そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

漱石の時代、新聞社はサロンだった

今週の書物/
「長谷川君と余」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

題字

「新聞社の人だな、きっと」。半世紀も昔のことだ。夕方、下り電車に乗っていたとき、近くに立っている男性の二人連れを見て、そう思った。当時、私は学生の身。新聞記者になる以前のことだ。だから、この「新聞社の人だな」は直感に過ぎない。

年の頃は40~50代だろうか。紳士然としている。勤め先の見当をつける手がかりは、外見の緩さだった。記憶はおぼろだが、髪は長め、ジャケットに色違いのズボンを穿いていたように思う。あのころ商社・金融・メーカー系のサラリーマンは、七三分けに上下揃いの背広姿がふつうだったから、そうでないというだけでマスコミ系の記号となりえた。服装の色調が地味なので、テレビ系や広告系が外され、新聞系か出版系に絞られた。

「新聞社の人だな」の決め手は、二人の会話だった。年長の一人がつり革につかまり、上半身を揺らして、とめどなく話している。楽しげで、得意そうでもある。もう一人は聞き役に徹している感じだ。話の流れはつかめなかったが、話題はもっぱら海外のこと。中南米だったように思う。政治情勢を論じていたのか、世情のあれこれを語っていたのかは覚えていない。ただ私にも感じとれたのは、それが現地の見聞にもとづく話だったことだ。

この人は特派員だったのだ、と確信した。在外経験が豊かで、今は日本に帰任して、本社の部署にいるのだろう。世の中には、こういう部類の人もいるのだ。つり革にぶらさがりながら、遠い国の出来事を隣町のことのように話して聞かせる人が――。

数年後、私が新聞社に就職したとき、そうか、自分も通勤電車で世界を語るような業界に入るのだな、と覚悟した。そうなりたいとは思わなかった。だからと言って、そうなった人を嫌ったこともない。私が入社したころ、そういう記者はたしかに存在した。ただ年々減って、今では絶滅危惧種になっている。私自身も特派員経験者だが、電車で友人と交わす会話は、沿線のレストランはどこが旨いかというような世間話ばかりだ。

新聞社にはかつて、あのつり革の紳士に象徴される文化があった。たとえて言えば、雲に乗って世界を飛び回っているような思考様式だ。それが今、消えつつある。なぜか? ひと昔前、外国は別世界だった。行商人が得意客に峠の向こうの話を聞かせるように、メディアは海外事情を伝えた。だが、ネット時代の今は違う。外国もリアルタイムでつながっている。同じ世界になったのだ。でもなぜか、つり革の紳士の文化が懐かしい。

で、今週は「長谷川君と余」。先週の『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)に収められた「他七篇」の一つである(当欄2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」)。同じ本を2週続きでとりあげることになるが、この一篇は漱石が朝日新聞社に入ってから同僚とどんな交遊をしていたかを知る手がかりになるので、話題にしない手はない。そこからは、往時の新聞社の空気を感じとることもできるだろう。

題名にある「長谷川君」とは、二葉亭四迷のこと。日本で近代小説の分野を切りひらいたとされる作家だ。本名を長谷川辰之助という。この一篇で、冒頭の一文は「長谷川君と余は互いに名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった」(ルビは原則省く、以下も)。その二人がたまたま居合わせることになったのが、朝日新聞社だった。四迷が先に在社していて、そこに著者が加わったということのようだが、「つい怠けて」挨拶にも行かずにいた。

ここでわかるのは、漱石が入社した1907(明治40)年ころの新聞社の長閑さだ。もちろん、著者や四迷は別格の社員で、ふつうの記者とは違ったのだろう。この一篇には「用が出来て社へ行った」という記述があるから、通勤などという習慣はなかったようだ。新聞社では今でも外回りの記者が社内に滞在する時間は短いが、それは取材に走りまわっているからだ。著者の目に映った新聞人像からは、そんなせわしさは見えてこない。

入社後しばらくして、著者は四迷と顔を合わす機会を得る。東京朝日新聞主筆の池辺三山が、大阪朝日新聞主筆の鳥居素川がやって来たとき、社の幹部ら10人余を「有楽町の倶楽部」へ招いて接待した。そのなかに著者も四迷もいたのである。四迷の第一印象は「かねて想像していた所を、あまりに隔たっていた」。背丈があり、肩幅も広く、「どこからどこまで四角」だ。「到底細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもない」と感じたのだ。

著者はこのとき、四迷と会話らしい会話を交わしていない。四迷がしゃべるときは、ただ聞く側に回った。そこで受けた第二印象は、けちのつけようのないものだ。いま話をしているのは「文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない」。では、どんな人か。「あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士」にほかならないと感じたというのである。人物評としては、最高級の賛辞と言ってよいだろう。

おもしろいのは、ここで著者が四迷の品位を分析していることだ。それは「貴族的のものではない」として、「性情」や「修養」に由来するとみる。そして、さらに「修養」の成分を探り、その一部は「学問の結果」だが、「俗にいう苦労」の跡もあるという。

著者のダンボ耳は、やがて「品位のある紳士」の海外談議を聞きとっていく。四迷が、主筆の池辺を相手にロシアの「政党談」を始めたのだ。「大変興味があると見えて、何時まで立っても已めない」「まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例の六(む)ずかしい何々スキーなどという名前がいくつも出た」。いつまでも続く話、きのう見てきたような話――このくだりにさしかかって、私はくだんのつり革の紳士を思いだしたのである。

この連想は見当外れではない。四迷は1908(明治41)年、朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに駐在するのだ。その人事が固まったころ、著者は四迷、鳥居と三人で昼食を囲んだ。場所は、神田のうなぎ屋。四迷は「現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様」や「露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望」を語ったという。政治から文学まで、分野を問わないロシア通だったのだ。

ただ赴任後、サンクトペテルブルクから届いたはがきでは「此方の寒さには敵(かな)わない」と弱音を吐いていた。著者は、それを見て「気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた」。ところが、四迷は現地で肺結核を患って1909(明治42)年、帰途の船上で帰らぬ人となる。「まさか死ぬほど寒いとは思わなかった」。だが、ほんとうに「死ぬほど寒かった」のである。著者の哀惜の念が痛いほど伝わってくる。

この一篇には、当時の新聞社の社内風景もちらりと出てくる。「汚ない階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四、五人話をしている」。これは東京朝日新聞の社屋が、まだ銀座並木通りにあったころのことだ。階段の描写から埃っぽさも感じとれるが、数人の会話には議論というより談笑の気配がある。蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局とは大違いだ。

著者と四迷が風呂場で湯に浸かる場面も。「ある日の午后」のことだ。洗い場で「ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である」――これは銭湯か? いや、社内のようだ。そう言えば私が若いころにも、新聞社には社員用の浴場があった。

漱石や四迷がいたころ、新聞社はサロンでもあったのだ。情報がリアルタイムで押し寄せ、それをリアルタイムで選びとり、伝えなくてはならない今日、その雰囲気は望むべくもない。だが、あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい。私には、そう思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月15日公開、同月20日最終更新、通算557回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

漱石の実存、30分の空白

今週の書物/
「思い出す事など」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

不連続

年を越しても、コロナ禍の収束は見えない。いや、深刻さの度合いが増すばかりだ。今年の暮れに世界はどうなっているのか。まったく先が見通せない1年である。

過ぎ去った年を振り返ってみよう。その年頭、当欄の前身「本読み by chance」では、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)を引いて、これからの1年がイングランドの風景のように穏やかであればよいが、たぶんそうはならないだろう、と書いた(2020年1月3日付「漱石が新聞小説に仕掛けた遭遇の妙」)。終わってみると、この嫌な予感が恐ろしいほどに的中したことに驚く。

もっとも、あの拙稿で2020年を波乱含みと予想する理由の筆頭に挙げたのは、米国の大統領選だった。たしかに選挙は混迷した。だが、それよりも早く、それどころではない災厄が地球をそっくり覆っていた。新型コロナウイルス感染症の蔓延である。コロナ禍を巨大地震にたとえれば、米国のトップ選びのゴタゴタは、そのときにテーブルに載っていたコップの水の揺れに過ぎないように思える。そして、その激震はまだ続いている。

とんでもないことが起こったのだ。たとえば、町の風景。だれもかれもがマスクをしている。マスク姿は、日本では冬はインフルエンザ予防で、春先には花粉症対策でよく見かけるようになっていたが、欧米にそんな習慣はなかった。それが今、世界標準だ。たぶん、未来の史家が21世紀の映像資料を整理するとき、マスク顔の群衆が見えたら「2020年代初め」のフォルダーに入れるだろう。これだけでも、人類史的な事件と呼びたくなる。

変化は、目に見えるものだけではない。去年の春先からずっと、私たちの内面に恐怖が棲みついている。「うつる」「うつす」という言葉が頭から離れないのだ。そして、その2語の先にちらつくのは生命の危機。そんな心模様を世の多くの人々が共有している。

で、今週は1月恒例の漱石。「思い出す事など」(『思い出す事など 他七篇』=夏目漱石著、岩波文庫=所収、1986年刊)という随筆を選んだ。私事をさらけ出し、大患から生還するまでを綴った作品。そこで露わとなる文豪の心境は、今の私たちの心にも響いてくる。1910(明治43)年秋から翌春にかけて、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に断続して連載されたもの。こんな経緯もあって随筆とはいえ分量があり、全33章から成る。

まず、巻末注解(古川久編)にもとづいて、そのころの著者が持病の胃潰瘍とどう向きあっていたかをたどっておこう。日付に沿って言えば1910年6月18日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院、7月末に病院を出て伊豆・修善寺の温泉旅館「菊屋本店」で療養生活に入った。ところが、8月24日に大量の吐血がある。そのまま伊豆にとどまって回復に努め、10月11日東京に戻って、再び長与病院で入院治療を受けることになった――。

第一章にはこうある。「漸くの事でまた病院まで帰って来た」「転地先で再度の病に罹って、寐たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった」(引用部のルビは原則省く、以下も)。病院にいない2カ月半ほどが、予想外に過酷な日々であったことがうかがわれる。

第二章では、この長与病院で著者の不在期間に不幸があったことが明らかとなる。院長が亡くなったのだ。春以来体調を崩していたが、8月末から病状が悪化したという。それは著者自身が吐血後に危篤に陥ったころとぴったり重なっていた。この一篇の通奏低音となるような出来事だ。ちなみに院長は、蘭方医緒方洪庵に師事した長与専斎の息子、称吉。ドイツへの留学経験もある胃腸病の専門家だった。弟には作家長与善郎がいる。

大量吐血前後の話が語られるのは第八章からだ。それに先だって食欲が失せ、吐き気を催すようになった。著者は、吐瀉物の色がそのときどきに変わっていく様子を克明に記録している。金盥に「黒ずんだ濃い汁」を見たとき、医師は「これは血だ」と言ったが、信じられなかった。ところが、黒い色に赤が交じり、生臭さが鼻をついたときは違った。「余は胸を抑えながら自分で血だ血だといった」。漱石らしい余裕の文体が、ここにはない。

医師は金盥の中を見て「こういうものが出るようでは」と眉をひそめ、すぐに帰京するよう促した。ただ、吐血の報が長与病院に電話で伝わると、医師が朝日新聞の社員とともに伊豆に来ることになった。「この時の余は殆んど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった」「余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった」。文豪もまた、一つの生命体に過ぎなかったのだ。

そして、8月24日が巡ってくる。それは、長与病院副院長が東京から往診に訪れたちょうどその日だ。「意外にもさほど悪くない」との見立てを聞いてから1時間ほどたち、日が暮れようとするころ、「忘るべからざる八百グラムの吐血」に突然見舞われたのである。

実はこのとき、著者は奇妙な体験をする。大吐血から翌朝にかけてずっと覚醒していたように思っていたのだが、枕もとの妻に尋ねると違った。脳貧血で「人事不省」となった時間があったというのだ。著者本人の弁をそのまま引けば、「余は、実に三十分の長い間死んでいた」。もちろん、それは死ではないだろう。ただ、そう表現しても不思議でないほどの意識の空白があり、しかも自身、その空白の存在にすら気づかなかったのである。

覚醒時の描写も凄い。医師二人が左右の手首を握りながら、ドイツ語で会話する。著者が目をつぶっていたので「昏睡」と思われたのか。「弱い」「ええ」「駄目だろう」「ええ」「子供に会わしたらどうだろう」「そう」――語学に通じた著者には意味がわかった。「余はこの時急に心細くなった」が、「自分の生死に関するかように大胆な批評」に「反抗心」も湧きあがる。目を見開いて「私は子供などに会いたくはありません」と言い返したという。

巻末解説(執筆・竹盛天雄)を読むと、これと似た場面が朝日新聞社の社員、坂元雪鳥が書き残した記録にもある。その描写によれば、副院長と雪鳥が著者の左右の手を握り、かぼそくなった脈をとっていたとき、「キンドは……」という言葉が交わされている。「キンド」はドイツ語のkind(キント=子)のことだろう。著者は、これを医師二人のやりとりと誤解したのではないか。ただし、この記録によれば、著者が反発した気配はない。

著者は自身の「三十分の死」を考察している。それは「時間からいっても、空間からいっても経験の記憶として全く余に取って存在しなかった」。だから、「死とはそれほど果敢(はか)ないものか」と思わざるを得ない。その死の世界に自分はいったん迷い込み、生の世界に舞い戻ってきた。「余をして忽(たちま)ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめた」のは「二つの世界が如何なる関係を有する」からなのか。そう自問するが答えは見つからない。

さすが、明治の知識人と思わせるのは、著者がここで古代ギリシャの哲人ゼノンの逆説をもちだしていることだ。「アキレスと亀」である。アキレスが、いま亀のいる地点に到達したときには亀も少しだけ先に進んでいる。人の意識が日々半分ずつ失われるのなら、アキレスが亀に追いつけないように「いくら死に近付いても死ねない」。ところが、現実は違った。著者は「俄然として死し、俄然としてわれに還る」という不連続を体験したのだ。

著者は、自分が「幽霊」の信者だったことも打ち明けている。8~9年前から、欧州の民俗学者や心霊学者が著した「幽霊」や「死後」を題材とする書物を読み漁ってきた、という。ところが、「三十分の死」をくぐり抜けた今、霊界に対する懐疑の念が強まった。そのとき、「余は余の個性を失った」「余の意識を失った」のだ。はっきりしているのは「失った」結果の不存在だけである。「どうして幽霊となれよう」と思うようになる。

著者漱石はこのとき、不連続の彼方に個性も意識も存在しない無を垣間見て、自らの実存を自覚したとは言えないか。それは実際の死より6年前のことである。

この作品でもう一つ心に残るのは、漱石が医師や看護婦(当時の呼び方)の献身を「報酬」目当て、「義務」感ゆえの行為とは見ず、そこに「好意」を感じとろうとしていることだ。ふつうの年なら読み流してしまいかねないが、コロナ禍の今、深い共感を覚える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月8日公開、通算556回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

アガサで知る英国田園の戦後

今週の書物/
『予告殺人』
アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊行

お茶の時間

戦後という言葉は今、若い世代の心にどう響くのだろうか。たぶん、「センゴ、what?」という感じではないか。先の大戦の痕跡がほとんど消えているのだから、当然かもしれない。ただ、一つ言っておきたいのは、戦後は戦中とは切り離された時代区分であることだ。

こんなふうに思うのも、私が昭和20年代(1945~1954年)生まれであり、若いころは戦争を知らない子どもたちと言われたからだろう。たしかに戦争は知らない。でも、戦後は知っている。それは、明るかったが闇がある、闇はあったが明るい――そんな印象か。

今の一文で、「明」と「闇」2文字のどちらに重きを置くかで、ちょっと迷った。あれほどの大戦の後なのだから「明」を強調するのは不謹慎ではないか。そうは思う。だが、私たちの世代には「明」のほうがピンと来る。

ふと思いだすのは昭和30年ごろ、私が親類宅の庭で遊んでいたときのことだ。上空を巨大な飛行機が通り過ぎていった。銀色の機体がまぶしかった。そのとき、傍らの伯母が「アメリカの輸送機だわ、きっと」とつぶやいた。あのころは米軍機が東京上空を頻繁に飛び交っていたのだ。伯母が「アメリカの…」と言うとき、彼女の心には戦中の記憶が去来していたのだろう。だが私にとって、それはガイジンが乗るピカピカの飛行機に過ぎなかった。

戦後はたしかに明るかった。そのことは『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)をみてもわかる(「本読み by chance」2020年3月6日付「サザエさんで終戦直後の平凡を知る」)。それは、「闇」をはらむ「明るかった」なのかもしれないが。

で、今週は、海外の戦後をミステリー作品から嗅ぎとることにする。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊)。描かれるのは、英国田園地帯の戦後。戦勝国なので、敗戦国の世相とは大きく異なる。だが戦争は、負けた側だけでなく、勝った側にも混乱を引き起こす。その結果、「明るかったが闇がある」が、ここにも顔を出すのだ。著者は、その空気をミステリーの作中に吹き込んだ。

小説の舞台は、チッピング・クレグホーンという名前の小村。作品のなかで地元警察署長が口にする言葉を借りれば「広々とした絵のように美しい村」だ。「かなりの数の建物がヴィクトリア朝時代に建てられたもの」(署長)で、高級感が漂う。かつて農場の働き手の住まいだった家も改築され、年配の人々が住んでいたりする。当時の労働党政権の政策「ゆりかごから墓場まで」に支えられた高齢世代のゆとりがここにはある。

余談だが、作中には「セントラルヒーティング」という言葉がしばしば出てくる。英国の家々で暖房方式が変わり、暖炉が飾りものになったのはこのころだったのだろう。

小説の冒頭は、新聞配達の話。村の商店街には、新聞の取り次ぎもしている書店があって、配達人が月曜から土曜まで毎朝、自転車で新聞を配っている。日本のように宅配制度が行き渡っていないので、各紙ごとの専売店はない。家ごとに異なる注文の新聞を届ける。

金曜日は大忙しだ。全国紙に加えて、ほぼ全戸に地域週刊紙「ノース・ベナム・ニューズ・アンド・チッピング・クレグホーン・ガゼット」を配達するからだ。たいていの住人が全国紙に載る国連総会や炭鉱休業の記事はほったらかしにして、「《ガゼット》をそそくさと広げると、地元のニュースをむさぼるように読んだ」。今や高級住宅地と化した小村にも地域社会が根を張っていることが、このミニコミ紙の人気からもうかがわれる。

最初に登場するのは、スウェットナム親子。一人息子はもの書きのようだが、売れっ子ではないらしい。それでも家政婦を雇っているから、資産があるのだろう。この家でも、金曜朝は母親がガゼットに目を通す。目当ては個人広告欄。「スメドリー家は自動車を売りにだすようね」「ふうん、セリーナ・ローレンスがまたコックを探してるわ」……。紙面に固有名詞を見つけては、その人の面立ちやその建物の佇まいを思い浮かべている気配がある。

と突然、母親が驚きの声をあげる。広告欄に「殺人をお知らせします」という文言を見つけたのだ。その日午後6時半にリトル・パドックスで、とある。リトル・パドックスは、村内にある邸宅の一つ。あるじは、レティシア・ブラックロックと名乗る60代の女性だ。広告文は「お知り合いの方々にご出席いただきたく、右ご通知まで」と締めくくられていた。母は戸惑うが、息子は「一種のパーティー」「殺人ゲームみたいなもの」と本気にしない。

当然のことながら、この広告はあちこちの家庭で話のタネになる。元インド駐在の軍人とその妻、改造田舎家で共同生活している年配女性の二人組、そして、牧師館に住む牧師とその妻。予告をまともに受けとめた人は村にいないようだ。たとえば、年配女性同士のやりとりはこんなだった。「一杯やりましょうってことでしょ、どっちみち」「招待状のようなものかしら?」「向こうに行ってみれば、どういう意味なのかわかるわよ」

リトル・パドックス邸内でも広告は話題になった。この家の住人には、あるじのほかに彼女の古い友人がいる。遠い親戚という若い兄妹もいる。さらに、子育て中のシングルの女性が下宿しており、大陸から難を逃れてきたメイドもいる。あるじは広告を遠戚の兄か妹の悪ふざけと疑ったが、それは即座に否定された。だが、さほど動じる様子もなく、近隣の人々はきっと興味津々で来訪するだろうと見込んで、パーティーを準備するのだ。

夕刻になると、ほんとにみんながやって来る。客たちが関心事の「殺人」をなかなか口にしないのは英国流の作法か。訪問の理由も「たまたま、こっちのほうに来たものですから」「アヒルが卵を産んでいるかどうかお訊きしたかったので」……。例外は、牧師の妻だけだ。夫が所用で来られないことを「それはもう残念がってました」と言って、「主人は殺人が大好きなんです」。牧師をミステリー好きにしてしまうのは、クリスティー流の諧謔だろう。

予告の午後6時半、明かりが消えて「部屋が真っ暗」になる。悲鳴が起こったが、どこか「満足げ」で「楽しげ」。みんなまだ、パーティー感覚だったのだ。ところが、ドアが開いて懐中電灯の光があちこちを照らしたかと思うと、男の声が響きわたる。「手をあげろ!」。そして、拳銃の発射音が3回。まもなく明かりが戻ってわかったのは、衝撃の事実。血を流して倒れているのは騒ぎの張本人、さっき声をあげた男だったのだ――。

ミステリーなので、当欄はこの事件の筋書きを追わない。おなじみのジェーン・マープルが登場して刑事たちに知恵を貸すのだけれど、その謎解きについても触れない。この穏やかな地域社会にも、戦争の影響が見え隠れしていることだけを強調しておこう。

もっとも暗い影を引きずっているのは、リトル・パドックスのメイド。広告が出た日、あるじに暇を願い出る。「死にたくないんです!」「家族はみんな死んだんです――殺されたんですよ」「またやつらがあたしを殺しに来る」と脅えている。「誰が?」と問われると、まず「ナチス」の名を挙げ、次いで「今度はボルシェビキかもしれない」と言う。戦後の英国には、戦前戦中に大陸を席巻した全体主義の恐怖が消えない人々が大勢いたのだろう。

事件後、刑事が事情を聴こうとすると、「あたしをいじめに来たんでしょ」「爪をはがしたり、マッチの炎で皮膚を焼いたり」「だけど、あたしはしゃべらない」と頑なだ。自分は学歴があるのにこの地では相応の扱いを受けていない、という恨みもほのめかす。

たしかに、村には難民を疎外する空気があった。庭師の一人は刑事の聞き込みに、村内にくすぶる憶測のあれこれを証言する。この事件を「よそ者がうろつきまわっているせい」にして、リトル・パドックスの厨房にいる「ひどい癇癪(かんしゃく)持ちの娘」に疑いの目を向ける人物もいる――。戦時、欧州大陸の人々を苛んだ出来事は戦後、英国の長閑な田園にも歪みをもたらしていた。クリスティーの一編からも戦争の「闇」は見えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月30日公開、同年11月1日更新、通算546回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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村上春樹で思う父子という関係

今週の書物/
『猫を棄てる――父親について語るとき』
村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊

猫帰る

村上春樹が少年期を振り返って父親とのことを書いたというのは、私にとって驚きだった。『猫を棄てる――父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊)。この人の小説は、エピソードの切りとり方こそ日常感覚にあふれているが、そこに抜きんでた空想力をもち込んで、ぶっ飛んだ物語世界に私たちを誘い込む。ところが今回は、あたかも私小説作家のように自らの個人史を晒して、一冊の書物にしたのだという。

もっとも、これを小説として読むのは誤りだ。巻末の「小さな歴史のかけら」と題するあとがきで、著者はこの一編を「文章」とのみ称している。その完成度からみて〈作品〉とみなしてよいと私は思うが、それはフィクションでもエッセイでもない。

初出は、月刊『文藝春秋』の2019年6月号。「文章」の長さは中編小説ほどのものなので、ほかの作品と併せて単行本にするという選択肢もあったが、あえて「独立した一冊の小さな本」にしたという。あとがきには「内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかったからだ」とある。著者自身も、この作品が小説家村上春樹の世界から外れていることを認めているのである。

もう少し、あとがきにこだわろう。著者には「亡くなった父親のことはいつか、まとまったかたちで文章にしなくてはならない」という思いがあり、「そのことが喉にひっかかった小骨のように、僕の心に長い間わだかまっていた」という。

私は、この吐露に納得した。実は、私も今年、父を失っている。97歳の静かな死だったから天寿を全うしたと言ってよいだろう。父と私との関係は平凡だった。確執はなかったが、仲が良かったわけでもない。少年時代にキャッチボールをした、日曜大工を手伝った、という思い出もないのだから、淡白な間柄だった。だが、死のその日から、父のことを思いめぐらすようになった。著者の心にも同じような転回があったのかもしれない。

父は子にとって、とりわけ息子にとって、そういう存在であることがままあるのだろう。その人が存在しているときは紐帯を自覚することがない。ところが非存在となったとたん、その紐帯の絡みつくさまがにわかに浮かびあがってくる。なんと逆説めいていることか。

で今週は、この本をとりあげる。冒頭、表題のエピソードが「父親に関して覚えていること」の一つとして披歴される。一家が兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)に住んでいたころ、「海辺に一匹の猫を棄てに行ったことがある」。飼っていたのか、それともただ居ついていただけなのかもはっきりしない雌猫。「昭和30年代の初め」のことらしい。当時は、猫を棄てることが「とくに世間からうしろ指を差されるような行為ではなかった」。

著者は1949年生まれだから、まだ子どもだ。父が漕ぐ自転車の後ろにまたがって猫の入った箱を抱え、海辺へ向かった。父子は香櫨園(こうろえん)の浜まで2キロほど走り、防風林で猫に別れを告げ、家路を急いだ。で、玄関を開けたときのことだ。「さっき棄ててきたはずの猫が『にゃあ』と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた」のである。父は「呆然」とし、次いで「感心」して、最後には「いくらかほっとした」表情を見せたという。

ここで私には一つ、思いあたることがある。少年期の記憶はどこかぼやけていて、大人になって思い返すときに改編されていたりするものだ。著者を疑うつもりはないが、この猫の先回りにもそんなトリックがあるのかもしれない。父子はまっすぐではなく、回り道して帰宅したのではないか。棄て場所は浜ではなく、もっと近所だったのではないか。いや、そもそも、猫を棄てに出かけてはいなかったのかもしれない……。

著者自身、猫が自分の「友だち」であり、家族とも「仲良く」やっていたことを振り返り、「どうしてその猫を海岸に棄てに行かなくてはならなかったのだろう?」「なぜ僕はそのことに対して異議を唱えなかったのだろう?」と自問している。

もう一つ、父の思い出として特記されているのは、朝食前に「長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたこと」だ。父は、京都の由緒ある寺の住職の次男だった。自身は阪神間の中高一貫校で国語教師になったが、読経の習慣は身についていた。異彩を放つのは、そのお経を毎朝、何に対して唱えていたかだ。父の前にあるのは、いわゆる仏壇ではなかった。代わりに「美しく細かく彫られた小さな菩薩」を入れたガラスケースが置かれていた。

著者は、子ども心に理由を知りたくて「誰のために」と聞いたことがあった。父は、「前の戦争で死んでいった人たちのため」「仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのため」と答えた。著者の問いかけは、そこで止まる。「おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かが――場の空気のようなものが――あったのだと思う」。そうだ、戦後世代の私たちは先行世代と心を通わせようとすると、いつもこの壁にぶち当たるのだ。

著者は、このあたりから父の個人史を描きはじめる。それは、この一編のお肉の部分なので細部に立ち入らない。「文章」とは言っても、やはり稀代の小説家村上春樹の作品なのだ。物語としても十分に読めるのだから、ネタをばらすようなことは控えたいと思う。

私が目をとめたのは、この個人史のぼやけやゆらぎだ。著者の記憶には、もともと父の軌跡がとどめられてはいた。ところが父の没後、それが欠陥だらけであることが著者自身の調査によってわかってくる。そこに読みものとしての魅力も生まれている。

一例を挙げれば、父の軍歴。父は、旧制中学校を出て仏教系の専門学校に在学中、兵隊にとられる。20歳だった。著者は、そのときに父が入営した部隊名を間違って覚えていた。間違ったまま放置されていたのはなぜか。それは、配属先と信じ込んでいた部隊がある事件とかかわっており、父に対するもやもやした疑念を生んでいたからだ。「生前の父に直接、戦争中の話を詳しく訊こうという気持ちにもなれなかった」と、著者は告白する。

父は2008年、90歳で永眠した。息子が「何も訊かないまま」、父が「何も語らないまま」、父子は世界を分かつことになったのだ。それで著者は調査に乗りだして、父の配属先が別の部隊とわかり、疑念も晴れた。「ひとつ重しが取れたような感覚があった」という。

父は1938年、中国大陸の戦線に送り込まれた。1年で除隊後、専門学校に復学して卒業したが、1941年に再び召集される。ところが2カ月後、上官から「召集解除」を言い渡されたという。著者が「父から聞いた話」では、上官は父が京都帝国大学の学生であることを慮って「学問に励んだ方がお国のため」と告げたというのだが、信じ難い。著者も「そんなことが一人の上官の裁量でできるものかどうか、僕にはよくわからない」と懐疑的だ。

実際、父は京大に進み、文学を学び、卒業した。だが、著者が京大の名簿に当たってみると、父の入学は1944年だった。「子供の頃に僕が聞かされた――聞かされたと記憶している――話」は「残念ながら事実にはそぐわない」と、途方に暮れるのだ。

ただ、父がこの話をするとき、「上官のおかげで命を助けられた」と言っていたことには重みがある。1941年に父が入営した師団は戦争末期、ビルマ戦線でほとんど壊滅状態になったからだ。父が最初の兵役で所属した師団も日米開戦後、中国大陸からフィリピンの激戦地へ転戦させられたので、除隊が延びていればこちらで戦死した可能性もある。「そうなればもちろん僕もこの世界には存在していなかったことになる」と、著者は書く。

この一編は、ぼやけてゆらぐ記憶のかたまりだ。もっとも衝撃的なのは、父が一度だけ明かしたという軍隊での出来事。あまりに強烈なので紹介しない。だがそれも、主語ははっきりしない。ぼんやりしているからズシンとくる。父と子は、そんな記憶でつながっている。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月2日公開、通算542回
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