ソシュールで歴史の呪縛を脱する

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

共時的

今週も、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語観を追いかけながら、私の青春期に一世を風靡した構造主義に迫ることにしよう。

思いだされるのは、構造主義が語られるときに「共時的」と「通時的」という一対の用語が必ずと言ってよいほど出てきたことだ。「意味するもの」(シニフィアン、能記)と「意味されるもの」(シニフィエ、所記)と同様、日常生活には馴染みのない概念だった。

「共時的」も「通時的」も、字面をじっと見ていれば意味が伝わってくる。数学の授業を思い起こしてみよう。先生が黒板に線を1本引いて「これは時間軸です」と言う。t=0分後、t=1分後、t=2分後……軸上の各点は異なる時点を表しているから「通時的」だ。ここでt=1分後の点で別の軸が直交していて、その軸上にx=0m、x=1m、x=2m……という地点があるとすれば、これらはどれもt=1分後の位置だから「共時的」だ。

私たちの日常は共時的でもあり、通時的でもある。職場の人間関係に悩むという状況を考えてみよう。悩みごとは、自分が今どんな人々とどういう仕事をしているか……といった現在の事情によって起こるから共時的だ。その一方で、自分はこれまで仲間たちと仲良くやってきたか……など過去の事情も影響してくるだろうだから、通時的ともいえる。私たちはふつう共時と通時を切り分けて考えないが、構造主義は違うらしい。

構造主義は世界を共時的にとらえる、と私は理解してきた。ただ、それは青春期の読書のおぼろげな記憶にもとづく。そこで今週も『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)を読み、これを再確認したい。

実際、本書を読み進むと「言語体系の観点からは、重要な事実は共時的事実である」という記述に出あう。ソシュールが「共時」を重視しているのは間違いないらしい。当欄は前回、ソシュール言語学が「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系を提出する」という本書の記述を引いたが、実は、その「要素」にも「共時的体系の」という限定がついていた。「共時的体系の要素」しか相手にしないということだ。

本書によると、この問題でソシュールはfoot(足)とその複数形feetの変遷を初期アングロ・サクソン語の時代からたどっている。その音を片仮名書きで表すと、単数形はずっと〈フォート〉が続くが、複数形は最初〈フォーティ〉だったのが〈フェーティ〉となり、さらに〈フェート〉に変わった。これが現在の単数形〈フット〉、複数形〈フィート〉に行き着いたということだろう(母音を伴わないt音は便宜的に「ト」と表記した)。

ソシュールは、〈フォーティ〉→〈フェーティ〉→〈フェート〉の変化を偶然の仕業とみる。それは「あらたに取り込んだ意義をしるすべく運命づけられたものではない」。たまたま出現した一対の言葉を「単数・複数の別を立てるために流用」しているだけだ。

この話は、ソシュール言語学ではおなじみの「ラング」と「パロール」にもかかわる。ラングには「言語体系」、パロールには「発話行為」の意味あいがある。ソシュールの視点に立てばラングは「本質的」だが、パロールは「偶然的」だ。ソシュール言語学は、ラングすなわち「言語体系」の「単位」と「結合法則」を見定めようとしている。footの複数形の推移は、パロールすなわち「発話行為」の領域に属するから重要視しない。

ソシュールは「共時的事実」を「通時的事実」から切り離した。あくまでも注目するのは「同時に存在する二つの形式のあいだの関係ないしは対立」だ。〈フォート〉対〈フォーティ〉、〈フォート〉対〈フェーティ〉、〈フォート〉対〈フェート〉がこれに当たる。

この「共時」の重視は、当時の言語学界を根底から揺るがすものだった。「恣意性」への着眼などでソシュールにも影響を与えた米国の言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーも、「言語学は歴史的科学でなければならない」との立場は捨てなかった。「通時」の研究にこだわったのだ。だが、ソシュールが目を向けたのは「歴史上の連続性」ではなく、「共時」の次元で「意味の差異」を生みだす機能、すなわち「示差的機能」だった。

ただソシュールも、発話行為で生じる「歴史的変化」が言語体系に「影響を及ぼす」ことまでは否定していない。ラングも、パロールの「偶然的」なゆらぎに無縁でないわけだ。このことをどう考えるべきか、私にはまだわからない。これからの読書の課題としよう。

ここで、近代思想が歴史的なものの見方と切っても切れないことを思い返したい。ヘーゲルの歴史哲学がそうだろう。マルクスの史的唯物論も同様だ。だが、歴史にとらわれることには落とし穴がある。私たちが参照できる歴史が一つしかないことだ。歴史はやり直すことができない。これに対しては反論もあろう。世界にいくつもの文化圏があり、それぞれ歴史が異なるからだ。だが現実には、これまで欧州史が偏重されてきたのではあるまいか。

そんな状況を知ってか知らずか、ソシュールは歴史をスパッと切り捨てた。「共時的体系」に焦点を当てた探究ならば、一つの文化圏に目を奪われることなく、それぞれの文化圏の言語を相対化できる。欧州という一地域の事情に惑わされることもなく、地球規模の言語学を築くこともできるだろう。こうしてみると、ソシュールが言語学で採用した構造主義の手法が文化人類学など別分野にも取り込まれていった展開が腑に落ちる。

本書によれば、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「言語学と人類学における構造分析」という論文で、ソシュールが「辞項間の関係」の研究で、話し手が意識していない「関係」の体系にも迫ろうとしたことに注意を喚起している。人類学者も「行為」や「事物」を「記号」として考察するとき、人々の意識にはない「関係」の体系にも目を向けるべきだという。「関係」重視の構造主義はこのようにして裾野を広げたのである。

構造主義は1960~1970年代、ポスト構造主義と呼ばれる新しい思潮の台頭で批判にさらされた。背景には、研究者風の客観的な姿勢に対する不満もあったらしい。これは私が若いころ、構造主義をマルクス主義や実存主義と同列に扱うことに違和感を覚えた経験に一脈通じている。俗な言い方をすれば、私たちの生き方にヒントを与えてくれないのだ。とはいえ、構造主義はポスト構造主義によって全否定されてはいない。

私が一つつけ加えれば、構造主義は科学の要素還元主義批判にも結びついている。今や物理世界を探るには、物質の最小単位クォークを見つければよいわけではない。生物世界を理解するにも、DNA塩基配列の遺伝情報を読みとるだけではダメだ。要素と要素の「関係」を調べるところから始めなくてはならない。一方、今日のネットワーク社会は文字通り、私たち自身を人と人との「関係」の海に誘い込んでいる。「構造」は今や旬なのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月15日公開、通算635回
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2 Replies to “ソシュールで歴史の呪縛を脱する”

  1. 尾関さん

    構造主義と聞くと、ソシュールよりもレビ=ストロースがまず私の脳裏に浮かびます。
    未開部族とされてきた人々にも固有の文化があり、その文化構造は西欧の文化構造と等価である、つまり、西欧文化を相対化すべし、との主張がヨーロッパから伝わってきたことに強い印象を受けました。
    また、構造を文化や習慣の脈絡で語ったので、構造主義を体感的に理解出来たように思えます。

    もうひとつ加えれば「サルトルとの論争」。実存主義批判にとどまらず、サルトルの史観には西欧中心という限界があるとの指摘など(実際にはその論争を読んでおりませんが)、レビ=ストロースの名前は、いわば「サルトルに勝った男」として私の心に刻まれているわけです。

    今までに日本やアメリカの他に、ベトナム、中国、インドネシア、中東、あるいはアフリカなどで仕事をしてきました。文化的背景が異なりますから、当然、「契約書」が重要な意味を持ちます。もちろん、契約書があるだけでは不十分で、その内容の逐次的な共通理解が必須となります。

    異なる文化や言語を持つ人々が、自国語でない英語で記された契約書に則って業務を行う。そんなことが可能か、とは思うのですが、不思議なことに殆ど苦労した覚えはありません。
    例えばある条項に「Aという事象が発生した場合、BはCの了解を得た上でDの方法を用いて現状復帰をすること」との文言があるとします。ここには「起承転結」の構造があるわけですが、言語や文化背景の違いに関わらず内容を含めて共通認識を持つことは難しいことではありません。

    つまり「共時的」なのです。そして、「所記」が「能記」によって伝えられるわけですが、私には「能記」によって伝達可能な形にーあるいは言語化ーされる以前の「意味の世界」に「構造」が存在しているように思えてなりません。そしてこの「意味の世界」ーロゴスと呼ぶべきかーを人々が先験的に共有しているので異言語間で対話が成立するように感じます。

    今日の締めは『構造は言語に先立つ』としておきましょう。

    1. 虫さん
      《今日の締めは『構造は言語に先立つ』としておきましょう》
      ここに、ノーム・チョムスキーの生得説がどうかかわってくるのか、にも関心がありますね。
      今後の読書の課題としましょう。

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