大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
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新幹線お薦めの雑誌を読む

今週の書物/
「Wedge」2022年11月号
株式会社ウェッジ発行

新幹線

久しぶりに東海道新幹線に乗った。記憶する限りでは3年ぶり。コロナ禍で遠出を控えていたからだ。駅のホームも列車内もどことなく様子が変わったな、と感じる。コロナ禍によるものもあるが、そうでないものもある。3年間の空白は大きい。

気づいた変化の一つが、ホームのキヨスクだ。私がN駅で、上りの「のぞみ」を待っていたのは午後8時ごろ。元新聞記者の習性で夕刊が読みたくなり、売り場をひと回りしたが、見当たらない。駅の売店といえば、刷りたての新聞の束を突っ込んでおくラックがつきものだったが、それがどこにもないのだ。「新聞は、ないんですね?」。私は男子販売員に聞いてみた。「ええ、終わりました」。青年は、屈託のない笑顔でそう答えた。

「終わりました」のひとことに私は一瞬、たじろいだ。これは、二通りに解釈できる。一つは、その日午後に届いた夕刊はもう売り切れてしまいました、という意味。もう一つは、もはや新聞の時代ではありませんよ、という意味。ふつうに考えれば前者だろうが、ラックがないところをみると、後者の可能性も否めない。たしかに今は、列車内でもスマホでニュースを読める。青年から見れば、新聞は過去の遺物なのかもしれない。

キヨスクでは、文庫本が姿を消していたことにも驚かされた。私が現役時代、新幹線をよく利用していたころは売り場の片隅に書籍用の回転式ラックがあり、くつろいで読める小説などが幾冊も並んでいたものだ。出張帰りの夕刻は一日の疲れで硬い本を開く気力がなくなり、軟らかな本が無性に読みたくなる。今回も似たような事情で本のラックを探したのだが、それもなかった。いったい、活字文化はどこへ消えたのだろうか。

気落ちしながらも、私はなおも活字を追い求めた。バッグのなかには読みかけの本もあったのだが、疲れを癒すにはやや重たい。そうだ、雑誌がいい。売り場をもう一度見まわすと、ごくわずかだが幾種類かの雑誌がひっそりと置かれていた。そこで手にしたのが、「Wedge」2022年11月号である。東海道新幹線などで車内販売されていて、「右寄り」の論調でも知られる月刊誌……食指がふだんなら動かないが、今回は動いた。

「Wedge」について素描しておこう。創刊は1989年。発行元ウェッジ社はJR東海が設立した出版社だ。「新幹線の利用客はビジネスマンが多く、この層を対象にこれまでとは違った経済情報を提供する」という狙いだった(朝日新聞1989年3月8日付朝刊)。その後、経済や産業の話題にこだわらず、安全保障やエネルギー、医療などもとりあげ、総合情報誌の色彩を強めたらしい。私が手にとった11月号からも、それはうかがえた。

当欄は今回、特集「価値を売る経営で安いニッポンから抜け出せ」に焦点を当てる。経済学者、経営学者、企業人、ジャーナリストの論考5本(大半は、談話を編集部が構成したもの)とリポート記事6本から成る。のぞみ車中でいくつかをぱらぱらめくったが、おもしろい。帰宅後、全編に目を通した。私が経済記事をこれほど系統だって読むことは、めったにない。若いころ経済部員だったこともあるのだが、当時ですら関心は乏しかった。

経済記事に惹かれない理由の一つは、そこに人間は経済原理に従うものだという決めつけを見てしまうからだ。人々はホモ・エコノミクス(経済的人間)ばかり、という感じか。この印象は、行動経済学の視点にも通じている(当欄2022年7月22日付「経済学もヒトの学問である」参照)。ところが今回、私は「Wedge」というこれまでもっとも縁遠かった雑誌に引き込まれた。経済記事にも変化の兆しが表れているのかもしれない。

編集部も、いいところを突いている。それは、特集の表題に「安い」の2文字を入れ込んだことだ。あまりの円安にビジネスに無縁な人も危惧を抱いている。「安い」は良いことばかりでない、という空気が出てきたのだ。その一方で円安が物価を押しあげ、「安い」モノを求める心理は強まるばかりだ。私たちは通貨の「安いニッポン」を恐れつつ、モノの「安いニッポン」を望んでいる。この特集は、後者の要求からは脱却せよ、と提言する。

冒頭の論考(談)で、東京大学教授の経済学者渡辺努氏は「値上げと賃上げの好循環」論を展開する。例に挙がるのが、2017年にあったヤマト運輸「宅急便」の値上げだ。このとき同社は、配送現場の厳しさを「臆することなくオープンにした」。消費者は、配達員が受取人の都合に合わせて物を届ける苦労をよく知っている。その仕事ぶりに思いを致してもらおうということなのだろう。ここには、行動経済学風の利他精神に対する期待がある。

これに続くリポート記事(生活家電.com主宰者多賀一晃氏執筆)では、家電業界の故事が紹介される。1964年、スーパー・ダイエーが松下電器(現パナソニックホールディングス)のカラーテレビを安売りしたとき、松下は「定価」を守ろうと取引停止の挙に出た。世に言う「ダイエー・松下戦争」だ。その後、家電販売は公正取引委員会の勧告もあり、値引きがふつうになっていく。だが多賀氏は、松下の「定価」へのこだわりにも利点をみる。

実際、パナソニックは今、一部の商品で「メーカー指定価格」方式を導入している。同社が在庫リスクを引き受けるのと引き換えに小売店に指定価格で売ってもらう。これだと公取委も認めてくれるのだという。メーカーにとっては、価格が安定するので一つの製品を長く売ることができ、目先だけを変えた新製品を頻繁に売り出す必要もなくなる。「小売りからメーカーに価格決定権が移ることは時代にかなった動き」と多賀氏はみる。

この考えを支持しているのが、「人を大切にする経営学会」会長坂本光司氏の論考(談)だ。見出しは「値決めは企業経営の命」とうたっている。全国の中小企業約1000社から聞いたアンケート調査で、自社の競争力は価格だとする企業が約8割を占めたことに触れ、これでは人件費が「格好の“生贄”」にされてしまう、と嘆く。安値で顧客を獲得しようとすれば経費節減が至上の目標となり、社員の賃金にしわ寄せがくるのは必至というわけだ。

坂本氏は、ハード、ソフト両面で「非価格競争力」の必要を説く。ハードは「前例のないもの」を商品化することだからハードルが高い。これに対して、ソフトは「アフターサービス」などがものを言うから「創意工夫次第」という。このあたりが経営学的ではある。

ここまででわかるのは、この特集では「値上げと賃上げの好循環」論が「メーカーに価格決定論」に分かちがたく結びついていることだ。ここ数十年、世界経済は新自由主義の市場万能論が優勢で、価格は市場が決めるべきとされてきたが、流れが変わったのか。

「強いブランド」を企業の価格決定権に結びつける議論もある。三菱マテリアル社外取締役得能摩利子氏の論考(談)だ。フェラガモジャパンCEOを務めた経験をもとに「値上げ=悪」の価値観を見直すよう促す。欧米ブランドには「『自分たちがつくりたいものをつくる』という意識」があり、それが製品の美しさを生みだし、「買うか買わないかは買い手次第」「価格は自分たちが決める」という考え方につながっている、と論じる。

東京都立大学教授水越康介氏(経営学)の論考(談)には、「応援消費」という概念が出てくる。被災地の産品を買う、コロナ禍で苦戦する地元飲食店に行く、といった「他人のため」の消費を分析している。この利他行動も安値志向とは逆向きで「値上げと賃上げの好循環」論に通じている。ただ私が注目したいのは、水越氏が応援消費の背景に新自由主義を見ていることだ。そこには「金銭的に余裕のある人の消費行動」という一面もあるわけだ。

ここで、トリクルダウンという言葉が私の頭に浮かんだ。富裕層の豊かさは貧困層にも浸透する、という新自由主義流の見方だ。応援消費はそんな浸透作用を担う毛細管現象の一つなのか。ただ、トリクルダウンが難しいことは格差社会の現実が証明している。

この特集を読みとおして私は、一連の考察に目を見開かれ、共感することも少なくなかった。ただ一つ、違和感もある。それは、なべて企業経営者の視点が際立っていることだ。

利他行動もブランド力も、企業経営の枠をはみ出している。これらは、人間社会のありようを再設計するときにも避けて通れない論題なのだ。その議論では、企業経営者とは異なる視点に立つことも必要だろう。新幹線の乗客は企業人ばかりではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月18日公開、通算653回
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経済学もヒトの学問である

今週の書物/
『〔エッセンシャル版〕行動経済学』
ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊

財布

コロナ時代、高齢者最大の楽しみは散歩である。足を延ばしても、せいぜい隣駅くらい。半径1kmほどの圏内を歩きまわる。それで毎日、出かけるまえに悩むのは「きょうは、どっち方面をめざすか」。気まぐれな散歩にも、とりあえず目標は必要なのだ。

そんなとき、家人に「なにか、買ってこようか?」と申し出る。野菜であったり、豆腐であったり、焙煎コーヒーの粉であったり、夏の冷菓であったり、シャンプー類であったり……候補はたくさんある。何を買ってくるかが決まると、目当ての店を経路に組み込む。

おつかいを言いつけられた子どものようにも思えるが、ちょっと違う。私は、買いものを命じられているのではない。散歩しようという気持ち――いわゆる、モチベーション――を高めるため、自分で自分に任務を課しているだけ。それでわざわざ、家人に買いものの発注を促しているのだ。結果として、ある日はスーパー、別の日は豆腐店、あるいはコーヒー焙煎店……と散歩の目標が定まり、日々異なる方角をめざすことができるようになる。

もう一つ、子どものおつかいと異なるのは、買いものの代金がいつも自分の財布から出ていることだ。子どものように100円硬貨何枚かを握らされ、「おつりがあったらお駄賃ね」ということはない。で、ある日、家人が「生活費なんだから、別途支給しましょうか」と言ってきた。このとき、私の口をついて出た言葉が「とんでもない」だった。買いものによって散歩のモチベーションを得ているのだから「払って当然」と思えたのだ。

私の財布も家計の一部とみれば、どちらでもよい話かもしれない。ただ、ここでは私の財布、即ち小遣いを家計から切り離して考えよう。豆腐を例にとると、本来は家計が支出すべき代金を私は小遣いから支払っている。1丁買った場合、自分が食べる半丁分だけでなく、1丁分をまるごと負担しているのである。でも、それを不満に思わない。それどころか、幸せを感じている。私は意外と気前のよい人間なのか――そう思いかけて、ふと気づいた。

これは、経済学の枠組みにかかわる問題なのではないか? 私個人と私の家庭、近所の豆腐店から成る小さな経済圏で、豆腐1丁の売り買いがあったとする。従来の経済学なら、そこに存在する価値は、豆腐という物品とその対価である通貨に尽きるだろう。ところが私個人の損得空間では、この取引に散歩のモチベーションというもう一つの価値が付随する。それをいくらとみるか評価は難しいが、少なくとも豆腐1丁よりは値打ちがあるみたいだ。

で、今週は『〔エッセンシャル版〕行動経済学』(ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊)。著者は、英国ケンブリッジ大学で学位を得た経済学者。本書の刊行時点ではオーストラリアの大学で教授職にある。原著は2017年刊。英国オックスフォード大学出版局の“Very Short Introductions”シリーズに収められている。「エッセンシャル版」は、この意訳と思われる。邦訳単行本は、早川書房が2018年に刊行した。

第1章には、行動経済学とは何かが従来型の経済学との対比で素描される。従来型の経済学は「人間は数的計算を完璧にこなす生き物」とみる。ところが、行動経済学は「人間をとことん合理的な生き物とは考えない」。人間の意思決定は、いくつもの制約を受ける。認知機能には限界があるから、なにもかもは覚えていられない。一定時間に処理できる計算も高が知れている。その結果、非合理な選択をすることもあるというわけだ。

これは、研究手法にも反映される。従来型の経済学は、マクロ経済の指標を相手にしていた。ところが行動経済学では「何が人々の選択を決定づけるのか」が問題になる。ここで役立つのが実験だ。経済活動の一場面を想定して、被験者がどんな選択肢をとりやすいかを調べたりする。脳神経科学の研究でおなじみの機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使って、意思決定が脳内の反応とどうかかわっているかを探ることもあるという。

第2章の章題は「モチベーションとインセンティブ」。本書は、この2語を厳密に使い分けていないが、前者は「動機づけ」、後者は「動機づけのための刺激」ということか。著者が強調するのは、行動経済学の見方では経済活動の意思決定が「金銭的インセンティブ」だけに左右されないこと、「さまざまな社会経済的・心理的要因」の影響も受けることだ。自身が学者でいるのも「非金銭的なモチベーション」による、と打ち明けている。

著者は、モチベーションを「外発的」「内発的」に2分類する。「外発的」の代表例は給料など金銭的な報酬だが、非金銭的な「社会的承認」や「社会的成功」も含まれる。一方、「内発的」は「個人の内なる目標や姿勢」に起因する。「誇り」「義務感」「忠誠心」、そして「難問を解く楽しさ」「体を動かす喜び」――私の場合、豆腐1丁の買いものはこの喜びに突き動かされていたのだ。だから、お金を払うことくらいどうということはない。

第3章は、「社会生活」と題している。従来型の経済学は、経済活動をする人間を「利己的な生き物」とみなし、意思決定にあたっても「他の人々のことなど気にしない」と想定する。だが、行動経済学の視点に立つと「周囲の人々」の影響は無視できない。

この章で私たちの感覚にピンとくるのは、「ハーディング現象」だ。「群れ」のherdに由来する。「他の人々と同じ行動をとろうとする」ことや「他者の行動から学習する」ことをいう。日本社会に特徴的な「同調圧力」も同類だろう。本書によれば、他者をまねる経済行動は「ミラーニューロン」に関係するという見方もある。ミラーニューロンは模倣にかかわる脳神経細胞だ。経済学が細胞レベルで探究される時代になった。

「社会生活」が経済行動に与える影響はハーディングだけではない。「不平等回避」もその一つだ。一定額の予算をA、B二人がどう分け合うか(Aの提案にBが同意しなければ両者とも獲得金額がゼロになる)という実験で確かめられるという。実社会では、ボランティア活動への参加や慈善団体への寄付などが、これに当たる。「利他的行為」ではあるが、「自分が善良で気前のよい人間だとシグナリングする」という思惑も介在する。

第4章「速い思考」のキーワードは「ヒューリスティクス」だ。ここで著者がもちだすのは「選択肢の過負荷」や「情報の過負荷」。候補が多過ぎ、情報もあり過ぎて、何を選ぶか困ってしまう状況だ。こうしたときにAI(人工知能)なら、情報を一つ残らず処理して意思決定に至るはず。だが人間は「複雑な計算に時間と労力をかける」ことをせず、「シンプルな経験則を活用して」素早く決める。この経験則をヒューリスティクスという。

一例は「利用可能性ヒューリスティック」。著者は旅行を手配するとき、いつも同じ旅行会社に頼むという。その結果、他社の「お得情報」の恩恵は受けられなくなる。それでも馴染みの会社には過去の利用履歴が残っていることもあり、なにかと便利というわけだ。

第5章「リスク下の選択」では「確実性効果ゲーム」の話がおもしろい。参加者にa)3週間欧州周遊の旅とb)1週間英国内の旅を提示して、a)を選べば50%当選、b)ならば100%当選ともちかけると、78%の人がb)を選択した。ところが、当選率の設定をa)5%、b)10%に改めると、a)を選ぶ人が67%を占めた。逆転したのは、100%保証の選択肢が消えたせいか。私たちは「確実な結果には不確実な結果より価値を見いだす」のである。

第6章「時間のバイアス」も実生活で実感する。ケーキを「今日食べるか、明日食べるか」と聞かれて「今日」と答える人は、1年後に食べるか、1年と1日後でもよいかと問われたら1年後と回答する――こうみるのが従来型の経済学だ。ところが行動経済学の視点でいえば、「今日」か「明日」かで「今日」を選ぶ人が1年ほど先の1日の違いにこだわるとは限らない。「時間選好」は、ちょっと先とだいぶ先とで違ってくるのだ。

本書は第9章まであり、行動経済学の新知見が満載なのだが、当欄はとりあえず、ここで打ちどめにする。これだけのことからでもわかるのは、旧来の経済学が不条理にも、人間を経済の合理性にのみ従う〈ホモ・エコノミクス〉の型に押し込んできたことだ。人間はなにより生きものとしてのヒトである、社会集団の一員でもある、能力は無限ではなく、有限の時空を生きている――そういう当然のことが、ようやく経済学を変えつつあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月22日公開、通算636回
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石さんが砂について書いた話

今週の書物/
『砂戦争――知られざる資源争奪戦』
石弘之著、角川新書、2020年刊

砂は砂でも星の砂

古巣のことを言うのはちょっと心苦しいが、私がいた新聞社の私がいた部署にもスター記者が何人かいた。石弘之さんもその一人だ。テレビに頻繁に出て、一世を風靡するというのとはちょっと違う。独自の取材領域を切り開いて名声を得たジャーナリストだ。

環境記者の先駆けである。1970年代から地球環境のことを考えていた。ということは、世の中よりも数歩先を行っていたことになる。環境ジャーナリズムの先駆者であるばかりでなく、環境問題にかかわる人々の先頭集団にいた、と言ってよい。

だから、いろいろなところから声がかかる。在社中に国連環境計画(UNEP)で上級顧問を務めた。退社後は複数の国立大学で教授職に就き、駐ザンビアの大使にもなった。著書は数えきれないほどある。なかでも『地球環境報告』(岩波新書)は有名だ。

私も、石さんが率いる取材班に入ったことがある。1984年、「新食糧革命」〈注〉という連載企画のチームに加わったのだ。私にとっては初めての海外取材の機会となった。石さんからは、日程の組み方から領収書の整理法まで外国出張のイロハを教えてもらった。そう言えばあのころから、石さんはエレベーターのボタンをグータッチで押していた。当時すでに手指による接触感染のリスクを知っていて、私たちにさりげなく注意を促したのだ。

「新食糧革命」は、遺伝子組み換えや細胞融合などのバイオ技術を農業にも生かそうという機運を科学記者が世界各地で取材して報告する企画だった。下手をすれば、科学技術礼讃になりかねない。だが、取材を進めていくうちに、農業バイオ技術が生産性だけを追い求めれば地球の遺伝子資源の多様性が損なわれることに気づかされた。記事では、この懸念も強調した。これは、石さんの薫陶を受けたからにほかならない。

で、今週の1冊は『砂戦争――知られざる資源争奪戦』(石弘之著、角川新書、2020年刊)。書店で背表紙に懐かしい名を見つけ、思わず手にとった。著者は1940年生まれ。現時点80代なのに現役感のある本だ。なによりも驚いたのは、書名の「砂戦争」である。

科学記者の間には――私の古巣だけの話かもしれないが――カタもの、ヤワラカものという業界用語がある。ザクッと言えば、前者は無機系で、物理学や天文学、情報科学などの領域を言う。後者は有機系で、医学や生物学などを指す。著者は自分の姓とは裏腹に、有機系の動植物が好きな人。環境問題の記事で原子力のようなカタモノ領域に踏み込むことはあっても、関心事はもっぱらヤワラカものと思っていた。それがなんと「砂」である。

本文に入ろう。冒頭でまず、UNEPの「砂資源は想像以上に希少化している」とする報告書が引かれている。2014年に公表されたものだ。それによると、世界の砂の採掘量は年間470億~590億トン。大半がコンクリートの骨材になるので、砂と混ぜ合わされるセメントの生産流通状況から推計された。この採掘総量は毎年、世界各地の川の流れが供給する土砂総量の約2倍。2060年には年間820億トンになると予想されている。

この本には、砂の500億トンは「体積にすれば東京ドーム2万杯」という表現がある。砂資源の商取引が世界全体で約700億ドルの市場をかたちづくっており、それは「産業ロボットの市場と同規模」との記述もある。この箇所で私は、石流の筆法は健在だな、と思った。国際機関の資料を漁って問題解読に役立つ数字を見つけてくる。その数字がどれほどのものか実感できるよう工夫する。統計に血を通わせることを忘れないのだ。

比喩や比較を多用するだけではない。体積を「東京ドーム」で数えるようなことは、気の利いた記者ならだれでも思いつく。著者は、そこにとどまらない。豊かな取材歴や読書歴で蓄積された知識を引っぱり出して、数字の背後に隠れた意味を読みとっていく。

この「砂資源」の「希少化」についても、そうした知的な肉づけがある。そのくだりは、米科学誌『サイエンス』が2017年に載せたA・トレスらの論文「迫り来る砂のコモンズの悲劇」の話から切りだされる。表題にある「コモンズの悲劇」は、米国の生態学者ギャレット・ハーディン(故人)が1968年に提起した概念だという。ここでコモンズとは、封建時代、領主のもとで村人が自分の家畜を自由に放牧できた共有地のことを指している。

その「悲劇」とは、こういうことだ。村人が、個々の利益を最大にしようとコモンズへの放牧をひたすら拡大していくと、家畜によって「草が食べ尽くされて」しまい、飼育が不可能となる。「コモンズの自由は破滅をもたらすので、管理が必要」というのが、ハーディンの結論だった。著者の石さんは1968年当時、「駆け出しの科学記者」だったが、人間活動の「性急」さに地球は耐えるかという問題意識に「共感を覚えた」という。

放牧地の問題は、人類が無限の経済成長を追い求めても資源は有限である、という地球の縮図だ。今では「大気」であれ、「水資源」であれ、「森林」であれ、ありとあらゆる環境問題が「コモンズの悲劇」の文脈で語られる。2017年のサイエンス論文は、それがついに「砂」にも及びつつあることを指摘するものだった。これを受けて、本書『砂戦争』は砂資源の現状を地球規模の大局観、歴史観のなかでとらえようとしているのである。

ひとこと付けくわえれば、この視点は、当欄が先々週と先週話題にした「外部化社会」批判にも通じていると言えるだろう。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」、当欄2021年5月14日付「エコと成長は並び立たないのか」)

実際、この本ではローカルな話題からグローバルな問題が見えてくる。中国のくだりでは「上海中心部に壁のように立ち塞がる高層ビル群を眺めていると、これら建造物が呑み込んだ砂は、いったいどこから運ばれてきたのだろうか、という疑問に囚われる」と切りだし、経済成長を支える砂供給に目を向ける。採掘先は、もともと長江だったが、その影響もあってか洪水が頻発した。2000年代になると、中流域江西省の鄱陽湖へ移ったという。

この話も定量研究で裏打ちされている。紹介されるのは、中国や米国の研究者が衛星画像を解析した結果だ。砂の搬出体積を、湖から出ていく運搬船の隻数から推し量ると2005~2006年には年間「東京ドーム約200杯分」だった。前述した2010年代半ばの世界の採掘量「東京ドーム2万杯」の1%に当たるが、2000年代には総量がそこまで多くなかったはずだ。たぶん、世界の砂採掘の1%以上が一つの湖に集中していたのだろう。

鄱陽湖は渡り鳥の越冬地だ。湿地の保護をめざすラムサール条約の登録地でもある。ところが地元の研究者によると、砂の採掘量が川から流れ込む量の30倍もあるので、湖の生態系は激変したという。とくに心配なのは、絶滅危惧種のソデグロヅルだ。浅瀬の草や魚を餌にするので、採掘で水深が変わることが致命的な打撃となる。砂という無機物のありようが乱されれば、草や魚や鳥から成る生態系も攪乱される――そのことを物語る事例である。

アラブ首長国連邦ドバイの話もすごい。人工島が300余もあり、そこに大量の砂が使われている。海底にまず石材を投じ、それを基礎にして砂を盛っていくのだという。その砂も海底から吸引して調達するというのだから、地産地消ならぬ海産海消か。地形の改変であることには違いない。もう一つ言えば、この大事業は石油採掘がもたらす富によって実現したものだ。人間がとことん地球の表面を引っかきまわしている現実が見えてくる。

インドネシアでは、ジャカルタなどの開発で、沖合の島々が砂の供給源となり、水没の危機に直面した。シンガポールは、「国土拡張」の埋め立て工事で砂を周辺国から大量輸入して国際摩擦を引き起こした。砂を吸い込むブラックホールは枚挙にいとまがない。

ここで著者は、富裕国が貧困国から砂を買いまくって国土を広げたり、高層ビルを建てたりするのは社会正義にもとる、というカナダ・オタワ大学の研究者ローラ・シェーンバーガーの指摘を引く。彼女は「砂は人間のタイムスケール内では再生可能な資源ではないから」と理由づけているという。砂資源は、太陽光のようにずっと降り注いではくれない。いったん収奪されれば、人間社会が想定する近未来には復元されないのである。

最後に、私がこの本でもっとも心動かされた著者自身の言葉を引用しよう。「最近、私はこう考えることがよくある。地球をスイカにたとえるならば、甘い赤い身を食い尽くして、今や周辺の白い部分をかじりはじめたのではないだろうか」。水産品で言えば、深海魚まで食べるようになった。化石資源で言えば、オイルシェールにまで手を出すようになった。獲り尽くす、採り尽くすという行動様式は、足もとの砂にも及んでいる。怖い話だ。
〈注〉『新食糧革命――バイオ技術と植物資源』(朝日新聞科学部、朝日新聞社刊)
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月21日公開、通算575回
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エコと成長は並び立たないのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

定常

話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊)を今回も。先週は本書から、現代の資本主義が無限を求めるという習性ゆえに有限な地球を食い尽しつつある現実を切りだした。では今、どうすればよいのか、を今週は考える。

この問題で著者はまず、「気候ケインズ主義」の幻想を打ち砕く。その筋書きでは「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資」が「安定した高賃金の雇用」を生みだし、需要を呼び起こして景気の好循環につながるだろうと見込むが、そうは問屋が卸さないというのだ。いま世界では経済成長と環境保護の両立をめざすグリーンエコノミーの論調が全盛だが、それに対する異論が全展開される。

ここでもちだされるのが、英国の経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが19世紀半ばに見いだした逆説だ。石炭を高効率で使える技術が登場しても、それは期待に反して石炭資源の節約に結びつかない。石炭が安くなって用途が広がり、消費はかえってふえるというのである。「ジェヴォンズのパラドックス」と呼ばれる。著者は、これをグリーン技術と環境負荷の関係に当てはめて、グリーンエコノミーの罠をあぶり出す。

電気自動車が広まった社会を考えてみる。その生産工程で化石燃料を燃やせば、そこで二酸化炭素(CO₂)が出る。充電用の電力を得るときも同様だ。発電に再生可能エネルギーを使うとしても、太陽光パネルや風力発電機をつくる段階でCO₂が吐き出される。著者はここで、電気自動車の台数が2040年までに今より2桁ふえてもCO₂の総排出量はほとんど減らないという国際エネルギー機関(IEA)の試算を突きつけている。

電気自動車については、耳に痛い話がもう一つある。リチウムイオン電池のリチウムは、主要産地が南米チリの山岳部にあり、そこで大量に汲みあげた地下水から採りだしているという。自然環境に影響がないわけがない。「石油の代わりに別の限りある資源が、グローバル・サウスでより一層激しく採掘・収奪されるようになっている」。これも、当欄が前回論じた外部化の例だ。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」)

それ以外のグリーン技術も批判の的になる。たとえば、バイオマス。植物由来の有機物を燃料に使えば、その植物が光合成で取り込んだCO₂を再び吐き出すだけで済む。ただ、その植物を栽培するために熱帯雨林が切り払われたらどうか。森林が光合成で吸収するCO₂は莫大だから、排出量抑制の効果は薄れてしまう。さらには、森の生態系が失われることも無視できないだろう。一つの環境負荷を抑えても別の負荷が頭をもたげるのだ。

著者は、IT(情報技術)をグリーンととらえる見方にも異を唱える。現代は「脱物質化した経済システム」が生まれつつあるように見えるが、そうではないと言う。「コンピューターやサーバーの製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費される」からだ。

これだけ気候ケインズ主義がボコボコにされれば、資本主義を続けながら気候変動に立ち向かうのは難しそうだ、と思えてくる。では、資本主義をやめればそれでよいのかと言えば、そういうわけでもないらしい。著者が問題視するのは、欧米に台頭してきた「左派加速主義」だ。マルクス前期の生産力至上主義にこだわり、「資本主義の技術革新の先にあるコミュニズム」ならば「完全に持続可能な経済成長が可能」とみる立場だという。

この本が左派加速主義の代表例としてとりあげるのは、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニが唱える「完全にオートメーション化された豪奢(ごうしゃ)なコミュニズム」だ。畜産に広大な放牧地が必要なら、人工肉を工場で量産すればよい。人類の敵である病に対しては、遺伝子工学で立ち向かえばよい。リチウムなどレアメタルが文字通りに希少なら、宇宙開発を進めて小惑星で採掘すればよい……そんな具合に技術至上論の趣がある。

左派加速主義に関心が集まる背景には、太陽光など再生可能エネルギーへの期待が高まったこともあるだろう。それは「無償のエネルギー源」なので、コミュニズム向きだ。地表を太陽光パネルで埋め尽すことが地球環境を損なうというなら、宇宙空間で太陽光を集めればよいのかも……こう考えると、旧ソ連とは異なる流儀で経済成長を伴うコミュニズム(共産主義)をめざすことは、時宜に適っているようにも思えてくる。

だが、著者は舌鋒鋭く、左派加速主義を弾劾する。経済の規模が膨らめば「結局は、より多くの資源採掘が必要となる」。エネルギー需要の高まりは再生可能エネルギーをふやしても追いつかず、CO₂濃度の上昇は避けられない。ここにも「ジェヴォンズのパラドックス」がある、と論じている。これについて、私は半信半疑だ。ちゃんとした試算をみてから判定しよう。ただ、生き方論で言えば、左派加速主義に同調する気にはなれない。

これは、私たちの世代の偽らざる実感ではないか。電気冷蔵庫だ、クーラーだ……と家電の登場に喜んでいるうちに電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ。その結果、未曽有の大事故である。ITもそうだ。電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……つぶやきも動画も瞬時にやりとりできるようになったが、自分がいつも監視されているような気がする。技術は過信できない。技術に浸るのは怖い。そんな思いがある。

では、私たちの世界が気候変動の危機を回避して生き延びる処方箋は何か。「脱成長コミュニズム」だ、と著者は言う。本書によれば、それはマルクスが最後にたどり着いた思想と同じものだ。共同体が「同じような生産を伝統に基づいて繰り返している」とき、そこには「経済成長をしない循環型の定常型経済」(太字は本文では傍点)がある。マルクスは晩年になって、そのことに気づいた。著者は、それを知って現代に生かそうと考える。

文字通り、処方箋のように「脱成長コミュニズムの柱」が箇条書きされたくだりが、この本にはある。筆頭に挙げられているのが「使用価値経済への転換」だ。「使用価値」という言葉がキーワードなので、これを軸に今風のコミュニズムを読み解いていこう。

「使用価値」とは、言葉を換えれば「有用性」だ。この本によれば、それをマルクスは商品の「価値」と切り分けて考えていた。資本主義は商品としての価値を重んじるので、「売れればなんだってかまわない」「一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」と思いがちな側面がある。「使用価値」とは関係のないところで商品の「価値」が高まる例として、「ブランド化」やそれがもたらす「相対的希少性」が挙げられている。

「使用価値」の高いものとしては、コロナ禍で品不足になった物品が例示されている。マスク、消毒液、人工呼吸器だ。「先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかった」のはなぜか? それはコスト高となる国内生産を嫌い、海外生産に依存したからだ、と著者はみる。「資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした」――これこそは、私たちが1年前に痛い目に遭った現代資本主義の現実である。

脱成長コミュニズムでは「エッセンシャル・ワークの重視」も「柱」の一つだという。「エッセンシャル・ワーク」という用語は、今回のコロナ禍でにわかに知れ渡った。医療、介護、配送、清掃……。巣ごもりが奨励されるときでも働かざるを得ない人々が世の中にいることを思い知らされたのだ。これは、「使用価値」の労働版にほかならない。保健所の激減がコロナ対策を滞らせていることは、この柱が必須であることを物語っている。

このあたりを読むと、当欄がとりあげたスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの論考「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号、青土社)を思いだす。そこでジジェクは、コロナ禍では医療資源の配分をめぐって、「適者生存」に対抗する思想として「再発明されたコミュニズム」がありうることを論じていた。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た

だが、「使用価値」優先にも問題はある、と私は思う。Aの危機ではX、Bの危機ではYというように必要なものは危機によって違う。XもYも……となにもかもは用意できまい。そもそも「脱成長」だって心配だ。高齢化などで高度の社会保障が求められる今、私たちは成長なしでほんとにやっていけるのか? ブランドの幻想にだまされない、シェア経済で無駄な消費をしない、というように工夫はいろいろあろうが、それだけで間に合うのか。

脱成長コミュニズムは未完成のように私には思える。ただ、人類がいつの日かコロナ禍を乗り越え、社会を再設計しようとするとき、この思想にいくつかヒントを見いだせるのは確かだろう。保守派を任ずる人も、コミュニズムと聞いただけで顔をしかめないほうがよい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月14日公開、同月17日最終更新、通算574回
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