植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
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2・26で思うkillとmurder

今週の書物/
『二・二六事件』
太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊

決起の破綻

ウクライナのニュースを見ていると、頭がクラクラすることがある。「敵国に兵士×××人の損害を与えた」というような報道発表に出あったときだ。要するに「敵兵×××人を殺した」ということではないか。それなのに、どこか誇らしげですらある。

これは、邦訳がなせる業かもしれない。英文の記事でよく見かける言い方は“×××troops were killed.”ここで用いられる動詞は“kill”であって“murder”ではない。日本語にすれば、どちらも「殺す」だが、英語では両者に大きな違いがある。

“kill”は幅広く、なにものかを死に至らしめることを言う。目的語が人とは限らない。生きものはもちろん、無生物であっても、機能を無効化するときに使われる。主語も人に限定されない。事故や災害が原因でも“kill”であり、犠牲者は受動態で“be killed”と言われる。だから「殺す」と訳すにしても、意味をかなり広げなくてはならない。日本語でも「はめ殺しの窓」のような用法があるが、あれと同じような殺し方である。

これに対して“murder”は、ミステリーの表題で「~殺人事件」と訳されるように故意の「殺人」を指す。日本語で「故殺」「謀殺」などと言うときの「殺す」だ。

ウクライナ報道で私が覚える違和感は何か。それは、情報の発信源が“kill”と言っているのを“murder”と受けとめたことにあるのだろう。だが、私が間違っているとは思わない。戦場で“kill”された人々も、結果としてやはり“murder”されたのである。

こと戦争にかかわる限り“kill”と“murder”は切り分けられない。こう確信するのは、私が戦後民主主義に育てられた世代だからだろう。戦後民主主義は、生命の尊重を最優先する。だから、仮にたとえ崇高な目的があったとしても、そのために他者の生命を奪ってよいとは考えない。敵兵を攻撃して生命を絶つ行為を“murder”ではないと言い切れないのだ。平和ボケと冷笑されても、この認識は私の思考回路に染みついている。

ただ心にとめておきたいのは、私たちの社会にも“kill”と“murder”を切り分ける人々がかつてはいたことだ。だからこそ、大日本帝国は戦争を始め、ドロ沼に陥っても立ちどまることができず、膨大な犠牲を払った末にようやくそれを終えたのだ。

で今週は、そんな戦前日本社会にあった“kill”の正当化に焦点を当てる。とりあげる書物は、『二・二六事件』(太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊)。1936年2月26日、陸軍青年将校と有志民間人の一群が起こした政権中枢に対する襲撃事件の顛末を、史料を渉猟して再構成したものだ。この文庫版は、河出書房新社「ふくろうの本」シリーズの1冊、『図説 2・26事件』(2003年刊)をもとにしている。

著者は、1937年生まれの出版人。明治期以降の戦史を中心に日本の近現代史を扱った編著書が多い。在野のグループ「太平洋戦争研究会」の主宰者でもある。

本書の中身に立ち入る前に、2・26事件とは何かをおさらいしておこう。昭和初期の日本経済は世界恐慌の大波を受け、失業者の増加や農村の疲弊が深刻になっていた。政治に対する不満が高まるとともに軍部の影響力が強まり、軍内部に権力闘争が起こった。そんな情勢を背景に、尉官級の陸軍将校が天皇親政の国家体制をめざそうと決起したのが、この事件である。クーデターを企てたわけだ。だが軍上層部は同調せず、頓挫した。

本書では、事件の全容が一覧表になっている。決起将校は20人、これに下士官や兵士、民間人らを加えた参加者の総勢は1558人。襲撃場所は16カ所。即死者は計9人。高橋是清蔵相ら政府・宮中の要人だけでなく、巡査部長、巡査級の警察官も含まれる。

本書は、2・26事件の一部始終をほぼ時系列に沿って再現している。血なまぐさい場面が続出するので、それを一つひとつなぞりたくはない。ここでは、岡田啓介首相がいた官邸や高橋蔵相の私邸に対する襲撃に焦点を絞り、何があったかを見てみよう。

首相官邸を襲撃したのは、歩兵第一連隊(歩一)機関銃隊の約290人。歩一は、今の東京ミッドタウン所在地に駐屯していた連隊だ。未明に出動、午前5時には官邸を取り囲んだ。「挺身隊」が塀を越えて門を開け、将兵がなだれ込み、官邸内の首相居宅(公邸)へ突入した。「屋内は真暗だった。手さぐりで進むのだが予備知識がないのでさっぱり見当がつかない」と、二等兵の一人は振り返っている(埼玉県編纂『二・二六事件と郷土兵』所収)。

この二等兵は、和室を一つずつ見てまわる。警官の拳銃の発砲音も聞こえてくるので油断はできない。前方の廊下で「白い影」が動いた。後を追い、「ココダ!」と思って飛び込むと、お手伝いさんの部屋だったらしく、女性の姿があった。当てが外れて部屋を出た途端、銃弾が腹を直撃する。這って洗面所まで逃げたところで意識が途絶えた――。手記を残したのだから、一命はとりとめたわけだが、生きるか死ぬかの攻防が、そこにはあった。

別の二等兵は、居宅部分の中庭に逃げ込む「老人」を目撃した。報告を受けた少尉は、すぐさま射殺の命令を下す。二等兵は「老人」の顔と腹を撃ったが、それだけでは絶命しなかった。襲撃部隊を率いる中尉は、上等兵の一人にとどめの発砲を命じる。胸と眉間に2発。「老人」は息絶えた。ここで信じられないことが起こる。中尉が「老人」の顔を岡田啓介首相の写真と突きあわせ、その男が首相本人であると見誤ったのだ。

「老人」は実は首相の義理の弟で、「首相秘書官事務嘱託」の立場にある松尾伝蔵陸軍予備役大佐だった。面立ちがもともと首相に似ていたが、髪を短く刈ってわざわざ首相に似せていた可能性もある。結果として、影武者の役を果たすことになったのは間違いない。襲撃部隊は、人違いの銃殺に万歳の声をあげ、樽酒を運び込ませて乾杯までしたという。本物の首相は「お手伝いさんの部屋」の押し入れに隠れ、難を逃れたという。

高橋是清蔵相の殺害では、将校たちが直接手を下した。蔵相の私邸は東京・赤坂にあり、蔵相は二階の十畳間で床に就いていた。近衛歩兵第三連隊の中尉や鉄道第二連隊の少尉らが二手に分かれて押し入り、寝室へ。中尉が「『国賊』と呼びて拳銃を射ち」、少尉は「軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました」――事後、少尉自身が憲兵隊にこう供述したという。この場面からは、相手が「国賊」なら“kill”は正当化できるという論理が見てとれる。

こうみてくると、2・26事件の青年将校らは人間の生命よりも国家の体制を大事に思う人々だったのだろうと推察される。だが、そう決めつけるのはやめよう。本書を読み進むと、意外なことに気づく。彼らにとっても生命はかけがえのないものであったらしい――。

青年将校らに対する軍法会議のくだりだ。1936年6月に死刑を求刑された少尉(前出の少尉二人とは別人。階級は事件当時、以下も)は手記にこう書く。「死の宣告は衝撃であった」「全身を打たれたような感じがして眼の前が暗くなった」。同様に死刑の求刑を受けた民間人(元将校)の手記にも「イヤナ気持ダ、無念ダ、シャクニサワル、が復讐のしようがない」とある。“kill”を正当化した人々が“be killed”に直面して動揺した様子がわかる。

この心理は人間的ではある。前出の元将校は仲間に「軍部は求刑を極度に重くして、判決では寛大なる処置をして我々に恩を売ろうとしている」と楽観論を披瀝したらしい。7月の判決では「眼の前が暗くなった」少尉が無期禁固、楽観論の元将校は死刑だった。

自分の生命はだれもが可愛い。こう言ってしまえば、それまでだ。だがだからこそ、他人の生命を粗末にすることは罪深い。人の生命は“kill”されても“murder”されるのと同等の結果をもたらす。キナ臭いにおいがする今だからこそ、そのことを再認識したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月24日公開、通算667回
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「週刊朝日」デキゴトの見方

今週の書物/
『デキゴトロジーRETURNS
週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊

「週刊朝日」2023年2月24日号

「週刊朝日」が5月末に終わる。公式発表によれば「休刊」だが、これは出版業界では実質「廃刊」を意味する。朝日新聞社が1922(大正11)年に創刊して、最近はグループ企業の朝日新聞出版が引き継いでいたが、満100歳超えの年に退却することになった。

私にとっては古巣の新聞社の刊行物なので、落胆はひとしおだ。メディアの紙ばなれが進み、新聞報道と結びついた出版文化の担い手が退場するのは、ジャーナリストの一人としても残念に思う。だが、それだけではない。この雑誌には私的にも思い出がある。

私が大学に入った1970年代初め、「週刊朝日」は表紙に毎号、同じ一人の女子を登場させていた。その女子の名は「幸恵」。10代で、私よりも少し年下だった。週がわりでポーズや表情を変えてくる。私は彼女の可憐さに惹かれ、この雑誌の愛読者になった。

そのことを物語る証拠物件が先日、見つかった。学生時代に友人たちと出したガリ版刷りの同人誌である。私も短編小説を載せたが、そこに彼女が登場していた。作中人物というわけではない。ただ、冒頭にいきなり顔を出す。「アスファルトの上に週刊朝日。表紙の幸恵が雨にぬれてびしょびしょだ」。自賛になるが、雨の路面に「週刊朝日」が貼りついているなんてイカシタ情景ではないか。読み手に作品世界を予感してもらう効果はあった。

当時の青年層には「朝日ジャーナル」が人気の雑誌だったが、高度成長が極まり、反抗の季節が過ぎるころには世相とズレが生じていた。これに対して「週刊朝日」は透明感があり、端然としていてかえって新鮮だった。その象徴が「表紙の幸恵」だったともいえる。

私は1977年、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」は職場のあちこちに置かれていたから、読む機会がふえた。お気に入りは、1978年に始まった「デキゴトロジー」という企画。小話のような体裁で、ラジオ番組で聴取者のはがきが読まれるのを聴いている感じたった。

で、今週の1冊は『デキゴトロジーRETURNS』(週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊)。誌面に1993~1995年に載った100話余りを収めている。本書カバーの惹句によれば、それらは「ウソみたいだけど、ホントのホントの話ばかり」。新聞社系の雑誌なのでホントを載せるのは当然だが、新聞とは違ってホントであればよいわけではない。そのホントが「ウソみたい」なところに当誌は価値を見いだしているのだ――そんな宣言である。

たとえば、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった朝の話。神戸市東灘区の女性66歳は激しい揺れと大きな音に驚き、「やっぱり高速道路が落ちよった。渋滞しすぎたんや」と思った。阪神高速のそばに住んでいるので、高架が車列の重みにいつまで耐えるか日ごろから気がかりだったのだ。「心配してたとおりやろ」。その見当外れのひとことに「地震でどこかに頭、打ったんか」と息子。母は「地震ってなんや」と答えた――。

「ウソみたい」な話ではある。だがあのころ、関西圏の直下で大地震が起こると考えていた人はそんなに多くなかった。強烈な揺れと音に襲われて地震以外のことを思いつく人がいても不思議はない。一家族のこぼれ話でありながら、一面の真理を突いている。

この親子のやりとりは漫才もどきだ。「地震ってなんや」のひとことはオチにもなっている。大震災を題材にすることは不謹慎と非難されかねないから難しいが、この一編に後味の悪さはない。話術に長けていても、無理に笑いをとろうとしていないからだろう。

もちろん、デキゴトロジーにはただの笑い話も多い。東大阪市の「女性カメラマン」38歳の体験談。大の犬好きで、散歩で白い雑種犬と出会ったとき、「犬に会釈した」。犬は、これを勘違いしたらしく「すれちがいざま、すばやく左フトモモに噛みついた」。飼い主がその場で詫びて別れたが、帰宅後に噛まれた箇所を見ると、歯形が残り、血が出ているではないか。彼女は動転してタウンページで獣医の番号を探しあて、電話をかけた――。

オチは獣医のひとこと。「人間のお医者さんに診てもらったらどうでしょうか」。要約すればそれだけの話だが、原文の筆致は軽やかだ。この話題からは特段の教訓が汲みとれるわけではない。ただ、私たちが日常しでかしそうな失敗の“あるある”である。

このように、デキゴトロジーは個人レベルの話を主体にしている。ここが、官庁を情報源とすることが多い新聞記事と大きく異なるところだ。官庁情報は公益に寄与する価値を帯びており、建前本位であり、統計的である。無駄な情報がまとわりついていても、それらは削ぎ落とされて発表される。これに対し、個人の体験談はたいてい無駄な情報が満載の世間話に過ぎない。だが、「ウソみたい」な「ホントの話」の多くはそこに宿る。

市井の個人情報を中心にしているので、危うい話はたくさんある。翻訳業に就いている大阪府在住の女性34歳の目撃談。初夏の午後、電車に乗って仕事がらみの資料を読んでいると、女子高生二人組の大声が聞こえてきた。目をあげると、二人は向かい側の座席でソックスを脱いでいる。いや、それだけでは終わらない。「平然とパンストをはき始めた」。まるで「女子更衣室」状態。近くに座る若い男性は「恥ずかしそうに下を向いていた」――。

考えてみれば、この一話が書かれたのは、電車で化粧することの是非が世間で議論の的になっていたころだ。女子高生二人もパンスト着用後、化粧に着手したという。そう考えると、電車の「更衣室」状態は公共空間の私物化が極まったものと言えなくもない。

危うさはときに警察のご厄介にもなる。今ならばコンプライアンス(遵法)尊重の立場から記事にしにくい領域にも、当時のデキゴトロジーは果敢に踏み込んだ。たとえば、「名門女子大」の学生が「駅前から撤去されて集積所に置かれた放置自転車」を「試乗」して見つかり、警察署で始末書を書く羽目になったという話。記事には「窃盗現行犯」とあるが、正しくは占有離脱物横領の疑いをかけられ、署で油をしぼられたということだろう。

デキゴトロジーによれば、この女子大生は「借用」に許容基準を設けていた。自転車が撤去から時を経て、所有者も愛着を失うほど「ぼろぼろ」なことだ。「他人の迷惑は最低限に、資本主義社会における罪を最小限に」という「良識」だった。この大学町では、その後も「借用」と思われる自転車が散見されたという。緩い時代だった。今は昔だが、私たちの社会にも法令違反をこのくらいの緩さで考える時代があったことは記憶にとどめたい。

とはいえ、日本社会の緩さはたかが知れている。世界基準はずっと大らかだ。米東海岸在住の日本人女性が西海岸からの帰途、カリフォルニア州オークランド空港でシカゴ行きの便に乗ったときのことだ。座席に着くなり機内放送があった。乗務するはずのパイロットが行方不明。「家に電話したけれど、だれも出ないし心配です」と言う。待たされた挙句、代役のパイロットが乗り込んで離陸したが、それからが大変だった。

代役パイロットが機内放送で、自分は「シカゴ空港に慣れていない」からとりあえずコロラド州デンバーまでお連れする、と説明したのだ。着陸直前には「デンバーは素晴らしいところです」「今度はぜひご滞在を」というアナウンスまで聞かされた。そこでパイロットが入れ代わり、シカゴに到着。東海岸には3時間遅れで戻った。航空会社に悪びれた様子は感じられない。ちなみにこの一話では、女性も航空会社も実名で登場している。

さて、こうした「ウソみたい」な「ホントの話」はだれがどう取材していたのか。本書巻末に収められた「週刊朝日」編集部員の一文によると、執筆陣の主力はフリーランスのライターたちであったようだ。登場人物の職業に「カメラマン」など出版関係が目立つのも、それで合点がいった。デキゴトロジー掲載記事のかなりの部分は、書き手が自分の交際範囲にアンテナを張りめぐらして手に入れた情報をもとにしているらしい。

そう考えると、デキゴトロジーはSNS以前のSNSとみることもできそうだ。ツイッターやインスタグラムなどが広まっていなかったころ、個人発の情報を分かちあうには既存メディアの助けを借りるしか手立てがなかった。そういう情報共有の場を用意したという点で「週刊朝日」は時代を先取りしていたのである。ところが今、個人発の情報は伝達手段を含めて個人が扱える。「週刊朝日」休刊はその現実も映している。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月17日公開、通算666回
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百閒「ありえない世界」の現実味

今週の書物/
「東京日記」
=『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)所収

自動車

ありえないことがある――これは、年をとればとるほど痛感することである。東日本大震災のような天災に見舞われる、新型コロナウイルス感染症のような疫病がはやる、ウクライナ侵攻のような不条理に出遭う。これらはいずれも不意をつく出来事だったが、歴史を顧みれば似たような災厄はあった。ありえない、とは決して言えない。ところが、人生には本当にありえないことが起こる。それはむしろ、ありふれた風景のなかにある。

たとえば電車に乗っていて、前方の座席を見渡したとしよう。乗客6人のうち5人が片手に板切れをもち、もう一方の手でトントン叩いている――別段驚くこともないありふれた光景だ。だが、昔からありふれていたわけではない。こんなことはありえなかった。

20世紀末に情報技術(IT)が台頭したころから、世の中は大きく変わるという予感はあった。21世紀初めにかけて、世界はインターネットで結ばれ、私たちは携帯電話を手にするようになった。ネットとケータイがうまく組み合わされば、私たちの生活様式が激変するのは理の当然だ。ただ、人々が黙々と板切れを叩く姿が日常の風景に溶け込むとは、だれが予想しただろう。あのころ、それはほとんどありえないことだった。

その板切れ、即ちスマートフォンが開発され、消費者に受け入れられ、世の隅々にまで行き渡る道筋を私は検証したわけではない。だから直感で言うのだが、スマホ文明は必然だけで生まれたわけではないだろう。偶然が別の向きに働けば、端末のありようやネットとのつながり方が異なったものとなり、掌の板切れも指先のトントンも出現しなかったのではないか。私たちはIT進化の数多ある小枝の一つに紛れ込んだだけなのかもしれない。

そう考えてみると、私たちが今ありえないと思っていることを見くびってはいけない。ありえないようなことが、いずれ現実になることは大いにありうるのだ。で、今週は『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)の表題作を読む。「改造」誌1938年1月号に発表された作品だ。これは短編小説というよりも、23話から成る掌編連作とみたほうがよい。登場人物にとってありえないと思われる話が次々に出てくる。

作品に入るまえに、著者百閒(1889~1971)について予習しておこう。生家は岡山の造り酒屋。東京帝国大学でドイツ文学を学び、学生時代、夏目漱石門下に入った。卒業後は陸軍士官学校などで教職に就くかたわら、小説家や随筆家として文筆活動に勤しんだ。

本書の巻末解説(川村二郎執筆)によれば、百閒文学は「一貫して、日常の中に唐突に落ちこむ別世界の影に執着している」という。この「東京日記」もそうだ。私は漱石の「夢十夜」を連想した(*)。ドイツ文学でいえば、フランツ・カフカの作風に近い。

著者の人柄がしのばれる一文が本書巻末にある。著者に師事し、本書の出版にかかわった中村武志さんのことわり書きだ。それによると、著者は戦後も亡くなるまで「旧漢字、旧仮名づかいを厳として固守」した。時流に左右されない頑固な人だったのだろう。ただ、この文庫版では遺族の許可を得て、新漢字、新仮名づかいに改められている。そうしたのは、「できるだけ多く」の若者たちに百閒作品に触れてほしいとの一念からだという。

では、「東京日記」第1話に入ろう。ここでは「日常」と「別世界」の落差が巧みな筆づかいで描かれている。「日常」を実感させるのは東京に実在する地名だ。「三宅坂」「日比谷の交叉点」……東京人ならば、そう聞いて「ああ、あのあたりだな」とお濠端の風景が目に浮かぶに違いない。ところが、そのお濠から「牛の胴体よりもっと大きな鰻」が姿を現し、「ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝い出した」。これはまぎれもなく「別世界」だ。

この「別世界」には予兆があった。「私」は日比谷交叉点で、乗っていた路面電車を降ろされる。車掌は車両故障だという。雨降りだが、雨粒に「締まりがない」。風は止まり、生暖かい。夜でもないのに、ビルの窓々にあかりが見える。そのとき、お濠で異変が起こった。「白光りのする水が大きな一つの塊りになって、少しずつ、あっちこっちに揺れ出した」。こうして、大鰻が現れたのである――。不気味な気配の描き方が半端ではない。

さて、この作品でありえないことがあると痛感させられたのは第3話だ。冒頭に「永年三井の運転手をしていた男」が登場する。三井財閥のお抱え運転手だったということだろう。退職後に「食堂のおやじ」となり、彼と「私」とは店主と常連客の間柄にある。その男がある日、「老運転手」然とした制服姿で「私」の前に現れた。「古風な自動車」が外で待機している。「迎えに来てくれた」のだ。男は「私」を乗せて車を走らせた。

執筆は1930年代。すでに街に自動車が走っていた時代だが、クルマ社会の到来はまだ遠い先の話だった。その時点からみて「古風な自動車」というのだから、よほどクラシックな車種なのだろう。この一編は、そんなレトロな雰囲気で書きだされている。

では、ドライブはどんなものだったのか。車は街路を滑らかに走っていたが、四谷見附で信号が赤になり、停止した。隣には緑色のオープンカーが停まっている。ここで、不思議なことが起こる。「だれも人が乗っていなかった」はずなのに「信号が青になると同時に、私の車と並んで走り出した」のである。「前を行く自転車を避けたり」「先を横切っている荷車の為に速力をゆるめたり」もする。これはまさしく、現代の自動走行ではないか。

自動走行車を目の当たりにしても、歩行者は驚かない。警察官も同様だ。この街では、自動車に運転手がいないことが当たり前になっているようだ。「私」は、そういう人々の反応を含めて、ありえないと感じている。そこにあるのは「別世界」だった。

1930年代の視点に立つと、この「別世界」はお濠の鰻が市街を動きまわる「別世界」と等価だ。だが、視点を2023年に移せば話は違ってくる。車の自動走行は技術面では相当程度まで可能になっている。10年先を見越せば、制度面の体制も整ってくるだろう。たとえ道を行く車に人影がなくても、それは「別世界」とは言えない。そんな車を見て人々が無反応だったとしても、やはり「別世界」ではない。それは、ありうる世界なのだ。

これは、著者が考えもしなかったことだろう。この一編はレトロの雰囲気を調味料にしているくらいだから、未来物語ではない。ところが、作品発表から80年余が過ぎると、そのありえないことが近未来図に重なりあうのだ。世界は何が起こるかわからない。

この作品で私の心をもっともとらえたのは第4話。ある夜、東京駅で省線(現JR線)の上り最終電車を降り、駅前に出てみると夜空の様子がいつもと違う。「月の懸かっているのは、丸ビルの空なのだが、その丸ビルはなくなっている」。近づくと、敷地は原っぱでそこここに水たまりもあった。その夜は帰宅したが、翌朝用事があって現地を再訪すると丸ビルはやはりない。空き地は柵で囲まれていて、電話線や瓦斯管があった形跡もない――。

この一編の妙は、丸ビルがあった場所に「丸ビル前」のバス停があり、タクシーの運転手に行き先を「丸ビル」と告げればそこに連れていってくれることだ。だが、空き地のそばに佇む人に「丸ビルはどうしたのでしょう」と尋ねると、「丸ビルと云いますと」と要領を得ない。丸ビルは在ったのか、なかったのか、在るのか、ないのか……。話を最後まで読むと、ますますわからなくなってくる。この世界が「別世界」と交じりあうような作品だ。

考えてみれば、当時の丸ビルは今消え、新しい丸ビルが聳えている。街の建物が知らないうちに姿を消すのはよくあることだ。その意味では、これもありうる話なのか。

*当欄2023年1月13日付「初夢代わりに漱石の夢をのぞく
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月10日公開、通算665回
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大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
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