今週の書物/
『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』
別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊
若かったころ、「プチブル」という言葉がよく飛び交った。プチブルジョワジー――日本語にすれば小市民、中産階級のことだが、そこにはどこか、「資本家階級のなりそこない」と蔑む響きがあった。デモに行かなければプチブル、授業を受けていたらプチブル……。革命の主力となる労働者階級に対して引け目があったからだろう。左翼運動に共感する青年たちは、そう後ろ指を指されないよう振る舞っていたように思う。
私自身は運動家ではなかったが、それでも「プチブル」と呼ばれたくはなかった。実家暮らしの身。アルバイトで小遣いは稼いだが、肉体を駆使して労働者を自覚することはほとんどなかった。「プチブル」そのものだったわけだが、それを認めたくなかったのだ。
「プチブル」でいいではないか――そう開き直ったのは1970年代半ば。山田太一のテレビドラマが話題を呼ぶようになったころだ。「それぞれの秋」(TBS系、1973年)が印象深い。東京郊外の私鉄沿線に住む中流家庭の物語。兄や妹や親があれやこれやの難題を抱え、次男坊が右往左往する。プチブルだって生きていくのは大変なのだ、と思わせる作品だった。それを見せつけられて、私は自分がプチブルであることを恥じなくなった。
だが、だが、である。「プチブル」は堂々たる存在なのかと問われれば、否と答えるしかない。生活水準で言えば、高くはないが低くもない状態にぽっかり浮かんでいて、低いほうに転落しないか、という脅えがいつも心の片隅にある。自分がいま立っている大地が一瞬のうちに瓦解するのではないか、という不安も強い。プチブルは、はかない。労働者階級とは異なる意味で、抑圧された存在と言ってよいだろう。
2020年の今、「プチブル」のはかなさは、いや増した。「それぞれの秋」の父は定年間近のサラリーマンで、当時の勤労者の平均像だったが、近年は、終身雇用制にのっとって一つの会社で最後まで勤めあげるという境遇にいられるのは恵まれた人に限られる。リストラがある。非正規・派遣で労働を切り売りする人もいる。今年は、それにコロナ禍が追い討ちをかけた。「プチブル」の名にふさわしい階層はどんどん薄くなっている。
で、今週は、『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』(別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊)から、戯曲「マッチ売りの少女」をとりあげる。今年3月に82歳で亡くなった劇作家の代表作の一つ。1966年に発表された。
登場人物は、「女」と「その弟」、「初老の男」と「その妻」の計4人。「初老の男」と「その妻」は、プチブルっぽい夫婦だ。その家庭の日常を、突然の訪問者「女」と「その弟」がかき乱し、波立たせる。
夫婦のプチブルぶりは、冒頭まもなく、二人が「夜のお茶の道具」を手に現れて、それをテーブルに置くときのト書きからもうかがわれる。「この家には、道具の並べ方について厳重な法則があるかのようである」。夫は「いいかね、食卓のつくり方と云うのは微妙でね」と言って、並べ方次第でレモンのツヤに違いが出る、などという自説を披露する。このあと夫婦は、「おむかい」の家が励行する並べ方を俎上に載せて、それを腐すのだ。
どうでもよいことに違いない。だが、このような些細なことにこだわっていられるのがプチブルの特権とは言えないか。
そんな夫婦の前に突然、一人の女が姿を現して「こんばんは」と声をかけてくる。見ず知らずの人物が自宅の一室に闖入してきたのだから、さっさと追い返してもよいはずだ。だが、夫は「どうでしょう、せっかくですから、ごいっしょに……?」と誘う。妻も「そうしなさい。お茶は夜に限らず、にぎやかな方が楽しいのよ」と歓迎する。疑うことをしない善良さ、あるいは善意の押し売り。これもまた、プチブルの特徴かもしれない。
こうして会話が始まる。おもしろいのは、夫が「どちらから」と問うたときの女の返事。「市役所から参りました」。夜の訪問なので、市役所職員が公務で訪れるわけがない。市役所経由でやって来たということなのだろう。このあとのやりとりが読みどころだ。
妻「で、市役所では何て云ってました、私達のことを……?」
女「別に……。」
夫「善良な市民だと……?」
女「ええ。」
妻「モハン的な……?」
女「ええ。」
夫「ムガイな……?」
女「ええ。」
これを受けて妻は、自分たちが「この上なく善良な、しかも模範的で無害な市民」と自負する。夫は、市内には「善良」「模範的」「無害」な市民が362人いると表明した市長の演説を引いて、自分たち夫婦はその端数の2人だと言う。
夫婦は、自分たちの「善良」ぶりも列挙する。「市民税は、沢山ではありませんけど、キチンキチンと納めておりますし、ゴミも沢山は出さない」(妻)、「私共はどちらかと云うと、進歩的保守派です。革新派の奴等は品が悪くてね」(夫)……。女が「ここは……あたたかいわ……」とほめると、妻は図に乗って、それだけでなく「上品です」と言ってのける。豊かではないが過度につましくもない、とも。まさに、プチブル宣言である。
で、夫婦は、市役所が女を自分たちのところへ「差し向けた」と勝手に解釈するが、女はこれをきっぱり否定する。自分は、市役所で「こちら」の様子について聞いただけであり、「こちら」へは「お訪ねしたくなって……お訪ねしたのです」と言い張る。
女は身の上話をこう語り始める――。自分は七歳のころ、マッチを売っていた。20年ほども前のことで自分でも「知らなかった」のだが、最近、ある小説を読んで、登場人物の「マッチ売りの少女」は「私だった」と気づいたという。不条理劇の作家らしい筋の展開だ。
マッチ売りの少女については、背後でナレーションが説明してくれる。「その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった」「その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである」――この作品が書かれたのは1960年代半ば、「その頃」は終戦直後に符合する。高度成長期のプチブル家庭に焼け野原の闇が闖入してきた感がある。
このあと、女はさらに驚くべきことを口にする。それについては、ネタばらしになるので引用を控えよう。一つだけ明かせば、「善良」「模範的」「無害」な夫婦がおぞましい小児虐待の告発を受けることになるのだ。女は自らのマッチ売り体験について、こう問いかける。「何故あんなことをしたのか。誰かが教えてくれたのだとすれば、それは誰なのか」。最後には、女の弟という男まで現れて、プチブルの家庭は大混乱に陥って……。
この作品を読んでいると、私たちの世代のかなりの人々が享受してきた生活の安定が、どれほど脆いものかが見えてくる。プチブルとして「善良」「模範的」「無害」な暮らしをしていても、それは、今のかりそめの姿に過ぎない。突然の訪問者から、振り込め詐欺もどきの嘘っぽい話を聞かされただけで、自らの実像が揺らぎ、自己同一性が危うくなる。コロナ禍で先行きが見通せない時代、その脆さがいっそう怖く感じられる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月5日公開、通算525回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
「許して、お父様。許して下さい。マッチを、マッチをすらないで」のマッチ売りの少女。「箱を開けないで」の浦島太郎や「毒りんごを食べないで」の白雪姫にも通じるなにかがありますね。封印を解くとか、約束を破るとか、そのままではいられない感じがたまりません。
こういう物語が日本人の気質に合うのはなぜなのか。もうだいぶ前に、生粋のアフリカ人たちが演じる『ゴドーを待ちながら』を観たときに気づいたのですが、「演ずる人たち」と「観る人たち」が違えば、同じ劇でもまったく違うものになってしまうんですよね。
場所が違い、時間が違えば、通じるものも通じなくなってしまう。プチブルという単語は今の人たちには何の意味も持たないでしょうし、労働者階級といってもたぶんピンと来ない。日本人という括りでは括れないし、世代という括りもあまり有効ではありませんね。
みんながバラバラになって個人の時代が来て、みんなで同じテレビ番組を視たり、友達と同じ音楽を聴いたりするなんていうことがなくなってみて、憲法を改正するだとかしないとか、政党支持率が高いとか低いとか、そういうひとつひとつが意味をなくしてしまいました。
そんな新しい世の中で、データベースがブロックチェインにとって代わられ、プライバシーを守るなどということが念仏のようになり、セキュリティーは破られるほうが悪いとか、なにを失っても個人の責任だとか、強者の論理が弱者の論理を抑えてしまっている。いやな世の中です。
自分のかりそめの姿を垣間見たり、自らの実像が揺らぐのを感じたりするのは、感性が鋭いからなのでしょう。感性が鋭いのは、幸せなことなのか不幸せなことなのか。感性が豊かなほうが感性が鋭いより暮らしやすい気がしますが、これからの脆い時代を乗り切るには感性が必要なのだと思います。
尾関さんの時代が来た。そうは思いませんか?
38さん
《感性が鋭いのは、幸せなことなのか不幸せなことなのか。感性が豊かなほうが感性が鋭いより暮らしやすい気がしますが、これからの脆い時代を乗り切るには感性が必要なのだと思います》
感性には「鋭い」と「豊か」がある。なるほど、教えられること大。
「鋭い」のは観測者としての感性。
「豊か」なのは表現者としての感性。
そんな二分法もありそうですが、それだけとも言い切れません。
今後、意識しておきたいテーマだと思いました。