今週の書物/
「科学者@Warの『言い分』」
武部俊一著(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)
「科哲」という言葉を聞いてピンとくるのは業界人だけかもしれない。ここで「業界」とは、私自身もその一隅にいた科学報道の職域を指している。1983年、私が朝日新聞社の科学部員になったとき、部の幹部(東京、大阪両本社の部長と次長)6人のうち5人が「科哲」出身者だった。科哲とは、東京大学教養学部「科学史・科学哲学」コース(*)の略。これが科学報道の本流なのか――私学出身の私は圧倒されたものだ。
顧みるに、それは学閥というより学派に近かった。言い方を換えれば、「科哲」の人々には独特の匂いがあったのだ。私の現役時代、科学報道も競争が激しくなり、科学記者は事件記者や政治経済分野の記者と同様、他紙を出し抜くことに躍起となったものだが、「科哲」出身者はどこかおっとりしていた。競争しないというのではない。いやそれどころか、他紙の追随を許さない記者も多くいた。それなのに、ガツガツした感じがない。
これが、教養というものかな――私は部になじむにつれて、そう思うようになった。東大教養学部の学生は1~2年生の課程を終えても東京・駒場キャンパスに残り、4年生まで教養を深めている。その後半の2年が、心のゆとりをもたらしているのではないか。
朝日新聞社の科学部は「科哲」出身者を多く擁した1960~1970年代に存在感を高めた。米ソの宇宙開発競争を追いかけ、日本初の心臓移植(1968年)の暗部も突いた。だが、後に大きな批判を浴びたこともある。原子力利用の旗を率先して振ったことだ。1979年、米国スリーマイル島原発事故が起こったとき、私は原発立地県の支局記者だったので覚えているが、国策を後押しするような科学部の報道姿勢は同じ社内でもどこか浮いていた。
その報道姿勢を「科哲」に結びつけるのは短絡というものだろう。ただ科学をめぐる教養の深さは、科学に対する批判の鋭さに必ずしも比例しないのかもしれない。
ここまでの記述でわかるように、私には「科哲」に対してアンビバレンスの思いがあった。片方は、自分もあの人々のように心にゆとりをもって科学を吟味したいという志であり、もう一方は、自分は在野の立場にとどまって批判精神を忘れまいという決意だった。
で、今週は、武部俊一著「科学者@Warの『言い分』」(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)。著者は1938年生まれ。私が科学記者になったときの朝日新聞東京本社科学部長で、論説委員も長く務めた。心のゆとりを体現したような科学記者。原子力についてもバランス感覚のある記事を書いてきた。私は尊敬している。お住まいがたまたま近隣の町にあるので先日カフェで落ちあい、この会誌をいただいたのである。
「科哲」第24号は特集の一つが「戦争と科学技術」であり、「科哲」ゆかりの人々が論考を寄せている。その一つが、著者の「科学者@War…」。古今東西の自然哲学者や科学者が戦争に際し、あるいは軍事に対し、どんな態度をとってきたかを総覧している。
冒頭の一節は、第2次世界大戦直後の欧州を描いた英国映画「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年)の話。その一場面で、オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が発した言葉が引かれている。イタリアでは名門ボルジア家が権力を握っていたころ、戦争や流血沙汰が後を絶たなかったが、ルネサンスも花ひらいた。スイスでは民主主義と平和が長く続いてきたが、生みだしたのはハト時計くらい――こんな趣旨の台詞だ。
著者によれば、この台詞は「戦乱の世を勝ち抜く国家の威信が文化の原動力にもなってきた」現実を言い表している。国家の威信を支える軍事と文化の一翼を担う科学は表裏一体だ。だから、「軍事の要請に科学者たちはつきあった」。そのつきあい方はさまざま。悩むことがあった。躊躇なく応じることもあった。研究資金や生活費のためと割り切ることも。とりあえず、その「言い分」を聞いてみようではないかというのが本論考の趣意らしい。
最初に登場するのは、古代ギリシャの植民国家シラクサの人で数理の達人として知られるアルキメデス。シラクサがローマ艦隊を相手に戦ったとき、「クレーン」や「投石」や「反射鏡」による反撃で功があったとされる。興味深いのは、兵器の設計図などを残していないこと。数学や力学の業績が記録されているのとは対照的だ。本人が軍事技術を低く見て、本業とみなさなかったためらしい。「余技」が国防に生かされたのか。それはそれで怖い。
ルネサンス期の人物では、レオナルド・ダ・ヴィンチが特記に値する。30歳のころ、ミラノ公への求職活動で自薦状をしたため、「頑丈で攻撃不可能な屋根付き戦車をつくります」などと提案。平時の貢献についても書き添え、彫刻もする、絵も描く、なんでもする、と売り込んではいるが、「就活」最大のセールスポイントは芸術ではなく、軍事だったわけだ。ただ、軍事技術の提案のほとんどは現実性に乏しく、受け入れられなかったという。
16~17世紀のガリレオ・ガリレイも軍事と無縁ではなかった。パドヴァ大学教授時代は研究資金を得るため、軍人の「家庭教師」をして要塞の建造法などを教えていた。望遠鏡を自作したときは、敵艦の発見にも使えると言ってヴェネチアの総督から「報奨金」をもらっている。自分は望遠鏡で木星の衛星を四つ見つけ、それらを「メディチ星」と呼んだ。「権力者の機嫌をとってすり寄らなければ、研究生活が成り立たない時代だった」のである。
近代に入ると、著名な発明家や科学者が次々登場する。アルフレッド・ノーベル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、仁科芳雄らが名を連ねる。世間にもよく知られたエピソードに交ざって、ああそうだったのかという話も出てくる。
ここでは、二人に焦点を当てることにしよう。一人目は、空気中の窒素からアンモニアを生みだす技術に道を開き、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868~1934)。この人にはもう一つ、「毒ガスの父」という恐ろしい異名がある。第1次世界大戦に際して化学兵器の開発を指導したからだ。その人は、こんな言葉を残している。「科学者は平和の時は人類に属するが、戦争の時は祖国に属する」
あぜんとするほどの割り切り方。ただ、見落としていることがある。私たちは、人類や祖国に「属する」以前に一個人であることだ。毒ガスをつくる自己も、毒ガスを浴びる他者も一個人だ。ここでは、その個人の生命も健康も権利も度外視されている。
もう一人は、米国で核兵器開発のマンハッタン計画を率いた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)。第2次世界大戦末期の核実験を「荘厳のかぎりだった。世界は前と同じでないことを私たちは悟った」と振り返っている。「技術的に甘美な(Technically sweet)ものを見た時には、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する」という「判断」が自分にはあった、とも語っている。
オッペンハイマーは、原爆の開発や、それが広島、長崎に投下されたことの「非人間性」「悪魔性」に対して戦後は自責の念も感じていたようだ。主語を「物理学者は…」と一般化しているものの「内心ただならない責任を感じた」「罪を知った」と吐露している。
ここから見えてくるものは、科学技術には「荘厳」で「甘美」な一面があり、その魔力が科学者を「まずやってみて」という罠に陥れることだ。科学者の探究心が暴走するとは、こういうことを言うのだろう。科学者は核兵器でそのことを痛感したのである。
この論考では、著者の取材体験が一つだけ披露される。半世紀前、欧州出張の折、ドイツ・ミュンヘン大学の教授だったハイゼンベルク(1901~1976)に取材を申し込んだ。「快諾」の返事があり、約束の日時に大学を訪れたが、「体調」を理由にすっぽかされたという。ハイゼンベルクは戦時中、核をめぐるナチスの軍事研究に関与の噂があった人だ。被爆国の科学記者からそこをつつかれるのが疎ましかったのではないか、と著者は推察する。
ただ、ハイゼンベルクは礼儀正しい人だった。後日、著者に丁重な詫び状が届いたからだ。手紙には本人の署名があり、この論考には、その部分の接写画像が載っている。新聞記者には、あと一歩で特ダネを射止めていたのに……という残念譚が一つ二つある人が多いが、これもその一例だろう。それにしても、ハイゼンベルクがもし約束を守ってインタビューに応じていたら広島、長崎について何を語ったか。読んでみたかった気がする。
この論考のもう一つの魅力は、各項目のすべてにその科学者の記念切手が添えられていることだ。著者は、長年続けている切手収集の成果を「戦争と科学技術」という重い論題にも結びつけた。ここにも「科哲」のゆとりが見てとれる。学派の伝統は生きている。
* コースの正式名称は時代とともに変わっているようだが、当欄は会誌にある呼び名を採用した。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月7日公開、同年8月12日更新、通算685回
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