半藤史話、記者のいちばん長い日

今週の書物/
『日本のいちばん長い日 決定版』
半藤一利著、文春文庫、2006年刊

8月15日

20年前の出来事を書くことは、たやすい作業のように思える。当事者たちの記憶は、まだ鮮明だ。40代だった人は60代、50代だった人は70代……取材すれば、きのうのことのように話してくれるだろう。だが、待てよ。逆の効果もある。20代だった人は40代、30代だった人は50代……今もバリバリの現役が多くいて、うそのない話を打ち明けることに差し障りを覚える向きもあるだろう。だから、近過去史の発掘はやさしいようで難しい。

取材の難しさは、過去と現在の間に価値観の断絶があるときに倍加する。過去に良かれと思ってとった言動が非難の的になることがあるからだ。その難作業を果敢にやってのけた人がいた。今年1月に90歳で亡くなった作家・ジャーナリストの半藤一利さん。文藝春秋社員だった1965年、20年前の「終戦」を関係者の証言をもとに再現したのである。8月15日正午までの24時間に政権中枢で何があったかを活写している。

で、今週は、その『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利著、文春文庫、2006年刊)。「あとがき」によると、この本はもともと1965年、著名評論家の大宅壮一を編者として世に出た。ただ、その取材・構成が文藝春秋社内の「戦史研究会」によるものだったことは、大宅自身が序文のなかで開示している。「研究会」の中心にいた半藤さんが、大宅の家族から許しを得て名義者となり、改訂したのがこの「決定版」。単行本は1995年に出た。

「あとがき」をもう少し紹介しよう。半藤さんは1965年当時を、こう振り返っている。「毎朝四時に起きて原稿用紙をしこしことうめた」「毎朝机にむかっていると、日一日と、夜明けが早まってくるのがよくわかった」。出版社員として日常の業務をこなしながら、連日早朝、自分の仕事に打ち込んだのだ。話を聞いた相手は50人を超える。一部は同僚に任せたが、軍部や政府、NHKの関係者は、すべて自身で取材したという。

半藤さんは「決定版」を自分の名で出すにあたって、その心境を「長いこと別れていた子供に『俺が親父なんだ』と名乗ったような酸っぱい気分」と表現している。取材したことや書いたものへの愛着が感じられる言葉だ。ジャーナリストとして正直な気持ちだろう。

私は、この作品を映画で観た記憶がある。本が「大宅壮一編」で世に出た2年後の1967年に東宝が製作したもので、岡本喜八がメガホンをとり、三船敏郎、加山雄三という二大スターが共演する大作だった。ただ、筋書きはあまり覚えていない。原作が脚色されていたこともあるだろうが、映像になることで俳優の演技が際立ち、文章ならば感じとれる実録としての側面が薄らいだのだろう。そのことは今回、原作を読んで痛感した。

この作品は「大宅壮一編」の刊行以来、すでに読み尽され、語り尽くされた感がある。だから、当欄は的を絞る。着眼点は、報道機関が終戦にどうかかわったかだ。記者たちは歴史の転換点に何を思い、何をしていたのか。それがわかる記述を拾いあげていこう。

報道機関が置かれていた状況は「プロローグ」からも見てとれる。1945年8月15日正午の玉音放送までの24時間ドキュメントに先立つもので、戦争末期の内外の動きを跡づけている。その一つが、米英中3カ国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言だ。新聞各紙は7月28日付朝刊で、これを「内閣情報局の指令のもとに」報道した。「指令」が、どこまで紙面の中身に立ち入ったかは不明だが、「宣言」が歪めて伝えられたことは間違いない。

たとえば、宣言には「(連合国が)日本人を民族として奴隷化しまたは国民として滅亡させようとしているものではない」という記述があるが、記事にはそれがない。「国民の戦意を低下させる条項」とみなされて、伏せられたのだろう。見出しをみても、宣言を「笑止」(読売報知、毎日)とあざけったり、「政府は黙殺」(朝日)と強がったりしている。その報道姿勢は、事実をありのままに、というジャーナリズムの基本精神から大きく外れていた。

もう一つ、私が驚くのは、内閣の迫水久常書記官長が重大情報を報道機関から入手していたことだ。政権中枢が情報をリークするのではなく、逆に貰っていたのだ。ソ連参戦がそうだ。「八月九日午前三時、首相官邸の卓上電話が鳴った。迫水書記官長の半ば眠っている耳に投げこまれたのは、同盟通信外信部長の声であった」。第一声は「たいへんです!」。続けて、ソ連の日本に対する「宣戦布告」を伝えた。米国の日本向け放送が報じたという。

通信社は、記事を新聞社や放送局に配信する報道機関だ。ただ、戦前戦中の同盟通信社にはそれだけではない国策企業としての側面があった。ソ連参戦第1報の耳打ちは、そのことを如実に物語っている。通信社が政府の一部のように動いていたことを示す怖い話だ。それだけではない。通信社が海外の短波放送に耳を聳てるのは当然のことだが、政権中枢がその取材行為に乗っかって外国の動きを察知したというなら情けない話でもある。

ただ、事は「宣戦布告」だ。公式ルートの通告はなかったのか。そんな疑問も起こる。ウィキペディア(「ソ連対日宣戦布告」2021年8月8日最終更新)によると、ソ連は日本時間で1945年8月8日午後11時、駐ソ日本大使に伝えていたが、大使が東京に宛てた公電はモスクワ中央電信局で滞った。タス通信の報道が始まったのも日本時間9日午前4時だったという。だとすると、午前3時の電話が日本政府にとって初耳だった可能性はある。

ここからは、8月14日正午以降の24時間を1時間ごとに章立てした本文に入ろう。政府や軍部、宮中の動きを刻々追いかけているが、記者たちの仕事ぶりも記述している。

14日正午~午後1時の章には首相官邸地下室の描写がある。下村宏情報局総裁(国務大臣)が記者会見で、直前の御前会議の様子を報告していた。ポツダム宣言受諾の「聖断」が下されたとき、天皇からは「国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない」という言葉があったという。会見中、下村は「ぽろぽろと涙がでるにまかせていた」。御前会議がもたらした「鮮烈な感動」で、老身をようやく支えているように見えた。

特記すべきは、泣いたのが老閣僚だけではなかったことだ。記者も同様だった。この本によると、朝日新聞の政治部記者二人は「メモ用紙がぽつんぽつんと濡れる」のを見て「自分も泣いている」ことに気づいた。総裁の秘書官も「これは記者会見などというものではない」と涙しながら思った。政府が方針を大転換したのだから、記者は感情に溺れている場合ではなかったはずだ。理由を冷静に問いただすべきだった。ここに記者本来の姿はない。

この朝日記者の一人は、前日に手柄を立てていた。13日、軍部が新しい勅命を受けて新しい作戦を始めた、とする大本営の発表文が新聞社や放送局に届いた。記者は裏をとるため、それを内閣書記官長に見せる。その結果、抗戦派将校によるニセ文書とわかり、政府も間一髪、虚偽発表をラジオの電波に乗せずに済んだ。新聞社が虚報に踊らされなかったのは立派だ。だが、報道機関が政府と一体化しているような印象は、ここでも拭えない。

この本でもっとも気になるのは、ポツダム宣言受諾を表明した終戦詔書を記者がいつ手にしたか、である。14日午後9~10時の章には、首相官邸で各紙記者が詔書の記事を朝刊2版に載せようと、その公布を待つ様子が描かれている(当時、新聞は朝刊のみで、締め切りが早い1版と遅い2版があった)。だが、公布は午後11~12時。翌15日午前2~3時の章に「首相官邸詰記者から終戦の詔書の原稿が送られてきた」という記述がある。

朝刊最終版は、配送の時間を考えると遅くとも午前2時ごろには印刷を始めたい。ところが、この記述には記者たちが詔書の記事を急いで書いた気配がない。各社は朝刊出稿を見送ったのか。いや、そうではなかった。主要紙は15日、本来朝刊のはずの新聞を玉音放送後に配ったのだ。これにも政府の意向が反映していると思われるが、新聞社も終戦が決定済みの日の朝、それを伏せて戦意高揚の紙面を届けるわけにはいかなかっただろう。

私がいま問いたいのは、1945年8月14日正午から15日正午まで記者は何をしていたかということだ。聖断が下った時点で日本のポツダム宣言受諾は決まった。それを情報局総裁が明らかにしたのだから、「受諾へ」とは書けた。いや、書かなくてはいけなかった。

報道の世界にはエンバーゴという約束事がある。科学論文の発表でいえば、論文誌が解禁時刻を設定している場合、その時刻まで報道を控えることだ。だが、エンバーゴを解除する例外もある。人道面から一刻も早い公表が望まれる論文が出てきたときがそうだ。政権が戦争続行から戦争終結へと舵を切るというニュースは、無駄な犠牲をこれ以上ふやさないという観点からエンバーゴが許されないだろう。号外を出してでも速報すべきだった。

確かに、報道に踏み切りにくい事情もあった。この本によれば、15日午前2~3時には「全陸軍が全国的に叛乱のため立上った」との情報が飛び交い、詔書を軍部の謀略とみる説も流れていた。軍は「安心して近寄ってくる敵を海岸に迎撃し、一大水際作戦を敢行するつもり」というのだ。政府も軍部も追いつめられていたから、何があっても不思議はない。夜更けの新聞社で、記者たちは事態が和戦どちらへ動くのか頭を悩ませていたらしい。

思えば御前会議直後の会見から24時間、記者は耳にした超弩級の発表をどこにも発信できなかったのだ。この不作為の一昼夜が、記者の「いちばん長い日」ではなかったか。
*引用では本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月13日公開、通算587回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

2 Replies to “半藤史話、記者のいちばん長い日”

  1. 尾関さん

    私達は香港の変容を目の当たりにしてきました。『リンゴ日報』が廃刊に追い込まれたとき、武力(警察や軍)を独占した国家権力の凄まじい力を見せつけられました。ペンは剣に屈しました。

    戦前・戦中の日本でも同じことが起きたのでしょう。但し、ひとつの違いがあります。日本には外部の敵がいました。同胞が遠い地で激しい戦闘の渦中にあり、殺すか殺されるかの極限状態に置かれていたわけです。

    朝日新聞の政治部記者の涙に考えさせられました。記者一人ひとりの心の中で、ジャーナリズムとナショナリズムはどんな関係にあったのか?軍部の力に屈しただけではなく、内なるナショナリズムにも屈したのではないか?
    ジャーナリストの矜持とは、国を越えた普遍的な倫理に堅く立脚することではないかと思えてきました。

  2. 虫さん
    《朝日新聞の政治部記者の涙に考えさせられました》
    私も、考えさせられました。
    もし私が、その場に記者としていたら、涙をこらえられたかどうか。
    涙の誘因は、ナショナリズムだけではありません。
    家族や親類、友人、知人に命を落とした人、安否のわからない人が大勢いる――そんな状況のなかでの戦争終結だったからです。
    だが、やはり、情報局総裁や記者たちが泣いてばかりではいけない、と思う。
    日々の記者会見で事実と論理にもとづくやりとりをしてこなかったから、この日、カタストロフィーに直面して、こんな感情過多の光景が現出したのではないか?
    そう考えると、コロナ禍の今、どんな記者会見が繰り返されているのかが、ちょっと気になります。

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