おまじないとどうつきあうか

今週の書物/
書評『見るだけで楽しめる!
まじないの文化史――日本の呪術を読み解く』
須藤靖評、朝日新聞読書面2020年7月11日付

神社の樹林

小さいころから、おまじないの魔力には呪縛されている。それは今も変わらない。

たとえば、手洗いだ。コロナ禍のせいで丁寧に洗う人がふえたようだが、私は子どものころから念入りだった。時間は人の倍ほどかけた。それと言うのも、ゴシゴシとこする回数を心の中で数えていたのだ。指先を3回、念のためにもう3回、次に親指で手のひらを3回……というように。汚れがひどいときは3回が5回になるが、4回はダメ。もし、うっかりどこかで4回が交ざったら最初からやり直し。要するに「4」がイヤだったのだ。

この儀式めいた習慣、最近はほとんど消え去った。だがときどき、トイレの洗面台に向かってゴシゴシやっていると、手先に3、3、3……の亡霊が蘇ってくることがある。いつのまにか、「4」を避けている自分がいるではないか。呪縛は完全には解けていないのだ。

「4」の回避は、もっとも素朴なおまじないだ。4=四の音読みが「シ」で「死」を連想させるからなのだが、この呪いは日本語社会でしか成り立たない。現に日本のプロ野球では、かつて背番号4を外国人選手に割り当てることが多かった。気にする人だけに効果を及ぼす。ならば気にしなければよい――これが科学的思考というものだろう。それなのに科学記者歴30年の私は、今も心のどこかで「4」の魔力にとらわれている。

余談だが、前述の手洗いについては後日談がある。科学記者になってまもなく、健康相談欄の取材で精神科医に話を聞いたときのことだ。読者から届いた相談内容を医師に伝えると、即座に「これは強迫神経症ですね」(最近は「強迫性障害」と呼ぶらしい)という見立てが返ってきた。典型症状をほかにも挙げてもらうと、行為の儀式化も含まれていた。私の手洗いは、これだったのだ! まじないはやはり、心のありようと表裏一体の関係にある。

で、今週の「書物」は、『見るだけで楽しめる! まじないの文化史――日本の呪術を読み解く』の書評(須藤靖評、朝日新聞読書面2020年7月11日付)。評者の須藤さんは、東京大学教授の理論物理学者。宇宙論が専門で、最近は太陽系外惑星の研究でも知られる。今回批評した本は新潟県立歴史博物館監修、今年5月に河出書房新社から出た。科学のど真ん中にいる人がまじない本をとりあげたことに敬意を表して話題にさせていただく。

書評は「まじないが科学的ではないことは理解しているつもりだ」のひとことで始まる。言われなくともわかっている。言っている人は、最高学府の物理学教授なのだ。それでもあえてこう切りだしたのは、次に続く一文に重みをもたせたかったからだろう。

「しかしこの頃(ごろ)は両親の位牌(いはい)を前に、家族や友人、世界中の人々の無病息災を毎日祈り続けている」

地球規模の新型コロナウイルス感染禍は収まる気配がない。陽性だが無症状という人が数多くいるというのだから、だれがいつ感染するかわからない。さらに、これは書評執筆時より後のことかもしれないが、国内では豪雨災害が追い討ちをかけた。世の人々は、カミもホトケもあるものかと嘆きつつ、カミさま、ホトケさまに安寧を願うばかりなのだ。科学者だって例外ではない。この書きだしは、そんな心模様を巧く切りとっている。

書評では、この本が博物館の企画展を踏まえて刊行されたこと、読んでみると厄除け「おふだ」のルーツがわかることなどが述べられているが、私がグッときたのは最終段落だ。この本には「おふだや呪いを実践してみたい人」向けの参考情報も載っているが、その一方で「あまりおススメはしませんが…、自己責任で」と釘が刺してあるという。評者は、このことわり書きに目をとめて「科学的な注にも好感がもてる」と評している。

皮肉が効いている。寛容の精神が薄れ、なにかというと「自己責任」論がもちだされる昨今の風潮を、本の書き手は逆手にとり、まじないへの深入りは自己責任の領域にあると戒めた。これに評者も乗っかる。書評の前段落に「おふだを玄関に掲げれば、コロナウイルスも必ずや退散するだろう」との記述があり、真に受ける読者がいないかと元新聞人の私は一瞬ギクッとしたのだが、着地の妙に触れれば皮肉のスパイスだったことに気づくだろう。

さて私が、この書評に触発されて考えてみようと思うのは、おまじないとの適切なつきあい方だ。それは「科学的ではない」が、人間の意識から追い払い切れない。この現実をどう受けとめたらよいのか。ここでは、評者須藤さんの立ち位置が参考になる。

須藤さんは、私には旧知の人なのでよくわかるのだが、ふだんから非科学的な思考に対して厳しい見方をしている。ただ、その立場はメディアでよく目にする疑似科学批判とは力点の置き方がやや異なるように思える。どこがどう違うのか。

ふつう、疑似科学批判では、おまじないの信奉者が科学の法則を受け入れないことを非難する。このとき批判する側は、必ずしも自然界の出来事は法則によって〈決まっている〉と主張しているわけではないのだが、批判される側や議論を聴いている側は、そう受けとめることが少なくない。学校の理科でニュートン物理学の決定論に馴染んでいるからだろう。疑似科学批判=決定論ではないはずだが、世間はそうとらえがちなのだ。

ところが、須藤さんの言説にはこのイメージがない。それは、宇宙論学者として日々、20世紀物理学の産物に触れているからかもしれない。その代表は量子力学だろう。量子世界では、物事が観測されたとたん、いくつかの可能性がしぼんで一つの状態に落ち着く。確率論的にぽろりと……。いや、量子力学だけではない。ニュートン物理学の決定論世界でも、カオスと呼ぶ予測困難な非周期現象がしばしば起こることが20世紀後半にわかってきた。

では、須藤さんが非科学的とする標的はどこにあるのか。その一つは、〈誤差〉を容認しない社会だ。自然現象や社会現象には誤差がついて回る。科学者の世界では、観測値に幅をもたせてその範囲を〈エラーバー〉という棒線で表し、真の値はその範囲内にあるとみる。ところが今の世の中、エラーバーに留意せず、一つの値にばかりこだわる議論が多すぎる。数値にはもともと幅があると考えるべし。私は、この考え方にいたく共感する。

おまじないの話に戻ろう。私たちは20世紀物理学を知った今、それが決定論かどうかは別にして予測困難な世界に自分がいることを認識しなくてはならない。そこでは、哲学者スラヴォイ・ジジェクが「愚かな自然の偶発性」ととらえる疫病禍や小惑星衝突が起こっても不思議はないのだ(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)。だから、この世からおまじないがなくならないのは無理からぬことだろう。

そう考えれば、自嘲気味に自分で自分に皮肉を言いながら、おまじないをしてみるのは許されるのではないか。さあ、手を洗わなければ、3、3、3……、5、5、5……。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月17日公開、同日更新、通算531回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

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