漱石の時代、新聞社はサロンだった

今週の書物/
「長谷川君と余」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

題字

「新聞社の人だな、きっと」。半世紀も昔のことだ。夕方、下り電車に乗っていたとき、近くに立っている男性の二人連れを見て、そう思った。当時、私は学生の身。新聞記者になる以前のことだ。だから、この「新聞社の人だな」は直感に過ぎない。

年の頃は40~50代だろうか。紳士然としている。勤め先の見当をつける手がかりは、外見の緩さだった。記憶はおぼろだが、髪は長め、ジャケットに色違いのズボンを穿いていたように思う。あのころ商社・金融・メーカー系のサラリーマンは、七三分けに上下揃いの背広姿がふつうだったから、そうでないというだけでマスコミ系の記号となりえた。服装の色調が地味なので、テレビ系や広告系が外され、新聞系か出版系に絞られた。

「新聞社の人だな」の決め手は、二人の会話だった。年長の一人がつり革につかまり、上半身を揺らして、とめどなく話している。楽しげで、得意そうでもある。もう一人は聞き役に徹している感じだ。話の流れはつかめなかったが、話題はもっぱら海外のこと。中南米だったように思う。政治情勢を論じていたのか、世情のあれこれを語っていたのかは覚えていない。ただ私にも感じとれたのは、それが現地の見聞にもとづく話だったことだ。

この人は特派員だったのだ、と確信した。在外経験が豊かで、今は日本に帰任して、本社の部署にいるのだろう。世の中には、こういう部類の人もいるのだ。つり革にぶらさがりながら、遠い国の出来事を隣町のことのように話して聞かせる人が――。

数年後、私が新聞社に就職したとき、そうか、自分も通勤電車で世界を語るような業界に入るのだな、と覚悟した。そうなりたいとは思わなかった。だからと言って、そうなった人を嫌ったこともない。私が入社したころ、そういう記者はたしかに存在した。ただ年々減って、今では絶滅危惧種になっている。私自身も特派員経験者だが、電車で友人と交わす会話は、沿線のレストランはどこが旨いかというような世間話ばかりだ。

新聞社にはかつて、あのつり革の紳士に象徴される文化があった。たとえて言えば、雲に乗って世界を飛び回っているような思考様式だ。それが今、消えつつある。なぜか? ひと昔前、外国は別世界だった。行商人が得意客に峠の向こうの話を聞かせるように、メディアは海外事情を伝えた。だが、ネット時代の今は違う。外国もリアルタイムでつながっている。同じ世界になったのだ。でもなぜか、つり革の紳士の文化が懐かしい。

で、今週は「長谷川君と余」。先週の『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)に収められた「他七篇」の一つである(当欄2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」)。同じ本を2週続きでとりあげることになるが、この一篇は漱石が朝日新聞社に入ってから同僚とどんな交遊をしていたかを知る手がかりになるので、話題にしない手はない。そこからは、往時の新聞社の空気を感じとることもできるだろう。

題名にある「長谷川君」とは、二葉亭四迷のこと。日本で近代小説の分野を切りひらいたとされる作家だ。本名を長谷川辰之助という。この一篇で、冒頭の一文は「長谷川君と余は互いに名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった」(ルビは原則省く、以下も)。その二人がたまたま居合わせることになったのが、朝日新聞社だった。四迷が先に在社していて、そこに著者が加わったということのようだが、「つい怠けて」挨拶にも行かずにいた。

ここでわかるのは、漱石が入社した1907(明治40)年ころの新聞社の長閑さだ。もちろん、著者や四迷は別格の社員で、ふつうの記者とは違ったのだろう。この一篇には「用が出来て社へ行った」という記述があるから、通勤などという習慣はなかったようだ。新聞社では今でも外回りの記者が社内に滞在する時間は短いが、それは取材に走りまわっているからだ。著者の目に映った新聞人像からは、そんなせわしさは見えてこない。

入社後しばらくして、著者は四迷と顔を合わす機会を得る。東京朝日新聞主筆の池辺三山が、大阪朝日新聞主筆の鳥居素川がやって来たとき、社の幹部ら10人余を「有楽町の倶楽部」へ招いて接待した。そのなかに著者も四迷もいたのである。四迷の第一印象は「かねて想像していた所を、あまりに隔たっていた」。背丈があり、肩幅も広く、「どこからどこまで四角」だ。「到底細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもない」と感じたのだ。

著者はこのとき、四迷と会話らしい会話を交わしていない。四迷がしゃべるときは、ただ聞く側に回った。そこで受けた第二印象は、けちのつけようのないものだ。いま話をしているのは「文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない」。では、どんな人か。「あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士」にほかならないと感じたというのである。人物評としては、最高級の賛辞と言ってよいだろう。

おもしろいのは、ここで著者が四迷の品位を分析していることだ。それは「貴族的のものではない」として、「性情」や「修養」に由来するとみる。そして、さらに「修養」の成分を探り、その一部は「学問の結果」だが、「俗にいう苦労」の跡もあるという。

著者のダンボ耳は、やがて「品位のある紳士」の海外談議を聞きとっていく。四迷が、主筆の池辺を相手にロシアの「政党談」を始めたのだ。「大変興味があると見えて、何時まで立っても已めない」「まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例の六(む)ずかしい何々スキーなどという名前がいくつも出た」。いつまでも続く話、きのう見てきたような話――このくだりにさしかかって、私はくだんのつり革の紳士を思いだしたのである。

この連想は見当外れではない。四迷は1908(明治41)年、朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに駐在するのだ。その人事が固まったころ、著者は四迷、鳥居と三人で昼食を囲んだ。場所は、神田のうなぎ屋。四迷は「現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様」や「露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望」を語ったという。政治から文学まで、分野を問わないロシア通だったのだ。

ただ赴任後、サンクトペテルブルクから届いたはがきでは「此方の寒さには敵(かな)わない」と弱音を吐いていた。著者は、それを見て「気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた」。ところが、四迷は現地で肺結核を患って1909(明治42)年、帰途の船上で帰らぬ人となる。「まさか死ぬほど寒いとは思わなかった」。だが、ほんとうに「死ぬほど寒かった」のである。著者の哀惜の念が痛いほど伝わってくる。

この一篇には、当時の新聞社の社内風景もちらりと出てくる。「汚ない階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四、五人話をしている」。これは東京朝日新聞の社屋が、まだ銀座並木通りにあったころのことだ。階段の描写から埃っぽさも感じとれるが、数人の会話には議論というより談笑の気配がある。蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局とは大違いだ。

著者と四迷が風呂場で湯に浸かる場面も。「ある日の午后」のことだ。洗い場で「ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である」――これは銭湯か? いや、社内のようだ。そう言えば私が若いころにも、新聞社には社員用の浴場があった。

漱石や四迷がいたころ、新聞社はサロンでもあったのだ。情報がリアルタイムで押し寄せ、それをリアルタイムで選びとり、伝えなくてはならない今日、その雰囲気は望むべくもない。だが、あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい。私には、そう思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月15日公開、同月20日最終更新、通算557回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

4 Replies to “漱石の時代、新聞社はサロンだった”

  1. 私は「毎日新聞社が15年かけて井上靖という作家を作り出した」と思っているのですが、では「今の毎日新聞社にひとりの作家を育てることができるのか」と問われれば、「それは無理だ」と答えざるを得ないのが大いに不本意。。。です。朝日新聞だけでなく、毎日新聞にも、読売新聞にも、私が好きな東京新聞にも、そんな余裕がない。

    余裕がないといえば「企業を取り巻く環境が厳しさを増して、企業全体に余裕がなくなった」というようなもの言いが浮かんできますが、余裕がなくなったのは企業だけじゃなく、学校も余裕がなくなり、球団も余裕がなくなり、オーケストラも余裕がなくなり、要するに社会全体に余裕がなくなった。。。といいます。

    果たしてそうでしょうか? 見渡してみると、グーグルなんかは余裕がある(ように見える)し、サムソンで海外に派遣されている人を見ると余裕があるし、森ビルのお偉いさんやフィデリティ―の人なんかは(侵せないほどの)余裕がある。そう、(嫌な言葉ですが)特権階級には余裕があるのです。

    金銭的にも文化的にも貧しい人が多ければ、金銭的に(または文化的)に豊かな人たちには余裕がある。そんなものなのではないでしょうか? 

    「サロン」という言葉に漂っている感じ、悪くないですね。この先のカフェではサルトルとボーボワールが白ワインを飲んで話し込んでいた(そうそう、カミュもよく来たね)とか、荻窪のあの店に行けば井伏鱒二が飲んでるから(そうそう、井伏鱒二目当てのいろんな作家もいてね)みたいなのは、みんな「サロン」の延長線上にあるのでしょう。

    余裕のない今の新聞社に「サロン」であることを望むのは無理としても、尾関さんのおっしゃるとおり「あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい」ですよね。でも「蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局」にそれを望むのは。。。です。

    1. 38さん
      余裕がなくなった、と私は当欄(前身を含む)でなんども嘆いてきたように思うのですが、この憂いは今の世の中で甚だ説得力が乏しいのです。
      たぶん、余裕=無駄という言い換えが容易に成り立ってしまうからでしょう。
      無駄なるものはある瞬間、まったく正当化できないジャンクですが、別の瞬間ににわかに価値を帯びることがある。
      たとえば、無駄話に真理が宿る、ということがあるように。
      そのことを共有知とするには、先行世代の無駄だらけの人生をありのままに語り継ぐ必要があるのかな、と思うことしきりです。

  2. 尾関さんが書かれたことを読んでまず頭に浮かんできたのが、唐木順三の『無用者の系譜』です。大学生の頃に、秋吉敏子がその本に救われたということをスイングジャーナルか宝島かで読んで、「文化はなぜ無用者によって形作られてきたのか?」っていうのに惹かれ、秋吉敏子が社会で役に立たなくてもいいのだといって無用者であることを選び取り「無用者の系譜に連なった」というのをカッコいいなと思い、それが今でも抜けない者として、社会のマジョリティというのは昔も今もつまらないのだと、声を大にして言いたい。。。です。

    社会のマジョリティは、昔も今も、役に立つとか、有用だとか、儲かるとか、そんなつまらないことばかりを言ってきていて、尾関さんや私が若かった頃も、当時の優等生君たちは、今の優等生君たちが「蛍光灯のもと、黙ってキーボードをパタパタ」というのと同じことをやっていたわけで。。。なにが言いたいかというと、今だって「余裕のある」若い人たちがたくさんいるのだと、尾関さんが心配しなくても、先行世代の無駄だらけの人生を語り継がなくても、無用者の系譜に連なる人は次から次へと現れてくる。。。と、そんなことなのですが、どうでしょうか?

    まあ、そうは言っても、尾関さんが若い人たちに何らかのかたちで影響を与えるのは大事なことだと思うので、(伊那の田舎で散歩をしていた唐木順三が秋吉敏子に影響を及ぼし、僕にまで影響を及ぼしたように)経堂で『めぐりあう書物たち』を書いている尾関さんがxxxxに影響を及ぼし。。。っていうの、いいですね。マジョリティや優等生君たちに影響を及ぼすのは電通に任せ、無用者の系譜に連なるようなポテンシャルを持った人に影響を及ぼす。。。そんなポテンシャルを持った人は大朝日にもいる。。。かもしれない。。。です。

    書いたことが伝わったかどうか自信はありませんが、昔も今も、どんな社会でも、マジョリティはせちがらいもので、そうはいっても尾関さんが好きなマイノリティはアメリカにも中国にもイランにも日本にもちゃんといる。。。そんなことが書きたかったのですが。。。うーん、書くのは難しい!

    1. 38さん
      《尾関さんが心配しなくても、先行世代の無駄だらけの人生を語り継がなくても、無用者の系譜に連なる人は次から次へと現れてくる》
      ごもっとも。
      ただ、無用者がウェルカムであることをひとこと言っておきたくなる、ということですね。
      第二、第三の穐吉(秋吉)敏子が現れなくなってしまうと困るから……。

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