬意と愛情がある。そこに覆いかぶさってくるのが、今風の自己決定権尊重だ。お決めになるのは、あなたご自身です、というわけだ。

一方、前述の多人数殺傷事件は、重度障害者の生を社会が支えることに異を唱える一青年の手で引き起こされた。それ自体は凶悪犯罪であり、刑事裁判で裁くよりほかない。ただ、そんな主張を正論であるかのように公言する人間が現れた背景は座視できないだろう。そこに見え隠れするのは、生産性を高めることばかりに熱心な世間の風潮だ。なにごとも効率本位で考えようとする新自由主義の価値観も影響しているように思える。

こうしてみると、著者が言う通り、「現代優生学」は確かに「奇妙な新しさをまとって」いる。その「新しさ」を醸しだすキーワードが自己決定権や新自由主義ではないか、と私は思う。自己決定権は、今や〈保守派〉の対義語となった〈リベラル派〉も尊重している(*)。新自由主義は、〈リベラル派〉の経済政策と対立するが、ナチズムのように全否定はされない。このようにして優生思想は私たちの時代に優しげな罠を仕掛けるのだ。

私が本書で衝撃を受けたのは、優しげな罠は実は優生思想の源流にも見てとれることだ。著者は、19世紀末のドイツで優生学を切りひらいた先人に光を当てている。一人は医師でもあったヴィルヘルム・シャルマイヤー、もう一人はアルフレート・プレッツだ。

まずは、シャルマイヤーから。本書によると、その主張はダーウィン進化論に強く影響されている。「文明や文化が発展するほど、自然淘汰が阻害され、人間の変質(退化)が進む」と考えたのだ。「変質(退化)」を促すものとして「医学・公衆衛生の発達」を挙げる。「虚弱な個体が生き延びて、子を産み続けること」が淘汰の妨げとなり、退化をもたらすというのが、その論理だった。医師が医学の意義を懐疑するという不思議な構図がある。

驚くのは、彼がこの考え方を意外な方向に押し広げることだ。「退化」の要因として「戦争による兵役」や「私有財産制」(「資本制」)も問題視する。前者は「強健者や壮健な人間を選択的に早逝させる」、後者は「資本家は虚弱でも生存できる」という状況をつくりだす――そう考えて、反戦と社会主義の立場をとったという。ここからは、経済的な弱者は支援するが生物学的な弱者は切り捨てる、という歪んだ弱者擁護の思考回路が見てとれる。

彼の発想でもう一つ見過ごせないのは、すべての国民の「病歴記録証」をつくり、それを当局が保管するという施策だ。病気の遺伝要因を次世代に受け渡さないように、婚姻届を出すときに「記録証の提示」を求める。これは、今ならばDNA情報の管理というかたちをとるだろう。プライバシー保護の観点から反対意見が殺到するのは必至だが、技術的にはすぐにも実現できることだ。私たちは優生学の誘惑にきわめて近いところにいる。

もう一人、プレッツは「人種衛生学」の提唱者。人間の集合には、相互扶助の原理で動く側面(「社会」)と、闘争や淘汰が避けられない側面(「種」)があるとみた。懸念したのは、種が「淘汰の低減」に直面すると「社会」の発展が鈍ることだ。「相互扶助と淘汰の両立」を目標に考えを練り、思い至ったのが「淘汰を出生前に移行させる」ことだった。遺伝性の病気を抱える人々の生殖を規制しようという発想は、ここから出てきたという。

優生学は、昔はあからさまに、人類の存続や社会の発展がときに個人の権利より優先されるという立場から主張された。今は個人の権利が第一とささやきながら、個人の次元で辛い選択を迫る局面が出てきたように見える。だから昔より、細心の注意が欠かせない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月26日公開、通算602回
*本読み by chance「朝日を嫌うリベラル新潮流」(2018年11月23日付)参照
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苦海の物語を都市小説として読む

今週の書物/
『苦海浄土――わが水俣病』
石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊

アセトアルデヒド

今週も『苦海浄土――わが水俣病』(石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊)の話を。(当欄2021年10月22日付「苦海浄土を先入観なしに読む」)

この作品は、1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。本人が辞退したことで受賞作とはならなかったが、選ばれたことに相違はない。私は読まず嫌いで敬遠してきたのだが、精読すると、さすがノンフィクションらしいなと感じる一面と、これもノンフィクションなのかという一面が混在していた。そこには、新聞記者流のノンフィクション観には収まり切らない文章表現がある。そんなことを先週は書いた。

実際、私が数十ページを読んだだけで感じとったのは、この作品には小説の顔があるな、ということだった。アルベール・カミュの小説『ペスト』にどこか似ている感じがした。共通するのは、病が面的にはびこること。片方は感染症で、もう一方は公害病だが、ともに地域社会をまるごと揺るがす。都市そのものが有機的であり、作品の影の主人公といった趣がある。(当欄2020年5月8日付「ペスト』考、拙稿再読で知る怖さ」)

『苦海…』でそれが最初に見えてくるのは、冒頭の章で水俣市役所衛生課の仕事ぶりが描かれるくだりだ。衛生課は1960年代半ば、水俣病患者の検診があるときにその送迎用バスを走らせていた。バスが患者のいる集落にやって来て合図のクラクションが聞こえると、人々が路地から現れ、海辺の道やたんぼ沿いの道に集まってくる。そこには「首がすわらない胎児性水俣病の子どもたち」がいる。「おぼつかない足つきの成人患者たち」もいる。

著者は、バスの車内風景も「私」を主語に描きだす。患者や患者家族たちの「不安げな様子」が車中では弱まるというのだ。発語の難しい子は、バスに乗っていることがうれしいようで「かすかな声」を発している。大人たちも子を見守りながら心を和ませて「おしゃべり」している。著者は、この小さな幸福に疎外感の裏返しを見てとる。「故郷の景色の中に、いつもすっぽりと入りきれないで暮らしてきたこと」の証しだというのだ。

もう一人、焦点が当てられるのは、そのバスの運転手だ。子どもたちに「よう」「やあ」と声をかけ、発車時には「そうら、行くぞ」のひと声がある。体の不自由な子が乗ってきたときは、微笑を浮かべて着席の世話をする。好感のもてる青年だ。ところが運転中は「どこかおこってさえ見える顔つき」になる。「自分でもわからないままに、蓄積されてゆくいきどおりをためこんでいて、始末に困っているよう」――「私」の目にはそう映る。

この青年の「いきどおり」に、同郷人に対する「本能的な連帯心のようなもの」があることを著者は見抜く。それは、水俣市民が水俣病に対して示す反応の一つであり、「この土地をめぐっている地下水のような、尽きぬやさしさ」にほかならないというのである。

ここで著者は、青年の個人史にも立ち入っている。彼は水俣病が現れたころ、地元でタクシーの運転手だった。当時、市外や県外の乗客がどっとふえた。記者もいる。役人もいる。学者もいる。行き先は新日窒の工場、市立病院、市役所、そして宿泊先の温泉……。熊本大学の研究陣を水俣病の多発地域まで乗せていくこともあった。だから「彼なりの判断を水俣病全体に持っている」ようなのだが、そのことを自分から話そうとはしない。

私が『苦海…』に文学性を感じるのは、著者がこのように脇役に過ぎない一人の青年に目をやり、その寡黙ぶりから水俣の人々の深層心理に思いをめぐらせていることだ。この多角的な視点こそが、カミュ『ペスト』に通じる都市小説らしさを醸しだしているのである。

「水俣とはいかなる所か」と切りだされるくだりでは、地域史にも言い及んでいる。不知火海の向こうには、天草や島原がある。だから古来、「中央文化のお下(さ)がり」よりはむしろ、「大陸南方および南蛮文化」の影響下にあった。幕藩体制のもとでは、肥後の地にありながらも隣の薩摩との間で農民や商人の行き来があり、「商いを交わし婚姻を結び、信教の自由をとり交した形跡」も残っている。開かれた土地柄だったのだ。

主要産品には塩があった。ところが、1905(明治38)年に塩の専売制が始まって製塩業は大打撃を受ける。そこに工場を進出させたのが、新興の日本窒素肥料だ。1908(明治41)年のことだ。やがて水俣村(後の水俣市)民の心には「日本化学産業界の異色コンツェルン日窒を、抱き育ててきたのだという先進意識」が根づく。1961年には市の税収の約半分が「日窒関係」(当時の社名は「新日本窒素肥料」)で占められるまでになった。

そのころ、新日窒がアセトアルデヒドを生産する工程では水銀の触媒が使われ、それがメチル水銀となって八代海に排出されていた。メチル水銀は海洋生態系のなかで魚貝類の体内で濃縮される。それらが地産地消の生活を営んでいた人々に禍をもたらしたのである。

この歴史的背景は水俣の地域社会に亀裂をもたらした。「日窒関係」を生活の糧にする人々とそうでない人々、水俣病を背負う人々とそうでない人々の間には意識の乖離がある。「日窒関係」に依存しながら縁者に患者がいる、という立場もありうるので、そういう人たちは内なる葛藤を抱え込んだに違いない。著者は水俣で起こった一つの騒動を通じて、その軋轢を浮かびあがらせる。これで、作品はますます都市小説の色彩を強める。

1959年11月2日午前のことだ。水俣市立病院前は沸き立っていた。この日、水俣市には国会議員団が初の現地調査に訪れていて、水俣病患者家庭互助会の代表らが議員団に支援を陳情したのだ。そこには不知火海区の3漁協も、2000人とも4000人ともいわれる大集団で押しかけていた。漁師たちは昼食後、隊列を組んで新日窒水俣工場の正門前へ向かう。慣れないデモだった。この一部始終を、著者は現場で目撃したという。

著者は「定かならぬ物音」を聞きつけて正門のそばに近づく。漁師たちが工場になだれ込み、投石で窓ガラスを割って建物に入り、机や椅子、テレタイプのような事務機器を近くの排水溝へ投げ落としていた。建物脇に置かれた自転車も捨てられている。「こげん溝!/うっとめろ!」(/は改行、以下も)――この排水溝がメチル水銀を海に垂れ流していた水路かどうかははっきりしない。ただ、漁師が「溝」を狙い撃ちした心情はわかる。

この場面では、さらに強烈な描写もある。若い女性が、幼い子一人を背負い、もう一人を手でつなぎとめながら叫び声をあげている。「ああ、/とうちゃんの、ボーナスの減る。/ボーナスの減る!/やめてくれーい!」。声は、物品が壊されるたびに聞こえてくる。「彼女は日窒工員の妻にちがいない」(社名は原文のママ)と著者は直感する。昔ながらの村落社会が工業都市に変容し、そのことで人々が分断された現実が、この絶叫に凝縮している。

この出来事は、議員団の一人によって10日後、衆議院農林水産委員会で報告された。その議事資料も、この作品には織り込まれている。報告者は「関係漁民数千人」から「切実な陳情を受けた」としたうえで、こう語っている。「その後これら関係漁民の一部が工場に押入り事務所を損傷する等暴挙に出たことは遺憾に存ずる次第であります」――騒動が遺憾なのはわかるが、それより先に遺憾の意を表すべきことがあっただろうに、と思う。

バス運転手の内なる怒り、工員家族の素朴な嘆き。この作品からは、近代日本の工業化が地産地消の社会をどう崩壊させ、人間の次元でどんなひずみを生んだかが見えてくる。
*当欄の前身「本読み by chance」に関連記事が二つあります。
原田水俣学で知る科学者本来の姿」(2016年5月20日付)
石牟礼文学が射た近代という病」(2018年3月2日付)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月29日公開、通算598回
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