「人種」というかくも人為的な言葉

今週の書物/
『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』
トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊

人為の区分け

米国で「黒人」差別に対する抗議行動が広がっている。きっかけは、中西部ミネアポリスで「黒人」市民ジョージ・フロイドさんが「白人」警官に首を押さえつけられて亡くなった、という事件。公民権法の制定から56年。半世紀余の歳月を思うと、絶望感に襲われる。

フロイド事件を特徴づけるのは、「黒人」対「白人」の構図だ。米国では警官が「白人」、市民が「黒人」という組み合わせで加害行為があると、それが全土を揺るがす事件となる。犠牲者は一個人ではなく、「黒人」の象徴としての役回りを担わされる。

「黒人」と「白人」――。考えてみれば怖い区分けだ。肌の色の違いで分けたのだとしたら、粗っぽすぎる。「黒人」と呼ばれる人々の顔にはさまざまな色調があり、一概に黒いとは言えない。「白人」たちも同様で、白いとは言い切れない。米国社会では、そうした個人差をすべて捨象して人々の間に線を引いたのだ。今でこそ「アフリカ系」「欧州系」という呼び方があるが、今回のような事件の報道では「黒人」「白人」の用語が飛び交う。

抗議行動では、“Black Lives Matter”という標語が掲げられている。「黒人の命は大切だ」と訳される。今風に政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)の表現にこだわれば“African-American Lives Matter”(アフリカ系米国人の生命は大切だ)と言うべきかもしれないが、差別に抗う側自身が“Black Lives”を前面に出していることに注目すべきだろう。“Black”には情念が感じられるからか。いや、それだけではなさそうだ。

たぶん、米国の「黒人」たちには「アフリカ系」という言葉で括れないなにかがあるのだろう。それは、自分たちもまた米国をつくってきたのだという自負のように思える。私たち日本人は第2次大戦後、太平洋の対岸から吹きつける米国文化の風にさらされてきた。だから、「黒人」なしの米国はありえないことを実感している。「黒人」は米国全人口の1割強に過ぎないが、文化の担い手としての存在感は半端ではない。

「黒人」なしでは絶対に生まれなかったものは、ジャズだ。あのリズム感はアフリカ由来だが、アフリカ大陸ではジャズが育たなかった。「白人」たちの音楽資源――たとえばピアノやベースやサックスなど――を取り込んで新しいジャンルを切りひらいたのである。ジャズの最大の魅力は、アフタービートだろう。ズンチャッ、ズンチャッ……のチャッが強調されるリズムだ。そこには、「白人」文化のクラシック音楽に乏しい躍動感がある。

「黒人」は、ジャズに代表される米国文化の担い手であることに誇りを感じている。その象徴が、“Black”なのだろう。だが、米国社会が「黒人」を正当に受け入れてきたとは到底言えない。だからこそ、今も“Black Lives Matter”の声がわきあがるのだ。

で、今週は『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』(トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊)。著者は1931年、米国オハイオ州で生まれた。大手出版社で編集者を務めるかたわら、作家として活動。代表作に『青い眼がほしい』『ビラヴド』などがある。93年、アフリカ系米国人として初めてノーベル文学賞を受けた。この本は、2016年のハーバード大学連続講演をもとにしている。

第一章冒頭のエピソードは強烈だ。著者がまだ物心もつかなかった1930年代前半、一族のなかで尊敬を集めていた曽祖母――「腕利きの助産師だった」――が訪ねてきた。自身は「漆黒の肌の持ち主」。その人が著者姉妹を見て「この子たち、異物が混入しているね」と言ったというのだ。「黒人」として「純血ではない」ということだろう。著者が逆説のようにして、米国社会の底流にある心理を知った瞬間だった、と言ってよいだろう。

この章には、米国やその周辺地域で「混血」がどのように進んでいたかを暗示する史実も明らかにされる。18世紀半ば、一人の英国青年が自国の植民地ジャマイカでサトウキビ畑の農園主となり、「反省あるいは識見の欠落している事実のみの日記」を遺した。それは、当人の奴隷女性たちに対する「性的活動」を「相手と会った時間、満足度、行為の頻度、とくに行為のなされた場所について記録している」ものだったという。

驚くべきは、この記録がラテン語交じりで書かれていたことだ。「午前一〇時半ごろ」「コンゴ人、サトウキビ畑のスーパー・テラム(地面の上で)」などというように。著者は、ここに「奴隷制度を『ロマンス化』する文学的試み」をみてとる。

ただ、その「文学」が欺瞞に満ちたものであることは、巻末の「訳者解説」を読むとよくわかる。「奴隷制度のもとでは、白人の農園主たちは奴隷女と関係を持ち、奴隷を増やすことが奨励された」というのだ。「奴隷は財産」であり、「奴隷女から生まれた子どもも奴隷」として扱われたから、「農園主は自分の財産を増やすためにも関係を持った」――「ロマンス化」の裏側には、人間を人間と見ない醜悪な経済原理が横たわっていたのである。

講演録本文に戻ろう。著者は、ウィリアム・フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』をとりあげる。この作品では、近親相姦と「人種」混交を比べれば後者のほうが「おぞましい」とみる南部「白人」社会にあった価値観が描かれている。「白人」による「ロマンス化」を「白人」自身が否定していたのだ。作中では、「黒人」の血を16分の1だけ受け継ぐ男が悲劇に見舞われる。「黒人」の血は「一滴」であれ「異物」とみなされたからだ。

主従の関係にまかせた性的活動は、当時の道徳観からみても許しがたかったのだろう。著者は「奴隷が『異なる種』であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった」とみる。このときに都合よく使われたのが、「人種」という概念だ。

この歴史を踏まえると、著者が講演で「他者」「よそ者」に焦点を当てた理由が見えてくる。生物分類学の視点に立てば「わたしたちは人間という種」(より厳密に言えば、現生人類か)にほかならない。にもかかわらず、人間は同じ社会の空気を吸っていても「人種」という小分類にこだわり、わざわざ「他者」「よそ者」をこしらえていく。「一滴の血」ですら「他者」「よそ者」の証明にしてしまうのだから、そこにあるのは排除のベクトルでしかない。

この本からは、著者が米国社会を蝕む「他者化」のバカバカしさ、愚かさをどのように見破ってきたかを知ることができる。そこにあるのは、作家としての技法を凝らした作品群だ。ここでは、二つの方法論を紹介しておこう。

一つは、「人種消去」。短編小説『レシタティフ』で試みたものだ。登場人物のだれがどの「人種」か、一切わからないようにした。これは、従来の「黒人文学」が「黒人の登場人物を描き出し、力強い物語をつむぐ努力をしてきた」のとは逆向きの姿勢だ。著者が駆逐したかったのは、「安っぽい人種主義」や「お気軽に手に入る『カラー・フェティッシュ』」だという。「カラー・フェティッシュ」とは、肌の色に対する過剰な思い入れである。

もう一つは、「黒人町」。南部オクラホマ州には、「黒人」が「白人から可能なかぎり遠く離れて」暮らすために、自分たちの町をいくつも建設したという現実の歴史がある。著者は『パラダイス』という長編小説で、この州に開かれた「ルビー」という架空の黒人町を描いた。そこでは「もっとも黒い肌――ブルー・ブラック」が「受容可能な決定的要因」となっている。曽祖母の視点が導入され、「一滴の血」の反転とも言える思考実験をしたのだ。

『パラダイス』を読んでいないので、私は作品の要点を書けない。ただ、著者がこの講演で披露した自作解説からうかがい知れるのは、ルビーという純血社会にも住人の間に「軋轢」があり、それを取りのぞくため、外によそ者を見いだそうとする人がいることだ。

人は、他者を勝手につくりたがる。それも、自分に都合のよい他者を。他者とは本来、自分ではない存在のことであり、存在の一つひとつで異なっているはずなのに、そんなことはお構いなしにひとくくりにして「異物」のかたまりにしてしまう。困ったものだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月24日公開、同日更新、通算532回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

4 Replies to “「人種」というかくも人為的な言葉”

  1. 尾関さんの文章を読んで、Katie Melua の「Spider’s Web」という曲を思い出しました。その曲は If a black man is racist, is it okay? If it’s the white man’s racism that made him that way? というふうに始まるのですが、人はひとりひとり違うのにとか、ピアノの鍵盤は白と黒だけれどそのサウンドは何百万もの色を感じさせるとか、そんな感じの曲です。
    尾関さんが「存在の一つひとつで異なっているはずなのに、そんなことはお構いなしにひとくくりにして」と書いていらっしゃる通り、白人と黒人というような単純な対立の構図には馴染めない人がたくさんいます。
    それとは逆に、アメリカのセグリゲーションみたいなものがあって、お互いにとって心地いいから交わらないといって、別々に暮らす人たちもたくさんいます。
    ひとくくりにされるのも嫌だけど、ひとくくりにされたあと「・・・だから」とか「・・・なのに」と言われるのは、もっと嫌です。日本人だから、日本人なのに、アフリカ系だから、アフリカ系なのになどなど、何気なく普通に言われてしまいます。
    Toni Morrison さんの作品は僕には面白くありませんでした。長ったらしい文章と、読みづらい文体と、よくわからない内容。Toni Morrison さんが日本の「忖度」を理解できないように、私たちにも「”They shoot the white girl first.”」は理解できない気がします。
    お互いがお互いを理解できないということがあると、理解できない人たちをひとくくりにしたくなります。でも良く考えてみると、私たち同士も理解できるわけではない。Toni Morrison さんの「アフリカ系同士だからって、わかり合えるわけではない」というメッセージは、たぶんユニバーサルなのでしょう。
    違うのは悪くない。違うのは間違っていない。そんなあたりまえのことが通じるような社会になると いいですね。

  2. 38さん
    ”They shoot the white girl first.”は『パラダイス』の書きだしですよね。
    たしかに理解できないような気はする。
    “white”や”black”が記号になっているような社会。
    似たような顔つきの人同士の間に差別をつくりだしている湿潤な社会とは違うのかもしれませんね。

  3. 尾関さん

    私の娘がまだ幼かった頃、血液検査で鎌状赤血球が見つかりました。アフリカ人に特有とされるものですから、「へえ〜、アフリカ人でなくても持ってる人いるんだね」と驚いたものです。

    今はアメリカにいるその娘は自分のルーツに関心があり、数年前にDNA検査を受けたところ、欧州や日本以外に、アフリカのベナンとトーゴにもルーツがあることが判明。

    早速どの筋から来たものかの詮索が始まり、私は即除外され、アメリカ白人である妻の両親に焦点が当てられました。結論としては、先祖代々バージニアで生きてきた妻の父方の筋であろうということで決着を見ました。

    ちょっと見には日米の両親にハーフの子供が2人となる家族ですが、“One-drop Rule”を適用すれば、我が家は日本人と黒人3人の構成になるわけです。これはワクワクしますよ。

    何故か今、私はベナンの仕事をしており、コロナの影響で時々先方とTV会議をするのですが、画面の中の人々に、もしかすると妻や子供達の親戚がいるかもしれないわけです。なかなか面白いですね、人生は。

  4. 虫さん
    DNAの科学が”one-drop rule”のバカバカしさを暴いたという感じですね。
    “one-drop”(1滴)は、結果としては、生物学的な意味での「内なる多様性」をもたらすものなのに、そうは受けとめない。
    社会を不条理に区分けするときの口実にしてしまう。
    愚かなことです。

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