フィッツジェラルド、大恐慌のあとで

『マイ・ロスト・シティー』
スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊

摩天楼

新型コロナウイルス感染禍は、しだいに経済危機の様相を帯びはじめている。感染予防の決め手が今のところ、人と人との間の距離を十分にとること、できるなら接触しないでいることにあるというのだから、金回りがよくなるはずはない。

先々週の当欄「コロナの時代に新聞は変わる」(2020年5月29日付)に書いた通り、フランスの歴史家エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事(朝日新聞2020年5月23日朝刊)からは、この感染禍によって新自由主義経済が退場を迫られているように思われる。それに伴って、経済のグローバル化という潮流も勢いを失うだろう。ただ、では次に何がやって来るのかと思いをめぐらせると、答えがない。ただ途方に暮れるばかりだ。

経済の危機らしきものは、これまでも幾度となくあった。私たちの世代にとって忘れがたいのは、石油ショック(1973)、バブル崩壊(1991)、リーマン・ショック(2008)の三つだ。このうち前者二つは、とくに強烈な印象がある。石油ショックでは、産業活動の右肩上がりにいきなりブレーキがかかった。バブル崩壊では、浮かれ調子だった世相に突然、暗雲が立ち込めた。皮膚感覚として、事前と事後の落差が大きかったのである。

たとえば、石油ショック後は一時期、繁華街の照明が落とされ、テレビは深夜番組をとりやめた。私たちは1960年代の高度成長期、街はどんどん明るくなるもの、夜はどんどん長くなるものと信じ込んでいたから、常識がひっくり返されたのだ。バブル崩壊後は、夜更けの街で流しのタクシーを拾いやすくなった。1980年代、バブル経済が踊っていたころは酔客の帰宅ラッシュで空車探しが大変だったから、需給の逆転に驚かされたものだ。

コロナ後にもきっと、今の私たちには思いもよらない生活風景が待ち受けていることだろう。その時点からコロナ以前を振り返れば、自分たちはなんとお気楽だったのか、と苦笑するに違いない。で、今週は過去の経済危機に思いを馳せて、書物を選んだ。

『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊)。単行本は、中央公論社が1981年に刊行した。著者(1896~1940)は、『グレート・ギャツビー』――私たちの世代には映画化された「華麗なるギャツビー」の題名が忘れがたいのだが――で知られる米国の小説家。この本では、表題作のエッセイを最後に置き、その前に五つの短編を収めている。所収作品を選んだ訳者は当時、新進作家だった。

訳者の著者に対する思い入れの強さは、巻頭にある「フィッツジェラルド体験」と題する一文からもわかる。「何年ものあいだ、スコット・フィッツジェラルドだけが僕の師であり、大学であり、文学仲間であった」という記述には、最大級の敬意が込められている。

絶賛するのは、20回は読んだという短編『バビロン再訪』(残念なことに、本書の収録作品ではない)の冒頭部。パリの有名ホテルで客がバーテンに、常連客らしい知人一人ひとりの消息を尋ねる場面だ。バーテンは、そのつど「スイスに行かれました」「アメリカにお帰りになりましてね」「先週お見受けしましたよ」と答えていく。この一節だけで、作品から匂い立つ雰囲気が感じとれるし、飾りを剥ぎ取った骨格も見えてくるという。

それを、訳者は「宇宙」と呼ぶ。「極めて小さな個人的な宇宙ではあるけれど、やはりそれは宇宙だ」。著者は一つの宇宙を分解せず、そっくり提示できる作家ということになる。

この巻頭文は、著者の略伝も記している。米国中西部セントポールの生まれ。父は教養人だったようだが、事業につまずいて家計は厳しかった。母の実家が裕福で、その支援を得て「なんとか中産階級としての体面を保っていた」のである。その結果、東部の名門プリンストン大学に進むことができた。こんな背景から「金持に対する憧れと憎悪、自己憐憫と自己客体視という彼の生涯のテーマともなる二面性が芽生えていたのだろう」と、訳者はみる。

訳者は、著者の作品の魅力に「相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていること」を挙げている。二面性を文学に昇華したのだ。逆向きのベクトルには「上昇志向」と「下降感覚」がある。中西部生まれの「素朴さ」とニューヨーク暮らしの「洗練」もある。

こうした二面性や相反感情が時代の空気と共振したのは間違いない。米国は1910年代末、第1次世界大戦(1914~1918)の戦勝気分に沸いていた。ところが20年代末に大恐慌に見舞われる。著者の作品には、20年代米国社会の「上昇」と「下降」が生々しく映しだされている。この本の6編をみても、大恐慌の前と後に書かれたものの間に断絶が見てとれる。そこには世相の暗転があり、それを目のあたりにして途方に暮れる人々がいる。

で、今回は、6編のうちで唯一のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」に話を絞ろう。これは大恐慌後に書かれたものだが、著者自身の少年期や青年期にさかのぼりながら、その折々に目の当たりにしたニューヨーク像を通して、この大都市の変転を跡づけている。

たとえば、1919年はこうだ。「ニューヨークの街はまるで世界の誕生を思わせるような虹色の輝きにむせていた。帰還した連隊は五番街を行進し、若い娘たちはまるでそれにひきよせられるように、東や北にその足を向けた」。大戦戦勝の高揚がそこにはある。

1920年には「突如『新しい世代(ヤンガー・ジェネレーション)』という観念が姿を現わし、ニューヨークの都市生活の様々な要素をひとつのつぼの中に溶け込ませてしまった」(「つぼ」に傍点)。それは、「明るさ」「華やかさ」「生命力」などが混ぜ合わさった「ひとつの空気」だった。もったいぶった晩餐会というより、ちょっと崩れた立食パーティーのような感じ。欧州知識人も一目おく小粋で若々しい文化の登場だった。

著者のデビューは、ちょうどこの年。「私は時代の代弁者(スポークスマン)というだけでなく、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった」。夜を徹して原稿を書きまくり、大枚をはたいて引っ越しを繰り返す日々。「暑い日曜日の夜に私はタクシーの屋根に乗って五番街を走り回った」との記述もある。だが、その一方で「自分たちはそんな華やかな社会とは本当は無縁な存在なんだと思い込んでいた」。ここにも二面性がある。

1927年は欄熟の日々か。そのころ、著者は数年の外国生活を終え、帰米していた。「一九二〇年のあの不安気な空気は確として金色に光り輝く絶え間のない歓声の中に没し去り、友人たちの多くは金持になっていた」。ショービジネスは「ますます大がかりに」、建物は「ますます高く」、道徳心は「ますますゆるめられ」、アルコールは「ますます安価に」――そう、20年から33年までは禁酒法の時代だが、街には酒があふれ返っていたらしい。

オフィス街が酒浸りになる様子はこう表現されている。1920年には「昼食前にひとつカクテルでも」などと言う人物は「ショッキングな存在」だったが、29年には「オフィスの半分には酒瓶が置かれ、大きなビルの半分にはもぐり酒場(スピーキージー)があった」。

まさにバブルの絶頂期。「私の行きつけの床屋は株に五十万ドルばかり投資して引退していた」とあるように、人々は労働よりも投機に走った。「もううんざりだ」――著者は再び国外へ出て、滞在先の北アフリカで「あの崩壊(ガラ)の音を聞いた」。大恐慌である。2年後、ニューヨークに帰ると、そこは「墓場」のようであり、「廃虚」のようでもあり、「遊びまわっていた」のは「無邪気な亡霊たち」だけだった。「床屋はまた店に戻った」のである。

印象深いのは、著者フィッツジェラルドがエンパイア・ステート・ビルの高みに立ったときの眺め。「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかった」。それは「四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿」だったのだ。果てしないのは「青や緑の大地」のほうであることに摩天楼で気づくという逆説。大事象の大波をかぶって途方に暮れたとき、人間は人間の限界を自覚するのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月12日公開、通算526回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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