量子力学のリョ、実存に出会う

今週の書物/
『NIELS BOHR
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)

デルタエックス(文末に注)

量子ほど、科学者は馴染んでいるのに世間に通用しない言葉はない。そんなこともあるからだろう、量子をめぐってはさまざまな誤解がある。量子論=量子力学と受けとめる向きがあるが、これは正しくない。あえて不等号を用いれば量子論>量子力学となる。

量子論の元年は、ドイツの物理学者マックス・プランクが量子仮説を提案した1900年と言えよう。それは先週の当欄でも触れたように、物体が電磁波を放ったり吸い込んだりするとき、やりとりされるエネルギーがとびとびの値をとる、という仮説だった。エネルギーには、1個、2個……と数えられる塊があるというわけだ。物理学者たちは、このような塊を「量子」と呼ぶようになった。(2021年5月28日付「量子の世界に一歩踏み込む」)

量子の概念を取り込んで生まれた物理学の体系が量子力学だ。1920年代半ばに確立された。建設者としてはウェルナー・ハイゼンベルクとエルウィン・シュレーディンガーの名がまず挙がるが、欧州の物理学者群像が知を持ち寄って築いたという色彩が強い。

量子仮説の登場から量子力学の誕生までに四半世紀が過ぎている。この間に物理学者は、原子がどんなつくりになっているか、などの懸案を量子論に沿って説明しようとした。こうした試みを前期量子論という。ニールス・ボーアは前期量子論の中心人物と言ってよい。

先週とりあげた『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫=底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)は、ボーアの業績として、量子仮説を踏まえた原子模型や、量子論と古典論の折り合いをつける対応原理の提案を挙げている。当欄も前回は、この二点に的を絞った。それで幕を引こうとも思ったのだが、考えを変えた。この『傳記』がさらっと触れている量子力学のことも触れておこう。そう思い直したのだ。

この一編は、量子力学が産声をあげて間もないころに書かれた。それが誕生直後、どう受けとめられていたかを、欧州にゆかりのある物理学者が語っているのである。素通りする手はない。もう1回とりあげて、リョウシリキガクのリョくらいまでは掬いあげておこう。

読んでわかったのは、そこにある量子力学の記述が1970年代に出回っていた解説書に近いことだ。初期の解釈が数十年も健在だったということか。ところが1980年代以降、事態は大きく動く。先端技術のおかげで、量子力学のつかさどる世界が実験室で再現できるようになり、そこから新しい量子力学観が台頭したのだ。当欄は今後、この潮流を追いかけていくつもりだが、そのまえに1930年代風の見方を復習しておきたいと思う。

『傳記』本文に入ろう。著者は「量子力学の発見には、直接にボーアの手で行われた部分はない」とことわったうえで、ボーアの薫陶を受けた人々が見いだした量子力学にボーア自身がどうかかわったかを論じている。それによると、ハイゼンベルクの不確定性原理には格別の興味を抱いたらしい。自分にも似た発想があったようで、「ハイゼンベルクの思考実験中の行論を訂正し」「原理の因って来る所を明かにした」とある。

この原理によると、「正規共役」という関係にある一対の量――たとえば粒子の位置と運動量――では、「一方を測定する実験を行うと、量子論的実在にあっては其実験の為に無視し得ない影響を他方の量に与えることを避け得ない」。片方を「非常に正確に」突きとめようとすると、もう一方は「全く解らなくなって了う」。ボーアはこれを「相補性理論」と呼んで、アルバート・アインシュタインの相対性理論に対置させた、という。

量子力学の世界では、位置を見極めるか、運動量を測るか、で事態がガラッと変わる。著者の言葉によれば「観測の仕方によって現象が規定せられる」のである。これは「物は観方による」という日常の教訓に言い換えられることも書き添えられている。

このくだりには、こんな記述も見かける。「観測に於て、観測体と被観測体とが古典論の場合のように截然たる区別をつけられない」――これを読んだとき、実存主義のイメージが頭をよぎった。そういえば、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」と言い切っていた。20世紀前半、量子力学と実存主義という別分野の潮流に響きあうものがあったように私には思える。(当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」)

『傳記』によれば、ボーアは量子力学がはらむ波動説と粒子説の相克も「相補性の考察」で「解決した」。光の正体は19世紀には波動と見られていたが、1905年にアインシュタインが光量子仮説を唱えたことで粒子としての側面が無視できなくなった。1920年代前半にはルイ・ド・ブロイが電子のような物質にも波動としての側面があることを理論づけた。光も物質も、波と粒の両面を併せもつことがわかったのだ。これをどう考えるか。

ボーアが、この難題と向きあうときにもちだしたのは、私たちが現象のどこに着眼するかという、視点の相補性だ。量子力学の世界では「時間空間」内の「伝播」や「運動」を議論するときは波動らしく見えるが、「エネルギー、運動量」を問題にする場合は粒子らしくなる、というのである。二つの側面は相容れないが「一方が問題となって居る時は他方は自然に姿を消して了う」。だから、両説ともそれなりに正しいことになる。

著者によれば、「時間空間」の問題で波動らしさが際立つことは、不確定性原理によって支持されている。この原理の通りなら、観測によってさまざまな状態が現れるわけだから、こうならばああなるという古典論の因果律は成り立たない。私たちには「確率が与えられるだけ」であり、因果律は「統計的結果」に反映されるだけだ。状態が統計的に散らばる様子は波として表現できる。だから、波動らしさが卓越する――なるほどそうか、と思う。

一方、「エネルギー、運動量」は量子力学でも「不滅則」に従うので古典論の因果律が成立する、と著者はみる。不滅則、即ち保存則が粒子らしさの源泉というのである。ビリヤードの球がエネルギーや運動量を保存するように転がる様子をイメージすると、なんとなくわかったような気分になるが、私は十分には納得できていない。不確定性原理は、粒子の位置を絞り込めば運動量がばらつく、と言う。このとき、運動量の保存則はどうなるのか。

この『傳記』で残念なのは、量子力学最大の謎が語られていないことだ。状態の重ね合わせである。ボーアの学派が広めたコペンハーゲン解釈によれば、量子力学の世界では複数の状態が重ね合わさることがあり、観測の瞬間にそれが一つに定まる。この解釈は、物理学徒の間では教科書の知識のように定着しているが、不自然な印象を拭えない。ボーア自身はどう考えていたのか。そのことを知るには、別の書物を探さなければなるまい。
〈注〉⊿は、ばらつきを表す記号デルタ。⊿xは位置xのばらつきを表している。
*引用では文字づかいを現代風に改め、原語で書かれた人名も片仮名表記にした。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月4日公開、同年7月1日最終更新、通算577回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

量子の世界に一歩踏み込む

今週の書物/
『NIELS BOHR
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)

エイチバー(文末に注)

当欄は今年の年頭、実存主義にこだわった。夏目漱石の日記に「実存」を見て、ジャン-ポール・サルトルの講演を本で読んだ。さらに去年とりあげたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)も読み直してみた。(2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」、2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」、2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」、2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する」)

こうしてみると、当欄のあり方として、ときに一つのテーマにこだわるのも悪くはない。昨春、新しい看板として「めぐりあう書物たち」を掲げたとき、第一には自分自身と本との出会いという意味を込めたが、内心には本同士のめぐりあいもあり、と思っていた。私がこだわりのテーマを追いかければ、そこに本同士のネットワークが生まれるかもしれない。ならば今年は、テーマをもう一つ選ぼう。それで思いついたのが量子力学である。

振り返れば量子力学は、私にとって抜くに抜けないトゲのようなものだった。学生時代に物理学を学んだが、理系職に就くことを断念したのは、量子力学につまずいたからだ。数式が何を言いたいかがわからない、わからない数式を用いて仕事はできない――。

不惑を過ぎて、私は量子力学に再会した。ロンドン駐在の科学記者だった1990年代、量子力学が再び物理学者の関心事になっている流れを知り、それを欧州各地で取材したのである。報告記事は、まず紙面に載せ(朝日新聞科学面連載「量子の時代」、1995年10~12月に10回)、さらに本にまとめた(『量子論の宿題は解けるか』講談社ブルーバックス、1997年刊)。このときに気づいたのは、量子力学は物理学者にとってもトゲだということだ。

量子力学は1920年代半ばに出来あがったが、その解釈はずっと宿題だった。何を言おうとしているかは、物理学者にもはっきりしなかったのである。ところが20世紀も押し詰まったころ、宿題の答えの手がかりが見えてきた。量子力学が露わになる世界が、極微や極低温などの先端技術によって実験室でも再現できるようになったからだ。その試みが量子コンピューターや量子暗号といった次世代技術の芽を秘めていることも研究を後押しした。

量子コンピューターや量子暗号が政治経済の記事にも登場するようになった昨今の状況に接して、一つ残念に思うのは、その技術と表裏の関係にある量子力学の解釈問題が置き去りにされていることだ。そんなことは技術革新と関係ない、と言われてしまえばそれまでだ。だが、量子力学をどう解釈するかは、私たちが世界をどうとらえるかに深く結びついている。私たちは、もしかしたら現有の世界観をそっくり取り換えなくてはならないのだ。

で、今週選んだ書物は、電子出版の『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫〈底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊〉)。そもそも、量子力学の誕生にどんな動機があったのか、そこのところをしっかり押さえておこうと思ったのである。

この一編は、20世紀前半に日本の物理学界を牽引した著者(1890~1951)が、自身も渡欧時に師事したデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885~1962)の半生を簡略に綴ったものだ。ボーアの家庭環境や滞英遊学などにも触れているが、当欄は科学史の側面に的を絞る。マックス・プランクの量子仮説(1900年)を原点とする量子論の流れが、1920年代に量子力学として結実するまでのいきさつが見えてくるからである。

本題に入る前に、お許しをいただきたいことがある。この文章は全編、旧字体、旧仮名づかいで書かれている。デンマークを「丁抹」とするなど、旧式の地名表記もある。さらに著者は、ボーアをBohr、ケンブリッジをCambridgeとするなど原語表記も多用している。こうした文章は、昭和戦前の文化遺産として貴重なものだ。当欄はそのことを認めたうえで、本文の引用にあたって文字づかいや表記の仕方を現代風に改めることにする。

ボーアの業績で有名なのは、1913年に提案した原子模型だ。そこには「古典論では律し得ない二つの基礎仮定」があった。一つめは、原子内で電子の運動は「定常状態のみが許される」こと。「中間の状態」はない。二つめは、ある状態から別の状態へ移るとき、エネルギーのやりとりは電磁波の放射吸収によってなされ、その電磁波の振動数(ν)はエネルギーをプランク定数(ℎ)で割った値になること。なぜ、こんな仮定ができるのか?

それは、プランクの量子仮説を踏まえているからだ。この仮説では、エネルギーは塊のように一つ、二つと数えられる。ボーアは、それを原子の内部構造にもち込んだのである。(「本読み by chance」2019年12月6日付「ポアンカレ本で量子論の産声を聴く」)

この英断には前段がある。1910年代初め、ボーアは英国のマンチェスターでアーネスト・ラザフォードに会っている。その直前、ラザフォードは散乱現象の実験で、原子は原子核とその周りの電子からできていることを確かめていた。これによって、J・J・トムソンが主張していたブドウパン型の模型――「陽電気の雲塊の中に電子が浮かんで居るもの」――が否定され、長岡半太郎の土星型模型に近いものが有力な原子像になった。

ただ、この原子像にも難があった。分光学の研究で原子にはスペクトルがあること、すなわち、原子は元素の種類ごとに特定の振動数の電磁波しか放射吸収しないことがわかっていた。ところが、もし電子が古典論の物理に則って隕石の落下のように滑らかに軌道を落としていくのなら、とびとびの振動数をもつ電磁波の放射を説明できない。この矛盾を切り抜ける奇手が、原子が従うべき掟としての「二つの基礎仮定」だった。

ボーアの原子模型は、このように量子論を受け入れているが、一方で古典論にも踏みとどまっている。著者によると、原子の定常状態そのもののエネルギー値は、原子核や電子のような荷電粒子に適用されるクーロンの法則によって古典物理から算出しているというのだ。木に竹を接ぐような話ではある。興味深いのは、この値が今日の量子力学を用いた計算結果にもぴったり合うらしいことだ。著者は、それを「偶然の一致」と言っている。

木に竹を接ぐことになった事情を説明するくだりも、この一編にはある。著者によれば、私たちの「概念」は「巨視的事象」によってかたちづくられているので「描像能力の極限を超えて居る原子、分子等の微視的対象」には当てはめられない。古典論は「描像能力の限界内にある」ので、微視世界までは「定量的」に解き明かせないというのだ。この壁を突破するには、十余年後の「描像を超脱した量子力学」の登場を待たなくてはならない。

ただ、ボーアは二兎を追った。「定量」を可能にするために「二つの基礎仮定」を導入して量子論に一歩踏み込んだが、古典論に片足を残して「描像」も手放さなかった。著者は、その原子模型を「描像を用い得る」「一つの表現法」と位置づけている。

量子論と古典論の折り合いをつけることにも、ボーアは腐心した。これは、そんなに簡単なことではない。片方には、「単一の振動数を有する光量子」ばかりが放出される量子論の現象がある。そこに見られる振動数は不連続で、とびとびだ。もう一方には、「同時に多くの振動数をもった光を出す」ような古典論の現象がある。こちらは、光の振動数が切れ目なく連続している。この二つの物理学を仲良く併存させる道はあるのか。

ボーアは、こう考えた。量子論でも対象が大きくなって巨視の領域に近づけば、とびとびが連続に見えてくる。「極限」に達すれば古典論と「同じことになる」――逆を言えば、古典論は量子論の一部とみなせる。これが「対応原理」と呼ばれるものだ。

この一編を読んで印象深いのは、1910年代、量子力学前夜の量子論――これを前期量子論という――が「描像」にこだわったことだ。物理学の精神としては健全だったと言えるのではないか。今、量子力学の探究は実験技術の進展によって急展開を見せ、巨視と微視の境目が薄れている。もはや量子世界を「描像能力の極限を超えて居る」と突き放せなくなった。わけがわからないならわからないなりに、その世界をイメージしたい。切にそう思う。
〈注〉ℎはプランク定数。それを2πで割った数値がℏで「エイチバー」と読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月28日公開、同日更新、通算576回
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石さんが砂について書いた話

今週の書物/
『砂戦争――知られざる資源争奪戦』
石弘之著、角川新書、2020年刊

砂は砂でも星の砂

古巣のことを言うのはちょっと心苦しいが、私がいた新聞社の私がいた部署にもスター記者が何人かいた。石弘之さんもその一人だ。テレビに頻繁に出て、一世を風靡するというのとはちょっと違う。独自の取材領域を切り開いて名声を得たジャーナリストだ。

環境記者の先駆けである。1970年代から地球環境のことを考えていた。ということは、世の中よりも数歩先を行っていたことになる。環境ジャーナリズムの先駆者であるばかりでなく、環境問題にかかわる人々の先頭集団にいた、と言ってよい。

だから、いろいろなところから声がかかる。在社中に国連環境計画(UNEP)で上級顧問を務めた。退社後は複数の国立大学で教授職に就き、駐ザンビアの大使にもなった。著書は数えきれないほどある。なかでも『地球環境報告』(岩波新書)は有名だ。

私も、石さんが率いる取材班に入ったことがある。1984年、「新食糧革命」〈注〉という連載企画のチームに加わったのだ。私にとっては初めての海外取材の機会となった。石さんからは、日程の組み方から領収書の整理法まで外国出張のイロハを教えてもらった。そう言えばあのころから、石さんはエレベーターのボタンをグータッチで押していた。当時すでに手指による接触感染のリスクを知っていて、私たちにさりげなく注意を促したのだ。

「新食糧革命」は、遺伝子組み換えや細胞融合などのバイオ技術を農業にも生かそうという機運を科学記者が世界各地で取材して報告する企画だった。下手をすれば、科学技術礼讃になりかねない。だが、取材を進めていくうちに、農業バイオ技術が生産性だけを追い求めれば地球の遺伝子資源の多様性が損なわれることに気づかされた。記事では、この懸念も強調した。これは、石さんの薫陶を受けたからにほかならない。

で、今週の1冊は『砂戦争――知られざる資源争奪戦』(石弘之著、角川新書、2020年刊)。書店で背表紙に懐かしい名を見つけ、思わず手にとった。著者は1940年生まれ。現時点80代なのに現役感のある本だ。なによりも驚いたのは、書名の「砂戦争」である。

科学記者の間には――私の古巣だけの話かもしれないが――カタもの、ヤワラカものという業界用語がある。ザクッと言えば、前者は無機系で、物理学や天文学、情報科学などの領域を言う。後者は有機系で、医学や生物学などを指す。著者は自分の姓とは裏腹に、有機系の動植物が好きな人。環境問題の記事で原子力のようなカタモノ領域に踏み込むことはあっても、関心事はもっぱらヤワラカものと思っていた。それがなんと「砂」である。

本文に入ろう。冒頭でまず、UNEPの「砂資源は想像以上に希少化している」とする報告書が引かれている。2014年に公表されたものだ。それによると、世界の砂の採掘量は年間470億~590億トン。大半がコンクリートの骨材になるので、砂と混ぜ合わされるセメントの生産流通状況から推計された。この採掘総量は毎年、世界各地の川の流れが供給する土砂総量の約2倍。2060年には年間820億トンになると予想されている。

この本には、砂の500億トンは「体積にすれば東京ドーム2万杯」という表現がある。砂資源の商取引が世界全体で約700億ドルの市場をかたちづくっており、それは「産業ロボットの市場と同規模」との記述もある。この箇所で私は、石流の筆法は健在だな、と思った。国際機関の資料を漁って問題解読に役立つ数字を見つけてくる。その数字がどれほどのものか実感できるよう工夫する。統計に血を通わせることを忘れないのだ。

比喩や比較を多用するだけではない。体積を「東京ドーム」で数えるようなことは、気の利いた記者ならだれでも思いつく。著者は、そこにとどまらない。豊かな取材歴や読書歴で蓄積された知識を引っぱり出して、数字の背後に隠れた意味を読みとっていく。

この「砂資源」の「希少化」についても、そうした知的な肉づけがある。そのくだりは、米科学誌『サイエンス』が2017年に載せたA・トレスらの論文「迫り来る砂のコモンズの悲劇」の話から切りだされる。表題にある「コモンズの悲劇」は、米国の生態学者ギャレット・ハーディン(故人)が1968年に提起した概念だという。ここでコモンズとは、封建時代、領主のもとで村人が自分の家畜を自由に放牧できた共有地のことを指している。

その「悲劇」とは、こういうことだ。村人が、個々の利益を最大にしようとコモンズへの放牧をひたすら拡大していくと、家畜によって「草が食べ尽くされて」しまい、飼育が不可能となる。「コモンズの自由は破滅をもたらすので、管理が必要」というのが、ハーディンの結論だった。著者の石さんは1968年当時、「駆け出しの科学記者」だったが、人間活動の「性急」さに地球は耐えるかという問題意識に「共感を覚えた」という。

放牧地の問題は、人類が無限の経済成長を追い求めても資源は有限である、という地球の縮図だ。今では「大気」であれ、「水資源」であれ、「森林」であれ、ありとあらゆる環境問題が「コモンズの悲劇」の文脈で語られる。2017年のサイエンス論文は、それがついに「砂」にも及びつつあることを指摘するものだった。これを受けて、本書『砂戦争』は砂資源の現状を地球規模の大局観、歴史観のなかでとらえようとしているのである。

ひとこと付けくわえれば、この視点は、当欄が先々週と先週話題にした「外部化社会」批判にも通じていると言えるだろう。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」、当欄2021年5月14日付「エコと成長は並び立たないのか」)

実際、この本ではローカルな話題からグローバルな問題が見えてくる。中国のくだりでは「上海中心部に壁のように立ち塞がる高層ビル群を眺めていると、これら建造物が呑み込んだ砂は、いったいどこから運ばれてきたのだろうか、という疑問に囚われる」と切りだし、経済成長を支える砂供給に目を向ける。採掘先は、もともと長江だったが、その影響もあってか洪水が頻発した。2000年代になると、中流域江西省の鄱陽湖へ移ったという。

この話も定量研究で裏打ちされている。紹介されるのは、中国や米国の研究者が衛星画像を解析した結果だ。砂の搬出体積を、湖から出ていく運搬船の隻数から推し量ると2005~2006年には年間「東京ドーム約200杯分」だった。前述した2010年代半ばの世界の採掘量「東京ドーム2万杯」の1%に当たるが、2000年代には総量がそこまで多くなかったはずだ。たぶん、世界の砂採掘の1%以上が一つの湖に集中していたのだろう。

鄱陽湖は渡り鳥の越冬地だ。湿地の保護をめざすラムサール条約の登録地でもある。ところが地元の研究者によると、砂の採掘量が川から流れ込む量の30倍もあるので、湖の生態系は激変したという。とくに心配なのは、絶滅危惧種のソデグロヅルだ。浅瀬の草や魚を餌にするので、採掘で水深が変わることが致命的な打撃となる。砂という無機物のありようが乱されれば、草や魚や鳥から成る生態系も攪乱される――そのことを物語る事例である。

アラブ首長国連邦ドバイの話もすごい。人工島が300余もあり、そこに大量の砂が使われている。海底にまず石材を投じ、それを基礎にして砂を盛っていくのだという。その砂も海底から吸引して調達するというのだから、地産地消ならぬ海産海消か。地形の改変であることには違いない。もう一つ言えば、この大事業は石油採掘がもたらす富によって実現したものだ。人間がとことん地球の表面を引っかきまわしている現実が見えてくる。

インドネシアでは、ジャカルタなどの開発で、沖合の島々が砂の供給源となり、水没の危機に直面した。シンガポールは、「国土拡張」の埋め立て工事で砂を周辺国から大量輸入して国際摩擦を引き起こした。砂を吸い込むブラックホールは枚挙にいとまがない。

ここで著者は、富裕国が貧困国から砂を買いまくって国土を広げたり、高層ビルを建てたりするのは社会正義にもとる、というカナダ・オタワ大学の研究者ローラ・シェーンバーガーの指摘を引く。彼女は「砂は人間のタイムスケール内では再生可能な資源ではないから」と理由づけているという。砂資源は、太陽光のようにずっと降り注いではくれない。いったん収奪されれば、人間社会が想定する近未来には復元されないのである。

最後に、私がこの本でもっとも心動かされた著者自身の言葉を引用しよう。「最近、私はこう考えることがよくある。地球をスイカにたとえるならば、甘い赤い身を食い尽くして、今や周辺の白い部分をかじりはじめたのではないだろうか」。水産品で言えば、深海魚まで食べるようになった。化石資源で言えば、オイルシェールにまで手を出すようになった。獲り尽くす、採り尽くすという行動様式は、足もとの砂にも及んでいる。怖い話だ。
〈注〉『新食糧革命――バイオ技術と植物資源』(朝日新聞科学部、朝日新聞社刊)
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月21日公開、通算575回
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武蔵野夫人というハケの心理学

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

深い思い入れがある東京西郊、国分寺崖線の話を1回で終わりにする手はない。ということで、今回も引きつづき『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)をとりあげる。(当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」)

先週は、主人公道子の倫理的とも言える婚外恋愛――これも不倫と呼ぶのだろうか――の感情が崖線の自然のなかで自覚される様子を作品から切りとってみた。そこには、「はけ」の地形から湧き出る水の湿潤があった。斜面を覆う樹林が生み出す陰翳もあった。

前回、私が焦点を当てたのは、道子が父方の従弟、勉とともに崖線沿いを流れる野川の水源を探し求める探索行だ。少年少女の小さな冒険のような趣がある。だが、二人の内面をのぞくと、そうとばかりは言えない。崖線を歩いていても成人男女の心の綾がある。というのも、この物語は二組の夫婦と一人の青年の5人によって織りなされる群像劇であり、そこにドロドロした5元連立方程式が潜んでいるからだ。だが当欄は、その筋に踏み込まない。

今回は、筋立てからは完全に離れて、「はけ」の地形や生態系、そこに漂う空気感を浮かびあがらせようと思う。なぜなら、この作品では、著者がそれらの細部をさながら科学者のような目で描きだしているからだ。自然が登場人物の心理と響きあっているように見える。

まずは、地形学。道子が夫の忠雄と住む「はけ」の家はどんなところに位置しているのか。勉が戦地から帰還後、この家を再訪するときの描写が手がかりになる。中央線の駅――たぶん、国分寺か武蔵小金井だろう――を降りて、武蔵野の風景の只中を歩いていく。「茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畠中の道に倦きたころ、『はけ』の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た」。高台の突端に豊かな緑があるのだ。

著者の記述によれば、「はけ」の家の敷地は、この斜面の上から下まですべてに及んでいるらしい。「上道」と「下道」の両方に接しているということだ。近隣の家々は、北側の上道に門を構えていたが、道子の家は違った。道子の父、故宮地信三郎が「ここはもともと南の多摩川の方から開けた土地」と主張して譲らなかったからだ。上道にも木戸だけはあったが、宮地老人は生前、そこからは客が入り込めないようにしていた。

勉は、それを知っているがゆえに、木戸の脇から手を突っ込み、掛け金をはずして中へ入った。小道は草が茂り、段状にうねりながら下っていく。下方に「はけ」の家が姿を現す。「見馴れぬ裏屋根の形は不思議な厳しさをもって、土地の傾斜を支えるように、下に立ちふさがっていた」。道なりに歩いていくと、ついには「『はけ』の泉を蔽う崖の上」に出る。家のヴェランダが見え、道子が母方の従兄の妻、富子とおしゃべりしている――。

この一節は、恋物語の導入部として絶妙だ。青年は駅前の喧騒を背に田園を抜け、崖線に至る。禁断の裏門から忍び込んで、草を分け入り、坂道を下りていくと、そこには密やかな泉の湧き口があり、これから青年の心を揺り動かす女たちがいる。

次は、物理学。勉には「物の働きに注意する癖」があった。だから、「はけ」の家に住み込むようになってからは湧き水の「観察」に余念がない。「水は底の小砂利を少しずつ転ばしていた」「一つの小砂利が、二つ三つ転がって止まり、少し身動きし、また大きく五、六寸転がり、そうしてだんだん下へ運ばれて行く」。関心は定量的となり、小砂利が10分でどれほど進むかを測ったりもする。無機物からも生気を感じているかのようだ。

生物学もある。道子と勉が7月の日差しを浴び、ヴェランダで腰掛けていたときのことだ。一羽の小鳥が「上の林から降りて来て、珊瑚樹の葉簇(はむら)を揺がせて去った」。ここで読み手は、鳥の動線にハッとさせられる。崖だからこそ、こんな急降下をするのだ。「はけ」の水が池に流れ、池の水がさらに下方へ流れ落ちるように、崖は自然界に垂直方向の動きを促す。生きものも例外ではない。3次元の世界を軽やかに行き来する。

このとき、二人の前には一対のアゲハ蝶が現れる。一羽の翅は黒っぽい。もう一羽は淡い褐色。二羽は雌雄のようで、一羽はもう一羽に近づいては離れ、また近づこうとしている。道子も勉も、その揺れ動きをじっと見つめ、そこに自分自身の心模様を重ねている。

著者によれば、「はけ」の一帯は鳥や蝶の「通い道」になっている。鳥は窪地の低い木々を好んだ。蝶は水辺の花で翅を休めた。こうした生物群が二人の眼前にふいに現れ、恋心を揺るがしていく。この作品は、生態系の妙までもすくいとろうとしているのだ。

そして、気象学。勉が夜更け、崖下の野川沿いを歩いているときのことだ。川面からは水蒸気が立ち昇り、それが靄となって遠方の明かりがかすんでいる。樹林からは、梟の声が聞こえてくる。ああ、道子はあの木立に隠れた家で、夫といっしょにいるに違いない――。「俺は一体こんなところでいつまで希望のない恋にかまけていていいのだろうか」。夜の「はけ」は闇の底で静かに息づいて、昼間にはない内省を青年の心に呼び起こす。

つまるところ、これは心理学の書物か。「はけ」だからこその人の動きがある、ものや生きものの動きがある。日差しもあれば、闇もある……。自然が魔力のように登場人物の心を震わせる様子が克明に描かれている。『武蔵野夫人』は、ただの恋愛小説ではない。
*引用では、本文にあるルビを原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月30日公開、通算572回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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コロナ時代の嘘をあばく本の質感

今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊

付箋

驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。

封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。

前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。

 文字には色が必要だったのだ
 僕に君が必要なように

書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。

ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)

で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。

いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。

著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。

49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。

著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。

ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」

108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。

213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。

249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。

このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。

ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。

著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。

最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。