今週の書物/
『新訳 オセロー』
ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊
欧州は欧州だ。自己完結している。私たちは、そんな偏見から逃れられない。たとえば、欧州史といえば、古代のギリシャ・ローマ→中世のキリスト教→近世の絶対王政→近代の市民社会という図式が頭に浮かび、これは内発的な史的展開だと思いがちだ。
だが欧州も、折々に外から影響を受けている。11世紀から十字軍が中東に遠征して、イスラム世界と衝突した。13世紀には北東アジアからモンゴル帝国の西進があり、次いで小アジアからオスマン帝国が地中海一帯に進出してきた。15世紀に始まる大航海時代、今度は欧州人が支配域を広げ、世界中から多様な物品を取り込んだ。ティーを午後に楽しむのも、ポテトを主食並みの食材としているのも、この外部との接触があったからだ。
で、今週はさっそく本の話に入る。とりあげるのは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『新訳 オセロー』(河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊)。沙翁(1564~1616)作品では四大悲劇の一つとされている。訳者あとがきによれば、原著初版が世に出たのは1622年。作者没後のことである。ただ、同じ作品と思われる芝居が1604年に上演されたという記録がある。この事実から、作者が執筆したのは1603~04年だろうとみられている。
1604年の上演記録にある題名は『ヴェニスのムーア人』。出版時の表題も『ヴェニスのムーア人オセローの悲劇』だった。「ムーア人」は、欧州人がアフリカ北西部の人々を指して言う言葉だ。この作品は、欧州人にとって異世界の人物を主人公にしているのである。
もう一つ押さえておきたいのは、これがどこの話か、ということだ。1カ所は、原題にある通り都市国家ヴェニス(ヴェネチア)だが、そこだけではない。全5幕のうち、ヴェニスの部は第1幕だけで、残りは地中海のキプロス島を舞台にしている。ヴェニスは1570年代、東方貿易の窓口であるキプロスをめぐってオスマン帝国と争い、現地に派兵していた。そのころの出来事らしい。ここでも作品は、異世界に片足を突っ込んでいる。
主人公オセローはムーア人だが、ヴェニスで勇敢さが買われ、「将軍」の要職に就いていた。対オスマンのいくさでは最前線のキプロスに赴くことになる。ヴェニスは東方の異邦人と戦うとき、南方の異邦人を指揮官に押し立てたのである。もちろん、この筋書きはフィクションだ。ただ心にとめておきたいのは、欧州では近世であっても、異民族が交じり合う物語が成り立ったということだ。半面、そこに摩擦も起こるわけだが……。
異文化摩擦の話に先立って、登場人物を素描しておこう。オセローは少年時代、奴隷に売られたこともある苦労人で、7歳の頃から戦場に出ていたという生粋の軍人だ。デズデモーナは、その妻になる人。ヴェニスの元老院議員ブラバンショーの娘で、オセローと恋に落ちた。オセローの旗手を務める軍人がイアーゴー。副官の座を争う出世競争でキャシオーという優男に敗れ、不満が募っている。そこで、いろいろと悪知恵を働かせる。
その悪巧みに巻き込まれ、そうとは知らず、手を貸してしまう人もいる。一人はイアーゴーの妻エミーリア。デズデモーナに仕えて、身の回りの世話をしている。もう一人はイアーゴーの友人、ロダリーゴー。デズデモーナに思いを寄せていた青年だ。
ここでは第一幕だけを紹介しておこう。第一場の冒頭では、イアーゴーがロダリーゴーを相手に、キャシオー抜擢の副官人事を腐し、自分にはオセローを敬愛する理由がないことを言い募っている。ロダリーゴーが「じゃあ部下なんか辞めちゃえば?」とけしかけると、「まあ、落ち着け」とたしなめる。「勤めはきちんとやってみせるが、心は自分のことに向ける連中もいる」「俺もその一人ってわけだ」――面従腹背の構えである。
イアーゴーとロダリーゴーは連れだって、ブラバンショーの邸にやって来る。二人は、夜更けだというのに「おーい」「起きろ、おーい」と大声をあげる。ブラバンショーが二階の窓辺に姿を現すと、イアーゴーは衝撃のニュースを告げる。オセローとデズデモーナが今まさに結ばれようとしている、というのだ。ブラバンショーは当初真に受けなかったが、邸内を探してみると娘の姿がない。「本当だった。何ということだ」と打ちのめされる。
こうして第二場では、オセローとブラバンショーが対面する。第三場では、公爵が元老院議員を召集して開く「閣議」で、オセローが「トルコ軍征伐」に派遣されることが決まる。デズデモーナも本人の強い意思があって、夫に同行することになるのだが……。
この戯曲には、今の私たちから見れば不適切な表現が多出している。「肌の色の違いによる人種差別」があからさまで「『白』を表す語(fair)が『美しさ』や『公平性』を表した一方、『黒』という色には『腹黒さ』や『穢れ』などの否定的な意味が籠められることが多かった」と、「訳者あとがき」にもある。訳者は「こうした当時の強烈な差別意識を理解したうえでなければ」「この作品の本質に迫ることはできない」と言う。
気は進まないが、本稿もその一端に触れておこう。第一幕第一場で、イアーゴーがオセローとデズデモーナの恋についてブラバンショーに告げ口するときの表現は「たった今、まさに今、老いた黒羊が/あんたの白い雌羊にまたがってる」(/は改行、以下も)。別の箇所でも、イアーゴーはオセローを「アフリカ産の馬」と揶揄している。当時の欧州社会に、対岸アフリカの肌が暗色の人々に対する差別意識があったことは歴然だ。
第一幕第二場でブラバンショーがオセローに投げつける罵りも、この差別意識に根ざしている。デズデモーナは「魔法」でもかけられなければ「ヴェニスの裕福な巻毛の美男子たちとの/縁談を断り」「貴様のような男の真っ黒な胸に――/喜びでなく恐怖へと――飛び込むはずがない」。娘がオセローになびいたのは「悪魔の力」のせい、と断ずるのだ。オセローの肌の色を異質なものとして嫌うだけでなく、悪魔に結びつけて排除しようとする。
この戯曲の凄いのは、その差別社会にオセローが毅然と対峙することだ。閣議の席で公爵から弁明を促されて、こう言う――。自分がデズデモーナを父親のもとから「連れ去った」のは事実であり、すでに「結婚」もしている。「私の罪はそれがすべてであり、それ以上では/ありません」と言い切る。そして、「私の情熱の罪」を「白状しましょう」と切りだして、自分がどのようにしてデズデモーナの心をつかんだのかを打ち明けるのだ。
その弁明によれば、オセローはデズデモーナに自身の身の上話を聞かせた。戦場で命拾いしたこと、奴隷となったが救いだされたこと、あちこち旅して洞窟や砂漠や山岳を回ったこと。「若かりし日の苦労を話しては、/しばしばその目から涙を絞りました」。それでデズデモーナは心を動かされ「私がくぐってきた危険ゆえに私を愛してくれる」。これが「魔法のすべて」というのだ。巧妙にも「魔法」という言葉を逆手にとっている。
まもなく、デズデモーナもこの場にやって来る。オセローが呼ぶように頼んだのだ。彼女は言う。「私がムーア様を愛し、共に暮らしたいと/思っておりますことは、後先顧みぬ私の/奔放な振る舞いで世間に知れました」。自身の意思で「ムーア様」、即ちオセローと結ばれたことを公言したのである。さらに「夫の名誉ある武勲」に「わが魂と運命を捧げております」と言って、自分もオセローとともに戦地へ行きたいと申し出る――。
閣議のくだりでは、ぜひとも引用したい台詞がある。公爵がオセローに弁明を求めたとき、それに同調する元老院議員が発した問いだ。「君は、この若い娘御の愛情を/密かに捻じ曲げ、毒で抑えつけたのか?/それとも、心を通わす会話をして/愛してもらうようになったのか」。これは、オセローの告白を先回りしている。異文化の間にも心の通いあいがあり、恋愛は成立する――そう考える人も16世紀の欧州にいたということだろう。
この戯曲を読んで思うのは、欧州の二重性だ。そこにはかつて、肌の色の異なる人を異種の動物であるかのようにみなす苛烈な差別社会があった。だが一方では、そういう異邦人を――キリスト教に改宗していたということもあるのだろうが――高位の職に登用する度量があった。それだけではない。異邦人が自らの心模様を語るとき、それに耳を傾ける人もいた。近代の価値観が確立する前の時代であっても、異文化共存の芽はあったのだ。
この戯曲は、後段で悲劇に転じる。きっかけは、オセローがイアーゴーの奸計によって、自分はヴェニス社会では「他者」に過ぎないと思わされたこと、と訳者は分析している。私自身はそうは感じなかったのだが、この悲劇はやはり異文化摩擦の帰結だったのか?
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月1日公開、通算594回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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(尾関さんが載せた)文庫本の『新訳 オセロー』とゲームの『オセロ』の写真を見て、普段は鈍い私もピーンと来ました。シェイクスピアの『オセロ』とゲームの『オセロ』には、何か関係がある。。。と。
で、早速ググったら、ウィキペディアの「オセロ (シェイクスピア)」に「ボードゲームのオセロの名前の由来である」と書いてありました。
で、もっとググったら、オセロという名前は(ゲームの発案者である長谷川五郎の父親で英文学者だった)長谷川四郎が考えたものだとわかりました。黒人の将軍・オセロと白人の妻・デスデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るというストーリーに、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていくゲーム性をなぞらえたそうですね。緑の盤面は、「オセロ」の戦いの舞台、イギリスの緑の平原をイメージしたと言われている。。。とここまで謎解きをして、尾関さんは知っていて書かなかったのだ(でも、写真で、知っているのを匂わせたのだ)とわかりました。
まったく、もう。。。
「黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていく、しかも最後に大逆転もありうる」というのを前回の「疫病で人類が入れかわるという話」に当てはめて考えてみると、なかなか面白い。「最悪の事態が訪れたと思ったら、大逆転で、最悪の事態は免れた」とか「最悪の事態は免れたと思ったら、大逆転で、最悪の事態が訪れた」とか、「人類史的な難所」は、きっと、オセロゲームのようなものなのではないか。そんなことを考えていたら、「塞翁が馬」が思い出されました。
人生の幸不幸は予測できないといいますが、人間という種の未来もまったく予測できませんね。
予測できないというのは、とってもいい。心からそう思います。予測できてしまったら、知ってしまったら、生きてはいられない。「知らぬが花」 (「知らぬが仏」でも「言わぬが花」でもない)ですね。:)
38さん
オセロゲームの件では、私もかなりググりました。
ただ、どうもピンとこなかった。
たとえば、盤面が『オセロー』の舞台というのなら、緑ではなく地中海の青ではないか――。
で、余談ですが、シェイクスピアの時代に英国人がキプロスのいくさを思い描くというのは、江戸時代、松前藩士が『平家物語』の世界に浸るようなものだったのではないか、という気がしてくる。
近世欧州人の意識世界にどんな地理感覚や距離感覚があったのか、興味は尽きません。
地中海の青。そうですね。
「オセロ」には青のほうが似合ってますね。